《世田谷の古道》
大山道
 (渋谷~三軒茶屋~用賀)

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 江戸・東京と神奈川県の大山を結ぶ大山道の旅。大山道の後身である国道246号線の起点・三宅坂交差点からスタートして旧江戸城の赤坂見附(大山道の起点)を経て、青山通りを渋谷までやってきました。三宅坂から約5キロです。今回は渋谷のハチ公前広場からスタートしましょう。



 ハチ公の銅像と駅前のスクランブル交差点周辺はいつも大変な賑わいですが、とりわけ最近は外国人観光客の姿が目につきます。みんなハチ公前で記念写真を撮り、さらに、ものすごい数の人間が行き交う交差点にもカメラを向けています。
 山手線の前身、日本鉄道品川線(品川~赤羽、明治39年に国有化)の渋谷駅が開設されたのは明治18年3月。現在のJR渋谷駅より300メートルほど南方にあり、利用客も少ない田んぼの中の小さな駅だったことはすでに書きました。その渋谷駅が現在地に移転してきたのは大正9(1920)年のことです。
 その駅前に「忠犬ハチ公」の銅像が最初に設置されたのはまだハチが存命中の昭和9(1934)年4月21日のことで、除幕式にはハチも参加しています。

(忠犬ハチ公像・二代目)

 ハチは大正12(1923)年11月10日に現在の秋田県大館市で生まれた秋田犬で、翌年1月に生後2か月ほどで東京帝国大学農学部教授上野英三郎氏の家にやってきました。上野邸は旧豊玉郡渋谷町大字中渋谷字大向(今の渋谷区松濤1丁目、東急本店付近)にあり、犬好きの上野氏に可愛がられたハチは主人が駒場の農学部へ徒歩で通う時は大学まで、出張など列車で出かける時は渋谷駅まで送り迎えするようになります。ところが、上野氏が2年後の大正14年5月21日、大学で脳溢血で倒れ、急逝してしまいます。そうとは知らないハチはその後も渋谷駅にやってきては主人の姿を探し求めていました。主人が長く不在の時は渋谷駅に帰ってくることを知っていたからです。ハチは子どもや通行人にいたずらされたり、いじめられたりもしていたそうですが、昭和7年になって今は亡き主人を待ち続ける忠犬として新聞で紹介され、一躍有名になります。背景に戦争へ向かう当時の日本の国家への忠誠心を高めようとする時代思潮があったのはいうまでもありません。そして、その2年後に銅像が建立されたのです。ハチが渋谷駅付近で死んだのはその翌年、昭和10年3月8日のことでした。飼い主の上野氏が亡くなってほぼ10年が経っていました。渋谷駅で行われたハチの葬式では宮益坂にあった妙祐寺の僧侶が読経しています。ハチの墓は青山霊園の上野氏の墓の隣に建てられ、遺骸は剥製となって国立科学博物館に展示され、また内臓は東京大学に保存されています。

(上野の国立科学博物館に展示されたハチ公の剥製。垂れていた左耳は修復されている)

 なお、ハチ公の銅像は戦時中の昭和19年に金属回収令により撤去され、終戦前日に溶解され、機関車の部品にされてしまいますが、戦後、昭和23年8月に二代目の銅像が再建され、現在に至っています。

 では、渋谷駅をあとにスタートしましょう。



 渋谷川の谷に位置する渋谷駅から西に上る道玄坂が旧大山道です。藤田佳世『大正・渋谷道玄坂』には次のような描写があります。

「当時の坂は道幅もずっとせまく、勾配は今の倍以上もきつかった。荷車を引いた馬はこの急なのぼりを真っ直ぐには行きかねて、道を斜めに切りながら、なおも、『それッ、もう一息だ、それッ』と、馬方の声にはげまされながら喘ぎ登った。
 今の東宝映画館がまだ憲兵隊であった頃、その煉瓦の塀にもたれて仕事を待っている男たちを立ちん坊と呼んだ。重い荷を引いてこの坂にかかる人は『おい、おっさん、ひと押したのむぜ』と、五銭玉をはずんでこの男たちの力を借りた。車を引いて一人で登り切れる坂ではなかったからである」


 これが大正時代の話です。さらに昔は木々が生い茂る山林の中を登る寂しい坂だったようです。宮益坂の立場を過ぎれば江戸の賑わいも尽きて、あとは水田や畑、雑木林の広がる農村地帯ということだったのでしょう。
 そもそも道玄坂という名称の由来として、大和田太郎道玄(鎌倉幕府の有力御家人で、北条氏に滅ぼされた和田義盛の残党の子孫?)という人物が山賊としてこのあたりを荒していたとか、道玄寺という寺院または道玄庵という仏庵(山賊の道玄が自らの非を悔いて仏門に入った?)が坂の傍らにあったという伝承に基づくといいますが、確かなことは分かりません。いずれにしても、往時は人家も稀な野山の道でした。
 ただし、江戸中期になると、道玄坂には富士山を信仰する組織=富士講の中でも有力な山吉講の講元である吉田平左衛門の屋敷がありました。
 平左衛門は食行身禄(じきぎょうみろく、1671‐1733)という行者の直弟子にあたる人物です。身禄は伊勢の出身で、俗名を伊藤伊兵衛という油売りで財を成した商人でしたが、大飢饉と米価高騰に苦しむ庶民の救済と世直しを願い、富士山八合目の烏帽子岩で断食の末に享保18(1733)年7月13日に入寂。これ以降、江戸で富士信仰が爆発的に流行し、各地に富士講が組織され、また気軽に富士登拝ができるように江戸市中にも富士山を模した富士塚が各所に築かれるようになりました。

 (千駄ヶ谷鳩森八幡の富士塚と中腹の身禄像)

