《世田谷の古道を行く》
 
滝坂道
(前編:渋谷・道玄坂~世田谷・豪徳寺)


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   「滝坂道」とは

 「滝坂道」は渋谷の道玄坂で大山街道(矢倉沢往還=現在の国道246号線)から分かれ、目黒区北部を横切り、世田谷区内を横断して、調布市の東つつじヶ丘1丁目で甲州街道(現在の国道20号線)に接続する道筋です。
 日本で最初の道路法が施行された大正9年には全区間が当時の東京府道(23号線)に指定されますが、それ以前、江戸時代には「甲州道中出道」と称され、甲州街道(甲州道中)とは「滝坂」で合流するため「滝坂道」とも呼ばれたわけです。また江戸方面へ向かう者にとっては青山に通じるという意味で「青山道」「青山街道」との呼称もありました。
 また、このルートのうち東側の道玄坂~世田谷区船橋付近の区間は徳川幕府が慶長7(1602)年に甲州街道を整備する以前から江戸方面と武蔵国府のあった府中方面を結んでいた中世以前からの古道の一部だったとされる道筋でもあります。
 今は平凡な町なかの道ですが、沿道には往時の歴史を物語る文化財、遺産も多く残っていて、歩いてみると、なかなか味わい深いものがあります。さっそく渋谷の道玄坂から辿ってみることにしましょう。サイクリングでも楽しめますし、その気になれば1日で全区間を歩くこともできますが、とりあえず2部構成ということにして、前編は世田谷城址・豪徳寺あたりまで行くことにしましょう。


     道玄坂

 滝坂道は渋谷の道玄坂上から始まります。渋谷の街は名前の通り、渋谷川の谷を中心に広がっており、谷の西側の坂が道玄坂です。
 道玄坂の名前の由来については、坂の周囲にもいくつかの説明書きがありますが、それぞれ微妙に異なっていて、はっきりしません。大雑把に言えば、大和田太郎道玄(鎌倉幕府の有力御家人で、北条氏に滅ぼされた和田義盛の残党の子孫?)という人物が山賊としてこのあたりを荒していたとか、道玄寺という寺院または道玄庵という仏庵が坂の傍らにあったという伝承に基づくようです。
 とにかく、渋谷駅前から賑やかな道玄坂を上って行くと、左側の渋谷マークシティ道玄坂口そばに、このあたりに住んでいた与謝野晶子の歌碑、坂の名の由来を記した石碑(「うめぼし博士」こと故・樋口清之元國學院大學名誉教授による)、「道玄坂道供養碑」があり、桜の木が植えられています(右写真)。

 それら3つの石碑から道を挟んだ向かい側、道玄坂上交番の脇から滝坂道は始まります。江戸時代にはこのあたりはもう郊外の人家も少ない山野だったようです。頭の中で周囲のビルをすべて消し去り、足元のコンクリートもすべて引きはがして、現代都市の下に埋もれた自然の地形や風景を思い浮かべながら、追剥ぎが出るかもしれない細道にタイムスリップしましょう!

(交番前で右へ分かれていくのが滝坂道)

(2017年11月追記)
 この大山道と滝坂道の分岐点に平成28年、渋谷区教育委員会により「滝坂道」の標柱が立てられました。説明文には「滝坂道(甲州街道出道)は、かつての大山道が道玄坂から分岐をし、武蔵国府のあった府中に向かっていた古道で、その起源は江戸幕府が開府する前からと考えられています。滝坂道は、目黒区北部を通り、世田谷区を横断して、調布市で甲州街道と合流します。名称の由来は、甲州街道の滝坂で合流することから滝坂道と呼ばれたようです。現在は、裏渋谷通りの愛称で親しまれています」とあります。

(「滝坂道」の標柱)

地図①(明治13年)

(明治初期には渋谷川が流れる現在の渋谷駅付近は田んぼだったことが分かる)

 ところで、道玄坂上の矢倉沢往還(大山街道)と滝坂道の追分にはかつて豊沢地蔵と呼ばれる地蔵尊が立っていました。宝永3(1706)年に建立されたこの地蔵はその後、滝坂道から右に入った円山町6番地の料亭「三長」の角に移され、「道玄坂地蔵」として現存しています。ただし、もとの尊像は二度の火災で焼け崩れ、現在の像の内部に納められています。

(道玄坂地蔵尊。滝坂道から横道に入った円山町6にある)

 さて、道玄坂上から始まる滝坂道は円山町の地名通りの小高い地形をさらに上ると、今度は急激な下り坂で神泉町の谷へ。まさに谷底の町を行きます。急坂あり、階段あり、崖ありで東京の地形の面白さを実感できる区間です。

