《世田谷の古道》

松原大山道

 世田谷区松原で甲州街道から分かれて南下する「松原大山道」を通って大山道と接続する上町まで行きます。

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 松原大山道世田谷区松原(旧荏原郡松原村、明治22年に上北沢村、赤堤村との合併で松沢村大字松原)で甲州街道から分かれて南下し、上町大山道(矢倉沢往還)に接続する古道で、世田谷の北東部やさらに北の地域から二子の渡し方面へ向かうのに利用されました。今でも地元では「松原大山通り」の名称が残っています。そして、このルートは大正9年の道路法施行時に東京府道69号・代々幡溝口線に指定された幹線道路でもありました。この旧街道を上町までたどってみましょう。

  
(甲州街道から松原大山道への入口。すぐ「松原大山通りの標識がある)

 松原大山道は京王線明大前駅のすぐ西側の明大前1号踏切を通る道で、松原2丁目39番地と42番地の間で甲州街道から分かれます。その入口に「松原大山通り」の標識があります。
 また、明大前駅の東側の松原1‐39‐21にお堂があり、地蔵尊(念仏供養塔、1742年)、馬頭観音(1822年)とともに庚申塔(1808年)があり、右面に「是より二子ミち」と彫られています。恐らく、もとは松原大山通りの入口付近にあったものでしょう。

(松原1‐39‐21.左端が庚申塔)

 また、それとはべつに、甲州街道からの入口に道標がありましたが、現存しないようです。
 江戸の侍で、江戸城下の自宅から近郊各地に出かけては数多くの旅日記を遺した村尾正靖(号は嘉陵、1760‐1841)が甲州街道を歩いて深大寺へ参詣した際にこの「大山道石牓示」について克明に記録しています。(『江戸近郊道しるべ』、朝倉治彦編注、平凡社東洋文庫、1985年)。それによると、正面には「相州大山石尊大権現之塔」と刻まれ、脇のほうに「従是二子通近道」とあったそうです。裏には「宝暦十庚辰年六月吉日 願主鈴木弥平次」ですから、1760年に建立されたもので、嘉陵の生年と同じです。本人も書き写しながら、「自分と同い年だ」と気づいたことでしょう。台石には「四谷坂口 石工岩村屋五兵衛」と彫られていました。

(村尾嘉陵『江戸近郊道しるべ』より)

 ちなみに道標にある「石尊大権現」とは大山のご神体が山頂にある霊石であったことから、神仏習合時代に信仰対象がそのように呼ばれたのです。



 では、行きましょう。すぐに京王線の踏切を越えます。線路は明大前駅から西に向かって上り勾配で、その後、台地の起伏を越えて下高井戸駅に達します。京王線は大正2(1913)年の開業ですが、当時、まだ明大前駅は存在せず、踏切の西側(下高井戸寄り)の坂の頂点付近に火薬庫前という物騒な名前の駅がありました。陸軍の火薬庫が近く(今の築地本願寺和田堀廟所あたり)にあったことからの命名です。火薬庫前は大正6年に地元の村名である松原駅に改称し、昭和8年に井の頭線(地図①の緑線)が開通した際に両線が交差する現在地に移転し、昭和10年に明治大学予科が移転してきたのを機に駅名を明大前と改めています。
 井の頭線の線路は目黒川の支流、北沢川のそのまた支流の谷戸(地図①参照)を通っていて、明大前駅は谷頭部を掘り割って設置されています。そして、京王線をくぐり、すぐ北側の台地尾根を通る甲州街道の下をトンネルで抜けて、神田川の谷へ出ています。

地図①(昭和7年) 井の頭線開通前年

(松原大山道のすぐ東側の谷戸に井の頭線の線路=緑線が敷かれ、京王線との交点に明大前駅設置)

 とにかく、踏切を越えて、まっすぐ南へ向かいます。道はしばらく緩やかな下りです。地形は北沢川支流の谷がある東側が極端に低く、左へ入る道はみな急な下り坂で、反対に西側は高くなっています。昔は右手に畑や松や杉、雑木の林が広がる丘、左手は谷戸田といった風景の中を草深い道が続いていたことでしょう。

地図②(明治13年)(松原村と赤堤村の表記が逆です)


