《世田谷の古道を行く》

 六郷田無道 (その4 世田谷~給田)

 世田谷のマイナーすぎる、でも意外に重要だったかもしれない古道「六郷田無道」を全区間たどるシリーズの第4回。


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 六郷田無道 1.六郷~池上  2.池上~大岡山  
3.大岡山~世田谷 5.給田~上連雀 6.上連雀~田無


   世田谷城

 六郷田無道を六郷から田無までたどる旅もようやく後半です。
 この旧街道の序盤は池上本門寺を中心に日蓮宗の人々にとって重要な巡拝ルートとしての性格が強く見られましたが、世田谷区内に入ると、世田谷やさらに内陸の各地と品川や目黒(不動尊)を結ぶ道としての性格が加わり、また、中世の世田谷領主・吉良氏の影響のもと、政治・経済・軍事的な観点から道の成り立ちを考える視点も必要になってきます。
 前回はその吉良氏のお膝元、世田谷城下の世田谷新宿、現在のボロ市通りまでやってきました。世田谷新宿は言うまでもなく戦国時代の関東の盟主・北条氏(鎌倉幕府の執権・北条氏と区別するため後北条氏ともいう)の本拠地・小田原と江戸を結ぶ矢倉沢往還の宿場として整備されたものです。そして、戦国期以前は鎌倉と北関東方面を結ぶ鎌倉街道が世田谷城下を通っていたと推定され、この旧鎌倉街道沿いに宿場があったが故に、今の世田谷区役所付近に「元宿」という地名が残りました。
 清和源氏の流れを汲む足利氏の一族である名門・吉良氏が南北朝時代に世田谷に配置されたのも、そこが鎌倉街道の要所だったからと考えられます。ただし、南北朝時代に室町幕府の奥州探題という要職にあった吉良氏がいつ世田谷に居館を構えたのかは不明です。永和2(1376)年正月29日に吉良治家「武蔵国世田谷郷内上絃巻半分」を鎌倉鶴岡八幡宮に寄進したという記録が残っていて、その時点で治家が世田谷を領有していたことが分かるだけで、当時、彼の居館が世田谷にあったかどうかは分かりません。吉良治家は初代世田谷城主とされますが、証拠はないわけです。まぁ、この辺は深入りしないことにします。

 とにかく、15世紀には世田谷城主となった吉良氏が戦国期の動乱の中で政略結婚を通じて小田原北条氏の傘下に入ると、鎌倉街道より矢倉沢往還の重要性が高まり、往還沿いに新宿が開かれます。現在のボロ市の起源となる楽市がここで最初に開かれたのは天正6(1578)年、小田原の北条氏政の政策によるものでした。世田谷城の南方にある深沢城にも北条家臣の南條氏が配されるなど、戦国末期になると吉良氏を差し置いて北条氏の世田谷領に対する直接支配が強まっていたのが分かります。典型的な成り上がり型戦国大名である北条氏にとって、名門・吉良氏の家格の高さは、関東の盟主としての地位を維持していくうえで、それなりの利用価値があったのでしょう。それゆえ、吉良氏を攻め滅ぼすことなく、姻戚関係を結び、吉良氏の名目的な領主権を認めつつ、実質的な支配権を掌握していく道を選んだものと思われます。

 結局、天正18(1590)年、豊臣秀吉の天下統一に最後まで抵抗した北条氏に対する豊臣軍の総攻撃が始まると、第8代世田谷城主・吉良氏朝(第7代・頼康に嫁いだ北条氏綱の娘・崎姫の連れ子、実父は堀越公方今川貞基)は戦わずして世田谷城を明け渡し、下総の生実(おゆみ、今の千葉市南部)に逃亡します。世田谷城は廃され、二百数十年に及ぶ吉良氏の世田谷支配も終わりました。北条氏にかわる関東の支配者として徳川家康が江戸に入った後、氏朝は許されて世田谷に戻り、世田谷新宿の南西にある実相院で遁世生活を送り、同所で亡くなりました。世田谷吉良氏の子孫はその後、蒔田氏と改姓し、上総国寺崎村に所領を得て徳川家の旗本として存続します(のち吉良氏に復姓)。また、吉良氏の家臣たちは世田谷城周辺各地で土着・帰農し、そのうちの大場氏は井伊領となった世田谷の代官に取り立てられました。

