《世田谷の古道》
大山道(三軒茶屋~世田谷新宿~用賀)


 TOP 世田谷の古道 大山道 赤坂見附~渋谷 渋谷~三軒茶屋~用賀 用賀~二子の渡し  松原大山道 

 大山道の旅。三軒茶屋にいます。一般的に知られる大山道はここから引き続き国道246号線・玉川通りとほぼ一致するルートをたどりますが、この道は江戸の町人文化が成熟し、大山詣が盛んになった文化文政時代(1804-1830)に二子の渡しへの近道として開かれた新道です。それ以前の大山道(矢倉沢往還)といえば、ここで右に分岐する世田谷通りでした。ここではその古い大山道を新旧道が再び合流する用賀までたどります。

 三軒茶屋は新旧の大山道の追分にあった3軒の茶屋にちなむ地名です。信楽(明治2年から石橋楼)、角屋、田中屋の3軒です(田中屋のみ陶器店として現存)。ただ、あくまでもこの三叉路の呼称であって、三軒茶屋が正式な町名となったのは昭和7年に世田谷区が成立した時のことで、昔の太子堂村と馬引沢村(上馬引沢村、中馬引沢村、下馬引沢村)にまたがる地域です(注)。

 (注)馬引沢村は江戸時代の中頃に上馬引沢、中馬引沢、下馬引沢に分かれたといい、明治12年には中馬引沢村が上馬引沢村に編入されています。その後、明治22年の町村制施行により上・下馬引沢は野沢、深沢、世田谷新町、弦巻の各村と合併し、新たに駒沢村が成立しています。駒沢村は大正14年に町制施行。昭和7年に成立した世田谷区に編入されています。この際、上馬引沢、下馬引沢は略され、世田谷区上馬、下馬となりました。
 一方、太子堂村は明治22年に世田谷村に編入され、昭和7年の世田谷区成立とともに世田谷区太子堂となっています。


 
(現在の三軒茶屋分岐点。厚木方面が国道246号線=大山道新道。狛江方面が都道3号線=世田谷通り=旧大山道)


(明治39年頃の三軒茶屋。道標の向こうが石橋楼。『世田谷区史料第一集』より)

  

 そして、この追分には道標が現存します(本来とは向きが変わっています)。上部に不動明王像(大山は不動信仰の霊場)が鎮座する立派なもので、正面には「左相州道 大山道」と刻まれ、左側面には「右富士 世田谷 登戸道」と彫られています。また右側面には「此方 二子通」とあります。建立年は寛延2(1749)年、文化9(1812)年再建とのこと。ここで左へ行く大山道(新道)の開通が文化文政年間であるなら、それより前の寛延2年に道標が建立されたという点に引っかかるものを感じますが、あまり深く考えずに、ただ大山道旧道が富士山へ続く道と認識されていた事実だけは確認して、先へ進みましょう。

 交通量の多い世田谷通りを西へ行くと、やがて道路の北側が若林(旧荏原郡若林村)となり、まもなく環状7号線(環七通り)と交差します。アンダーパスの環七を世田谷通りが陸橋で越える形で、これが常盤陸橋です。
 この付近の環七の元となった道は旧東京府道56号・大森田無線で、さらに前は堀之内道と呼ばれた古道です。今でも旧道が残る区間がありますが、ここでは環七の下に隠れています。
 ちなみに世田谷通りは正式には東京都道3号・世田谷町田線ですが、かつては旧府道22号・芝溝線でした。当時の東京市芝区から神奈川県高座郡溝村(現・相模原市)を結ぶ道路という意味です。は戦国時代に世田谷城主・吉良氏の領地があったので、芝と世田谷を往来するルートだとしたら、ちょっと興味を引かれます。

 とにかく、古道探訪者にとっては一見何の面白みもない環七交差点ですが、ここで注目すべきことは陸橋名の「常盤」です。世田谷に古くから伝わる悲話の主人公、いわば悲劇のヒロインの名前です。物語にはいくつかのヴァリエーションがありますが、大体、こんな感じです。