 まもなく道の左手、松原2‐4(地図②のA地点)に地蔵尊があるはずでしたが、探訪時(2017年9月)は現地が更地になっており、見当たりませんでした。恐らく、どこかへ移転したのではないかと思うのですが、現時点では未確認です。

 なだらかな起伏のある道を坦々と行くと、松原6‐20の北東角に道標があり、「従是左相州大山道」と刻まれています(地図②のB地点)。

(大山道の道標)

 ここから東へ行く道(松原5丁目と6丁目の境界の道)も古道で、徳明地蔵(松原6‐15)、明林地蔵(松原5‐9)を経て井の頭線東松原駅を通り、羽根木、大原を抜けて下北沢方面から来た「鎌倉道」の伝承をもつ古道と合流しています。道標は羽根木方面から来た人に対しての道案内だったのでしょう。

 さて、松原大山通りは道標付近から下り坂です。地元で「閻魔坂」と呼ばれる坂道で、坂沿いに閻魔大王など冥界の十王を祀った十王堂(閻魔堂)があったことに由来します。十王堂の隣には十三仏堂もあり、村人によって守られてきましたが、明治7年に閻魔堂が下北沢の森巌寺に移され、当地には何も残っていません。

(閻魔坂)

 閻魔坂をさらに下ると、右から「凧坂」と呼ばれる坂道が合流し、その合流点に昭和15年建立の馬頭観音があります(地図②のC地点)。馬頭観音は観音菩薩の変化像のひとつで、普通、頭上に馬の頭を頂いた憤怒の相で表現されます。これは人間の心の中の邪念や弱さを打ち砕き、善い道へと導く存在と考えられますが、馬頭からの連想で、当時の人々にとって大切な存在であった馬の供養のために路傍や死馬の埋葬地などに馬頭観音を建立する風習が生まれ、それは江戸時代から昭和初期まで続きました。ここにあるのは「馬頭観世音」と刻まれた文字碑です。

 
(右が閻魔坂、左が凧坂。間に馬頭観音がある)

 ここから凧坂を上っていくのは菅原天神通り(地図②の橙線)で、これも甲州街道へ通じる古道です。「凧坂」の名の由来は確かなことは不明ですが、世田谷区教育委員会『世田谷の地名』では、勾配のきつい坂を意味する「たこう坂」の当て字ではないかという説を提示しています。

 この凧坂を上ってみると、すぐ右手に「半田塚」があります(松原6‐20、地図②のD地点)。大正時代には地元で「大塚さま」と呼ばれていたといい、古墳であるとか、新田義貞の軍兵が多摩川の合戦で負傷し、ここまで落ち延びて息絶えたのを葬った塚であるとか、諸説あるようです。江戸後期の『新編武蔵風土記稿』では「高サ四五尺、敷ノ径一間許。何人ノ墳ナリヤソノ来由ヲ伝ヘザレバ、詳ナルコトヲ知ラズ」となっています。

(半田塚)

 半田塚を過ぎてさらに北上すれば通りの名の由来となった菅原神社があります(地図②の「天神」)。寛文5(1665)年に江戸の石井兵助という人物がこの地に移住し、「大願成就南無天満宮自在天神」と刻んだ石碑を建てたのが始まりだといい、その後、宝暦11(1761)年に神社が創建され、天満宮として地域の氏神となり、明治7年に菅原神社と改められました。今も学問の神様として多くの人が参拝に訪れます。境内にある厳島神社はかつて神社の北西約200メートルほどの地にあった弁天池の中島に祀られていましたが、湧水が枯渇して池が埋め立てられ(現在は弁天児童公園)、昭和39年に現在地に遷座しています。

 
(菅原神社と境内の厳島神社)

 さて、菅原天神通りと松原大山通りの合流点に戻り、さらに坂を下ると、道の東側は引き続き松原ですが、西側は世田谷区赤堤(旧荏原郡赤堤村、のち松沢村大字赤堤)となり、沿道に商店が増えて、「松原6丁目」の信号で赤堤通りを越えます。赤堤通りも桜上水以西では古い道ですが、この付近は昭和初期に周辺の区画整理に合わせて整備された道路です。
 ところで松原村は古くは赤堤村の一部であったといいます。世田谷城主・吉良氏の家臣・松原佐渡守の三兄弟が世田谷城北側を通る滝坂道松原宿を開き、その松原宿の商人たちが赤堤村の土地を開墾し、独立したのが松原村の始まりであると伝えられています。