 神泉の地名は昔、不老長寿の薬を煉るのに用いる霊泉が湧き出していたという伝承に由来します。地形的にも湧水が存在したのは確実で、水は渋谷川の支流・宇田川に通じていたようです。
 京王井の頭線(昭和8年開業)・神泉駅への道を右に入ると突き当たりには弘法大師像を刻んだ石柱があり、正面に「弘法大師・右神泉湯道」と彫られています。明治19(1886)年に建てられたものです。古くからの霊泉がいつしか弘法大師・空海が開いたものという伝説を生み、明治時代になると「弘法湯」という浴場ができ、その道案内です。
 滝坂道をこのまま行くと、あとで立ち寄りますが、「淡島様のお灸」で有名になった森厳寺があり、江戸市中からお灸を目的に多くの人々が滝坂道を往来しました。そして、明治期になると淡島様の帰りに神泉の弘法湯で一浴するという習慣が生まれ、この道標が建立されたわけです。円山町から神泉町にかけて花街が発展したのもその影響と思われます。ただ、弘法湯は今はもう存在しないようです。

 ちなみに明治・大正期の文筆家・大町桂月が明治39年に弘法湯を訪れていて、『東京遊行記』に次のように書いています。
「澁谷驛の前を過ぎ、道玄坂を上りて、弘法湯に浴す。澁谷の弘法湯とて、有名也。されど、尋常一様の風呂屋也。弘法大師は何も關係なし、唯、家の間に大師を祀れるのみ也」

(「神泉湯道」道標)

地図②(明治42年) 渋谷に鉄道が通り、街が発展した様子が分かる。

(神泉谷付近に「弘法湯」の文字がある)

 さて、神泉の谷から再び急坂を上ると、旧山手通りを横断し、さらに上った地点が玉川上水の分水路だった三田用水の跡です。ただし、今は用水は埋め立てられて、ここだけ見ても用水跡とはほとんど気がつきません。ここは渋谷区と目黒区の境界になっていて、昔は武蔵国の豊島郡と荏原郡の境でした。この先は目黒区青葉台4丁目となります。


(旧山手通りを越えて直進。赤信号の先の人がいるあたりが渋谷・目黒区境=三田用水跡)


     松見坂から駒場野へ

 再び急激に下ると、山手通りに出ますが、その手前の左側に文化9(1812)年に建てられた「石橋供養塔」が残っています。昔の人々は石橋にも霊魂が宿っていると考え、つねに人々に踏まれながら両岸の交通を支えている石橋の供養を行い、安全を願ったのです。元々は三田用水にかかる橋のそばに立っていたようです。

 滝坂道はここで山手通りの下にいったん隠れ、左折してすぐの松見坂交差点で右折して淡島通りに入ります。山手通りができる以前はもっとスムーズに繋がっていたはずです。スムーズといっても、それは平面図上の話であって、道玄坂からここまでは大変起伏が激しく、昔は荷車の通行は難儀をきわめ、この坂を行き交う人々は互いに手助けし合いながら難所を越えていたようです。それは江戸後期の『江戸名所図会』に描かれた坂上から見晴らした駒場野の風景を見ても想像ができます(下図)。



 松見坂交差点の南西角には昭和58年に東京都が設置した石碑があり、松見坂の説明があります。道玄坂の由来ともなった山賊・道玄が物見に使っていた松の木がこの坂から見えたことにちなむようです。もちろん、その松の木は現存せず、どこに生えていたのかも諸説あるようですが、恐らく大山街道沿いにあったのでしょう。


(松見坂。緑地帯のある道が淡島通り=滝坂道)

 さて、交差点のすぐ西側に空川の跡が残っています。駒場野公園の湧水池や東大駒場キャンパスの一二郎池などを水源として目黒川に注ぐ小さな川で、ここに架かっていたのが遠江橋。今は川も暗渠化され、橋もありませんが、交差点の南西側に明治32(1899)年に架けられた橋の親柱が保存されています。
 そして、その横には松見坂地蔵尊があります。2体の地蔵と三猿を刻んだ庚申塔が1基、並んでいますが、いずれも新しいものなので、復元されたものだと分かります。ただ、明治の親柱と一緒に「享保十一年」(1726年)と刻まれた手洗鉢台石(らしい)が保存されているので、古くからここに地蔵尊が祀られていたのでしょう。「商賣繁昌・家内安全・延命長寿・万病快癒・交通安全・入学祈願」とご利益が列記されています。
 空川の谷へ下って上る急坂が盛り土によって勾配緩和された現行道路より一段低いこの場所は新道の下に埋もれた古道の名残なのでしょう。