 そんな数多くの富士講の中でも山吉講は江戸屈指の存在に発展します。平左衛門の父(あるいは祖父)が富士山頂に湧く霊水「金明水」を発見し、信者に配ったことから「御水講」とも呼ばれました。そして、道玄坂は富士山への団体登拝の集合地になっていたのです。大山や富士山が夏の開山の時期を迎えると、道玄坂も大山道も白装束の人々で俄かに賑わったのでしょう。
 その道玄坂の往来が季節を問わず増えたのは明治中期以降、目黒世田谷方面に陸軍の兵営がつくられるようになったのがきっかけでした。東京が発展するにつれて市内にあった軍事施設が広大な土地のある郊外に移転するようになったのです。そして、兵隊が青山(明治22年開設、今の明治神宮外苑)や代々木(明治42年開設、今の代々木公園)の練兵場に通うために道玄坂を上り下りするようになると、坂の改修が繰り返し行われ、勾配が徐々に緩和されました。
 そして、明治40年には東京の発展のための建設資材として大量に必要とされた多摩川の砂利を輸送することを主目的に玉川電気鉄道が二子玉川から渋谷まで大山道のルートに沿う形で開通し、道玄坂はますます繁華街として発展します。
 さらに大正12年の関東大震災をきっかけに被災した下町の一流の商店や飲食店が道玄坂沿いに移ってきて、「百軒店」(ひゃっけんだな)が生まれます。

 「道玄坂は盛り場といっても、地味な山の手ぐらしの身についた街である。この街を賑わす人々も、多くは目黒、世田谷を主にしているので、なんとなく泥くささが抜けない。そこへ下町の一流どころが、箱根土地の誘致に結束して『百軒店』という特異な街をつくり上げた」(藤田佳世『大正・渋谷道玄坂』)

 この土地は江戸時代には山吉講・吉田家の茶畑だったといいますが、明治時代には旧豊後・岡藩主の中川伯爵の屋敷となり(地図①)、大正11年頃、西武グループの祖・箱根土地株式会社が取得して宅地開発に乗り出したところで震災が発生。まだ田舎町で被害が軽微だった渋谷に銀座や浅草などの名店が緊急避難的に集団移転してきて、突如として華やかな街が生まれたわけです。しかし、そのピークは2年ほどで終わり、下町の復興が進むにつれて、多くの店が都心部へ戻っていきました。
 その後の百軒店も飲食店や映画館・劇場などが集まった渋谷の中心歓楽街として栄えますが、現在は老舗の名曲喫茶などが残る一方、ストリップ劇場や風俗店、ラブホテルが幅を利かせる渋谷の中でも少しいかがわしい雰囲気の区域となっています。

 
(しぶや百軒店と千代田稲荷神社)

 その百軒店の奥に鎮座するのが千代田稲荷神社(渋谷区道玄坂2‐20‐8)です。長禄元(1457)年、太田道灌が江戸城を築いた時に守護神として伏見稲荷を勧請したのが始まりといい、徳川家康が入府後、現在の皇居の位置にあたる紅葉山に遷座。さらに慶長7(1602)年に江戸城拡張のため、渋谷・宮益坂の御嶽神社の隣接地に移され、江戸城の別名をとって千代田稲荷神社と呼ばれ、人々の信仰を集めました。とりわけ、将軍家に降嫁した和宮が厚く信仰し、鳥居などを寄進したと伝えられています。
 その後、大正12年に百軒店が形成される際に宮益坂から再び遷座しますが、戦災で焼け、戦後に復興されています。

地図①(明治42年) 地図中の渋谷駅は移転前の旧所在地。


 百軒店を右に見て坂を上っていくと、左側の渋谷マークシティ道玄坂口そばに、このあたりに住んでいた与謝野晶子の歌碑(「母遠うて瞳したしき西の山 相模か知らず雨雲かかる」)、坂の名の由来を記した石碑(「うめぼし博士」こと故・樋口清之元國學院大學名誉教授による)、「道玄坂道供養碑」があり、桜の木が植えられています。そして、このマークシティのある場所がかつての玉電(東急玉川線)渋谷駅の跡地にあたります。

 
(与謝野晶子歌碑、道玄坂由来碑、道玄坂道供養碑) 

 道路右側の交番脇から分かれるのが滝坂道で、駒場方面に通じ、世田谷区を横断して最終的に調布市の滝坂上で甲州街道に通じています。古くから武蔵国府のある府中と青山方面を結ぶ幹線道路だったと思われます。
 この追分にはかつて豊沢地蔵と呼ばれる地蔵尊が立っていました。宝永3(1706)年に建立されたこの地蔵はその後、滝坂道から右に入った円山町6番地の料亭「三長」の角に移され、「道玄坂地蔵」として現存しています。ただし、もとの尊像は二度の火災で焼け崩れ、現在の像の内部に納められています。

 (滝坂道と道玄坂地蔵)

 滝坂道を右に見送り、「道玄坂上」の交差点で青山通りが渋谷駅を境に名を変えた玉川通り国道246号線に合流します。与謝野晶子の歌碑にあった雨雲のかかる「西の山」は大山など丹沢山系の山々であったと思われ、晶子はその彼方に故郷・大阪にいる母を想ってこの歌を詠んだのでしょう。かつては道玄坂の上から眺望が開けていたはずですが、今は道路の両側にビルが立ち並び、頭上には首都高速3号線(昭和46年開通)の高架橋が覆いかぶさっています。そして、この首都高を建設するために道路の真ん中を走り、自動車交通の邪魔者になっていた玉電(東急玉川線)は昭和44年5月で廃止されたわけです。そして鉄道は8年後の昭和52年に地下に建設された新玉川線として復活。平成12年からは田園都市線の一部となっています。

 「神泉町」の交差点で旧山手通りを越えると渋谷区から目黒区青葉台(昔の上目黒村)に入ります。かつての豊島郡と荏原郡の境でもあり、この尾根筋を三田用水が流れていました。三田用水は玉川上水の分水路で、寛文4(1664)年に開削され、昭和49年まで存在したといいますが、痕跡はほとんどありません。

 (大坂)

