《世田谷の古道》

大山道(赤坂見附~渋谷)

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 大山道(大山街道)とは現在の国道246号線の前身にあたる古道で、江戸から大山に通じる道ということで、この名で呼ばれました。
 相模国の大山(標高1,251.7m)は丹沢山系の南東端に位置する古くから祭祀の場となった霊山です。またの名を「雨降(あふり、あめふり)山」ともいい、これは山が相模湾からの湿った風を受けて常に雲や霧を生み、雨を降らすことに由来すると言われ、雨乞いや止雨の信仰でも知られます。山頂には平安時代の延喜式神名帳にも記載された古社で、大山祇神(オオヤマツミ)を祀る阿夫利神社が鎮座し、さらに奈良・東大寺の開山(初代住職)として知られる良弁僧正(相模国出身説あり)が天平勝宝7(755)年に入山して不動明王を本尊とする雨降山大山寺を創建。その後、神仏習合して修験道の霊場となり、山頂に祀られたご神体の霊石にちなみ、「石尊大権現」と称されるようになりました。

 
(世田谷区内から眺める大山と富士山)

 戦国時代には修験者が武装集団化して、豊臣秀吉軍の小田原攻めでは北条氏に味方したため、徳川家康が関東に入ると修験者たちは武装を解かれ、下山を命じられます。彼らは麓に居住し宿坊を開いて門前町を形成し、「御師」(信仰の先達。明治以降は先導師と称する)となって、関東一円を巡っては大山信仰を広めます。その熱心な布教活動(同時に営業活動でもあった)により、各地に数多くの大山講が組織され、江戸に近い山岳霊場として「大山詣」が盛んになったわけです。ただし、山頂の石尊に参拝できるのは旧暦6月27日から7月17日の間に限られ、しかも女人禁制でした。それ以外の時期は中腹の不動堂(現在の阿夫利神社下社、標高700mほど)までしか許されず、そこから上は禁域とされていたのです(現在でも下社の先に登拝門があり、その前でお祓いをしてから登ります。通年開門で、もちろん女性も登れます)。

  
(阿夫利神社下社と登拝門、山頂本社)

 そのため、夏の開山の時期は特に混雑し、多くの人が霊峰をめざして大山道を歩きました。ただ、旅行といえば社寺参詣か湯治に限られていた江戸の庶民にとって、この大山詣には信仰を建前とした行楽、観光という側面もあり、雨乞い祈願のために大山の霊水を汲んで急いで村に持ち帰る場合を除けば、大山から藤沢、江ノ島に出て、鎌倉を見物して帰るというパターンが定番化していました。晴れていれば山頂から相模湾が一望でき、江ノ島もよく見えるので行ってみたくなる気持ちはよく分かります。また、富士山をご神体とする浅間神社の祭神・木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)が大山祇神の娘であることから富士山登拝後に大山に回るか、またはその逆コースをとる人々も多かったようです。いずれにせよ、同じ大山道を往復するのは少数派だったかもしれません。また、借金取りが家にやってきそうなタイミングで急に大山参りを思い立つ、なんていう人もいたようです(世田谷郷土資料館「特別展 大山道と大山信仰」)。
 とにかく、関東各地から大山へ多くの人が向かったということは、それだけ多くの「大山道」と呼ばれるルートが大山を中心に放射状に存在したということであり、我々がこれからたどる大山道もそのうちの一つに過ぎないわけですが、最大の都市・江戸と大山を結ぶルートということで、一般的に大山道といえば、まずはこのルートということになります。
 ところで、その大山道は古くは「矢倉沢往還」と呼ばれ、江戸から二子の渡しで多摩川を越え、相模国の内陸部を通り、箱根の北方に位置する足柄峠を越えて御殿場、沼津方面へ通じていました。矢倉沢往還の名称は足柄峠の中腹、矢倉沢に関所があったことに由来し、戦国時代には関東の覇者となった北条氏の本拠・小田原と江戸方面を結ぶ政治・軍事的に重要な路線となりました。それが江戸時代に入って箱根路経由の東海道が整備されたことで脇往還の位置づけとなり、一時は寂れたといいます。往還沿いの世田谷新宿で始まった現在のボロ市の起源である楽市が北条時代には毎月6回開催だったのが、江戸時代には年に一度になってしまったのが象徴的です。これは城下町の地位を失った世田谷が江戸時代には純農村に戻ったせいでもあります。しかしながら、江戸中期以降、街道は江戸への農産物や物資の輸送路、そして大山への参詣道として再び活気を取り戻したわけです。
 ここではその矢倉沢往還=大山道を江戸城下から二子の渡しまで辿ってみましょう。「世田谷の古道」として大山道を取り上げるわけですが、やはり起点から始めることにします。

 大山道の起点は江戸城の赤坂御門(赤坂見附)でしたが、国道246号線の起点である三宅坂交差点(千代田区)からスタートします。皇居(旧江戸城)の半蔵門前から内壕(桜田壕)に沿って内堀通り(国道20号線)が桜田門方面へ下る坂が三宅坂で、その途中の交差点から西へ向かうのが国道246号線(青山通り)です。大正9年に最初の道路法が施行された時は国道には指定されませんでしたが、当時の東京府道1号・東京厚木線でした。

 
(桜田濠と三宅坂交差点)

 青山通りの北側は最高裁判所(千代田区隼町)、南側は国会図書館(千代田区永田町)です。最高裁判所の敷地は三河国田原藩・三宅家の上屋敷で、田原藩士で画家として知られる一方、開国論者で幕府の弾圧を受け(蛮社の獄)、切腹した渡辺崋山(1793‐1841)はここの藩邸内の長屋で生まれています。交差点角の小公園に「渡辺崋山誕生地」の説明板があります。

(ここからR246・青山通り)