   戦国時代の第7代世田谷領主・吉良頼康には13人の側室がいました。そのうちのひとりが常盤で、今の九品仏・浄真寺(世田谷区奥沢)の地にあった奥沢城主・大平出羽守の息女でした。頼康は才色兼備の常盤をひときわ寵愛し、常盤は頼康の子を懐妊します。これに嫉妬したほかの側室たちは共謀して常盤について「お腹の子は頼康公の子ではない」という讒言を頼康の耳に入れ、頼康も常盤を疑うようになりました。
 城にいられなくなった常盤は死を決意して城を脱します。その際、奥沢城時代から可愛がっていた1羽の白鷺の足に遺書を結び付けて放ち、鷺は奥沢城の方角へ飛び去りました。その鷺をたまたま奥沢城付近で狩りをしていた頼康が射落とし、常盤の遺書を見つけ、常盤の潔白を知りますが、頼康が急いで城に帰った時にはすでに常盤の姿はなく、彼女はもうこの世の人でもありませんでした(常盤の胎児の胞衣に吉良家の家紋が浮かび上がったことで常盤の潔白が明らかになったという別ヴァージョンもあります)。深く悔いた頼康は常盤終焉の地に近い駒留八幡に常盤の胎内にいた我が子を若宮として祀り、その境内に常盤の霊を弁財天として祀りました。
 常盤の白鷺が射落とされた奥沢の湿地にはまるで鷺が舞うような姿の真っ白な花が咲き、鷺草と名づけられたということです。
 また、讒言をした12人の側室は処刑され、12の塚に埋められました。


 
(奥沢城跡である九品仏浄真寺付近の区立八幡中学にある常盤伝説の壁画と九品仏境内に咲く鷺草)

 この話が広く知られるようになったのは江戸時代に書かれた伝承文学『名残常盤記』によってであり、どこまで史実に基づいているのか分かりません。また、常盤の悲劇の原因を彼女の法華経信仰と頼康の法華嫌いに求める見方もあるようですが、事実はもはや確かめようがありません。とにかく、このような話が語り伝えられているのです。そして、常盤伝説にまつわる“史跡”がこの周辺に点在していることから、かつては上馬引沢村(現・世田谷区上馬)に常盤という地名があり、今も常盤陸橋の名があるわけです。

 ちなみに史実として、吉良頼康には成人した実子がなく、跡を継いだ8代目で最後の世田谷城主・氏朝は頼康の養子で、母は北条氏綱の娘・崎姫でした(実父は堀越公方今川貞基?)。頼康の正室も氏綱の娘です(崎姫が氏朝を連れて嫁いだという説と崎姫の姉妹が嫁いだ説がある。後者が有力?)。また、この頃、常盤の実家とされる大平氏も北条直属の家臣となっています。

 そもそも世田谷吉良氏清和源氏・足利氏の流れをくむ家柄で、南北朝時代には室町幕府の奥州管領に任じられた名門です。一方、戦国時代に関東一円を制覇した小田原北条氏はいわば成り上がりの新興勢力です。北条にしてみれば吉良氏を攻め滅ぼすことなど容易であったはずですが、むしろ吉良氏の家格の高さに利用価値を見出したようです。そのため北条は吉良と政略結婚によって姻戚関係を結び、吉良には世田谷を中心に今の東京から川崎・横浜にまたがる広範囲に名目的な領主権を認めつつ、実質的な支配権を掌握していく道を選んだのです。吉良氏朝が北条家の崎姫の子で、その氏朝にも北条の娘を嫁がせたことで、以降、世田谷吉良氏の嫡流は完全に北条の血筋に入れ替わってしまいます。いわば名門・吉良の名のみを残して実質的に北条が乗っ取った形です。そこで『世田谷の地名』では著者の三田義春氏が常盤伝説に触れて、「北条氏の血筋の者に吉良家を継がせるため、頼康の子を宿していた常盤が殺害されたという、吉良氏の跡継ぎをめぐる悲話が、虚実織り交ぜて創作されたものであろう」と推測しています。もちろん、これも歴史推理の域を出るものではありません。