 まもなく「大坂上」のバス停があり、旧道が右に分かれます(上写真)。これが大山道の難所、大坂で、かつては坂上に立場がありました。茶屋があり、馬の乗り継ぎなどもできたようです。明治30年頃の大坂上の立場の様子が『東京名所図会』に描かれています。茶店で買った団子を落とすと坂下まで転がったことから団子坂の別名があったともいいます。


(『東京名所図会』上目黒大坂の圖)

 また、この坂のそばに山賊・道玄が物見に使ったという松があり、明和の頃(1764‐72)に枯れて伐採されたという伝承が『江戸名所図会』に紹介されています。
 その『江戸名所図会』の「駒場野」と題する絵に描かれた急坂も大坂だと思われます。


(『江戸名所図会』より「駒場野」)

 さて、坂を下っていきましょう。今でも十分急坂ですが、昔はもっと急勾配だったのかもしれません。
 築堤と陸橋で勾配が緩和された現行の玉川通りは明治40年に完成したということで、玉電の建設に合わせて造られたのでしょう。
 坂を下ると、山手通りにぶつかります。山手線が建設された際、当初の計画では目黒川の低地沿いを通る予定だったということですから、計画通りならこの山手通りのルートを線路が通っていたのかもしれません。
 坂の北側には真如山大教寺(目黒区青葉台4‐7‐7)という日蓮宗寺院があります。大乗院大僧都日達聖人(万治4年=1661年寂)が開山となり多摩郡下高井戸村に創建され、正徳3(1713)年に荏原郡下馬引沢(今の世田谷区下馬)に移転。さらに現在地に移ってきたのは明治28(1895)年のことです。

 さて、山手通りを渡ると、目黒川の支流・空川の跡を越えます。駒場の湧水を集めて流れる川で、湧水は東京大学駒場キャンパス構内や駒場野公園の池に健在です。その駒場は江戸時代には広大な原野が広がり、将軍家の鷹狩り場となっていました。

 大山道旧道が再び玉川通りに合流すると、そこに上目黒氷川神社(大橋2‐16‐21)があります。空川と目黒川にはさまれた舌状台地に鎮座する神社で、境内へと急な石段が続いています。かつてはここに大坂下の立場がありました。

 (上目黒氷川神社)

 氷川神社は甲斐武田氏の家臣だった甲州上野原の加藤家が戦国時代の天正年間(1573‐92)に上目黒村に土着した際に勧請したと伝わる神社で、祭神は素戔嗚命(スサノオノミコト)です。また、明治末に近隣の天祖神社と北野神社から天照大神と菅原道真(天神)を合祀しています。また境内には氷川神社より古いといわれる稲荷神社もあります。


(『東京名所図会』上目黒村氷川社の圖 明治31年)

 石段は文化13(1816)年に造られましたが、明治38(1905)年(あるいは明治40年)に大山道の拡幅に際して改修されています。
 石段の下には注目すべき遺物があり、そのひとつは最初の文字が欠損により判読不能ですが、「〇坂再建供養塔」と刻まれた石塔(年代不明)で、「武州荏原郡古菅苅庄目黒郷」とあります。「菅苅庄」は一般には菅刈庄と表記され、目黒区から世田谷区にかけて中世以前に存在したとされますが、『新編武蔵風土記稿』など江戸時代の文献に見られるだけで、それ以前の記録がまったく見当たらないため、謎に包まれ、荘園の実在を疑う見解もある地名です。その謎の地名が彫られた数少ない遺物がこの供養塔で、菅刈荘に関心を持つ者には見逃せない存在です。ただ、この供養塔も江戸期の文献に基づいて昔は菅苅庄と呼ばれた(らしい)ということで、このような表記をしたものと思われ、菅刈庄の実在を示す証拠にはなりません。
 ちなみに近くには菅刈小学校、菅刈公園、菅刈住区といった名称があり、世田谷区にも菅刈橋、菅刈社
などがあり、経堂在家村(現・世田谷区経堂)の南西端にかつてあった菅刈谷戸付近が庄名発祥の地という伝承もありますが、確かなことは何も分かりません。

(供養塔と大山道道標)

 この供養塔の背後には大山道の道標もあります。天保13(1842)年に建立されたもので、正面には大きく「大山道」と彫られた下に「せたがや道 玉川道」とあります。つまり、いま我々が歩いている方向です。向かって右側には「右 ひろう めぐろ 池がみ 品川みち」、左側には「左 青山 あさぶみち」の文字が刻まれています。世田谷方面から来ると、氷川神社の下で道が分かれ、我々がたどってきたのは左の青山方面からですが、右へ行くのは「日向道」と呼ばれ、目黒川左岸の台地裾をたどり、目切坂を上って広尾方面へ通じています。道標はもとはこの分岐点に立っていたのでしょう。世田谷方面から江戸・東京へ荷車で野菜などを運ぶ農家は険しい大坂を避けて広尾方面へ向かう者も多かったようです。そして、目切坂へは三軒茶屋で大山道から分かれる直行ルートがありましたが、明治30年頃、駒沢練兵場の造成で一部区間が廃止されています。

 氷川神社の境内には浅間神社もあります。かつて上目黒1-8にあった富士塚(目黒元富士)に鎮座していたものです。
 目黒元富士は文化9(1812)年に地元の富士講によって築かれたもので、高さは12メートルありました。その後、中目黒に新たに富士塚が築かれたので、新富士に対して元富士と呼ばれたわけです。歌川広重の「江戸名所百景」(右図)にも描かれ、本物の富士山も望める景勝地として江戸の人々が多く訪れたということですが、明治11(1878)年に取り壊され、石祠や富士講の碑などが氷川神社に遷されました。昭和52年には氷川神社を富士山に見立てて石段の脇に登山道が設けられ、「目黒富士」と呼び、毎年7月1日に山開きの行事が行われています。

(目黒富士浅間神社)