 さて、お濠をあとに「厚木51㎞ 渋谷5㎞」の方面標識を見ながら坂を上っていくと、右手に赤坂見附跡です。江戸城の外濠に位置する城門で、番所があり、敵をいち早く発見するための門であるので「見附」と呼ばれ、枡形門の形式でした。 枡形門とは防備のための二重の門です。城外からの敵勢が大挙して侵入できないように小さく造られた最初の門(高麗門といいます)をくぐると、石垣に囲まれた方形の空き地があり、通常は右側に第二の門があります。このため城内に攻め入ろうとする敵兵は直進できないようになっています。そして、待ち受ける第二の門は巨大な渡櫓(わたりやぐら)という形式で、門の上部に櫓があり、ここから弓や鉄砲で敵を狙い撃ちして殲滅するのです。しかも、渡櫓が枡形の右側にあることで、敵兵は右利きの場合、身を晒さなければ弓や鉄砲を放つことができず、さらに外部からは枡形の中が見えにくいため、敵の後続部隊からは門内で何が起きているか分からないように工夫されています。江戸城の外濠、内濠に設置された合計三十六の門のほとんどが枡形門で、現在も桜田門、大手門(戦後再建)、清水門、田安門などそのままの形で残っています。

 赤坂御門は寛永13(1636)年に筑前福岡藩主・黒田忠之によって枡形の石垣が築かれ、同16(1639)年に御門普請奉行の加藤正直、小川安則によって門が完成しました。この門の内側は江戸城内なので、往時には街道は存在せず、幕府直属の武士たちの屋敷が並んでいました。明治の初期に赤坂御門が撤去され、それ以降に三宅坂からまっすぐ道ができたわけです。その後の道路拡幅で石垣も大部分が撤去され、現在の赤坂見附跡は石垣の一部が残るのみですが、「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。また、石垣を構成する石には黒田家の印である「裏銭紋」を刻んだものがいくつも見つかります。

 
(赤坂見附跡。右写真は明治初期で、渡櫓がすでに撤去されている)

 
(弁慶濠に面した赤坂御門の石垣と黒田家の家紋)

 さて、赤坂御門をあとに大山道を行きましょう。外堀通りと交わる赤坂見附交差点に向かって下り坂で、「富士見坂」の名がありました。昔はここから富士山が望まれたわけです。恐らく大山の姿も見えていたと思われます。
 坂の両側にかつては外濠の水面が広がっていましたが、現在は右手(北側)の弁慶濠だけが往時の姿を留めており、南側の「溜池」は埋め立てられ、現存しません。弁慶濠の水が排水口から溜池方面の暗渠水路へ流れ落ちているのを見ることができます。
 現在、弁慶濠には弁慶橋が架かり、濠の内側に道が通じていますが、江戸時代には橋はありませんでした。この弁慶とは大工の棟梁・弁慶小左衛門のことで、江戸後期・文政年間の記録によれば、弁慶小左衛門がこの壕を造成したため弁慶濠の名がついたということです(港区『文政の町のようす江戸町方書上(四)赤坂編』)。また、弁慶橋ももとは彼が神田付近を流れていた藍染川に架けた橋だといい、これが明治18(1885)年頃に川の埋め立てにより廃橋となり、その廃材を利用して明治22年に赤坂見附に橋が架けられ、弁慶橋の名が継承されました。現在の弁慶橋は昭和60年に改築されたものです。

 
(弁慶濠・弁慶橋と橋から見た赤坂見附の石垣。首都高が赤坂見附の下のトンネルに潜り込んでいる)

 弁慶濠の内側が千代田区紀尾井町で、紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があったことが町名の由来です。弁慶橋を渡った右側にあった赤坂プリンスホテル(グランドプリンスホテル赤坂)の跡地に完成した東京ガーデンテラス紀尾井町が紀伊家の屋敷跡で、その北にある清水谷公園も紀伊家の敷地でした。明治11(1878)年5月14日に近くの紀尾井坂で大久保利通が暗殺され、その哀悼碑が公園内にあります。通りの左側のホテルニューオータニは井伊家の屋敷跡で、往時の庭園が残っています。

 ところで、赤坂御門跡は千代田区紀尾井町と永田町の間に跨って存在します。しかし、赤坂や元赤坂という町名は港区にあります。赤坂御門が築造された江戸初期には今の千代田区側に赤坂の地名があったともいいます。門を通る坂が赤坂と呼ばれていたというのであれば、すっきりしますが、確かなことは分かりません。この赤坂という地名の由来には赤土の坂を意味するという説と今の迎賓館あたりに茜の生える赤根山があり、そこから弁慶濠沿いに下る坂(紀伊国坂)を赤坂と呼んだという説などがありますが、真相は不明です。確かなことは赤坂一帯には坂が多く、したがって地形の起伏が激しく、その中の水が流れる谷地形を利用して弁慶濠、溜池が造成されたということです。

 さて、谷底にあたる赤坂見附の交差点で外堀通りを渡り、港区に入って片側4車線の青山通りを行きます。旧道が左側にあるのですが、まずは通りの右側を行き、豊川稲荷東京別院(元赤坂1‐4)に立ち寄りましょう。

 
(豊川稲荷東京別院)

 豊川稲荷というと神社だと思ってしまいますが、円福山豊川閣妙厳寺という曹洞宗の寺院です(本尊は千手観音)。愛知県豊川市にある妙厳寺(1441年創建)の境内に古代インドの女神(魔女)で仏教に取り込まれた吒枳尼真天(だきにしんてん)が祀られ、これが日本では神仏習合により稲荷伸と同一視されて豊川稲荷として多くの信仰を集めるようになりました。その分霊を江戸期に大岡越前守忠相の子孫が自邸内に勧請して祀っており、文政11(1828)年、江戸市民のために赤坂一ツ木の大岡邸の敷地の一部を妙厳寺が借り受け、豊川稲荷の江戸参詣所としたのが東京別院の始まりで、明治20年に現在地に移転しています(地図①の緑矢印参照)。境内には七福神なども祀られ、今も多くの参拝者が訪れています。