 とにかく、赤堤通りを横断すると、まもなく北沢川跡の緑道を越えます。北沢川緑道は橋(跡)ごとに橋の名の表示があり、ここには「山下新橋」の名称が残っていますが、もとは「大橋」と呼ばれていました。
 明治初期の地誌である『東京府志料』(明治7年)によれば、大橋は長さ1間1尺8寸(2.36m)、幅5尺5寸(1.65m)の石橋だとの記載があります。
 橋のすぐ上手で北沢川に菅原神社北西の弁天池からの支流が合流していました。そして、緑道の脇には水車池田米店がありますが、ここにかつて支流の水を利用した水車がありました(地図③に記号あり)。

(北沢川緑道脇の水車池田米店)

地図③(明治42年)


 北沢川を越えると、町名は世田谷区豪徳寺となります。昔の荏原郡世田谷村の区域です。緑道の南側で南東方向へ分かれていく道は滝坂道の松原宿へ通じる道で、かつて松原宿は松原村の飛び地でした。
 道は右に左に自然なカーブを描きながら進みます。これは西側を流れる北沢川の低湿地を避けて、東側の台地の裾を縫うように続いていたためです。昔は右に水田が広がり、左は台地斜面の雑木林といった風景だったのでしょう。
 小田急線豪徳寺駅の手前で斜めに交差するのも松原宿からの道で、北西方向へ行き、北沢川緑道を山下橋(跡)で横切り、赤堤、上北沢方面へ通じています(現在は赤堤地区の区画整理で古道は一部が消えています)。

(左奥から来て手前右へ行くのも古道)

 小日向(現・文京区)廓然寺(浄土真宗、明治12年廃寺)の住職だった十方庵敬順(1762‐1832)が隠居後に各地を旅した先での見聞を詳細に記録した『遊歴雑記』に当時有名だった上北沢の牡丹園を訪れた話がありますが、江戸市中から渋谷道玄坂に出て、滝坂道を歩き、下北沢の森巌寺を経て、上北沢に至っています。恐らく、滝坂道の松原宿からこの道を通って上北沢へ行ったものと思われます。

 この道を行き、東急世田谷線(大正14年開業。当時は玉川電気鉄道の支線)の踏切手前を北に入ると、赤堤山善性寺(真言宗豊山派)があります(豪徳寺1‐55‐23)。かつてこの地は赤堤村だったので、赤堤山の山号です。相模国大山寺の開山・良弁僧正が彫ったという不動尊像を世田谷・勝国寺の第九世住職・日宥が得て、これを安置するために正徳5(1715)年、当地に創建したと伝えられています。しかし、明和年間(1764‐71)に火災で全焼して寺は一時衰微し、江戸後期の『新編武蔵風土記稿』(1830年)にも記載がありません。
 この善性寺は北沢川とその支流にはさまれた舌状台地に立地し、戦国時代には世田谷城防衛のための砦があったと考えられる場所でもあります。

 (善性寺と道標)

 善性寺には道標を兼ねた巡礼供養塔があり(上写真・右。本堂裏の竹林に保存)、左側面に「東目黒池上道、南大山道、西府中道」、右側面に「北ほりのうち/四ッ谷みち」となっています。松原宿から上北沢へ行く道と大山道の交差点にあったものでしょうか。

 
(豪徳寺駅の昔=昭和25年と今。昔の写真は世田谷郷土資料館)

地図④(昭和7年)



 世田谷線・山下駅を右に見て、小田急線・豪徳寺駅(昭和2年開業)の高架をくぐると、商店街は上り坂となり、坂を上がって商店街を抜けたところで世田谷線の踏切を渡って線路の西側に移ります。この踏切で交差する東西の道が古道・滝坂道です。そして、かつてはこの踏切の脇に宮ノ坂駅(昭和20年に移転)がありました(地図④参照)。開業時、滝坂道も大山道も東京府道だったので、二本の幹線道路が交わる要衝に駅ができたわけです。