 さて、探索に戻ります。世田谷通りを行く前に環七を南に200メートル余り行くと、すぐ西側に上馬引沢村の鎮守・駒留八幡神社があります(上馬5‐35‐3)。


(蛇崩川の低地に面した傾斜地にある駒留八幡神社)

 伝承によれば、鎌倉時代の徳治3(1308)年、当地の領主、北条左近太郎入道成願が八幡大神を勧請し創建されたといいます。その際、成願は御神託により、自分の乗った馬を気の向くままに歩かせ、馬が立ち止まったところに社殿を造営したことから「駒留八幡」と称するようになったということです。
 この源氏の氏神でもある八幡神社に常盤の胎児が源氏の流れをくむ吉良氏の若宮として一社相殿で祀られ、若宮八幡とも呼ばれるようになったわけです。
 本殿の左奥には池(水はありません)に囲まれた厳島神社があり、ここに常盤の霊が弁財天として祀られています。この弁財天はかつては神社とは道を挟んだ南側にあったそうです。
 また、池の傍らには「常磐橋」と彫られた石橋の遺構が保存されています。この橋は大山道に架かっていたもので、あとで出てきます。

 
(常盤を祀る厳島神社と常盤橋の遺構)

地図①(明治42年)


 次に見るべきは常盤の遺骸を埋葬したとされる常盤塚で、神社前の道を西に道なりに行けばありますが、一度、常盤陸橋に戻って、そこから世田谷通りを行きましょう。環七以西は道の北側が若林、南側が上馬です。
 まもなく若林3丁目のバス停があります。そこで左(南)へ入る道があり、常盤塚と駒留八幡神社の案内標識が立っています。ここを入れば、すぐ右側に常盤塚(世田谷区指定史跡)があります(地図①のA地点、上馬5‐30‐19)。世田谷城を抜け出し、この近くで自害した、あるいは追手に殺害されたという常盤の亡骸を埋葬したと伝えられる塚です。

(住宅街の中にひっそりとある常盤塚)

 この一帯には処刑された12人の側室の塚も点在していて、地元では「十三塚」と呼ばれていたそうですが、現存するのは、この「常盤塚」のみです。今ある塚石は昭和58年に再建されたもので、それまでは顧みる者も少なくなり、塚は朽ち果てていたようです。
 上馬引沢生まれで駒沢町議会議員や町長を歴任した郷土史家・鈴木堅次郎氏(1888‐1960)は遺稿集『世田谷城名残常盤記~世田谷風土記』(1961年)の中で少年時代に実際に十三塚が散在していたのを見たといい、常盤塚以外は開墾されて跡形もないと述べた上で、開墾当時、女の髪や櫛笄が出土したという話を伝えています。

 さて、世田谷通りに戻り、さらに少し進むと、北側に「緑の小道」という遊歩道があります(地図①のB地点)。明治42年の地図①でそこに水田のある狭い谷戸地形が確認できるように、この小径は明らかに北へ向かって流れ下っていく水路跡で、実際、かつては東急世田谷線若林駅の北で烏山川に合流する細流がありました。B地点の前後で道が屈曲しているのは流れを直角に渡るためと思われます。そして、先ほど駒留八幡の境内に保存されていた常盤橋(常磐橋)の遺構は元はこの場所にあったものなのでしょう。橋の小ささから見ても、ささやかな流れであったことが分かります。しかし、この橋は常盤が「害せらる」場所として『江戸名所図会』にも描かれています。「小溝に渡す石橋」という表現通り、小川に石板2枚を渡しただけの橋の上で旅の男と子連れの女が何やら言葉を交わしているようですが、今から200年ほど前の街道の光景がこうして描かれ、残されているのは貴重です。
 この『名所図会』の中で常盤塚について、次のように書いてあります。