 では、氷川神社をあとに先へ進みましょう。
 すぐに首都高の3号線と中央環状線を結ぶ大橋ジャンクション(2010年供用開始)です。かつての玉電大橋車庫の跡地で、ジャンクションの屋上(目黒天空庭園)からは富士山が望めるほか、目黒区立大橋図書館もあり、古道探索者としては休憩を兼ねて調べ物ができたりもします。

 
(大橋ジャンクション。右写真は天空庭園からの眺望。画面右に富士。左のビルは三軒茶屋キャロットタワー)

 ジャンクションを過ぎてすぐ目黒川を渡ります。ここに架かる橋の名が大橋です。今は改修されコンクリートで固められた都市河川ですが、桜の名所として有名です。目黒川はここから上流は暗渠・緑道化されていますが、下水の再生水を利用したせせらぎが再現されています。

(目黒川。品川で東京湾にそそぐ)

 この大橋の地下に田園都市線で渋谷から一つ目の池尻大橋駅があります。そして、まもなく目黒区から世田谷区に入りますが、その前に駅の南方にある東山貝塚公園(東山3‐16‐7)に寄っていきましょう。
 目黒区東山の一帯は旧石器時代から人が暮らしており、竪穴住居跡や貝塚の発見により縄文時代には大規模な集落があったことが分かっています。貝塚からは海水から汽水産の貝殻や魚の骨が多く見つかっていますが、当時、目黒川流域は入り江になっていて、この付近まで海水が入り込んでいたのです(現在も目黒川は中目黒の船入場付近までが感潮域で、東京湾の潮の干満の影響を受けています)。
 そんな遠い時代の記憶を残すべく整備されたのが東山貝塚公園で、公園の奥の崖下には湧水があり、池が造られ、竪穴住居の復元模型もあります。

  

 さて、ここから三軒茶屋まで玉川通りは一直線に続きますが(明治40年開通)、昔の大山道は南に湾曲していました。その旧道が池尻大橋駅からすぐ左へ分かれて上り坂となります。ここから世田谷区池尻です。昔の荏原郡池尻村で、烏山川と北沢川が合流して目黒川になる低湿地帯にかつて大きな池があったことに由来するのではないかと考えられていて、現在でも世田谷区の洪水ハザードマップによれば、川沿いの低地部分は大雨の時に浸水の可能性が最も高い地域のひとつです。
 なお、この旧道入口付近にかつて地蔵尊があったということですが、所在不明となっています。村の入口を守るお地蔵さんだったのでしょう。

(玉川通りから分かれる旧道)

 ところで、池尻村のうち、大山道より南側の部分は池尻村から分かれて池沢村と称した時期があります(池尻村の北側にも飛び地あり)。『新編武蔵風土記稿』によれば、池沢村は正保年間の絵図にはなく、元禄期の絵図に初めて載っていることからその間(17世紀後半)に分村したのだろうと推定しています。そして、明治12(1879)年に再び両村は合併し、明治22年に町村制施行により世田谷村に編入されて、世田谷村大字池尻となっています。

地図②(明治13年)


 大山道旧道はいかにも旧街道らしい道幅で、いくらかは古道歩きの気分を味わえます。この道の南側に明治30年に広大な駒沢練兵場が造成され、さらにその西側に兵営群が建設され、大山道は兵士や軍馬が行き交う道になります(地図③参照)。雰囲気は一変したと言えるでしょう。農村地帯に突如として兵隊の町が出現したわけです。当然、軍人相手の商売が街道沿いを活気づかせ、また多くの兵士や馬が暮らす兵営は周辺農家にとって貴重な肥料の供給源にもなりました。大山道は「馬糞街道」などと呼ばれたりもしたそうです。しかし、軍事施設が集中したこの地域は戦時中、世田谷区内ではとりわけ激しい空襲に遭ったほか、強制疎開により街道沿いの多くの商店が廃業に追い込まれたりもしました。
 戦後、練兵場や兵営の跡地は自衛隊・学校・病院・公務員住宅・公園などに生まれ変わっています。

地図③(昭和7年)

 
 ところで、このような軍事施設が進出する前の池尻村において、街道を行き交う人々を惹きつけていたのは池尻稲荷神社です。明暦年間(1655‐58)に創建された池尻・池沢両村の鎮守で、境内に「薬水の井戸」という泉があり、この水を飲めば薬力明神の力によりどんな病も平癒すると言われる霊水でした。水は日照りの時でもこんこんと湧き、「涸れずの井戸」とも呼ばれ、江戸方面からの旅人にとっては赤坂一ツ木村からここまで飲用水がなく、この井戸は大変貴重な存在でした。現在は境内のもとの場所から移され、ポンプで汲み上げて手水舎に利用されています。

 
(池尻稲荷神社と薬水の井戸)

 昔は同じ敷地に別当寺の常光庵(または常光院)という仏庵があり、傍らに日蓮像を安置した祖師堂がありました。これは文永8(1271)年、鎌倉幕府や他宗派を批判して捕らえられた日蓮が処刑される寸前で執行を免れた後に自ら彫ったとの伝承をもつ二寸二分(6.6cm)の像で、剣難除けの御利益があるとされて大山道を通る武士は必ず立ち寄ってお参りしたそうです。常光庵は明治10年に目黒区八雲の常圓寺に合併されています(『常圓寺史〈資料集〉』)。
 池尻稲荷神社の境内には水路の跡が残っていますが、水源は池尻1丁目付近の湧水で、かつては祖師堂境内に池をつくり、さらに北へ流れて目黒川に通じ、また水の一部はここまで歩いてきた大山道沿いに東へ流れて、やはり目黒川に注いでいました。その様子は『江戸名所図会』にも描かれています。


(『江戸名所図会』より「北澤淡島社 池尻祖師堂」の一部)

 稲荷神社の参道入口には「旧大山道」の碑が立ち、また「かごめかごめ」の像があります。幼くして奉公に出され、奉公先で赤ん坊を背負って子守をする少女の像です。童謡「赤とんぼ」で「負われて見たのはいつの日か」と歌われるのも、こんな少女の背中から見た赤とんぼの飛ぶ光景ですね。そして、その「ねえや」も十五で嫁にゆき、お里(実家)からの便りも絶え果てたという歌です。きっとこの神社でもそんな光景が実際に見られたのでしょう。