 

 ところで、この遠江橋のそばには「一本松」と呼ばれる老松がそびえていました。これは道玄が物見に利用した松ではないといいますが、道玄の松と混同されて、この坂が松見坂と命名されたのかもしれません。
 『江戸名所図会』からもうひとつ、「富士見坂一本松」と題する絵を紹介しましょう。近景には小川に架かる橋のそばに姿のよい松の木が生え、地蔵尊や庚申塔らしきものが描かれています。遠景には渋谷の富士見坂(宮益坂)から道玄坂にかけての街道が描かれ、その道が近景の松の木のある橋へと通じているのですが、この一本松がどこなのか、解釈が分かれているようです。しかし、全体の位置関係を素直に考えれば、これはまさに滝坂道の一本松であるように思えます。タイトルは富士見坂=宮益坂から一本松にかけての風景と解すればよいのではないでしょうか。いずれにせよ、江戸後期の渋谷付近の街道風景であることは間違いありません。



 さて、淡島通りに入って、坂を上っていきましょう。道の南側は目黒区大橋2丁目、北側が駒場1丁目です。かつて駒場野と呼ばれたところで、江戸時代には広さが15万~16万坪にも及ぶ将軍家の御狩場であり、今の都立駒場高校付近に御用屋敷がありました(大橋2‐20に目黒区教育委員会による説明板あり)。
 御用屋敷は鷹狩りの際に将軍が食事や休息をとる場所で、ふだんは鳥見役人が詰め、狩り場の管理や地域住民の監視、治安維持などにあたっていました。
 もとは元甲州武田氏の家臣で江戸時代には上目黒村の名主となった加藤家が開発した土地で、寛永3(1626)年に伊予宇和島藩伊達家に献上され、伊達家の下屋敷となっていたのを享保3(1718)年に幕府が鷹狩り場整備のため下屋敷の土地と建物を接収し、御用屋敷としたものです。敷地内には将軍家のための薬草を栽培する御薬園も設けられました。
 この広大な土地は明治維新後は新政府に接収され、陸軍の関連施設が並ぶ地域となり、戦後は学校が多い都内有数の文教地区になっています。

(駒場野の面影を残す駒場野公園)

 さて、目黒川北岸の台地上の道を坦々と行くと、目黒区と世田谷区の境界手前に「駒場地蔵尊」が立っています(駒場2-17)。別名「〆切地蔵」。隣村で疫病が流行った時、村人たちはここに地蔵尊を立てて、病気が伝染しないことを祈願したことからこの名前があります。

(〆切地蔵)

 世田谷区に入ると、まるで〆切地蔵尊に対抗するかのようにまた地蔵尊がありますが、数で負けています。

(世田谷区側の地蔵尊) 


     淡島~北澤八幡と森巌寺

 さて、いよいよ世田谷区に入りました。道の北側が世田谷区代沢、南側が池尻です。池尻側はほどなく目黒川の低地へ下る急斜面となるため、坂の多い町です。地形が急峻すぎて階段になっている場所もあるほどです。
 この台地の下で北沢川烏山川が合流し、目黒川となりますが、この合流点付近はかつて湿地帯で、遠い昔には大きな池があったと推定されています。その池から水が流れ出る地点が「池尻」であるわけです。また、淡島通りの北側には池ノ上という地名もあり、京王井の頭線・池ノ上駅があります。
 国道246号線の池尻大橋以北の目黒川および支流の北沢川、烏山川は今は暗渠化され、緑道になっていますが、そこに再生水を利用したせせらぎが再現されています。

 松見坂からずっと西へ西へと伸びてきた淡島通り=滝坂道は徐々に左、つまり南寄りにカーブしながら北沢川の谷へと坂を下っていきます。北沢川から北へ入り込んだ谷戸(溝ヶ谷)の出口に位置する淡島交番の前を過ぎ、淡島郵便局の前(セブンイレブンあり)まで来ると、右に2本の道が分かれていきます。右折して真北へ上っていく道は池ノ上駅方面に通じます。セブンイレブンの脇を斜めに入っていく道は北澤八幡神社森巌寺方面です。
 そもそも淡島通りの淡島とは神泉のところで触れた森巌寺境内にある淡島堂(淡島明神)に由来する地名です。なので、滝坂道からちょっとはずれますが、寄り道してみましょう。

