《世田谷の古道》
大山道(用賀~二子の渡し)
世田谷の古道「大山道」の用賀から多摩川・二子の渡しまで慈眼寺経由、行善寺経由の二つのルートをたどります。
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大山道の旅。三軒茶屋から新旧二つの大山道を通って用賀の追分までやってきました(地図①のA地点)。ここから用賀の町となります。矢倉沢往還は江戸時代には東海道の整備で、裏街道となり、一時は寂れたそうですが、大山詣が盛んになると、再び活気が出て、用賀には旅籠や茶店ができたといいます。
(用賀追分)
ちょっとコースをはずれて追分から南へ行くと、
用賀神社があります(用賀2‐16)。創建年代不詳で、古くは神明社といいましたが、明治39年に神社は一村一社を原則とする合祀令が出され、用賀村でも村内各所の神々がここに合祀され、明治41年に用賀神社と改名されて、村全体の鎮守となっています。
(用賀神社)
なお、神社の脇の坂道は
玉川電気鉄道(玉電。のち東急玉川線。1907年開業、1969年廃止)の線路跡で、現在は東急田園都市線がこの地下を走っています。
(用賀の商店街)
コースに戻って、南北に走る用賀中町通りを越え、用賀の商店街へ入っていきます。
すぐに瑜伽山真如院
真福寺(真言宗智山派)への参道が北へ入って、その先に赤い山門が見えています。この寺は小田原北条氏の家臣で、用賀の地を与えられ開拓した飯田図書が開基と伝えられる古刹です。図書の没年は天正元(1573)年ということなので、寺の開創はそれ以前ということになります。もとは山号を実相山といいましたが、昭和21年に瑜伽山に改めています。
(真福寺)
さらに旧街道を行き、真福寺参道の次の角(用賀4‐11、地図①のB地点)に昭和初期まで火の見櫓がありました。ここは昔から三叉路で、文化10(1813)年建立の
馬頭観音が祀られ、
「左大山道」「右府中道」の道標を兼ねていました。右の「府中道」はかつて地元で「中丸道」などと呼ばれ、ここから無量寺の北側を通って西へ行き、世田谷区岡本(旧岡本村)を経て大蔵の永安寺前で筏道に接続し、喜多見・狛江を経て調布、府中へと続く古道です(地図①の
緑線)。このルートの府中から狛江にかけての区間は品川道、品川街道などと呼ばれているので、用賀まで来て大山道に入り、駒沢2丁目の道標(郷土資料館に移設展示)から右へ分かれて野沢の二本松へ出れば、あとは品川用水沿いに品川まで行けます。「品川道」「品川街道」の想定ルートの一つと考えていいのかもしれません。
なお、馬頭観音は火の見櫓撤去の際に無量寺に移され、現在は世田谷郷土資料館に保存されています(下写真)。
(世田谷郷土資料館の馬頭観音)
その
無量寺(用賀4‐20)は正式には崇鎮山観音院無量寺といい、浄土宗の寺です。開山は光運社明誉寿広和尚で文禄3(1594)年8月16日示寂ということなので、真福寺と同様に戦国末期の創建です。本尊の阿弥陀三尊像を安置した本堂に向かって左側の観音堂には十一面観音が安置されています。この観音像は天正年間(1573‐93)に品川の浜で漁師の網に掛かったものを用賀の高橋六右衛門尉直住という人が譲り受けて自宅で祀っていましたが、夢枕に立った観音様が無量寺に安置してほしいと告げたので、ここに奉安されたという話が伝わっています。
(無量寺。門前の道標を兼ねた中丸地蔵と旧所在地=地図①C地点)