(旧大山道の碑と「かごめかごめ」像)

 池尻ではもうひとつ、稲荷神社より少し戻る形になりますが、池尻2‐26と2‐21の間を左へ入って坂を上ると、池尻2‐23に池尻庚申堂があります。お堂の中に2体の庚申塔(1680年,1692年)があるほか、境内には地蔵尊、御幣をもつ猿の像があります(庚申堂内にもあり)。この庚申堂も常光庵を合併した八雲の常圓寺(日蓮宗)に帰属し、毎年4月15日に同寺の住職により供養が行われているといいます。境内には「南無妙法蓮華経」の題目を刻んだ塚石があり、墓地が隣接しているので、もともと廃寺となった池尻祖師堂・常光庵とも関係があったのでしょう。

 
(池尻庚申堂)

(御幣をもつ猿)

 では、大山道を先へ進みましょう。右に小さな稲荷社の祠など見ながら進むと、まもなく玉川通りに合流し、すぐに三宿交差点です。

 
(小さな祠のある旧道を行くと、まもなく玉川通りに合流)

  世田谷区三宿は旧荏原郡三宿村で、明治22年に合併により世田谷村大字三宿となっています。三宿の地名は宿場とは関係なく、村内を流れる烏山川の水が滞留しやすい場所という意味の水宿が転じたものではないか、と考えられています。
 かつては静かな農村だったようですが、明治31年頃から駒沢練兵場の西に隣接する形で近衛野砲兵連隊などの大兵営群が街道南側に造られます。一帯の兵営には約4,000人の兵士と2,000頭の軍馬が生活するようになり、それまで人口200人足らずだった村は大きく変わりました。
 旧三宿村の領域のうち大山道より南側は現在は太子堂1丁目に編入されています。同所にある三宿中学校の敷地もかつては兵営があった場所です。
 街道はすぐに世田谷区太子堂(旧荏原郡太子堂村)に入ります。左手の昭和女子大学のキャンパスもかつての兵営の跡地です。
 太子堂村は村内にある真言宗豊山派の聖王山法明院円泉寺(太子堂3‐30‐8)にある太子堂に由来します。寺伝によれば、文禄4(1595)年に賢恵僧都が大和国久米寺から聖徳太子像と十一面観音像を背負って関東へ下向し、翌年、当地に寺を創建したといいます。また、創建は南北朝の頃で、賢恵僧都は中興の祖であるとの説もあります。とにかく、同寺にある聖徳太子を祀るお堂が地名になりました。

  さて、三軒茶屋までやってきました。ここで大山道は二手に分かれます(下図参照)。一般的に知られる大山道はここから引き続き国道246号線・玉川通りとほぼ一致するルートをたどりますが、この道は江戸の町人文化が成熟し、大山詣が盛んになった文化文政時代(1804-1830)に二子の渡しへの近道として開かれた新道です(実際にはあまり距離は変わりません)。それ以前の大山道(矢倉沢往還)といえば、ここで右に分岐する世田谷通りでした。その旧矢倉沢往還については別ページでたどることにして、ここではそのまま玉川通りを行くことにします。


(世田谷区教育委員会『世田谷の地名(上)』より)

地図④(昭和7年) 三軒茶屋~用賀間の新旧大山道


 
(現在の三軒茶屋分岐点。厚木方面が国道246号線=大山道新道。狛江方面が都道3号線=世田谷通り=旧大山道)

 
(明治39年頃の三軒茶屋。道標の向こうが石橋楼。『世田谷区史料第一集』より)


 ところで、
三軒茶屋は新旧の大山道の追分にあった3軒の茶屋にちなむ地名です。信楽(明治2年から石橋楼、上写真)、角屋田中屋の3軒です(田中屋のみ陶器店として現存)。ただ、あくまでもこの三叉路の呼称であって、三軒茶屋が正式な町名となったのは昭和7年に世田谷区が成立した時のことです。

(三軒茶屋商店街の歩道に埋め込まれたプレート。中央に道標))

  
 

 そして、この追分には道標が現存します(本来とは向きが変わっています)。上部に不動明王像(大山は不動信仰の霊場)が鎮座する立派なもので、正面には「左相州道 大山道」と刻まれ、向かって右側面には「右富士 世田谷 登戸道」と彫られています。また左側面には「此方 二子通」とあります。建立年は寛延2(1749)年、文化9(1812)年再建とのこと。ここで左へ行く大山道(新道)の開通が文化文政年間であるなら、それより前の寛延2年に道標が建立されたという点に引っかかるものを感じますが、あまり深く考えずに先へ進みましょう。

 三軒茶屋から玉川通りを行くと、300メートル余りでまた旧道が左へ分かれます。 中里通りです。



 この道の左側は三軒茶屋1丁目、右側が2丁目ですが、昔はそれぞれ荏原郡上馬引沢村字稲荷(または新寄)と字伊勢丸でした。馬引沢の地名は源頼朝が奥州征伐へ向かう途中、この地を通りかかり、乗っていた葦毛馬が突然暴れて沢にはまり、従者が急いで馬を引き上げたものの、ほどなく死んでしまったため、以後、ここでは馬を下りて引いて通るように命じたというような伝承があり、真偽はともかく馬引沢の地名の由来とされています。その時、馬を埋葬したという葦毛塚が下馬5丁目にあります。その馬引沢が江戸時代には上馬引沢中馬引沢下馬引沢に分かれており、明治12年に中馬引沢村が上馬引沢村に吸収合併されました。上馬引沢、下馬引沢は明治22年に周辺の野沢村、深沢村、弦巻村、世田谷新町村と合併して駒沢村(駒沢はこの時に生まれた新しい地名)に編入され、駒沢村が大正14年に町制施行した時に上馬引沢・下馬引沢は略されて駒沢町大字上馬・下馬となっています。そして、昭和7年に東京市の市域拡大により世田谷区が成立した際に上馬のうち旧中馬引沢の領域だった部分が三軒茶屋町として独立したのです(周辺地域との境界移動あり)。