「按に、此はしより二十歩ばかり東の方、道より北側に松を植えたる塚あり。是を常盤の墓と云。上に不動の石像あり。又南の方にも塚あり。是なりともいへど。いづれか実ならん」

 我々がいま見た常盤塚はこの文でいう「南の方」の塚ということになります。そして、道の北側(若林村)にも常盤の墓といわれる塚があったことが分かりますが、この北側の不動尊を祀った塚は常盤の子の胞衣(えな)塚だったともいい、鈴木堅次郎氏は「エナ不動」と記しています。これは現存しないようです。

 
 常磐橋があった「緑の小道」。説明板のようなものがあるが、小道の整備に関するもので、常盤橋や常盤伝説には一切触れられおらず、ここにあった水路についての記述もない。橋跡付近の側溝のふたに「世田谷区の花」に選ばれた鷺草の図柄があるが、これは区内ならどこでも見られるもの。

 さて、常盤橋跡からさらに西へ行きましょう。このあたりからが戦国時代の矢倉沢往還に開かれた世田谷新宿下宿(下町)となります。つまり世田谷の城下町で、常磐橋の水路がいわば外堀の役目を果たしていたことになります。



 吉田松陰の墓があり、松陰を祀る松陰神社入口(道標が神社境内に移設、保存。下写真)の交差点を過ぎると道の右も左も世田谷区世田谷(旧世田谷村)となり、常夜灯風の街路灯に「世田谷代官お膝元」の文字が目に付くようになります。

 
(明治45年に乃木希典が寄進した「松陰神社道」道標と「世田谷代官お膝元」街路灯)

 世田谷区役所入口を過ぎると、右手に護国山天照院大吉寺があります。年代不詳ながら真言宗寺院として創建され、世田谷城主・吉良氏の祈願所となりましたが、世田谷城が廃された後は寺も荒廃してしまいます。これを憂えた目黒・祐天寺の祐天上人とその弟子・祐海上人が再興し、この時、浄土宗に改宗されました。境内には大吉稲荷もあります。

 
(大吉寺と大吉稲荷)

 大吉寺・大吉稲荷から世田谷交番を挟んで大悲山円光院明王寺(真言宗豊山派)があります。円光院は戦国末期の天正年間(1573‐91)に盛尊和尚によって開かれた寺で、それ以前は吉良氏の櫓があったといいます。吉良氏が城下に整備した世田谷新宿の要所に位置し、世田谷城防衛の拠点のひとつだったのでしょう。

(円光院)

 世田谷下宿の街路は円光院前で南に直角に折れ(横宿)、今の世田谷中央病院前で西に右折して、現在のボロ市通り、世田谷上宿(上町)へと入っていきます。このように街道を屈折させるのも敵軍の視界を遮り、迅速な行軍を阻止するための防衛的な意味があり、宿場や城下町などでよく見られます。

 
(現代の世田谷通りは円光院前をそのまま直進だが、かつてはここで左折して、すぐ右折していた)

 なお、大吉寺と円光院の間にある世田谷交番は明治39(1906)年11月に文豪徳富蘆花(1868‐1927)が田園生活を求めて引っ越し先を探すため、青山高樹町の自宅から世田谷へ出かけた時、道を尋ねた交番だと言われています。
 以下は徳富健次郎(蘆花)『みみずのたはごと』より抜粋。

 
 青山高樹町のをぶらりと出た彼等夫婦は、まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。唯有饂飩屋に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。松陰神社で旧知の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿のはずれまで歩き、交番に聞いて、地蔵尊の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。余程往って最早千歳村であろ、まだかまだかとしば/\会う人毎に聞いたが、中々村へは来なかった。妻は靴に足をくわれて歩行になやむ。農家に入って草履を求めたが、無いと云う。く小さな流れに出た。流れに沿うて、腰硝子の障子など立てた瀟洒とした草葺の小家がある。ドウダンが美しく紅葉して居る。此処は最早千歳村で、彼風流な草葺は村役場の書記をして居る人の家であった。彼様な家を、と彼等は思った。
 