また、無量寺で注目すべきは門前にいくつかある馬頭観音や石仏の中でも門に向かって左端にあるユニークな顔つきの地蔵尊です。もとは上用賀5‐7‐23(地図①のC地点)にあったもので、北向き地蔵、中丸地蔵と呼ばれていたそうです。享和2(1802)年の建立で道標を兼ね、
「右府中道 左大山道」と刻まれています。
地図①(昭和7年)
(
橙線が本村経由の用賀道)
用賀地区は昭和前期に耕地整理が行われた結果、大山道の北側で碁盤の目状に道路が整備され、この地域を通っていた古道はほとんど消えてしまいましたが、耕地整理前の地図①を見ると、火の見櫓下で大山道から分かれた府中道は無量寺の北側を回って西へ向かい、ちょうど北向き地蔵の旧所在地付近で道が分かれています。府中道は先ほど書いたようにそのまま西へ向かって岡本、大蔵方面へ通じ、左の道は南へ下って、我々がたどっている大山道とは瀬田4丁目の慈眼寺前で合流します。このルートを逆方向へ行くと用賀の本村地区を経て、現在の馬事公苑(上用賀2丁目)内を通り、松ヶ丘交番前で世田谷通り(旧登戸道)に合流して上町へ至ります。このルートは用賀開発の拠点となった本村を通っているので、我々がたどっている矢倉沢往還のさらに古いルート(旧鎌倉街道?)と考えられ、世田谷新宿ではなく、元宿に通じていたのかもしれません。用賀地区ではほとんど道が消えてしまっていますが、本村には
「旧用賀名主邸」(飯田家、上用賀3‐11)や
「本村稲荷」(上用賀3‐13)があり、いずれも「玉川の郷土を知る会」が石標を建てています。
(旧名主邸と本町稲荷)
では、旧街道に戻りましょう。世田谷ビジネススクエアの高層ビルが聳える田園都市線・用賀駅前(地下駅)で玉電跡の道路と合流して2車線道路となり、さらに行くと首都高速道路の下をくぐります。そこに
田中橋があり、
谷沢川を渡ります。昔は名前の通りに田んぼの広がる中にあった橋だったといい、大雨が降ると、たびたび氾濫して、道路が冠水していました。谷沢川はここから上流は暗渠ですが、田中橋で三面コンクリート張りで直線化された流れが日の目を見ます。味気ない姿ですが、下流部には等々力渓谷があります。
(田中橋下で谷沢川が姿を現す。上は首都高)
田中橋を過ぎると
世田谷区玉川台に入りますが、ここも旧用賀村の領域でした。
まもなく、右手に地蔵堂があります(玉川台2‐3、地図⑤F地点)。安永6(1777)年に用賀村の女念仏講中が建立したもので、
「延命地蔵」と呼ばれています。
(大山道は地蔵堂前で二手に分かれる。右が古い慈眼寺ルート)
ここで大山道は二手に分かれます。一般に経由地の寺の名をとって右が
慈眼寺ルート、左が
行善寺ルートと呼ばれています。両方の道をたどってみますが、まずは古いほうの
慈眼寺ルートから。
大山道・慈眼寺ルート
延命地蔵から右に分かれる旧道らしい道幅の大山道はまもなく
環状8号線にぶつかり、そこで分断されています。近くの信号まで迂回して環八を横断し、ルートの続きを行きます。ここから
世田谷区瀬田で、昔の
荏原郡瀬田村(明治22年の合併で
玉川村大字瀬田)です。
右手に如意山
大空閣寺(真言宗豊山派、大正元年に豊多摩郡戸塚町=今の新宿区高田馬場に創建、昭和10年当地に移転)を見て、すぐにカトリックの瀬田教会に突き当り、右に曲がると
慈眼寺前に出ます。ここに北西から合流するのが用賀本村方面からの古道で、合流点のすぐ北には
瘡守(かさもり)
稲荷神社があります。創建年代不詳ですが、江戸時代には存在し、病気平癒の御利益があるとして信仰を集めました。「瘡」の文字には皮膚病だけでなく、性病の意味もあるといい、二子玉川が遊興地として発展したこととも無縁ではないようです。