地図①「赤坂全図」(部分、元治2年=1865年)

(赤点線は1904年開通の青山通り新道。緑矢印は豊川稲荷の移転の前後)

 豊川稲荷をあとに青山通りを少し戻り、歩道橋を渡り、少し赤坂見附寄りに戻ると、一ツ木通りの入口があります。一ツ木はこの一帯の古い村名で、戦国時代の大永4(1524)年に当時、上杉氏がいた江戸城を攻撃して陥落させた小田原北条氏の軍勢が「一つ木原」で勝鬨をあげたという記録があるそうです(俵元昭『港区史跡散歩』、学生社、1992年)。
 道沿いには赤坂不動尊として知られる智剣山阿遮院威徳寺があります(赤坂4‐1‐10)。2016年完成のまるでオフィスビルのような本堂は味わいに欠けますが、寺伝によれば、延暦24(805)年、伝教大師・最澄が唐より帰国の際、海上で暴風雨に遭遇し、自作の不動明王像を海中に投じて祈願したことで無事帰国を果たし、その不動明王を天安2(858)年に越後出雲崎の漁師が海中より発見し祀ったことが寺の創始といいます。この寺が慶長5(1600)年に赤坂一ツ木に移転し、江戸時代には紀州徳川家の祈願寺として大いに栄え、人々の信仰を集めたということです。伝教大師御作と伝わる不動明王を本尊(秘仏)としながら天台宗ではなく真言宗智山派の寺院です。
 威徳寺からさらに南に行くと、浄土宗の平河山源照院浄土寺があります(赤坂4‐3‐5)。文亀3(1503)年に示寂の教誉聖公上人を開山として後に江戸城内となる平河町に創建され、寛永12(1635)年に現在地に移ってきました。本堂前には江戸六地蔵を鋳造した鋳物師が享保4(1719)年に造った銅造地蔵菩薩像があります(下写真)。

(浄土寺の一ツ木地蔵尊)

 さて、青山通りに戻って先ほどの歩道橋の先で左に逸れていく坂道があり、これが大山道の旧道です。「牛鳴坂」と書かれた標柱があり、「赤坂から青山に抜ける厚木通で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名づけられた。さいかち坂ともいう」と説明があります。大山道は江戸時代には厚木街道とも呼ばれました。明治初期にはこの付近の街道の幅は4間(1間は約1.8m)だったということですから、この旧道区間は当時の幅のままだと思われます。

(青山通りから左に旧道が分かれ牛鳴坂を上る)

 坂を上ると、山脇学園の敷地内に武家屋敷門があります。もとは八重洲大名小路(いまの千代田区丸の内の東京中央郵便局付近)にあった幕府老中方屋敷の表門で、幕末に当時の老中・本多美濃守忠民(三河岡崎藩)によって再建されたものと考えられ、本来は長さが120メートルほどもある長屋門でしたが、両端の長屋部分が撤去され、桁行21.8メートルに切り詰められています。しかし、「数少ない江戸城下の大名屋敷遺構のなかでも、五万石以上の諸侯または老中職に許された長屋門の形式をもつ唯一の遺構」として重要文化財に指定されています。他所に移されていましたが、平成28年に移築されました。したがって、本来はこの土地と無関係の門なのですが、江戸時代にはこの街道沿いにも武家屋敷が並んでいました。ただ、赤坂から青山にかけての一帯は戦時中に空襲でほぼ壊滅して焼け野原となったため、往時の面影はまったく残っていません。

 
(山脇学園の武家屋敷門と青山通り旧道)

 旧道を行くと、右から弾正坂が合流します。豊川稲荷と赤坂御用地の間の坂で、青山通りを突き抜けて、この旧道まで続いています。説明書きによれば「西側に吉井藩松平家の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったため名づけられた」とのこと。

 旧道はまもなく青山通りと合流します。ここまでまっすぐ来る新道は明治37(1904)年に東京都電の前身となった東京市街鉄道が三宅坂~青山四丁目間に開業した際に建設されたものと思われます。
 その新旧道の合流点に左からくる坂が薬研坂。青山通りから急激に下って、その先でまた急に上る坂で、「中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名付けられた。付近住民の名で、何右衛門坂とも呼んだ」とのことです。
 ここから青山通りの北側は東宮御所や迎賓館などがある赤坂御用地で、下部が石垣の土手の上に植栽された生け垣が延々と続きます。江戸時代には紀伊徳川家の上屋敷だった土地です。

(右手に赤坂御用地の緑が続く)

 一方、通りの左側には留学先の米国で奴隷として売られる経験もした日本の金融界の重鎮で、戦前に大蔵大臣や総理大臣を務め、軍事予算の縮減を図ったことで軍部の恨みを買って昭和11年の226事件で暗殺された高橋是清(1854‐1936)の邸宅跡があり、今は高橋是清翁記念公園となっています。

 (高橋是清翁記念公園)

 プラタナスの並木道を行き、赤坂御用地が途切れたところが外苑東通りと交わる青山一丁目交差点です。現在、北青山、南青山はありますが、青山という町名は実在しません。
 この青山という地名は江戸時代に徳川家譜代の重臣・青山家の屋敷があったことに由来します。徳川家康に幼少の頃から小姓として仕えた青山忠成が家康の江戸入府後、鷹狩りに随行し、家康が忠成に赤坂の上から西、見渡すかぎりの土地を与えたというエピソードが伝えられています。青山氏に江戸城南西の警護を任せたわけです。甲州街道沿いに広大な土地を与えられた内藤氏も同様の例といえます。甲州街道もそうですが、青山通りも尾根筋を行き、渋谷川の谷に下るまでずっと平坦な道です。