 とにかく中里通りの坂を下っていくと、暗渠化された蛇崩(じゃくずれ)川跡の遊歩道を越えます。かつて茶屋下橋という橋が架かっていました。蛇崩川は世田谷区弦巻付近に水源をもつ目黒川の支流で、頼朝の馬が死んだと伝えられる馬引沢もこの川です。ふだんは小さな川だったようですが、大雨が降るとたちまち激しい流れとなり、氾濫したそうです。蛇崩は砂利崩れが転じたともいいます。川沿いの田んぼも膝上まで嵌ってしまうほどの軟弱な地盤だったといい、世田谷通り経由の旧大山道(矢倉沢往還)もこの蛇崩川の低地を避けたのでしょう。

(蛇崩川緑道を横切る大山道。向こうに伊勢丸稲荷)

 この橋跡の傍らにあるのが伊勢丸稲荷神社です。古来、中馬引沢の人々が信仰していた神社で、元は字稲荷の地域にあったと思われますが、明治12年に伊勢丸の天祖神社の境内に遷座。明治42年に神社は一村一社を原則とする合祀令により天祖神社が上馬引沢の駒留八幡神社(上馬5丁目)に合祀された際、稲荷神社は伊勢丸稲荷として伊勢丸に残り、その後、その土地の売却に際して近所に移転、さらに大正末に現在地に鎮座したとのこと。旧中馬引沢村の住民にとってこの稲荷社は合併で消えた村のシンボルであり、旧村域に残したかったのでしょう。そして、境内には「大山道」の碑があります。

 (伊勢丸稲荷神社と「大山道」碑)

 神社は今は大山道からの参道が駐車場によって分断されており、横の蛇崩川緑道から入るようになっています。そして、その緑道のすぐ先の一段高い場所を交通量の多い玉川通りが通っています。この区間は玉川電車の開業時は蛇崩川沿いの水田の中、低い土手の上に線路が敷かれていました。渋谷から三軒茶屋までは路面を走っていたのが、この区間だけ専用軌道だったわけです。その後、第二次大戦の頃に線路の南側に並行して直線の現・玉川通りが建設されました。地元の古老の話として、当時、用賀に移り住んだ東条英機が狭い旧道は子どもが多くて通行の邪魔なので上馬から三軒茶屋まで真っ直ぐの道路を造らせたという話も伝わっています。現在の玉川通りの上り線(渋谷方面)が線路跡で、この区間に中里駅がありました。
 その直線的な玉川通りから離れた旧道は蛇崩川を過ぎると、また緩やかな上りです。
 まもなく世田谷観音通り(旧・明薬通り)と交差しますが、その通りに面してお堂があり、中に貞享3(1686)年建立の庚申塔が安置されています。以前は大山道に面して立っていたのでしょう。

 (庚申塔)

 世田谷観音通りを過ぎると、世田谷区上馬に入り、さらに大山道を行くと、左手に地蔵尊が道行く人を見守っていて、その先で中里通りは玉川通りに合流します。

 (地蔵尊を過ぎて、大山道は玉川通りに吸収される)

 再び交通量が多く風情のかけらもない玉川通りを行くと、すぐに環状七号線と交わる上馬交差点です。環七通りは言うまでもなく戦後に造成された新しい道ですが、その元となった古道が存在しました。交差点から南の環七は昔の池上・六郷方面で、途中の二本松(いまの野沢交差点)から分かれて目黒・品川方面へも通じています。
 一方、北側は今の環七より1本東側の細道で、杉並区堀之内の日蓮宗・妙法寺へ通じるため堀之内道と呼ばれました。明治22年に駒沢村が成立した時、村役場はこの堀之内道の入口付近に駐在所と並んであったようです。平屋の小さな建物で、大正14年に町制施行すると、コンクリート造りの町役場が上馬交差点の南西角(上馬3‐6)付近に新築されました。

(上馬交差点)

 なお、この上馬交差点付近で大山道は旧荏原郡野沢村(いまの世田谷区野沢)の北辺をかすめます。また、ここで大山道は品川用水旭橋で越えていました。旭橋の名は環七のアンダーパスを越える陸橋名に残されています。

 クルマの往来が激しいこの交差点付近の昭和初期の様子が『ふるさと世田谷を語る~上馬・下馬・野沢・三軒茶屋・駒沢(1~2丁目)』(世田谷区、1994年)の中に地元の方の回想として次のように描かれています。

「朝三時半過ぎになると、渋谷の方に行く野菜を積んだ荷車、汲取りに行く荷車が行列になり、牛馬の鳴き声、車の音で目をさます毎日でした。そして帰りの各車は、朝の八時半ごろから十一時半ごろで、二子玉川方面に帰っていきました」

 上馬交差点を過ぎると、すぐに八幡山
宗円寺(曹洞宗)があります(上馬3‐6‐8)。寺伝によれば、鎌倉時代の文保元(1317)年に没した北条左近太郎(鎌倉執権北条氏の一族でこの地方の地頭だったようです)が建てた仏庵が始まりとされる古刹で、江戸初期の寛永10(1633)年、喜山正存和尚が中興開基といいます。境内の小堂には「ショウヅカの御婆様」が祀られ、風邪や咳止めに霊験があるとして信仰を集めました。また、大山道の拡張で境内に移された庚申塔は明暦4(1658)年建立で、世田谷区内では現存最古のものです。宗円寺には明治5年に就学所が開かれ、これが後に場所を移して旭小学校となりました。門前に「旭小学校発祥之地」の石碑が立っています。

  
(宗円寺。庚申塔とショウヅカ堂)

 寺のある上馬3丁目はかつての上馬引沢村の字三角で、この三角は北条氏の家紋の「三つ鱗」に由来するといいます。

(北条氏の家紋・三つ鱗)