喜楽山教令院
慈眼寺(瀬田4‐10)は真言宗智山派の寺院で、徳治元(1306年)、法印定音が小堂を建てたのを起源とし、天文2(1533)年、長崎四郎左衛門が、この小堂を崖上の当地に移し、この時に寺名を慈眼寺と称しました。開基の
長崎氏は小田原北条氏の家臣で、この瀬田の地に所領を得て開発し、小田原落城後も当地に土着して、村の名主を世襲で務めています。
用賀も瀬田も元来、世田谷城主・吉良氏の領地でした。それが小田原の一存で飯田(菊池)氏や長崎氏に与えられているわけです。政略結婚によって北条傘下に入った吉良氏の世田谷支配がもはや名目的なものに過ぎなかったことが分かります。
(慈眼寺と瀬田玉川神社)
慈眼寺の南隣には
玉川神社(瀬田玉川神社)があります(瀬田4‐11)。国分寺崖線の崖上に立地する神社で、永禄年間(1558‐70)の創建と伝えられています。当初は崖下にありましたが、寛永3(1626)年に現在地に遷座したといい、古くは御嶽神社と呼ばれていました。明治41年に村内各社を合祀して玉川神社と改称されています。
慈眼寺前の笠付き庚申塔(1697年)を見て、国分寺崖線の坂(慈眼寺坂)を下っていきます。坂の途中に玉川神社の石段があります。
(慈眼寺前の笠付き庚申塔)
坂を下りきると、そこはもう多摩川の氾濫原で、
治大夫橋(次大夫橋)で
丸子川=六郷用水(次大夫堀)を渡ります。橋の名は江戸初期に幕府の命を受けて六郷用水の開削を指揮した
小泉次大夫にちなんでいますが、橋名板の文字は「治大夫橋」となっています。
(治大夫橋と六郷用水=丸子川)
橋を渡った角には石碑があり
、「右 むかし筏みち むかし大山みち」と彫られています。筏道は奥多摩方面で伐りだした木材を筏に組んで多摩川を下って六郷や羽田まで運び、材木問屋に木材を引き渡した筏乗りたちが徒歩で帰った道です。
(「右 むかし筏みち むかし大山みち」)
六郷用水以南は
世田谷区玉川で、ここも旧瀬田村の領域ですが、住宅街から商業地へと雰囲気がガラッと変わります。ここからは二子玉川の商店街で多摩川までほぼまっすぐです。今はビルが立ち並び、大変な賑わいの二子玉川ですが、昔は人家もほとんどなく、一面の田んぼが広がっていました。
瀬田出身の郷土史家・
西尾アイさん(明治44年生まれ)は著書
『けやきの里日記』の中で大正時代の瀬田村の様子を綴っています。
「そのころの瀬田は殆んどが田んぼと畑でしたが、青々とした稲穂の向こうに、白い帆かけ舟を浮かべた多摩川の流れが見えかくれし、晴れた日には富士山がくっきりと浮かんで、子供心にも自分のふるさとを美しいと感じておりました。坂を下って多摩川の岸辺に立ちますと水が澄んでおりますから、鮎やハヤなどの魚が泳いでいるのが見えました」
(昔は田んぼの中の道だった)
まもなく昭和44年に廃止された
玉川電気鉄道砧線(玉川~砧本村)の線路跡の歩道と交差します。砧線は旅客輸送と同時に多摩川の砂利輸送を目的に大正13年に開業しました。多摩川の砂利は良質で、江戸が東京へと発展していく過程で建築資材として大量に採取され、特に砧線の開通は関東大震災の翌年ということで復興のためにますます砂利の需要が高まっていたことが背景にあると思われます。しかし、川砂利の大量採取はさまざまな弊害も生み、徐々に規制が強化され、現在は多摩川では全面的に禁止されています。
(砧線跡)
その砧線と大山道との交差点に