 旧高橋是清邸の向かい側あたりの現赤坂御用地内には青山通りに面して崑崗山玉窓寺がありました(地図①の「赤坂御用地」の「坂」の字の下の赤い部分)。青山忠成邸内に設けられた位牌所が起源で、忠成の娘で川口長三郎近次に嫁ぎ、慶長6(1601)年6月22日に寂した玉窓秀珍大禅定尼の菩提を弔うために創建された曹洞宗寺院です。明治12(1879)年に寺地が御所として接収されることになり、青山墓地北側の南青山2‐7‐13に移転し、現在に至っています。

(玉窓寺。本堂は近代建築)

(明治神宮外苑のイチョウ並木)

 明治時代には青山練兵場だった明治神宮外苑のイチョウ並木を右に見て、まもなく外苑前交差点です。その手前左手に青山家の菩提寺・長青山寶樹寺梅窓院(南青山2‐26)があります。青山忠成の子・幸成が寛永20(1643)年に死去した際に青山家下屋敷内に創建された浄土宗寺院で、竹林が風にそよぐ参道は風情がありますが、山門をくぐると、お寺とは思えないモダンな本堂(設計:隈研吾氏、平成16年落慶法要)に驚かされます。

 
(梅窓院。門前の掲示板に「大山街道」のステッカー)

 外苑前の交差点を過ぎて、すぐ南青山3丁目交差点があり、外苑西通りを北へ入ると、青山海蔵寺(黄檗宗、北青山2‐12‐29))があり、真っ赤な山門内に寛政7(1795)年に建立された庚申塔があります。原宿村の人々が建立したもので、元の所在地は不明とのことですが、青山に現存する庚申塔として貴重な存在です。

(海蔵寺の庚申塔)

 庚申信仰は中国の道教に起源をもつ民間信仰で、「三尸(さんし)説」に基づいています。人の体内には三尸の虫という虫がいて、これが60日に1度巡ってくる庚申(かのえさる)の日の夜、人が眠っている間に体内から抜け出して、その人の悪事を天帝に報告に行き、天帝は悪事の大小に応じてその人の寿命を縮めると考えられていました。そのため、人々は「庚申講」を地域で組織し、庚申の日に集まり、三尸の虫が出ていかないように夜通し寝ずに過ごしたわけです。これを庚申待といい、たとえば、一定の回数の庚申待を続けた場合など、何らかの記念に資金を出し合って供養塔を建てたということです。庚申信仰は貴族を中心に行われていたのが形を変えながら室町時代頃から庶民にも広まり、庚申塔は江戸時代に入ると盛んに建てられるようになりました。青面金剛像と「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を刻むのがよく見るパターンです。多くの庚申塔は村の辻など路傍に建てられ、道標を兼ねているものもよく見られます。

 さて、外苑前から表参道交差点にかけてはかつて青山百人町と呼ばれた地域で、青山氏が江戸城警護にあたる鉄砲隊百人組を住まわせたことに由来します。ここでは毎年お盆の時期に家々が高燈籠を釣り上げる習慣がありました。
 江戸の僧侶・十方庵敬順(1762‐1832)が隠居後に各地を旅した見聞を克明に記録した『遊歴雑記』にもそのことが書かれています。
 「東武青山通百人町の組やしきには、例年六月晦日の夜より盆中、家毎にみな高燈籠を釣上て燈明を点ずる事寺院に似たり、但し、その高き事恰も空中にあるが如く、我勝に高く釣上るをよしとするが故に、仏家の高燈籠よりは三増倍高し、夜な夜な外より遥にこれを見れば、更に空にきらめく星に似たり、依て青山百人(町)の星燈籠と異名す、又一興なり」と記し、将軍徳川吉宗(有徳尊君)がこの星燈籠を目に留めて賞賛し、与力に銀弐枚、同心百人に銀三枚を与えたという逸話も紹介しています。また、この一文で当時から「青山通」の呼称があったことも分かります。
 また、歌川広重(二代目)『諸国名所百景』(1861年)の中で「東都青山百人町星燈篭」を描いており、当時の街道の様子も分かります。

(二代広重「東都青山百人町星燈篭」)

 今はおしゃれな店が並ぶ旧百人町を行くと、表参道交差点手前の北側に浄土宗の南命山善光寺(北青山3‐5)があります。信州善光寺の別院で、慶長6(1601)年に谷中に創建され、その後、火災で焼失し、宝永2(1705)年、青山百人町に移転しました。
 境内には長崎のシーボルト門下で医学や蘭学を学んだ高野長英(1804‐50)の顕彰碑があります。高野長英は開国論の立場から幕政を批判し、天保10(1839)年、幕府による弾圧、蛮社の獄によって逮捕、投獄されますが、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。各地を転々としながら逃亡生活を送ります。この際、硝酸で顔を焼いて人相を変えていたといいます。しかし、嘉永3(1850)年、青山百人町の隠れ家を町奉行所に見つかり、自害しました。明治になってその名誉が回復され、終焉の地に近い善光寺に顕彰碑が建立されたわけです。潜伏先は現在の青山スパイラル(南青山5‐6‐23)で、その前に「高野長英先生隠れ家の碑」があります。

 
(青山善光寺と境内にある高野長英顕彰碑))


(『新撰東京名所図会』より「青山通りの圖」 山本松谷画、明治36年)

 表参道の交差点までやってきました。ケヤキ並木が続き、高級ブランド店などが並ぶこの通りは言うまでもなく、大正9(1920)年に創建された明治神宮の参道で、青山通りから神宮前までおよそ1.1キロの長さがあります。

(表参道)

 このあたりは古道歩きという感じはまるでしないのですが、交差点の北東角に善光寺と接するように秋葉神社があります。善光寺の境内に文政10(1827)年に鎮守として創建され、明治の神仏分離で敷地が分離されました。祭神は稲荷大神・秋葉大神・御嶽大神の三神で、『江戸名所図会』には善光寺境内に「三社宮」として描かれています。境内にはなぜか創建の年より古い寛政2(1790)年の狛犬があります。
 現在、秋葉神社はこの後訪れる渋谷金王八幡宮の境外末社となっています。

(秋葉神社)