 ここから今度は線路を左に見ながら行くと、下り坂となります。この坂が「宮の坂」で、坂に沿って世田谷八幡宮があります。社伝では平安時代、源義家が後三年の役の帰途にこの地で豪雨に遭い長逗留を強いられた際、戦勝は氏神である八幡神の御加護のおかげとして、この地に宇佐八幡宮の分霊を勧請して創建したと伝えられますが、確実なところでは戦国期の天文15(1546)年、第7代世田谷城主・吉良頼康が社殿を再興しています。世田谷城の西に位置し、戦時には砦としての役割も持っていたと思われます。
 社地は烏山川の低地に面した台地斜面に位置し、境内は階段状になっています。その最下段には厳島神社を祀る池があり、その上の段には秋の例大祭で奉納相撲が行われる土俵が設けられています。

 
(宮の坂と世田谷八幡宮)

 この宮の坂を下ったところで交差するのは城山通りです。世田谷城址前を通ることからの命名ですが、新しい道です。そして、世田谷線と城山通りの交点に坂上から移転してきた宮の坂駅があります(坂上の旧駅とは表記が異なります)。

(宮の坂駅で招き猫電車に遭遇)

 その宮の坂駅の南側で烏山川跡の緑道を横切ります。そこに八幡橋がありました。『東京府志料』には「八幡前橋」とあり、長さ1間2尺(約2.4m)、幅4尺(約1.2m)の石橋だったということです。
 橋の南で道が分かれます。世田谷線の西側に沿うように上町方面へ行く道は比較的新しい道のようで、明治時代の地図には描かれていません。昭和7年の地図④にはあるので、大正の頃にできた道でしょう。右へ分かれて南西方向へ行く道は吉良氏の菩提寺・勝光院の北側を通って古道六郷田無道に通じる道で、かなり古い道と考えられます(地図④参照)。

(上町3号踏切)

 大山道はここで左に曲がって世田谷線の上町3号踏切を渡ります。この踏切の脇にかつては豪徳寺前駅がありました。今も踏切北側の上り線脇に資材置き場があったり、南側の下り線側の用地の幅が広かったりで、駅の名残と思われます。昭和20年に坂上の旧宮ノ坂駅と豪徳寺前駅が統合する形で現在の宮の坂駅が生まれたわけです。

 踏切を越えると道はまた三本に分かれ、それぞれほぼ平行に続きます。府道に指定された旧街道は意外にも烏山川緑道にぴったり寄り添う一番北側の道です。大雨による増水時には道路冠水もたびたび発生したと思われ、その場合のサブルートとして、わずかながら高い土地を通る道が南側に順次つくられたのでしょう。ただし、改修によって流路が固定される以前の烏山川は氾濫原をたびたび流路を変えながら流れていたと思われ、近代以前の古道は今と完全に同一だったかどうかは分かりません。

(左端の川沿いの道が旧街道)

 
(清涼橋跡と豪徳寺橋跡)

 まもなく緑道に清涼橋跡があり、続いて豪徳寺橋跡があり、ここを左折すると城山通りを横断して豪徳寺の参道です。
 大谿山豪徳寺(豪徳寺2‐24))の創建は文明12(1480)年、第5代世田谷城主・吉良政忠が伯母の菩提を弔うために城内に小庵を建立し、その法号にちなんで「弘徳院」(または弘徳庵)と称したのが始まりです。当初は臨済宗に属し、のち天正12(1584)年に曹洞宗に改宗しています。現在の豪徳寺境内が世田谷城内でも城主の居館がある主要部分だったと推定されており、参道の東側に土塁が残り、また境内にも土塁らしきものが見られます。

 

 戦国時代末期に吉良氏が一時世田谷を去り、世田谷城も廃されると寺は衰微しましたが、江戸時代になると、世田谷は彦根藩主・井伊直孝の所領となり、弘徳院も伽藍が整えられ、直孝の歿後はその法名にちなんで豪徳寺と寺号を改め、井伊家の菩提寺となりました。
 そのきっかけとして、井伊直孝が世田谷を訪れた際に雷雨に遭い、寺の門前で雨宿りをしていたところ、手招きする猫に従って門内に入ったことで、落雷から逃れることができ、寺との縁が生まれたという話があり、豪徳寺が「招き猫」の発祥地となったと言われているわけです。境内には随所に招き猫の姿を見ることができます(彦根城のマスコット「ひこにゃん」も豪徳寺の招き猫が由来です)。