中耕地駅がありました。今は駅跡の碑が残るのみですが、往時はのどかな田園風景の中を走っていたことが駅名からも窺えます。
さて、大山道は玉川高島屋の裏手を通り、矢倉沢往還の後身である国道246号線の新二子橋の高架下をくぐると、まもなく多摩堤通りにぶつかります。そこに「大山道」石標があります(下写真)。
(「大山道」石標と旧堤防)
多摩堤通りを横断すると、そこに多摩川の旧堤防が残り(上写真・右)、大山道は土手を斜めに乗り越えて
多摩川の河畔に出ます。ここで合流する
野川に架かる橋を渡れば、
兵庫島です。南北朝時代の1358年に新田義貞の子、義興の一行が鎌倉攻めに向かう途中、多摩川・矢口の渡し(現・大田区)で足利方の謀略により全滅。従者の由良兵庫助の遺体が上げ潮にのって漂着し、葬られたのがこの場所で、そこから兵庫島と呼ばれるようになったとの伝承があります。
(二子橋と兵庫島)
ところで、
二子の渡しですが、多摩川はたびたび氾濫を繰り返す暴れ川で、そのたびに流路が変わり、渡船場の位置も移動していました。矢倉沢往還の慈眼寺ルートがメインだった時代には兵庫島付近から船が出ていたこともあったと思われます。最後の渡し場は二子橋下流側で、川沿いに川下へ向かい、
二子橋と
田園都市線二子玉川駅のガードをくぐって進むと、「玉川の郷土を知る会」が建てた
「二子の渡し跡」の碑があります。
二子の渡しは多摩川の渇水期を中心に仮設橋を架けることもあったようですが、最終的に渡し船が廃止されたのは大正14年に二子橋が完成した時のことです。
ちなみに二子とは対岸の川崎市側にある地名で、大山道の宿場も二子から溝口にかけて開かれました。
地図②(昭和7年)
それでは瀬田の延命地蔵に戻って、今度は行善寺ルートをたどりましょう。
大山道・行善寺ルート
玉川台2-3の「延命地蔵」前で慈眼寺ルートと分かれたもうひとつの大山道はかつて玉川電気鉄道玉川線も走っていた2車線の通りを南下して、瀬田の交差点で環状8号線を越え、同時に大山道(矢倉沢往還)の後身である国道246号線と斜めに交差する形で国道から瀬田交番前で左に分かれます。
(右がR246、左が玉電跡と旧街道)
旧道の右側の緑道が玉電の線路跡で、現在は地下を後身の
東急田園都市線が走っています。やがて、道はまた2本に分かれます。線路跡の緑道と並行して直進する道はこの先で国分寺崖線を下る坂の勾配を緩和するために大正期に開かれた新しい道です。
(左が古道。右は新しい道)
この新道を行くと、まもなく玉電跡の下から田園都市線が地上に出て、二子玉川駅へ向かって坂を下っていきます。昔は玉電の小さな電車が軽やかに坂を下ったり、モーターを唸らせて苦しげに坂を上ったりしていたのでしょう。
(玉電線路跡の直下から地上に出る電車。右写真の画面左の緑が行善寺)
さて、古道は国分寺崖線上の台地を進みます。このあたりがかつて瀬田城があったと推定される場所です。瀬田城とは戦国時代に小田原北条氏の家臣で軍功により瀬田領を与えられた長崎氏が永禄年間(1558‐70)に築いた居館です。世田谷区教育委員会『世田谷の中世城塞』(1979年)ではこの行善寺ルートの通る国分寺崖線と東側の谷戸に挟まれたレモン形の台地を瀬田城が存在した場所だろうとしています(地図②参照)。
『世田谷の中世城塞』では当時は、いま辿っている行善寺ルートの延命地蔵から瀬田城までの道は存在せず、慈眼寺ルートから慈眼寺の東で分かれる道(地図②の緑線。国道の切通し開削で一部消滅)が城に通じていたと推定しています。