 さらに青山通りを進むと、まもなく港区から渋谷区に入り、左は青山学院、右には国連大学や旧こどもの城(2015年閉館)があります。青山学院の敷地は昔の伊予西条藩松平家(紀伊徳川家の一族)の上屋敷であり、国連大学一帯には山城淀藩稲葉家下屋敷がありました。この稲葉家屋敷跡は明治初期には北海道開拓使の農業試験場(2号官園)となり、のちに東京市電~都電の車庫と運転士の教習コースが置かれます。昭和43年の都電廃止後は東京都職員共済組合青山病院となりましたが、その敷地内には池があり、2008年に閉鎖解体された病院跡地(現在は住宅展示場)にも池が健在です。大名屋敷時代から庭園に存在した池で、琵琶池と呼ばれていました。

 
(青山学院のイチョウ並木と国連大学)

 淀藩主として明治維新を迎えた稲葉家の初代・稲葉正成(1571‐1628)は豊臣秀吉に仕えた後、小早川秀秋の家老となった人物で、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に味方するように諫言し、有名な小早川の寝返りに繋がったといいます。正成は後に家康に召し抱えられますが、この正成の妻だったのが、家康の嫡孫・竹千代(のちの3代将軍・家光)の乳母となった春日局(1579‐1643)です。そのため、春日局の子・正勝は家光に仕え、正勝から3代にわたって小田原城主(1632~85)となり、幕府で老中を務めるるなど、稲葉家は幕閣として重用されました。この下屋敷の土地は明暦3(1657)年の大火の後、正勝の子・稲葉正則に与えられたもので、明治維新まで200年以上続きました。
 また、屋敷内の庭園にあった茶室は現在、横浜三渓園に保存され、「聴秋閣」と呼ばれていますが、家光が京都二条城に建てたものを春日局が下賜され、青山の下屋敷に移築したと伝えられています。また、この建物はもとは室町時代に大和・三笠山の麓に建てられた三層の高閣で、豊臣秀吉が伏見城に移築し、その後、最下層を撤して二層にして京都二条城に再建されたという説もあります(北青山遺跡調査会『北青山遺跡(山城国淀藩稲葉家下屋敷跡)発掘調査報告書』1997年)。

 
(明治初期の茶室の写真=北海道大学附属図書館所蔵と現在の三渓園・聴秋閣)

(元稲葉家屋敷の琵琶池)

 さて、青山学院の西側の道はかつての鎌倉街道だと言われています。青山通りに突き当り、そこで途切れていますが、江戸時代にはすでにここから北は道が消えていました。古道は鎌倉街道の宿場があったといわれる原宿を通り、千駄ヶ谷の鳩森八幡方面へ北上していたようです。

 ここで少し寄り道になりますが、その青山学院西側の旧鎌倉道を南へ行きましょう。六本木通りを越えて坂を下ると、右手に金王八幡宮があります。ここには渋谷氏の居館、いわゆる渋谷城があったといい、それが渋谷の地名の由来にもなっています(注)。実際、八幡宮は東側を鎌倉街道(現・八幡通り)、北側を矢倉沢往還(大山道)が通る要衝に位置し、西から南を渋谷川が流れ、東には黒鍬谷と呼ばれた谷地がある要害の地であり、いくつかの湧水もあり、城館を築くのに相応しい土地でした。城址と渋谷川の間には古来、堀之内という地名がありました。

 (注)渋谷の地名の由来として、ほかに昔、入江があり、「塩谷の里」と呼ばれており、「しおや」が「しぶや」に変わったとする説、また渋谷川の水が鉄分を多く含み、赤錆のような「しぶ色」だったため「渋谷」と呼ばれたとする説などもあるようです。

 渋谷一帯は古くは武蔵国豊島郡谷盛庄(やもりのしょう)と呼ばれていました。桓武平氏のうち秩父氏の流れをくむ武蔵の豪族・河崎土佐守基家が後三年の役(1083‐87)において源義家の軍勢に加わり、その軍功により谷盛庄を賜り、寛治6(1092)年に八幡神を勧請したのが、金王八幡宮の創建と伝えられます。河崎氏は相模国高座郡渋谷庄(小田急江ノ島線に高座渋谷駅あり)にも領地を得て、渋谷氏と名乗るようになり、その一族が谷盛庄にも居館を構えたので、渋谷の地名が生まれ、八幡宮は渋谷八幡宮と称したといいます。

(渋谷・金王八幡宮)

 平安末期の永治元(1141)年、この渋谷の地で生まれた渋谷金王丸は源義朝(源頼朝の父)に従い、17歳で保元の乱(1156年)に出陣して活躍し、続く平治の乱(1159年)で敗れた義朝が東国へ敗走中に尾張で長田忠致に謀殺されると、金王丸は出家して、義朝の霊を弔ったといいます。この金王丸の名声に因んで渋谷八幡宮は金王八幡宮と呼ばれるようになったということです。神社では、源頼朝に命じられて源義経の館に討ち入り、逆に斬られた土佐坊昌俊を金王丸の出家後の名前であるとして同一視していますが、同一人物であるという証拠はないようです。八幡宮の境内には金王丸御影堂があり、金王丸が出陣の際に自分の姿を刻み、母に形見として遺したという木像が安置されています。また、社殿脇には一枝に一重八重の花がまじって咲く珍しい「金王桜」(渋谷区天然記念物)があり、江戸時代から名木として知られ、多くの人が花見に訪れています。これは長州緋桜という種類で、源頼朝が父・義朝に仕えた金王丸の忠節を偲び、鎌倉亀ヶ谷の屋敷から移植させたものと伝えられています。現在の桜は実生により代を重ねてきたものです。


(『江戸名所図会』より「金王八幡社」)