 文中の「世田ヶ谷往還」が我々の辿っている道であり、「世田ヶ谷宿のはずれ」まで来たところで交番に聞いて、「地蔵尊の道しるべから北へ里道に切れ込ん」で、最終的には千歳村の粕谷にたどり着きます。現在、都立蘆花恒春園となっているのが、蘆花が晩年を過ごした旧居跡です。

地図②(明治42年)


 蘆花が歩いた3年後、明治42年の地図によると、交番(X印)は二つの寺の間ではなく、円光院の西隣にあったことが分かります(現在は世田谷宿の反対側のはずれにも松ヶ丘交番がありますが、当時はまだ存在しません)。地蔵尊の道しるべがどこにあったのかは不明ですが、交番脇にでもあったのなら、そこから北へ行けば、旧世田谷城址・豪徳寺の東側から北側へ回り込んで松原宿から滝坂道に入り、あとは粕谷まで一本道です。あるいは今のボロ市通りを抜けて、桜小学校前から北西方向へ入る六郷田無道でも千歳村へ行けます。また地図の中心にある上町から北へ行く道も古道(松原大山道)で世田谷八幡脇の宮坂を上って滝坂道に接続しています。

 また上の地図②で円光院前で南に折れて、そのまま上町に入らず南下していくと「弦巻」の文字の西側にお寺がありますが、これは宝樹山常在寺(右写真)で、永正3(1506)年に創建された日蓮宗寺院です。開山は日純聖人、開基はあの常盤御前であると伝えられています。寺伝によれば、彼女の法号は宝樹院殿妙常日義大姉で、大永3(1523)年4月13日卒ということです。寺では常盤が日純聖人に深く帰依し、それが法華嫌いの吉良頼康の逆鱗に触れ、常盤は死に追いやられたという話になっていて、頼康配下の者に追われる常盤が寺の井戸に投じたという彼女の守り本尊の鬼子母神像が今も鬼子母神堂に安置されています。
 ついでに書けば、『新編武蔵風土記稿』の伝えるところでは常在寺の開基だけでなく、若林村にあった香林寺(現存せず)の開基にも大平出羽守の娘常盤の名があり、こちらでは彼女は天文4(1535)年7月7日没となっていて、法号も違います。要するに確かなことは何も分からないということです。

 とにかく、世田谷新宿までやってきました。戦国時代、小田原北条氏の傘下に入った世田谷城主・吉良氏が江戸と小田原を結ぶ矢倉沢往還に開いた宿場が世田谷新宿です。それ以前は城下を通って北関東、奥州方面へ向かう鎌倉街道沿いに宿場がありましたが、関東の勢力図が変わり、矢倉沢往還の重要性が高まったため、新しい宿場が整備されたわけです。それ以前の宿場は「元宿」として地名に残り、地図②の右上に「宿」の文字だけ見えているのが、それです。二子の渡しから北上してきた矢倉沢往還(大山道)が旧鎌倉街道で、その延長線上に元宿があったのがわかります。

 さて、世田谷新宿は今はボロ市通りとして有名です。現代のボロ市は新暦と旧暦の歳末、つまり12月と1月のそれぞれ15・16日に開催され、大変賑わいます。ボロ市は戦国時代の天正6(1578)年、小田原城主・北条氏政の発した「楽市掟書」により、世田谷新宿に楽市が開設されたのが起源で、当時は毎月6回、1と6の日に開かれました。世田谷城下にも北条氏の直接的な支配が及んでいたわけです。そして、北条氏が滅亡し、世田谷城も廃されると、江戸時代には世田谷も城下町から純農村へと寂れ、市は年末だけの開催となったということです。

 
(ふだんのボロ市通りとボロ市開催時のボロ市通り代官屋敷前))

 
(ボロ市と代官見廻り行列。代官役は大場家・現当主)