現在は城の痕跡はまったく残存しませんが、小田原落城で瀬田城も廃された後、長崎氏は帰農して瀬田村の名主を世襲し、瀬田2丁目のゴルフ練習場(瀬田モダンゴルフ)の玄関脇に「長崎館跡」の石標があります。地図②で「瀬田城址」の文字がある場所です。
江戸後期、長崎家の敷地内には別邸「占勝亭」が建てられました。行善寺の北側の国分寺崖線上の高台に位置し、行善寺を近景に六郷用水や多摩川を眼下に望み、遠く富士を望む絶景の地であり、多くの文人墨客が訪れています。
(関宗里『解説玉川八景』より)
さて、さらに行くと、右手に長崎氏の菩提寺である獅子山西光院
行善寺(浄土宗)があります(瀬田1‐12)。長崎氏が瀬田に移住した際、小田原にあった菩提所の道栄寺を移したもので、長崎隠岐守重高が父・重光の法号・行善をとって行善寺と名づけました。当初は崖下の低地に創建されましたが、多摩川の洪水の難を避けるため、江戸初期に高台に移転し、境内からの眺望は絶景として知られるようになり、徳川将軍も立ち寄ったといいます。
(行善寺)
江戸の侍で、江戸近郊を旅しては紀行を書き残した
村尾嘉陵も72歳だった天保2(1831)年9月3日に行善寺を訪れています。徳川御三卿の清水家に仕えていた嘉陵は清水家の第4代当主・徳川斉明(1810‐27、11代将軍・家斉の十一男)が生前に訪れ、その書院からの眺めを賞賛した行善寺のことを思い出し、わずか数えの19歳で夭逝した主君を偲んで、自分でも訪ねてみたのです。江戸城下を朝9時頃出発し、渋谷、三軒茶屋、用賀、瀬田と大山道(新町経由)を歩き、昼時には行善寺に着いているのですから、その健脚ぶりに驚かされます。
「やがて庭に行て西南の方を見さくれば、近くは平田の稲いろ付たるを見、又玉川の流、田の面につらなりて二三湾をなし、遠樹緑黛(りょくたい=青いまゆずみ)
の如く、近樹は盆玩(≒盆栽)
の如く、上にいと高きは富士の嶺はさら也、大山つづきの山々、秩父の諸山その北に連接し、折しも近山の巓(いただき)
雲を吐をみる、最佳、只惜らくは、庭の山崖に立ちのびたる槻(=ケヤキ)
か榎が三本あり、聊(いささか)
遠望をさまたぐるを覚ふ、この木なからましかばと思はる、しばしありしも、往時を感じて、何とはなしに蕭然として去」(『江戸近郊道しるべ』、平凡社東洋文庫)
嘉陵はこの後、昔の思い出に浸り、老境の孤独を噛みしめつつ、多摩川の河原をしばしさまよい、さらに奥沢の九品仏・浄真寺を回って夜8時頃帰宅しています。「今日の行程七八里(30キロ前後)成べし」とのこと。
また、嘉陵は途中、瀬田付近の農家が茹でた栗を小さな器に盛り、一皿4文の値をつけて路傍に置いた、いわば無人スタンドで、栗やそれを買った人が置いていった代金を誰も盗もうとはしないのだろうかと江戸の人とは違った田舎の人々の正直さについても書き留めています。
では、現在の行善寺境内からの眺めはどうでしょうか。本堂左手に「行善寺八景」の石標があり、裏手に回ると、眼下に二子玉川の街並みやビル群が望めます。多摩川は見えそうで見えません(たぶん)。晴れていれば富士山は見えるでしょう(訪問時は曇り空でした)。すぐ下を田園都市線の電車が走っています。
玉電を建設する際に行善寺の土地を削って用地を造成し、さらに勾配の緩い新道を通すためにさらに土地を削ったようです。
(行善寺からの眺め。昔はすべて田んぼだった)
では、行善寺をあとに進みましょう。ここから二子玉川へ向かって下っていきます。