 現在の八幡宮の社殿は3代将軍・徳川家光の乳母・春日局と守役の青山忠俊(忠成の子)が寄進したものです。2代将軍・徳川秀忠が嫡子の竹千代(後の家光)よりも弟の国松を寵愛し、国松が次の将軍になるのではないかという風聞が流れたため、春日局と青山忠俊が八幡宮に祈願し、願いが叶って家光が将軍に就任した際に神様への御礼として新たな社殿を造営したわけです。春日局はこの時、大山にも参詣して不動尊に祈願し、その後もたびたび参詣し、また家光も大山寺を手厚く保護しています。

 とにかく、春日局と青山氏寄進の社殿はその後も修理を重ねているものの、江戸初期の建築様式を留める渋谷区最古の建築です。また、宝物庫には大江山の酒呑童子の鬼退治を描いた絵馬二枚が保存されていますが、いずれも青山百人組が延宝3(1675)年に奉納したものです。金王八幡宮は渋谷・青山の総鎮守となっており、青山氏にとっても春日局にとっても縁の深い神社だったわけです。

 ところで、渋谷城は戦国期の大永4(1524)年に北条氏綱と上杉朝興の合戦の際に、北条方の別動隊の兵火によって焼失したと言われています。ただ、渋谷氏および渋谷城については相模の渋谷との記録の混同の可能性も含め、不明の点も多いようです。

 金王八幡宮の南には道をはさんで豊栄稲荷神社があります。もとは渋谷駅付近にあり、田中稲荷(または渋谷川の対岸なので堀ノ外稲荷、川べりなので川端稲荷)と呼ばれていましたが、昭和36年に現在地に移転し、名称も改められました。境内には渋谷一帯に散在していた庚申塔13基が集められており、その中には「めくろ・こんわう道」と刻まれ道標を兼ねたものや、建立者の中に渋谷伝左衛門など渋谷姓の人物が名を連ねているものもあり、中世の渋谷氏との関連について興味を抱かせます。

 
(豊栄稲荷神社と庚申塔群)

 さらに八幡宮の北隣にはかつての別当寺である渋谷山親王院東福寺があります。創建は八幡宮と同じ寛治6年説、承安3(1173)年説などありますが、とにかく平安末期に開かれた古刹です。境内にある宝永元(1704)年の銘がある梵鐘に金王八幡の縁起など渋谷の歴史を語る文字が刻まれ、貴重な史料となっています。

 (東福寺と梵鐘)

 大山道を歩く者として、もうひとつ見逃せないのは境内にある「宇田川地蔵」です。2013年にここに移されたもので、それまでは長く渋谷区宇田川町の井の頭通り沿いにあったもので、元の所在地は渋谷駅の近くでした。これについては後でまた触れます。

(東福寺の地蔵堂。右端が宇田川地蔵尊)

 さて、青山通りに戻って、さらに西へ進むと、まもなく道は宮益坂と金王坂に分かれて下りとなります。旧道は宮益坂です。国道246号線(青山通り)は左の金王坂を下って六本木通りと合流し、渋谷駅前からは玉川通りと名を変えます。明治通りと交差して山手線のガードをくぐる手前で渋谷川を渡り、通りの左に稲荷橋があります。豊栄稲荷神社の旧所在地(当時は田中稲荷)が橋を渡った右手だったので、稲荷橋です。現在の玉川通りはまさに神社の旧境内をぶっ潰して通っているわけです。あの忠犬ハチ公が昭和10年3月8日の朝、死んでいるのが発見されたのが稲荷橋付近だったということです。
 渋谷川はここから上流が暗渠で、稲荷橋下で姿を現しますが、三面をコンクリートで固められた味気ない姿です。

 (稲荷橋と渋谷川)

 一方、我々がたどる大山道は宮益坂を下ります。宮益坂は古くは富士見坂と呼ばれていました。

(宮益坂)

 『江戸名所図会』には「富士見坂 渋谷宮益町より西に向ひて下る坂を云ふ。斜めに芙蓉の峰に対ふ故に名とす。相模街道の立場にして、茶店酒亭あり。麓の小川に架せる橋をも富士見橋と名づけたり。相州街道の中、坂の数四十八ありとなり、此の富士見坂は其の首(はじめ)なりといへり」と書かれています。「立場」とは街道の休憩所で、茶屋などがあったほか、馬や駕籠の乗り換えを行ったりもしたようです。
 江戸の地誌『御府内備考』(1829年)には「巾三間五尺五寸、登り四十間程」と記されています。坂の幅は約7メートル、長さ70メートル余りだったことになります。現在の宮益坂より狭かったのはもちろんですが、ずっと短く、そのぶん勾配がきつい難所でした。明治以降、改修により拡幅と勾配緩和が進められますが、明治40年頃までは坂に石を敷き、丸太の棒を滑り止めにしていたということです。
 通りは世田谷あたりの農村から江戸・東京へ野菜などを運ぶ荷車で早朝から賑わい、農民たちは町で汲み取った下肥を積んで帰っていくのが毎日の光景でした。そんな荷車を後ろから押し上げたり、急坂を下る車を後ろから引っ張ってブレーキ役になる人夫がいつも坂の前後にいたということですが、荷車がひっくり返る騒ぎは珍しくなく、下肥を満載した荷車が店に突っ込んだなどということもあったそうです。とにかく難所だったわけです。
 かつて渋谷村の中心集落は金王八幡周辺でしたが、富士見坂沿いにも店や人家が並ぶようになると、渋谷新町と呼ばれるようになり、元禄13(1700)年には渋谷宮益町と改称されました。そして、この町名から坂の名も宮益坂となります。この「宮益」は坂の途中に鎮座する御嶽神社にちなんだものです。お宮の御利益で栄える町ということでしょう。

(宮益御嶽神社)

 御嶽神社は元亀年間(1570‐73)に創建と伝えられる古社で、祭神は日本武尊。社殿前に珍しい日本狼の狛犬があることなど、狼を神格化した大口真神を境内に祀る武蔵御嶽神社(青梅市)との関係を想像しましたが、社伝では大和国吉野の金峯神社の分霊を祀る神社だといいます。神仏習合時代には蔵王権現を祀っていたと思われ、現在は秋葉ノ神、大国主神、菅原ノ神を合祀しています。