 さて、その吉良氏の居館、いわゆる世田谷城は世田谷新宿の北方に位置していました。ボロ市通りを北へ抜け、世田谷通りを渡って東急世田谷線(旧・玉川電気鉄道・下高井戸線、大正14年開業)の上町駅踏切を北へ行くと、烏山川緑道を越えた先に世田谷城址公園(豪徳寺2‐14)があります。世田谷城といっても、ふつう我々が日本の城としてイメージする天守閣を備えた、いわゆる“お城”ではなく、実際は領主の館というべきものでした。なので、園内にある石垣などは公園整備によって築かれた新しいものです。土塁や空堀の跡が残る公園はさほど広くありませんが、これは世田谷城の南東部のごく一部に過ぎず、実際は北西側に隣接する豪徳寺の境内も含む広大な領域で、大きく蛇行する烏山川に三方を囲まれた半島状の台地に立地する天然の要害といえる場所でした。ただ、廃城から400年以上が経過し、宅地開発によって失われた部分も多く、不明な点も少なくありません。

 
(世田谷城址公園に残る土塁と空濠。石垣は保護措置として設置された新しいもの)

 世田谷城址公園前の城山通りを西へ行くと、かつて世田谷城の本丸があったとされる豪徳寺です(豪徳寺2‐24))。招き猫発祥の地として知られるこの寺は伝承によれば、第5代世田谷城主・吉良政忠が文明12(1480)年に伯母の菩提のために城内に建てた仏堂「弘徳院」(または弘徳庵)が始まりで、当初は臨済宗でしたが、のちに曹洞宗に改宗します。世田谷城が廃されると一時は衰微しますが、江戸時代に入り、彦根藩主・井伊直孝が世田谷の地を拝領すると、その菩提寺として再興され、豪徳寺と改められました。その際に招き猫伝説が生まれます。すなわち、井伊直孝が鷹狩りで弘徳院の前を通りかかった際に猫が手招きするので、導かれるように門をくぐり、そのおかげで雷雨を避けることができた、あるいは落雷の難を免れることができた、というような話で、これをきっかけに寺との縁が生じたというわけです。豪徳寺の名も直孝の法号にちなむものです。
 それ以後、世田谷を代表する名刹に発展した豪徳寺は今でも松並木の参道の東側に世田谷城の土塁が残り、境内にも土塁らしき遺構が見られます。世田谷城址公園とあわせて訪れたい寺です。

(豪徳寺の参道。右手に土塁が残る)

 豪徳寺の西には吉良頼康が創建(再興?)した世田谷八幡宮や、その南に吉良氏の菩提寺・勝光院がありますが、とりあえず、ボロ市通りに戻って六郷田無道の旅を再開しましょう。


(上町駅前に立つ「上町周辺名所・旧跡案内」。「府道六郷田無道」の文字が見える。下方が北)

 旧世田谷上宿のボロ市通りは旧矢倉沢往還(大山街道)に相当しますが、西へ向かうと、世田谷通りをいったん突っ切り、すぐ「く」の字形に曲がって、再び世田谷通りを越えます。この「く」の字の屈曲点でそのまま北西方向に入る細道が六郷田無道の旧「東京府道59号・吉祥寺駒沢線」です。
 また、大山街道が世田谷通りを再び越える地点で右に入る道も六郷田無道のもうひとつのルート(南ルート)ですが、これについては後で改めて触れます。

 
(ボロ市通りから世田谷通りを突っ切り=左写真、その先で左折が大山道。正面のビルの右脇を入るのが六郷田無道=右写真)

 なお、六郷田無道を見送った大山街道は南南西に向きを変えて再び世田谷通りを突っ切ります。ここもボロ市開催時には会場になる区間ですが、やがて畳屋(弦巻5‐16‐31)の前で右に分かれ、そのまま世田谷通りに合流するのが昔の登戸道です。その分岐点に延亨3(1746)年に建立され「右登戸道、左大山道」と刻まれた道標がありましたが、現在は代官屋敷内の郷土資料館に保存され、元の位置には代替碑が立っています(下写真)。


(用賀口の分岐点。右が登戸道、左が大山道。右写真は郷土資料館に保存されている道標)

 ちなみに、現在の世田谷通りは多摩川を渡ると「津久井道」という名前が残っていますが、かつて登戸道は「津久井往還」とか「黒駒街道」などと呼ばれていました。登戸の渡しで多摩川を越え、鶴川から相模原市橋本を経て、津久井へ抜け、道志川を遡り、山伏峠を越えて山中湖畔へ下り、富士吉田、河口湖から御坂峠を越え、甲府盆地へ下るという道筋で、御坂峠の北麓に位置する黒駒に関所が設けられていました。このルートがどの程度利用されたのかは分かりませんが、津久井には戦国時代に北条方の城(津久井城)があったので、当時からそれなりに意義のある街道だった可能性はあります。