(奉納された招き猫がいっぱい。これはごく一部)

 桜田門外の変で暗殺された大老・井伊直弼の墓をはじめ、十二支や猫の彫刻がある三重塔、数ある石仏など見どころの多いお寺で、特に招き猫の奉納所(上写真)のおかげで最近は外国人観光客も珍しくなくなりました。

 ところで、豪徳寺では江戸時代から境内の10の見るべき景観が「豪徳寺十勝」として伝えられており、そのうちに「清涼橋」が挙げられています。『新編武蔵風土記稿』では清涼橋について「門前ヲ通ズル水流ニ架スル小橋ヲ云。板橋ナリ」と記しています。つまり、先ほど見た烏山川緑道の清涼橋跡とは位置が違っています。『江戸名所図会』に描かれた豪徳寺を見てみましょう。


(『江戸名所図会』より「世田谷豪徳寺」)

 画面左下の部分。参道へ通じる道は今の直線的な道と違って曲がりくねっています。そして、よく見ると、橋を二度渡っています。門前の橋が清涼橋で、現代では城山通りが通っているあたりに小川が流れていて、そこに架かっていたようです。世田谷八幡宮周辺の湧水からくる烏山川の支流でしょうか。そして、烏山川本流に架かっていた豪徳寺橋は今より下流側に位置していたようです。今の「清涼橋」(跡)は烏山川周辺が近代以降に整備された際に新しく架けられた橋に失われた由緒ある橋の名を冠したということなのでしょう。そして、橋そのものは川の暗渠化によって再び消えてしまったわけです。

 この豪徳寺を文化11(1814)年に十方庵が訪れていて、その紀行を『遊歴雑記』に書いています。

「裏門は北沢村通(=滝坂道)にありて、松・杉の並木左右に繁茂し、凡壱町余(1町=約109m)にしてうら門に至る、又表門は南のせたがやの宿の北裏手にあり、境内爪先あがりに自然に高く、且広大に寂々寥々たり、栗鼠・ましら(=猿)・諸鳥の声のみありて清閑の伽藍といふべし」

「表門よりせたがやの駅へ、南の方五町もあらんか、此地空山寂寞として道心の生ずるといひしは、かかる閑寂の静処にやあるらめ、繁花の俗事を離れたれば、識浪をしづめて、心月を観ずるには畢竟の土地にこそ、左はいへ、酒屋へ三里豆腐屋へ弐里ありて、よろづの事嘸(さぞ)不便利にやあらん、しかれども不聞悪声不見悪人(悪人の声を聞くこともなくく悪人の姿を見ることもない。『観無量寿経』に出てくる言葉)の金言おもひしられて、六根なから穏かに、四時花鳥に慰み、湖月林風相ともに清く、隠者の寓居はかかる僻地ぞよからん」
(『遊歴雑記初編1』、朝倉治彦校訂、平凡社東洋文庫)

 約200年前の豪徳寺には野生のリスやサルが棲んでいたようです。江戸市中で暮らす十方庵にとって豪徳寺はとても辺鄙で不便な田舎であり、俗世間から離れ、花鳥風月を友として生きる隠遁生活に相応しい場所と映ったようです。

 また、明治・大正期の旅する文筆家、大町桂月(1869‐1925)は『東京遊行記』(明治39年)で豪徳寺について書いています。新宿から歩き出した桂月は淀橋浄水場や十二社を経て水道道路を西へ行き、松原付近で甲州街道に出ます。

「甲州街道に出づる間もなく、火薬庫の前より左折して、世田ヶ谷の豪徳寺に向ふ。凡そ二十四五町にして、右に宇佐八幡祠あり。祭日にして、少しにぎはえり。左に小径を取りて、豪徳寺の墓地に入る」

 ここまで桂月は松原大山道を歩いています。そして、八幡宮から小径に入り、豪徳寺の墓地に出たというのは、当時は世田谷線も存在せず、宮の坂から豪徳寺墓地南側の今もある細道に直接入れたのでしょう。