(当初の狛犬は延宝年間建立といわれ、現在は社務所内に保管。これは2代目)

 境内には「宮益不動尊」の額が掛かったお堂があり、不動明王を中心に勢至菩薩、庚申石像(青面金剛)のいずれも延宝9(1681)年の石像が安置されているほか、文化8(1811)年に建立された松尾芭蕉の句碑があり、「眼にかかる時やことさらさ月富士」の句が刻まれています。

(宮益不動尊)

 また、ここは「明治天皇御嶽神社御小休所阯」として昭和12年に史跡にも指定されています。明治3(1870)年4月17日、駒場野の練兵場で行われた陸軍の観兵式を天覧された時に往復とも御嶽神社で御休息と御召替をされたのです。陛下は皇居を葦毛の馬で出発し、外桜田門から赤坂の坂を越えた吉井邸(弾正坂の由来となった旧吉井藩松平家)から平坦な青山では輿に乗られ、宮益坂からは再び乗馬で駒場に行幸されています。この時、錦の御旗として日月旗を13代横綱・鬼面山谷五郎ら有名力士9名(なかには象ヶ鼻平助などという名前も)が交代で奉持し、「フランス式美少年鼓隊」が洋式太鼓をドンドン叩きながらパレードし、その後ろを群衆がゾロゾロとついて歩いたという記録が残っています(加藤一郎編著『郷土渋谷の百年百話』、昭和42年)。
 さて、この御嶽神社は戦災で焼失し、戦後は仮社殿で維持されていましたが、渋谷駅付近に商工会館用地を探していた渋谷区と神社の利害が一致し、昭和55年に神社の敷地に渋谷区商工会館が建設され、その2階屋上に御嶽神社の境内が整備され、新社殿が完成しました。そのため境内へは長い階段を上がることになりますが、もともと神社は高台の上にあったので長い石段があったのでしょう。また、毎年11月の酉の日には酉の市が開催され、宮益坂にも露店が出て、賑わいます。

 御嶽神社から宮益坂をはさんだ向かい側にはかつて別当寺の天護山妙祐寺(浄土真宗)がありました。寺伝によれば、寺の起源は一遍上人が弘安9(1286)年に創建した天護山円証寺であるといい、戦乱で廃絶していたのを寛永2(1625)年に了頓が浄土真宗の寺として宮益坂に再興したといいます。徳川吉宗が駒場野へ鷹狩りへ出かける際に休憩所となるほどの寺でしたが、昭和初期に地下鉄銀座線の建設に伴い、まず墓地が世田谷区北烏山の寺町に移り、寺そのものも戦災を受けたことで戦後の昭和27年に完全に移転しました。

 ついでに紹介しますが、宮益坂上から北へ行く美竹通り(御嶽神社に由来する名称)を行くと、右手に現在建て替え中の渋谷区役所の仮庁舎(渋谷1‐18、美竹の丘)があり、その敷地内に庚申塔があります。ここは渋谷小学校の跡地で、学校時代は自由に見学できませんでしたが、今なら見ることができます。庚申の年だった延宝8(1680)年建立で、三猿ではなく「見ざる、言わざる」の二猿が刻まれているのが珍しいです。

(美竹の丘=旧渋谷小学校観察園の庚申塔)

 さて、大山道に戻って、宮益坂を下ると、渋谷駅前です。ちなみに東京市電が宮益坂を下って渋谷駅まで開通したのは明治44年のことでした。
 もともとは宮益坂の下は渋谷川の谷で、水田が広がるのどかな田園風景が広がっていました。館林出身の田山花袋(1872-1930)は明治15(1882)年、幼くして東京に丁稚奉公に出された頃の渋谷の思い出を次のように書いています。

「宮益の坂を下りると、あたりが何処となく田舎々々して来て、藁葺の家があったり、小川があったり、橋があったり、水車がそこにめぐってゐたりした。私はそこを歩くと、故郷にでも帰って行ったやうな気がして、何となく母親や祖父母のゐる田舎の藁葺が思ひ出された。小さい私は涙を拭き拭き歩いた」(『東京の三十年』)

 当時は宮益坂を下った一筋の細道が田んぼの広がる中を突っ切り、清らかな川を渡り、対岸の丘の雑木林の中を上っていく道玄坂に通じる、ただそれだけの田舎だったのでしょう。ここが江戸・東京の市街地のはずれで、郊外の農村地帯との境界でした。
 渋谷川ではコイやフナ、ウナギ、ナマズなどがとれ、カワセミやカワウソもいたといいます。夏の夜にはホタルが飛び交う清流でした。
 その渋谷川に架かる橋が宮益橋で、古くは富士見橋とも呼ばれていました。明治初期には長さ5間(9m)、幅2間(3.6m)だったといいます。
 現在、渋谷駅から上流の渋谷川は暗渠化され、駅付近では駐輪場になっています。昔日の面影はもうどこにもありません。渋谷の激変ぶりを「発展」と呼ぶのであれば、発展とはそれまでになかった何かを手に入れることであり、同時に得たものに見合う分だけ、それまでにあった何かを失うことでもあるわけです。

 
(渋谷駅付近と渋谷川跡の駐輪場)