 一方、大山道は登戸道との分岐点(用賀口)を過ぎると、今は新しい道路と交錯して迷いやすいですが、とにかく一直線に南南西方向に進む道です。まもなく坂を下ると、公園の一角に大山詣の旅人像があります(弦巻4‐32)。


(旅人の像)

 ここに世田谷区が設置した解説板があります。

「江戸時代中期、関東一円の農村には雨乞いのために、雨降り山とよばれる丹沢の大山に参詣する習慣がありました。これを大山詣といいます。赤坂見附から、青山、世田谷、二子、溝ノ口、長津田、伊勢原を経て大山に至るこの道は俗に大山道とよばれていました。世田谷区内の大山道は、三軒茶屋、世田谷通り、ボロ市通り、そして弦巻を通って、用賀、二子玉川に行っていました。
 しかし、大山詣はしだいに、信仰は口実となり、帰り道東海道に出て、江ノ島や鎌倉で遊ぶ物見遊山の旅に変わってきました。この像は、そんな大山詣をする商家の主人をモデルに、たぶん一服しただろうと思われるこの場所に設置したものです」


 なぜ、この場所が休憩地点と思われるかといえば、そこに小川が流れていたからで、ここは蛇崩川の最上流部に当たります。このような場所は街道を行く旅人や牛馬にとって貴重な休息地だったのでしょう。銅像が腰かけている石はそこに架かっていた弦巻橋の台石です。
 また、すぐそばの小さな祠(弦巻4‐33、右写真)はそこにあった弦巻八幡神社(明治40年に弦巻3丁目の弦巻神社に合祀)の名残で、南北朝時代の永和2(1376 )年に初代世田谷城主とされる吉良治家が鎌倉鶴岡八幡宮に上弦巻の半分を寄進し、この土地が鶴岡八幡宮領となった頃に勧請されたものと思われます。


   桜木と満中在家

 さて、最初から道が逸れすぎました。六郷田無道を行きましょう。
 大山道から六郷田無道が分岐する地点の東側が世田谷区立桜小学校です。明治12年に設立された旧世田ヶ谷村最初の小学校で、当初は下町(下宿)の円光院の本堂を仮校舎として使用し、翌年、現在地に移転しました。この場所には元々、仙蔵院(真言宗)がありました。仙蔵院は吉良氏の時代に建立された寺ですが、明治の初めに廃寺となったのを改修して校舎としたようです。開校後も裏には墓石が転がっていたとか、人骨を見たとか、梅雨時に燐が燃えるのを見たとかいう話も残っています(『ふるさと世田谷を語る~世田谷・桜・桜丘・弦巻』)。この土地の歴史を見てきた樹齢400年以上というオオアカガシの巨木(東京都・天然記念物)が校庭に立っています(右写真)。

 世田谷2丁目の住宅街を行く旧街道はまもなく坂を下って、上町児童館の前で川跡を越えます。烏山川の支流(細谷戸川)です。この小川の一帯に昔は「勝光院下」という地名があり、さらに西の源流の谷戸には「細谷戸」という地名がありました。いずれも江戸時代までは弦巻村に属していましたが、明治22年に世田ヶ谷村に編入されました。

(細谷戸川跡を渡り、直進する旧街道)

 なお、世田谷区北西部の湧水を水源とする烏山川は目黒川の上流部にあたりますが、本来の水源とは別に玉川上水の水も引き入れていたため烏山用水とも呼ばれました。しかし、これは明治以降の呼称だそうで、江戸時代には谷沢川といい、吉良氏の時代には品川と呼んだそうです(鈴木堅次郎『世田谷城名残常盤記』、1960年)。目黒川の旧名が品川だったわけで、その河口が品川湊であり、また、世田谷城の東側にも品川橋がありました(橋跡現存)。六郷田無道はここで小さな支流を渡るだけで、烏山川本流は避け、その右岸側の台地尾根を進みます。