 その江戸時代、彦根藩領となった世田谷で、藩主・井伊家の代官を任されたのが元吉良家臣の大場氏で、幕末まで代官職を世襲しました。その代官屋敷(1753年建築)がボロ市通りの中ほどに現存し、国の重要文化財にも指定されています。敷地内には世田谷郷土資料館があります。


(上町駅前の案内図。下方が北)

 そのボロ市通りを行くと、すぐにまた世田谷通りに出ますが、旧道はそのまま世田谷通りを突っ切り、そこで古道・六郷田無道(旧東京府道59号・吉祥寺駒沢線)を北西に分岐して、逆「く」の字形に左折して南西に向かい、再び世田谷通りを突っ切ります(上の案内地図参照。下写真)。そして、このまま南西に向かって伸びるのが矢倉沢往還(大山道)です。

(世田谷通りと2度交差して南西方向に続く旧街道)

 矢倉沢往還が世田谷通りから分かれて、まもなく畳屋の前で右に道が分かれます(地図②で標高38.6mの数字が書かれている地点)。ここが世田谷宿のいわゆる用賀口。登戸道の分岐点です。ここにはケヤキの根元に延亨3(1746)年に建立され「右登戸道、左大山道」と刻まれた道標がありましたが、現在は代官屋敷内の郷土資料館に保存され、元の位置には代替碑が立っています(下写真)。

 
(用賀口の追分と郷土資料館にある道標)

 ちなみに『旧鎌倉街道探索の旅』の著者、芳賀善次郎氏は『中道編』で「登戸道」を取り上げていますが、吉良氏が世田谷新宿を整備し、いま通ってきたように道を何度も屈折させる以前は、この用賀口からまっすぐ東進し、現ボロ市通りより南側を通って、若林3丁目付近で世田谷通りに合流していたのが消えたのだろうと推測しています。地図②で常在寺の北側にある世田谷村と弦巻村の境界線を通っていたのでしょうか。いずれにせよ、吉良氏以前にはこの区間の不自然な屈曲は存在しなかったはずです。

 とにかく、登戸道を右に見送り、直進します。ここから世田谷区弦巻(旧荏原郡弦巻村、明治22年の合併で駒沢村大字弦巻)に入り、用賀まで大山道はほぼまっすぐです。なだらかな丘を越えて坂を下ると左手に公園があり、「大山詣の旅人像」があります(弦巻4‐32、地図③のA地点)。

(大山詣の旅人像)

 ここに世田谷区が設置した解説板があります。

「江戸時代中期、関東一円の農村には雨乞いのために、雨降り山とよばれる丹沢の大山に参詣する習慣がありました。これを大山詣といいます。赤坂見附から、青山、世田谷、二子、溝ノ口、長津田、伊勢原を経て大山に至るこの道は俗に大山道とよばれていました。世田谷区内の大山道は、三軒茶屋、世田谷通り、ボロ市通り、そして弦巻を通って、用賀、二子玉川に行っていました。
 しかし、大山詣はしだいに、信仰は口実となり、帰り道東海道に出て、江ノ島や鎌倉で遊ぶ物見遊山の旅に変わってきました。この像は、そんな大山詣をする商家の主人をモデルに、たぶん一服しただろうと思われるこの場所に設置したものです」


 なぜ、この場所が休憩地点と思われるかといえば、そこに小川が流れていたからで、ここは目黒川の支流・蛇崩川の源流部に当たります。このような場所は街道を行く旅人や牛馬にとって貴重な休息地だったのでしょう。銅像が腰かけている石はそこに架かっていた橋の台石です。
 また、すぐそばの小さな祠(弦巻4‐33)はそこにあった弦巻八幡神社(明治40年に弦巻3丁目の弦巻神社に合祀)の名残で、南北朝時代の永和2(1376 )年に初代世田谷領主・吉良治家が鎌倉鶴岡八幡宮に上弦巻の半分を寄進し、この土地が鶴岡八幡宮領となった頃に勧請されたものと思われます