 宗円寺とは玉川通りをはさんだ位置で品川用水に沿うように北へ入る六郷田無道と呼ばれる古道があり、世田谷宿へ通じています。宗円寺前は古くから交通の要衝ではあったのでしょうが、実際は寂しい田舎だったようです。

地図⑤(明治42年)


 さらに玉川通りを行きます。地下を走る田園都市線で三軒茶屋の次の駒沢大学駅がある自由通りとの交差点を過ぎると、世田谷区駒沢に入ります。駒沢は由緒ある地名だと思われがちですが、すでに書いた通り、明治22年の近代的町村制施行時の6村合併により生まれた新しい地名です。上下の馬引沢という馬に関係がある地名と馬引沢・野沢・深沢と沢のつく地名が多かったことから「駒沢」という新地名がつけられたのです。この先、街道の両側に広がる駒沢1・2丁目は引き続き旧上馬引沢村の領域でした。
 まもなく国道246号線の起点・三宅坂から10キロ地点の標識があり(地図⑤のA地点)、そこで左から合流する道があります。現在の環状七号線の野沢交差点にあった二本松から世田谷・目黒区境を通ってきた道です。そして、この合流地点の北側、駒沢2‐17‐1に延享4(1747)年に建立された道標を兼ねた庚申供養塔がありました。正面には「西ハ大山道」と彫られ、左面には「東ハ赤坂道」となっています。そして、右面には「右 めくろミち」と刻んで、二子・用賀方面からきて目黒不動尊方面へ向かう旅人への道しるべとなっていました(裏面にも「○○道」の文字が刻まれていたようですが判読不能)。この目黒道は三軒茶屋からここまでの大山道よりも古くから存在したと思われます。また、この道標は現在は世田谷郷土資料館(世田谷1‐29‐18)に保存されています。



 まもなく駒沢公園通りとの交差点です。南へ行くと、駒澤大学や駒沢オリンピック公園があります。この一帯はかつて雑木林や茅場が広がる原野で、明治14年には明治天皇が兎狩り上覧のために行幸しています。天皇は皇居からここまで馬車と乗馬で大山道を辿り、往復とも三軒茶屋の「信楽」で休憩しています。この原野には大正2年に麻布から曹洞宗大学(現在の駒澤大学)が移転し、大正3年には現在の駒沢オリンピック公園の地に駒沢ゴルフ場が造成されています。

 駒沢公園通りを過ぎると、北側は駒沢3丁目、南側は4丁目で、ここは昔の荏原郡世田谷新町村の領域となります。ここは世田谷村の飛び地として正保(1644‐47)の頃から開発が始まり、万治年間(1658‐60)に世田谷村から分かれたといいます。その後、明治22年に駒沢村大字世田谷新町となり、現在は世田谷区駒沢(3・4丁目)、新町、桜新町となっています。
 いま我々がたどっているルートのうち三軒茶屋~用賀の区間は文化文政時代(1804‐30)頃に開かれたといいますが、それ以前から新町村が開かれているということは、この付近にはもっと早くから街道が存在したということです。おそらく、用賀から駒沢2丁目の庚申塔へ来て、道標にある「目黒道」で野沢の二本松へ抜け、目黒・品川へ通じていたのではないでしょうか。

 旧新町村に入ってすぐ駒沢3‐2‐5に庚申堂があります。2体の庚申塔が安置され、村の東の入口を守っていますが、どちらも損傷がひどく、尊像(青面金剛)はとろけたような姿で、年代なども不明です。

(庚申堂)

 そして、駒沢3‐14の先から西の区間では道路の北側を品川用水が流れていました。水の流れる方向は我々の進行方向とは逆で、ここまで大山道沿いに流れてきた用水はここから北へ逸れて、大山道の北方を東へ流れ、上馬交差点付近で大山道と再会すると、旭橋でその下をくぐって今は環七となっている品川道沿いを品川方面へ流れていました。
 まもなく新町一交差点で大山道は玉川通りと頭上の首都高から右へ分かれます。地下の田園都市線はこの旧道の下です。

(玉川通り・首都高から旧道が右へ分かれる)

 この交差点のすぐ北側に駒沢緑泉公園があります。蛇崩川の支流の水源があった谷戸地形を生かし、樹林の中にせせらぎや池があります。

(駒沢緑泉公園)

 その駒沢緑泉公園の西側を南北に走る道(地図⑥の画面右端の南北の道)は古道で、北へ行くと世田谷宿へ通じ、南へ行くと、深沢、等々力を経て多摩川を渡り、今の川崎市中原区上小田中にある泉沢寺(浄土宗)へ通じていました。この寺は世田谷城主・吉良氏が延徳3(1491)年に烏山に創建し、火災で焼失後、第7代吉良頼康が天文19(1550)年、上小田中の中原街道沿いに再興したものです。多摩川にも近い水陸交通の要衝に立地する泉沢寺は周囲を濠で囲まれていたといい、吉良氏にとって単なる寺院ではない戦略拠点として意味があったと考えられます。世田谷城と泉沢寺(さらにその先には吉良氏のもうひとつの拠点である横浜市の蒔田城)を結ぶこの道は吉良氏が戦国時代に整備した政治的・軍事的に重要な道路だったと思われます。このルート沿いには世田谷区深沢に世田谷城の支城・深沢城もありました(いまの都立園芸高校付近か)。ちなみに駒沢公園通りは明治以降に建設されたこの古道のバイパスです。

地図⑥(明治42年)


 さらに大山道を行きます。旧道といっても、ゆったりとした2車線道路で、古道の風情はありません。かつては右側にずっと品川用水が寄り添い、往時は岸辺に木が生い茂って、道の北側は見通しが悪かったそうです。用水は戦後、昭和25~27年頃、埋め立てられ、今は痕跡はほとんど残っていませんが、駒沢3‐22に「品川用水跡」の碑があります。そばにあるのは橋跡でしょうか?