 川跡を越えると、右側が世田谷区桜1丁目になります。昔は旧荏原郡世田ヶ谷村桜木で、吉良氏の菩提寺・勝光院の所領でした。
 勝光院(桜1-26)は寺伝によれば建武2(1335)年に吉良治家が開いたとされる古刹(実際の開創は14世紀後半?)で、当初は竜鳳寺といい、のち興禅寺と改め、天文15(1546)年、吉良頼康が中興開基となって、さらにその子(養子)氏朝の時代に臨済宗から曹洞宗に改宗し、頼康の法号をとって勝光院となりました。世田谷城の南西、烏山川の低地をはさんだ台地上に立地し、六郷田無道を通って西から攻めてくる敵に対する砦としての役割があったとされています。吉良氏没落後、徳川家康が30石の朱印地を寄進し、この勝光院領が明治以降に桜木となったわけです。現在の町名・とともに世田谷城にあった「御所桜」にちなんだ地名と言われています。また、勝光院には見事な竹林があり、「せたがや百景」にも選定されていますが、吉良氏が敵の進軍を阻み、その視界を遮るために、各所に竹を密植した名残ともいいます。

(勝光院)

 世田谷城が廃城となると世田谷は寂れ、江戸時代から明治、大正初期まで純農村でした。このあたりも川沿いに水田があったほかは一面の畑で、寺社の森や竹藪や雑木林が点在するような風景で人家も少なかったようです。六郷田無道も夏は草が伸び放題だったそうです(『ふるさと世田谷を語る』)。
 同書によれば、今の世田谷通りの登戸道ですら、大正の初めまでは道幅こそ5、6メートルとかなり広かったものの、両側に畑が広がり、あるいは竹や杉の藪ばかりで、「道も荷車の跡だけが人の通れる道で、そのほかはひざや腰の辺まで雑草が伸びていた」といい、「追いはぎなども出没し、暗くなると一人歩きはできなかった」ということですから、六郷田無道の実態も推して知るべしでしょう。ただし、この付近では縄文中期の住居跡が発掘されており(桜木遺跡)、遠い昔から人が住んでいたことも確かです。その時代からの道なのかもしれません。

 世田谷通り方面と宮坂方面を一部トンネルで結ぶ現在建設中の道路を横切り、まもなく道の左側も世田谷2丁目から桜2丁目になります。桜2丁目は昔、世田ヶ谷村満中在家と呼ばれた地域です。

 満中在家の満中は、清和源氏の2代目・源(多田)満仲(913?-997、清和天皇の曾孫)に由来するという説があります。
 世田谷地方は中世以前に「菅刈庄世田谷郷」といったという伝承があり、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』によれば、今の世田谷区のうち西部を除く地域、および目黒区の大部分や大田区の一部にまたがる地域が菅刈庄に属したとされています(ほかに品川区や三鷹市にも飛び地あり)。それがいつの時代の誰の荘園だったのか、詳しいことは不明ですが、これが多田満仲の荘園だったという説があるのです(満仲の父・源経基が武蔵国府に赴任した際に満仲も所領を得た?)。その真偽はともかく、目黒区には今も菅刈小学校、菅刈住区、菅刈公園などがあり、世田谷区内にもこの六郷田無道にこの先、「菅刈橋」があるので、そこでまた菅刈庄に触れます。

地図①(明治13年)


   六郷田無道の2つのルート

 さて、府道六郷田無線(吉祥寺駒沢線)はそのまま西へまっすぐ伸びていきますが、世田谷2丁目と桜2丁目の間(地図①のA地点)で左へ分かれる道も無視できません(ただし、本来の分岐点は前述の通り、ここではなくB地点でした。ただし、このBからのルートは区画整理により今は途中が消えています。地図②参照))。
 六郷田無道の北を東西に走る滝坂道でも、世田谷城の西方、経堂付近で南北2本のルートに分かれますが、六郷田無道でも同様なのです(1キロ余り先で再合流)。とりあえず、ここでも両方の道をたどってみることにします。まずは北側のルートから。

 
(まっすぐ進む六郷田無道と左へ分かれる支道=南ルート。右写真は農地沿いを行く六郷田無道・北ルート)


 桜1丁目(旧桜木)と2丁目(旧満中在家)の間を行くと、部分的に道幅が広がり、左手に農地がありますが(上写真・右。その後、宅地化)、すぐに元の道幅に戻って、まもなく右手に庚申堂があります(桜1-56-1))。かつては塚があり、享保10(1725)年建立の庚申塔とともに宝暦9(1759)年建立、寛政6(1794)年再建の地蔵尊があったそうですが、塚は戦後整地され、地蔵尊は道の向かい側の桜2-12-1に移されました。
 この場所に北から突き当たるのは勝光院、世田谷城方面からの古道です(地図①参照)。