「豪徳寺は曹洞派の寺にて、さっぱりして、俗氣なし。中興の開基は井伊直孝也。江戸名所図會には境内十勝の名あれど、さまでの勝地にはあらず。もと吉良家の城のありたる地也」

 このあと桂月は世田谷の松陰神社に参拝し、奥沢の九品仏浄真寺、さらに池上本門寺まで歩いて、一日を終えています。

 さて、上の絵で画面右下に「吉良氏城址」と書かれている場所が現在の世田谷城址公園(豪徳寺2‐14)です。
 世田谷城といっても、我々が日本の城としてイメージする天守閣を備えた、いわゆる“お城”ではなく、実際は領主の館というべきものでした。なので、園内にある石垣などは公園整備によって築かれた新しいものです。土塁や空壕の跡が残る公園はさほど広くありませんが、これは世田谷城の南東部のごく一部に過ぎず、実際は北西側に隣接する豪徳寺の境内も含む広大な領域で、すでに書いたように吉良氏の居館は今の豪徳寺の位置にあったと言われています。廃城から400年以上が経過し、宅地開発によって失われた部分も多く、不明な点も少なくありませんが、大きく蛇行する烏山川に三方を囲まれた要害の地に築かれた城であったことは間違いありません。

 
(世田谷城址公園の空壕跡。城山と呼ぶにふさわしい城址公園と昔の低湿地を通る城山通り)

 さて、豪徳寺橋跡に戻って、今度は反対方向へ行き、世田谷線の上町2号踏切を渡って、吉良氏の菩提寺・勝光院にも寄っていきましょう。

 延命山勝光院(桜1-26)は寺伝によれば建武2(1335)年に初代世田谷領主・吉良治家が開いたとされる古刹です。ただ、当時、治家の父・貞家が奥州管領職にあり、治家も奥州にいたと思われ、実際の寺の創建は14世紀後半から15世紀初頭と思われます(3代領主・吉良頼氏を開基とする説もあり)。当初は竜鳳寺といい、のち興禅寺と改め、8代領主・吉良氏朝が天正元(1573)年に小机村(横浜市)の雲松院から天永琳達禅師を招いて臨済宗から曹洞宗に改宗し、父・頼康の法号をとって勝光院となりました。
 世田谷城の南西、烏山川の低湿地をはさんだ台地上に立地し、西から攻めてくる敵に対する砦としての役割があったとされています。吉良氏没落後、徳川家康が30石の寺領を安堵する朱印状を与え、この勝光院領が明治以降に世田谷村桜木(現在の世田谷区桜1丁目)となりました。桜木も桜も世田谷城にあった「御所桜」にちなんだ地名です。また、勝光院には見事な竹林があり、「せたがや百景」にも選定されていますが、吉良氏が敵の進軍を阻み、その視界を遮るために、各所に竹を密植した名残ともいいます。


(勝光院)

 では、旧街道に戻ります。
 豪徳寺橋跡を過ぎて、さらに烏山川緑道に沿って進むと、まもなく緑道と離れ、すぐに暗渠化された水路跡と交差します。そこに中久橋があり、渡ったのは烏山川に南から注ぐ支流で、勝光院のある台地と世田谷通り(旧登戸道)の間にある谷戸(細谷戸)に水源をもつ小川の跡です。

(烏山川の支流・仮称・細谷戸川跡)

 そして、道はまもなく世田谷城址公園と世田谷線上町駅を結ぶ2車線道路に出て、これを南下すると上町駅です。現在、上町という町名はありませんが、矢倉沢往還(大山道)の世田谷新宿のうちボロ市通りの区間を上宿または上町とも呼んだことに由来する駅名です。

 
(上町の踏切を渡り、世田谷通りを横断して坂を上がるとボロ市通り=世田谷新宿)

 上町駅の踏切を渡り、世田谷通りを横断し、坂を上がるとボロ市通りに出ます。これが旧矢倉沢往還(大山街道)の宿場、世田谷新宿上宿(上町)で、松原大山道はここまでということになります。
 旅人はここから大山道で二子の渡し方面、あるいは登戸道で登戸の渡し方面へと旅を続けたのでしょう。

(ボロ市通り=旧大山道への突き当りにある道しるべ)



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