 
(左写真の真ん中の道が淡島様・森巌寺方面。道に沿ってケヤキが並ぶ)


 北沢川の北側の台地の裾を縫うように続くケヤキの並木道を行くと、まもなく左手に朱塗りの門が見えてきます。現在は集合住宅になってしまい、門だけが保存されているのですが、この土地の名主だった阿川家の門で、「せたがや百景」にも選ばれています。

 (阿川家の門と北澤八幡神社)

 さらに行くと、右手の台地斜面が北沢八幡宮。中世の世田谷城主・吉良氏によって創建された古社で、「世田谷七沢八八幡」(七つの沢にある八つの八幡神社)の中でも随一とされ、秋のお祭りには約30もの神輿が出るそうです。こちらも「せたがや百景」に選定されています。

 そして、江戸時代に北沢八幡の別当寺だったのが八幡山森巌寺。慶長13(1608)年に徳川家康の次男・結城秀康の位牌所として開かれた浄土宗の寺です。このお寺の境内には淡島堂という建物があります。持病の腰痛に悩んでいた開山の清誉上人が紀州・加太の淡島明神の夢告によりお灸の治療をためしたところ、たちまち快癒したため、境内に淡島明神を勧請し、淡島堂に祀ったのだそうです。上人は自ら施灸の法を会得し、以後、歴代の住職が毎月3と8の日に人々にお灸を施すようになると、「淡島様の灸」として評判を呼び、その日には遠方からも多くの人が訪れたということです。現在も門には「粟嶋様の灸」と書かれた板札が掲げられています。江戸の市民にとって滝坂道とは何よりも淡島様のお灸に通うための道だったと言えるのかもしれません。そう考えれば、この道が現在淡島通りと呼ばれているのも理解できます。
 江戸・小日向(現・文京区)廓然寺(浄土真宗、明治12年廃寺)の住職だった十方庵敬順(1762‐1832)が隠居後に各地を旅した先での見聞を詳細に記録した『遊歴雑記』に文化11(1814)年旧暦3月に森巌寺を訪れた話が書かれています。彼は治療のためではなく、巷で有名な淡島様とはどんなものか、道中の花見がてら様子を見に行ったのです。その日も大勢の老若男女が詰めかけており、番号札をもらって順番待ちをする人たちのために酒食を提供する店が門前に3、4軒並び、食事をしながら待つ人、酒を飲んで待つ人、寝て待つ老人、待ちわびて欠伸する少女など、「さながら温泉の湯治場の如し」と書いています。ちなみに十方庵の知己の中にも淡島様に通ったのが九人ほどいたようで、そのうち二人はお灸のおかげで病気が全快したものの、「七人は悉くいぼひて起居動静もなりかね、久しく床に臥、服薬して漸くに本服しける」とのことです。人によって効く効かないがあり、従って貴ぶ人もあれば謗る人もあるといい、「いろいろの人ごころも又面白し」と結んでいます。
 ちなみに十方庵は江戸の自宅から四ッ谷、青山、千駄ヶ谷、道玄坂あたりを巡った後、滝坂道を歩いて森巌寺へと向かっています。

「凡、道源坂(道玄坂)より北沢村迄弐拾余町(1町=約109m)が間、一向の俗地にして、春は花なく、夏は日影なし、もみぢの頃はいかがあるらん、眺望なく路傍打ち囲みて甚退屈せり、ふたたび遊歴する土地にあらず、江戸より凡四里もあるべし」

 十方庵にとって、ここまでの道は面白みのない退屈な道だったようです、

 ところで、森厳寺といえば、お灸とともに毎年2月8日に行われる「針供養」も有名です。裁縫で使った折れ針や古針を淡島堂に置かれた豆腐に刺し、供養した後、お堂の前の石棺に納めるそうです。
 お寺の門前に立つ古い道標には四ツ谷や青山の方角だけでなく、堀之内(厄除け祖師・妙法寺)や祐天寺・目黒不動の名も刻まれていることから、ここが江戸の寺社めぐり、名所めぐりのルートだったことも想像できます。森巌寺もまた「せたがや百景」のひとつです。

 
(森巌寺の門と淡島堂)

 (森巌寺本堂と閻魔堂の閻魔様と不動明王)


     北沢川・大石橋

 森巌寺からは下北沢の街まですぐですが、再び滝坂道に戻って、先へ進みましょう。
 まもなく梅丘通りと交わる淡島交差点ですが、旧道はその直前、池尻4-39で左に分かれ、すぐに北沢川緑道と出合います。ここにはかつて大石橋が架かっていました。今も復元されたせせらぎが流れています。