 
(品川用水跡の碑と橋跡? 右写真の歩道が用水跡か。道路が下って上る区間では水は築堤上を流れていた)

 まもなく通りの南側に家岳山善養院があります(新町2‐5‐12)。元和2(1616)年に大場豊前守義隆(家嶽善養庵主)が創建し、豪徳寺二世門解盧関大和尚が開山となった曹洞宗寺院で、豪徳寺の末寺です。万延元(1860)年に火災により全焼し、その後、再建されましたが、明治7(1874)年に再び焼失。一時は廃寺となりますが、2年後に再興されています。

 (善養院)

 境内は南北に細長くなっていますが、これは新町が街道に面して短冊状に区割りがなされているせいです。

(善養院の石仏群)

 善養院のすぐ西には新町村の鎮守・久富稲荷神社があります。ここも境内が細長く、そのため大山道からの参道がおよそ250メートルも続き、いくつもの鳥居が奉納されています。

  

 かつて境内の森にはフクロウが棲んでいて、参拝時にフクロウの姿を見たり、声を聞いたりすると、願いが叶うという噂があったことから、フクロウの像をたくさん納めた小さなお堂もあります。

 久富稲荷を過ぎると、北東方向に「水道みち」が分かれます。旧渋谷町営水道を埋設した道なので、こう呼ばれます(現在は東京都水道局が管理)。そして、約300メートル先には王冠を思わせる2基の駒沢給水塔が並んで聳えています。大正12年に当時の豊多摩郡渋谷町が国と東京府の補助金を得て建設した水道設備で、多摩川で取水した水を砧浄水場からポンプの力で高台にある給水塔まで押し上げ、そこから渋谷まで自然流下させ、町に水道水を供給したのです。

 (水道みちと駒沢給水塔)

 水道みちの分岐点の先には神道系の一派で明治時代に神田で創建され、大正8年に新町に移転してきた神習教本祠桜神宮があり(新町3‐21‐3)、まもなく田園都市線・桜新町駅です。

(桜神宮)

 桜新町駅は玉電時代、当初は新町停留場でした。この駅の南方(いまの桜新町1丁目、深沢7・8丁目)で明治45年から大正2年にかけて東京信託株式会社により高級分譲住宅が造成され、街路に桜並木がつくられたことから、のちに桜新町に改称され、現在の駅名や町名に継承されています。
 駅と分譲地を結ぶために整備された道路はのちに漫画家・長谷川町子(1920‐92)が沿道に住んだため、「サザエさん通り」と呼ばれ、旧宅は長谷川町子美術館(桜新町1‐30‐6)となっています。街のあちこちにサザエさん一家の銅像やイラストが見られます。

(桜新町駅前のサザエさん一家)

 桜新町駅をあとにさらに進みます。ここは北側が蛇崩川水系、南側が呑川水系で、大山道はその分水尾根を通っています。そして、そこを品川用水が西から東へ流れていたわけです。
 桜新町2‐17と18の間を北へ200メートルほど入ると、伊富稲荷神社があります(桜新町2‐20‐16)。新町村において、街道の南側の氏神が久富稲荷、北側の鎮守が伊富稲荷だったのでしょう。

(伊富稲荷神社)

 大山道に戻り、さらに行くと、桜新町の町はずれに近い桜新町2‐26先でカーブしながら北からくる道路があり、これが品川用水の跡です。北から流れてきた品川用水はここで大山道と出合い、街道沿いに東へ向きを変えて流れていたのです。

(北からくる道が品川用水跡)

 そして、桜新町2‐27に地蔵堂があり、安永9(1780)年建立の地蔵尊が旧新町村の西の入口を守っています。

(新町村西端の地蔵堂)

 ここから旧荏原郡用賀村です。戦国時代の永禄・元亀(1558‐73)の頃、小田原北条氏家臣の菊池帯刀武吉がこの土地に移住して開墾したのが村の起源で、その子の図書吉慶の時に飯田姓に改めたといいます。『新編武蔵風土記稿』で用賀村を開いたのは北条家臣の飯田氏であるとしながら、北条分限帳などの記録にその名が見当たらないと記しているのは、当時は菊池姓だったためと思われます。江戸時代にはこの飯田氏が村の旧家として名主を世襲し、一時は彦根藩世田谷領の代官も務めています。そして、今も用賀には飯田姓の旧家が点在しています。
 用賀村は明治22年の町村制施行による周辺の村との合併で玉川村大字用賀となり、昭和7年に東京市に編入され世田谷区玉川用賀町、さらに昭和46年に住居表示実施で町域が変更され、用賀、上用賀、玉川台などに分かれています。

(右が大山道。左が玉電跡) 

 用賀に入ってまもなく道はゆるやかに下りながら二手に分かれます。右が大山道。左の広い道路は旧玉電跡で、用賀付近は専用軌道でした。現在は地下に田園都市線が走っており、道の分岐点に通風口があり、「7K138M」となっているのは起点の渋谷からの距離でしょう。
 坂道を下っていくと、途中に石材店があり、店の前に「右 日本ばし」「左 大山」と彫られた道標が置かれています。



 そして、坂下で右から世田谷宿経由の大山道(矢倉沢往還)が合流します。

(右が新町経由、左が世田谷宿経由)

 この追分に今は新しい「大山道追分」の碑が立っていますが、かつては文政10(1827)年に建立された庚申塔があり、「右り江戸道」「左り世田ヶ谷四ッ谷道」と彫られて二子の渡しから来た旅人への道しるべとなっていました。我々がたどってきたのが右の「江戸道」です。そして、旧ルートは世田谷から北へ行き、甲州街道に出て四谷方面へ行く道として認識されていたことが分かります。
 この庚申塔兼道標はその後、交通量の増加に伴って用賀の真福寺境内に移され、現在はボロ市通り沿いの世田谷代官屋敷内にある郷土資料館に保存されています。

 

 新旧の大山道が合流して、これから用賀の町へ入っていきますが、ここでページを改めることにします。

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