坂の途中左手に「瀬田貝塚跡」の石標があります。この付近の縄文遺跡でハマグリやカキなどの貝殻が出土したそうです。今よりも気候が温暖だった縄文海進の時期には多摩川のこの付近まで東京湾の入り江だったのでしょう。
行善寺坂は最初は緩やかな坂ですが、途中から急坂となり、地元では
「行火坂」とも呼んだようです。坂を上っただけで体が火照って熱くなることからの命名です。
(行火坂)
その「行火坂」石標のある地点で左折して急坂を上ると福来山
法徳寺(浄土宗)です。15世紀から16世紀にかけて戦乱状態の関東において覇権をめぐる足利氏の内紛の一角をなした足利義明(古河公方・足利政氏の子。下総国を拠点に小弓公方と称す)の家臣だった白井基経・重安(法徳)父子は浪人となって瀬田に定住し、子の重安が永禄(1558)元年に法徳寺を創建しています。白井氏は長崎氏より早くから瀬田に入ったと思われますが、最終的に戦国・関東の覇者となった小田原北条氏の家臣である長崎氏が優位に立ち、白井氏が服属したということなのでしょう。帰農した白井氏も瀬田の旧家として『新編武蔵風土記稿』に記載されています。
(法徳寺と筆塚)
この法徳寺には幕末の嘉永4(1851)年に寺子屋「芝光堂」を開いて近隣の村の子どもたちの教育に尽力した
大塚貞三郎を偲んで門人たちが明治14年に建てた
「筆塚」があります(江利チエミのお墓もあります)。
(六郷用水に架かる調布橋)
行善寺坂=行火坂を下りきると、右から大正期に開かれた勾配の緩い新道が合流して、
六郷用水(丸子川)に架かる
調布橋を渡ります。ここで直進せず、左折して水路沿いに東へ進むと、すぐに水路を背にして道標があります(地図②のA地点)。安永6(1777)年に建立されたもので、バラバラになっていたものを修復しています。
「南大山道、右東目黒道、左西赤坂道」と彫られています。大山道を逆方向へ行くのが赤坂道で、六郷用水沿いに西へ行くと上野毛、等々力を経て目黒通りに接続しています。
(修復痕のある道標)
この道標前で右折して南へ下り、東急大井町線(昭和4年開業)の高架をくぐり、再開発によって出現したオフィスや住宅、ショッピングセンターなどの複合施設「二子玉川ライズ」に行き当たると右折してバスターミナルを通り抜け、多摩堤通りを越えると古道は大正期に築造された旧堤防の間を通り抜けます(地図②のB地点)。旧堤防が渡し場への道によって分断されているとすると、そのままでは多摩川の氾濫時に洪水を食い止める事ができません。そこで土手の分断部分の両側のレンガ積みの壁に溝が切ってあり、いざという時には防水板をはめ込んで閘門を閉鎖する仕組みになっています。「玉川東陸閘」と呼ばれ、すぐ西側にも「玉川西陸閘」があります。現在でも防水板は用意されているのでしょうか。
(玉川東陸閘)
陸閘を抜けると、旧堤外地ですが、住宅が並んでいます。もちろん、現在はその先に新しい土手があるわけですが、旧堤防を建設する際に川沿いの料亭などは眺望が損なわれるとして反対し、例外的に堤外地に残ったということなので、その名残かもしれません。
とにかく、大山道の旅もようやく二子の渡しに到着です。土手に登れば多摩川です。土手沿いの道を右へ行くと福祉作業所前に
「二子の渡し跡」の碑があります(地図②のC地点)。
大山道は多摩川を渡って神奈川県に入り、まだまだ続きますが、とりあえずここまでということにします。
2017年12月に大山に登頂し、大山寺や阿夫利神社に参拝した時の記録も紹介しておきます。
大山参詣の記録
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