(左へ入る道が淡島通り旧道=滝坂道)

 (大石橋跡)

 地元に伝わる話では、この地点には昔は橋がなかったそうです。川幅が広く、深い流れで、水の勢いも激しかったため、ここを越すのは容易ではなかったというのです。天明年間にこの地を通りかかった藤助と名乗る行者は村人たちが難渋しているのを見て、諸国を行脚して集めた資金や地元有力者、近郷の村からの寄金によって大石橋を架ける工事を始め、村人たちも力を合わせて、ついに天明9(1789)年に橋が完成しました。橋の完成を見届け、藤助はどこかへ旅立っていき、村人たちは行者藤助への感謝と旅の無事を祈念する気持ちから「日本廻國供養之石塔」を建立したということです(『ふるさと世田谷を語る~代田・北沢・代沢・大原・羽根木』、世田谷区、1997年)。
 由緒ある大石橋と石塔はともに昭和10年頃、河川改修工事で失われてしまい、石塔は昭和11年に再建されたものの、昭和20年5月25日の空襲により焼失し、現在のものは昭和27(1952)年に再々建されたもので、大石橋の先の庚申塚(三宿3-38)に立っています。
 それにしても、1789年までここに橋がなかったというのが事実だとしたら、それ以前の滝坂道はどこを通っていたのでしょうか。森巌寺前を通り、今の茶沢通りの元になった古道を南下するルートだった可能性もありますが、ここではあえて深入りしません(地図③参照)。

地図③(明治13年)


     三宿

 大石橋を過ぎると、三宿(みしゅく)です。かつて宿場でもあったような地名ですが、世田谷区教育委員会『世田谷の地名(上)』(1984年)では、低湿地で水が溜まりやすい地形を意味する「水宿」に由来すると推測しています。しかも、昔はこの滝坂道の通っているあたりは三宿村ではなく代田村の飛び地となっていました。
 大石橋のすぐ先の辻の庚申塚には前述の日本廻國供養之石塔や三界萬霊塔、延宝8(1680)年建立の庚申塔などが並んでいますが、その中に「厄除地蔵尊」と刻まれた石柱があります。これは元は代田村の東西南北を守っていた「厄除け四地蔵尊」のうちの「東向地蔵」でしたが、戦災で破壊されてしまい、その名残なのです(あとの三地蔵尊は場所こそ移動しましたが、健在です)。


(旧淡島交差点にある庚申塚。右端に日本廻國供養之石塔))


 ところで、この辻で交わるのが梅丘通りです。右へ行けば、現在の淡島交差点を経て西に向かい、小田急線梅ヶ丘駅方面、左へ行けば、南にカーブしながら北沢川と烏山川にはさまれた舌状台地を越えて三宿の町を抜け、国道246号線(大山街道)方面へ通じています。
 2つの川に北・東・南の三方を囲まれたこの丘の上には昔、多聞寺砦(三宿城)がありました。当時の世田谷領主・吉良氏の居城・世田谷城の東の防御陣地として文明年間(1469-86)の頃に築かれたものだそうです。同地に多聞寺という寺院も創建されましたが、明治時代に廃寺となり、今は墓地を残すのみです。寺の跡地には三宿神社が建てられ、多聞寺の毘沙門天が祀られています。毘沙門天は四天王の一員となると多聞天と呼ばれるので、多聞寺の名もここから来ているのでしょう。現在は世田谷区立多聞小学校にその名が伝わっています。
 また、三宿神社に隣接する法務省総合研修所宿舎の跡地は住民の方々の運動によって再開発を免れ、三宿の森緑地として開放されています。

 (三宿神社と三宿の森緑地)