 宮益橋跡を過ぎると、JR山手線のガードをくぐります。ここに鉄道が開通したのは明治18(1885)年3月1日のことです。日本鉄道という私鉄(明治39年に国有化)の支線で、品川で東海道線から分岐して、渋谷・新宿を経て、赤羽に通じる、現在の埼京線のルートでした。当初案では大崎から目黒川沿いの低地を北上するはずでしたが、農民たちの猛烈な反対運動があり、やむをえず起伏の激しい現行ルートで建設されたのです。もし、当初の計画通り、今より西の地域を山手線が走っていたら、東京の地図もずいぶん違ったものになっていたかもしれません。
 また開業当時、線路は単線で、品川~赤羽間には渋谷、新宿、板橋の3駅しかなく、同月16日に目黒駅と目白駅が開設されましたが、池袋駅は明治35(1902)年まで存在しませんでした。そして、渋谷駅も現在の位置より300メートルほど南方にあり、線路の東側に木造平屋の駅舎がありました。列車は蒸気機関車が引く客車2両(一・二等車と三等車)で、新橋~赤羽間をわずか1日3往復でした(すぐに4往復に増便)。運賃が高かったこともあり、利用者は少なく、渋谷駅の開業初年度の乗降客は1日平均30数人というありさまでした(新宿駅はその倍くらい)。絵に描いたような田舎の駅だったのでしょう。
 現在の山手線の渋谷付近は築堤と高架になっていますが、当初は地上を走っていたので、大山道は踏切で線路と交差していました。
 なお、二子玉川と渋谷を結ぶ玉川電気鉄道が渋谷に乗り入れたのが明治40年、東京市電が渋谷まで開通したのが明治44年で、渋谷駅は大正9年に現在地に移転し、この時、高架化されています。

 山手線ガードをくぐれば、今や世界的に有名になった渋谷駅前のスクランブル交差点です。この北側をかつて西から東へ渋谷川の支流・宇田川が流れていて、宮前橋の上手で渋谷川に合流していました。
 今の交差点付近で大山道から分かれ、宇田川を渡って北へ行く道があり(地図②参照)、その橋の袂に地蔵尊がありました。それが金王八幡宮に隣接する東福寺境内にあった「宇田川地蔵」です。 元禄元(1688)年の建立で、渋谷の市街地化に伴い、明治40年頃、宇田川町の高台(現在の西武百貨店B館裏手)に移動し、さらに昭和38年に井の頭通り沿いの宇田川町10‐2に移されました。東福寺には平成25年に移ってきました。尊像は空襲で被災し、ひどく損傷したため、昭和37年に新たな尊像が造られ、一緒に安置されています。

(元禄時代に建立された宇田川地蔵)

 宇田川橋のたもとにあった往時は大山道を行き交う人々を見守っていたと思われますが、そばには枝ぶりのよい松の木が聳えていたといいます(藤田佳世『大正・渋谷道玄坂』)。
 この松には一時期、「人喰松」という物騒な名前がありました。『大正・渋谷道玄坂』によれば、明治30年頃にこの松の木のそばにあった家で疫病にかかって3人が一度に亡くなったり、やはり傍らにあった家で障害のある子どもが生まれたりで、松の木の祟りだ、地蔵の罰だ、などといって心ない人がそのように呼び始めたのだそうです。そして、昭和5年に道路の拡張のため、松の木の移転計画が持ち上がると、計画の関係者に病人、けが人が続出し、祟り話を誰もが無視できなくなったのです。当時、新聞(『時事新報』昭和5年11月6日夕刊)でも報じられました。
 そこで町の関係者はこの松に「道玄坂出世大黒松」という名前を付けて、同年12月6日に移転先の神宮通り1丁目14番地に移植したということです。この松を掘り起こした時、白蛇が眠っているのを見たという人物がいて、その言葉を信じて、「出世弁財天」という名を奉って、松の左側に祠も建てられ、「情徳大龍神」
と刻んだ石碑もあったといいます。
 その後、昭和20年5月の空襲で松は焼けて枯死し、祠と石碑も破壊されてしまいます。そして、地主の都合で山手線の原宿寄りの線路際に移され、国鉄管理用地で人が近づけないことから、長い年月、草に埋もれたままになっていました。それを昭和50年に渋谷郷土研究会が発見し、北谷稲荷神社(渋谷区神南1‐4‐1)の境内に遷座し、現在に至っています。

(モダン建築の北谷稲荷境内に祀られた宇田川出世弁財天)

地図②(明治42年)


 さて、大山道の赤坂御門から渋谷までの区間は旧街道の面影などほとんど残っていない(と思っていた)青山通りなので、簡単に済ませるつもりでしたが、予想外に長くなってしまいました。なので、渋谷駅前まで来たところで、ページを改めることにしますが、最後に江戸後期の『江戸名所図会』の中から当時の渋谷の風景が描かれた「富士見坂一本松」図を紹介します。



 「富士見坂一本松」という主題から判断すれば、手前の旅人が渡っている橋が富士見坂=宮益坂を下った地点にある渋谷川を渡る富士見橋=宮益橋であり、その先の松の木の根元にある地蔵尊は宇田川地蔵かな、と思ってしまいます。しかしながら、画面左上の人家が並ぶ坂道に「ふじみ坂」の文字があり、坂下にある橋にも「ふじみ橋」と記されているのです。そして、低地を横切って、再び登る坂には「道玄坂」としっかり書かれているので、あのあたりが現在渋谷駅のある場所であることは確かです。富士見坂から道玄坂にかけての俯瞰的な風景と、その途中の宇田川地蔵付近の松のクローズアップを合成した画面構成なのか、とも考えましたが、道はずっと続いているように描かれています。とすれば、この松と地蔵はどこなのか。
 道玄坂の坂上で大山道から右へ分かれて駒場方面に続く古道「滝坂道」があります(地図②参照)。この道は渋谷区から目黒区に入った地点で目黒川の支流・空川を遠江橋で渡り、その南側に石地蔵と庚申塔があり、「一本松」と称する老松がありました(地蔵と庚申塔は再建で現存。松は現存せず)。これなら位置関係も適切に思えます。ただ、前後の坂には松見坂とか駒場坂という名称が伝わっていて、富士見坂の別名があったのかどうかは不明です。あるいは、画題は富士見坂(宮益坂)から一本松にかけての風景という意味なのかもしれません。いずれにせよ、この美しい田園風景が今から200年ほど前の渋谷付近を描いたものであることは間違いありません。

 では、次回は渋谷駅のハチ公前から始めて、道玄坂を登っていくことにします。

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