(八幡社の祠)

地図③(昭和7年)


 蛇崩川の暗渠を越えて、さらに行くと、「弦巻4丁目」交差点の一角に地蔵尊馬頭観音が並んでいます(弦巻5‐2‐12、地図③のB地点)。「野中のお地蔵様」として親しまれている地蔵尊は天保3(1832)年に建立されたもので、道標を兼ねていて、「右り世田谷/堀之内道」「左り大山道」と刻まれています。右左に「り」と送り仮名をつけるのは江戸後期の道標にしばしば見られます。

(野中の地蔵尊。左隣の小さな石塔が馬頭観音))

 さらに直進すると、陸上自衛隊用賀駐屯地前の交差点で玉川上水の分水路・品川用水を渡っていましたが、品川用水の痕跡は残っていません。
 ここから道の右が上用賀、左が用賀となり、どちらも昔の荏原郡用賀村です。戦国時代の永禄・元亀(1558‐73)の頃、小田原北条氏家臣の菊池帯刀武吉がこの土地に移住して開墾したのが村の起源で、その子の図書吉慶の時に飯田姓に改めたといいます。『新編武蔵風土記稿』で用賀村を開いたのは北条家臣の飯田氏であるとしながら、北条分限帳などの記録にその名が見当たらないと記しているのは、当時は菊池姓だったためと思われます。江戸時代にはこの飯田氏が村の旧家として名主を世襲し、一時は彦根藩世田谷領の代官も務めています。
 用賀村は明治22年の町村制施行による周辺の村との合併で玉川村大字用賀となり、昭和7年に東京市に編入され世田谷区玉川用賀町、さらに昭和46年に住居表示実施で町域が変更され、用賀、上用賀、玉川台などに分かれています。



 用賀に入って坂を下っていくと、左から道が合流します(用賀3‐11、地図③のC地点)。ここが用賀追分で、合流するのは大山道の新道です。江戸市中から大山へ向かう人々は世田谷新宿を経由せず、距離も短いこちらの新道を通ったといいますが、実は距離の短縮はごくわずかです。

(用賀追分)

 『新編武蔵風土記稿』の用賀村の項には「中央ニ一条ノ道アリ。二子渡ノ方ヨリ来リ、瀬田村ヨリ入。コレハ相州矢倉沢ヘモ大山ヘモカヨウ路ナリ。コノ路、村ヘカカリ中央ニテ両岐トナリ、ソノ一ハ世田谷村ヘイリ、ソノ一ハ同村ノ枝郷新町ヘイル」と書かれています。

 この追分に今は「大山道追分」の碑が立っていますが、これは地元の「玉川の郷土を知る会」(現・玉川石標を守る会)が建てた新しいもので、史跡を示す石碑が世田谷区内玉川地区全域に数多く存在し、紙を当てて鉛筆などで擦れば拓本がとれるようにになっています(拓本用に碑の文字の縮小版が側面にあり)。
 そして、ここにかつては文政10(1827)年に建立された庚申塔があり、「右り江戸道」「左り世田ヶ谷四ッ谷道」と彫られて二子の渡しから来た旅人への道しるべとなっていました。三軒茶屋から新町経由の近道ができたことで、我々がたどってきた旧ルートは世田谷から北へ行き、甲州街道へ出て四谷方面へ行く道として認識されていたことが分かります。
 この庚申塔兼道標はその後、交通量の増加に伴って用賀の真福寺境内に移され、現在はボロ市通り沿いの世田谷代官屋敷内にある郷土資料館に保存されています。

 
(現在の「大山道追分」碑と世田谷郷土資料館にある庚申塔)

 ふたつの大山道が合流する用賀から先も二子の渡しまでまた2ルートが存在するのですが、ここでページを改めることにします。

 次へ

 TOP 世田谷の古道 大山道 赤坂見附~渋谷 渋谷~三軒茶屋~用賀 用賀~二子の渡し  松原大山道

inserted by FC2 system