     太子堂

 さて、滝坂道は庚申塚の左脇を通って、すぐにまた現在の淡島通りに合流し、北沢川の南側の台地上へと上っていきます。
 通りの右側は代沢4丁目、左側は太子堂3丁目となります。ここには最近まで国立小児病院(戦前の東京第二陸軍病院)がありましたが、世田谷区大蔵の国立成育医療センターと統合され、その跡地は再開発され、立派なマンションが建設されました。ただ、跡地の一部は住民運動の結果、円泉ヶ丘公園となっています。その公園から眼下に見えるお堂が太子堂の地名の由来となった圓泉寺です。世田谷区立太子堂中学校の手前を左折すると、行くことができます。
 圓泉寺は正式には聖王山法明院圓泉寺という真言宗豊山派の寺院です。寺伝によれば、草創は南北朝末期(14世紀後半)まで遡るようですが、文禄4(1595)年、大和国久米寺より聖徳太子像と十一面観音像を背負って当地を訪れた賢惠和尚が夢で太子のお告げを授かり、この円泉ヶ丘の地にお堂を建て、太子像と観音像を安置したことをもって中興開山とされています。以後、次第に寺容が整えられ、人々の尊崇を集めるようになりました。この滝坂道やすぐ南方の大山街道を行く人々も多く立ち寄ったことでしょう。
 本堂や太子堂のある境内には石仏も多く、敷地の外にはケヤキ並木があって、ここも「せたがや百景」に選ばれています。並木のうちの1本は枯れて、その樹洞の中に2基の庚申塔(1673年、1678年)が祀られています。
 また、お寺の西側の狭い路地には『放浪記』で知られる作家・林芙美子が住んだ旧居跡があります。

 

 再び滝坂道に戻って先に進みましょう。
 まもなく三軒茶屋と下北沢を結ぶ茶沢通りと交わる代沢十字路です。これを越えて、さらに行くと、「鎌倉通り」と交差します。この道を北へ行くと北沢川に架かっていた橋の名が鎌倉橋で、おそらくこの道は中世の鎌倉道(鎌倉街道)の名残と思われます。関東各地の武士たちにとってそれぞれの所領から鎌倉へ向かう道が各々にとっての鎌倉道だったわけですから、地元で鎌倉道と呼ばれるルートが幾筋もあっておかしくないわけです。ここもそのひとつなのでしょう。ただ、明治13年の地図③にはこの道は描かれていません。そのあたりの事情はよく分かりません。

(太子堂八幡神社)

 この鎌倉通りを左折して南へ行くと、太子堂八幡神社。いつ頃の創建なのか不詳ですが、歴史は古いようで、11世紀半ばの前九年の役で奥州・安倍氏征討に向かう源頼義・義家父子の軍勢が武運を祈願したとか、当地で軍勢を休ませ、酒宴を張り、土器を埋めた土器塚が今の太子堂5丁目(代沢十字路)付近にあったとか伝えられています。

     若林

 淡島通り=滝坂道は鎌倉通りを過ぎると北側が代田、南側が若林となります。鎌倉通りが昔の村境でもあるわけで、これが古い道である証拠でもあります。
 そして、鎌倉通りから150メートルほど進んだ代田中筋バス停付近で滝坂道は淡島通りから右に分かれていきます。ただ、この旧道は300メートルほど先で環状7号線に分断され、渡ることができないので、いずれにしても現在の淡島通りの若林陸橋で環七を越えることになります。

(淡島通りから右に分かれる滝坂道)

(環状7号線で分断される滝坂道)


 環状7号線の西側にすぐ滝坂道の続きがありますが、その新道ともいえる淡島通り(正式には都道423号渋谷経堂線)は若林陸橋の西100メートルほどで唐突に終点となります。一応、少し北にずれた地点から続きがあるのですが、渋谷からここまでが幅15メートルの2車線道路だったのが、この先は昔ながらの狭い道になってしまいます。計画では小田急線の経堂駅まで2車線道路を通す予定だったらしいですが、ここで工事は中断されたままです。かつて、この場所の北側には昭和7年に世田谷区が成立した当時の区役所がありました(昭和14年に現在地に移転)。

 それはともかく、淡島通りの突き当たりから北へ右折すると、若林小学校があり、その南東角に庚申塔が2基あります(1741年、1764年)。この南北に通じる道は北へ行くと今はすぐに環七に飲み込まれてしまいますが、本来は厄除け祖師・妙法寺(杉並区堀ノ内)に通じる「堀ノ内道」と呼ばれた古道で、さらに古くは鎌倉街道だったという説もあります(地図③の左端を南北に走る道)。南へ行くと世田谷元宿(後述)を通り、旧大山道、用賀を経て二子の渡しへと続いていたと思われます。

(若林5-37の庚申塔)


     松原宿

 若林小学校の北で再び滝坂道に左折。昔の道をそのまま舗装しただけといった、いかにも旧道の風情で、ゆるやかなカーブを繰り返しながら西へと続きます。通りの北側は代田3丁目、南側は若林からすぐ梅丘3丁目となります。梅丘というのは新しい地名で、昭和40年代に世田谷区世田谷の一部が梅丘1~3丁目となりました。最寄の小田急線・梅ヶ丘駅(開業7年後の昭和9年に新設)にちなんだものです。駅名は当時の地元の大地主の家に梅の古木があり、また家紋も梅をかたどったものだったことから、新駅の名を梅ヶ丘にしたそうです。
 まもなく右手に風化した馬頭観音(代田3-11)。明治31(1898)年に建立されたもので、「馬頭観世音」の文字を刻んだものです。明治から昭和初期にかけても馬頭観音はさかんに造られていて、おそらくその頃までは馬が荷車を引いてこの道を行き来していたのでしょう。世田谷区教育委員会刊『世田谷の古道』(1975年)にはこの馬頭観音に「滝坂青山道」と刻まれていたという記述がありますが、現在では確認できません。

(代田3-11の馬頭観音)

 梅丘1丁目と2丁目の間を道なりに西へ行くと、右手に何やら墓石のような石塔が路傍にあり(梅丘1-59、右写真)、その角を北へ入ると、すぐに杓子稲荷神社があります(梅丘1-60)。



 杓子稲荷は今は小さな神社ですが、室町時代に世田谷城主・吉良氏が城の鬼門鎮護のために伏見稲荷を勧請したものだそうです。戦国時代末期に吉良氏が下総に逃れ、世田谷城が廃されると、この神社も一時は衰微しましたが、地元の人々によって再興され、今日に至るまで信仰されています。神社の名前の由来は食物をすくう杓子が「救う」に通じるということで、すべての病難・災難を払い、福徳円満・長寿開運・万福招来の象徴ということで、そもそもは吉良氏の一子が病弱だったことから、その乳母が杓子がすべての飲食物を余さずすくうように「若君を救いて強壮ならしめたまえ」と毎日杓子を捧げて祈願したのが始まりだそうです。

(梅丘と豪徳寺の境で左折。角に紳士服店あり)

 滝坂道は梅丘と豪徳寺の町境の辻で直角に南に折れます。『世田谷の古道』によれば、この四つ角に明治時代までは庚申塔と道標があり、道標には「東青山 北甲州街道」と彫られていたそうですが、道標は現存せず、庚申塔のみ杓子稲荷の境内に移されています(ただし、これも昭和55年の再建)。
 そして、このあたりが松原宿です。今となってはどの程度の規模だったかは分かりませんが、宿場があったようです。吉良氏の家臣・松原土佐守の三兄弟が宿場を開いたのが始まりとのことです。
 道が宿場の前後で直角に折れ曲がっているのは、大山街道の世田谷宿(現在のボロ市通り)と共通した特徴です。馬が駆け抜けられないように、という防御的な意味合いがあるようです。

(松原宿あたり。路傍に巨樹が多いのも古道の特徴)


(松原宿の出口に地蔵尊。ここでまた直角に曲がる。豪徳寺1-1)


     世田谷城址

 松原宿の南端で地蔵尊(1756年)と馬頭観音(1909年)のある角を曲がって、滝坂道はまた西へと向かいます。世田谷城下に松原宿が開かれる以前からこの古道が存在したのであれば、当時はこのように道を屈曲させる必要はないので、この地蔵尊から若林方面へ直進するルートだった可能性もあります。

 さて、このあたりは現在の町名では世田谷区豪徳寺1・2丁目ですが、昭和41年までは世田谷区世田谷2丁目の西半分(東半分が今の梅丘)で、もっと昔はこの付近に竹ノ上という地名がありました。松原宿のすぐ南に世田谷城があり、台地の上を通る滝坂道との間に竹を密植することで、敵の軍勢の視界を遮り、城への攻撃を阻害する狙いがあったようです。そこから竹ノ上の地名が起こり、のちにタケノコの産地としても知られたといいます。

 松原宿の出口の地蔵尊から真南へ下って行くと、世田谷城址公園があり、土塁と空濠が残っています。この公園だけを見ると、世田谷城というのは小さなものだったように思われますが、現在公園化されているのは南東端のごく一部だけで、実際ははるかに広大な領域に広がっていました。城址公園の西北にある豪徳寺境内も元は世田谷城の範囲に含まれると考えられていますが、城がどの程度の規模だったのか、正確なことは分かっていないそうです。
 そもそも世田谷城は南北朝時代から戦国末期に至る二百数十にわたって世田谷を領有した吉良氏の居館です。1360年代頃、鎌倉公方・足利基氏(尊氏の子)から吉良治家が世田谷領を与えられ、当初は数ある領地のひとつに過ぎなかったと思われますが、やがて吉良氏の本拠となるに至り、居館が置かれることになりました。ただ、その時期は諸説あり、はっきりしていないようです。
 吉良氏は清和源氏の流れをくむ足利氏の支族で、室町幕府によって奥州探題にも任じられ名門です。
 戦国時代には小田原を拠点に関東一円を支配した北条氏の庇護下に入り、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏が滅ぶと、吉良氏は下総に逃れ、世田谷城はその後、廃城となったのです。
 それからすでに400年以上が過ぎ、現在は城跡の宅地化も進んだため、遺構はほとんど失われてしまいました。
 ただ、当時、滝坂道が世田谷城下と江戸を結ぶ街道として機能していたことは確かでしょう。また、鎌倉街道(有名三道のうち、二子で多摩川を渡り、世田谷を北上して北関東方面へ向かう中道)も世田谷城の築城後はその城下を通っていたと思われ、現在の世田谷区役所付近(世田谷4丁目)にあった「元宿」という地名は鎌倉街道の宿場に由来すると考えられています。そして、その道筋が先ほど若林で交差した「堀之内道」に繋がっていると推定されているわけです。

 さて、その世田谷城は北沢川と烏山川にはさまれた台地の中でも大きく蛇行する烏山川の低湿地によって西・南・東の三方を囲まれた半島状の台地に立地していました。これは防御の観点からも理にかなっていたわけですが、滝坂道の通っている城の北側が最も攻められやすいため、そこに竹藪をつくって敵の襲来に備えたということなのでしょう。
 また、すでに訪ねた杓子稲荷神社を城の北方に勧請したほか、時計回りに勝国寺円光院勝光院世田谷八幡宮常徳院などの寺社が周囲に配置され、『世田谷の中世城塞』(世田谷区教育委員会、1979年)によれば、これらの寺社もいざという時には砦として利用されたと考えられるようです。

 
(世田谷城址公園に残る土塁と空濠。石垣は保護措置として設置された新しいもの)


     豪徳寺

 さて、世田谷城址公園前の城山通りを西へ行けばすぐに豪徳寺の門前にでるわけですが、滝坂道に戻って、松原宿から西へ向かいます。途中、左手の私有地内にイチョウやケヤキの老木に囲まれた小さな祠があり、その先を左に入ったところにブルーに塗られた古い洋館があります。「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄(雅号は咢堂、1858‐1954)の旧宅を麻布から移築したものだそうです。

 (滝坂道沿いの小さな祠と尾崎咢堂旧宅)

 まもなく、滝坂道は東急世田谷線の踏切を渡りますが、その前に線路沿いの道を南に行って「招き猫」発祥の地とも言われる豪徳寺に参拝ましょう。


  『江戸名所図会』に描かれた世田谷豪徳寺(画面右下の小山に「吉良氏城址」の文字あり。左端は世田谷八幡)


 大谿山豪徳寺(世田谷区豪徳寺2丁目)の創建は文明12(1480)年、第5代世田谷城主・吉良政忠が伯母の菩提を弔うために城内に小庵を建立し、その法号にちなんで「弘徳院」と称したのが始まりです。当初は臨済宗に属し、のち天正12(1584)年に曹洞宗に改宗しています。現在の豪徳寺境内が世田谷城内でも城主の居館がある主要部分だったと推定されており、参道の東側に土塁が残り、また境内にも土塁らしきものが見られます。
 戦国時代末期に吉良氏が世田谷を去り、世田谷城も廃されると寺は衰微しましたが、江戸時代になると、世田谷は彦根藩主・井伊直孝の所領となり、弘徳院も伽藍が整えられ、直孝の歿後はその法名にちなんで豪徳寺と寺号を改め、井伊家の菩提寺となりました。
 そのきっかけとして、井伊直孝が世田谷を訪れた際に雷雨に遭い、寺の門前で雨宿りをしていたところ、手招きする猫に従って門内に入ったことで、落雷から逃れることができ、寺との縁も生まれたという話があり、豪徳寺が「招き猫」の発祥地となったと言われているわけです。今でも門前に招き猫を売る店があり、境内にも随所に招き猫の姿を見ることができます。
 桜田門外の変で暗殺された大老・井伊直弼の墓をはじめ、十二支や猫の彫刻がある三重塔、数ある石仏など見どころの多いお寺です。

(まるで生きているような猫の彫刻がある三重塔)

 さて、滝坂道はまだまだ続きますが、あとは後編で、ということで、世田谷線の踏切から線路沿いに北へ行けば小田急線・豪徳寺駅。南へ行けば世田谷線宮の坂駅です。

地図④(昭和41年) 渋谷・道玄坂~世田谷・豪徳寺まで


   つづく


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