(右に庚申堂、左に地蔵尊。画面手前に右から世田谷城・勝光院からの道がぶつかる)

 

 また、地蔵尊の角を左に入ると、まもなく小さな水路(開渠)を越えた先に満桜稲荷神社(桜2-9)があります。昔からここにあった満中(仲)稲荷に桜木稲荷神社を昭和39年に合祀し、満桜稲荷となったものです。桜木の地名は今も桜木中学校などに残っていますが、ほとんど失われた満中在家の地名のうち「満」の文字だけがわずかに神社名に残されています。

(満桜稲荷神社)

 さらに進むと、桜2-22で道が二つに分かれます(下写真)。

(左の並木道が旧道)

 左側の道は保存樹に指定されたケヤキが5本並び、古道の雰囲気を残していますが、100メートル余り行くと、南北に走る道(小田急線経堂駅と東京農業大学を結ぶ農大通り)にぶつかる丁字路になっています。一方、右側の道はその農大通りを十字路で突っ切り、スムーズに西へ続きます。実はこの区間、大正時代まではケヤキ並木の道を行き、突き当たりを右折して、すぐまた左折して西へ行くという形状でした。そして、この時代には農大通りは存在していないので、丁字路や十字路があったわけではなく、ただ六郷田無道が不自然に折れ曲がっていたことになります(地図①のC地点)。
 『世田谷の地名』(世田谷区教育委員会、上巻332ページ)は、この奇妙な曲がり方について、そこが旧勝光院領の西端にあたると指摘した上で、次のように書いています。

 「勝光院のある舌状台地は世田谷城に近く、ここを敵に占拠されることは、城側の大きな不利となるので、騎馬の敵軍が一気に迫るのを阻むために、道を曲げて造られたのであろうと思われる。なお道の両側は通過不能な林であったろう」

 おそらく、戦国時代以前はこのような屈曲はなく、普通に直進できたのでしょう。そして、大正時代にこの区間が府道に指定される際に、再びこの屈曲を解消すべく、直進路が開かれたわけです(地図②参照)。

(農大通りとの十字路)

 農大通りの十字路を過ぎると、道の右側は経堂5丁目、左側は桜丘1丁目になります。
 世田谷区経堂は昔の荏原郡経堂在家村です。当時は西側で多摩郡船橋村に接し、ほかの三方を世田ヶ谷村に囲まれていました。村の北縁を滝坂道が通り、南縁を六郷田無道が通っています。2本の古道が経堂在家村と世田ヶ谷村の村境になっていたわけです。なお、経堂在家村は明治12年に世田ヶ谷村と連合し、さらに明治22年に世田ヶ谷村に編入され、世田ヶ谷村経堂在家となります。ちなみに世田ヶ谷村は大正12年に町制施行し、昭和7年に東京市に編入され、駒沢町・松沢村・玉川村と合併して世田谷区が成立しました。この時、経堂在家は世田谷区経堂町になっています。

 一方、桜丘は昔の世田ヶ谷村横根地区と宇山(うざん)地区にあたります。横根地区は横根、東横根、中横根、西横根などからなり、古くは横根山谷と呼ばれていたようです。また、宇山は多摩川沿いの宇奈根村(現・世田谷区宇奈根)の人々が入植して開墾したことに由来する地名で、もとは宇奈根山谷といいました。世田谷区が成立した際には世田谷5丁目となり、昭和41年に桜丘となりました。地域内にあった桜小学校・横根分教場(大正11年開設)が昭和5年に独立して第二桜尋常小学校となり、昭和16年に桜丘国民学校(昭和22年~桜丘小学校)と改名され、この学校名が新町名の由来にもなりました。地名にふさわしく、世田谷区内でも標高の高い地域です。

(六郷田無道と経堂二子道の交差点)

 農大通りの十字路から200メートル余り行くと、煙草屋や寿司屋のある十字路に出ます(上写真、地図①のD地点)。ここで交差する道を北へ行くと、屋敷神が祀ってあったり、蔵や古木のある旧家が点在し、やがて右へ左へと曲がりながら坂を下って、城山通りと烏山川(緑道)の経堂大橋跡を過ぎて、経堂駅へ通じる農大通り商店街へ入ります。一方、南へ行くと、六郷田無道の南ルートに突き当たり、そこに庚申塔があります。その先は東京農業大学の敷地です。農大の前には陸軍自動車学校がありました。大正時代まで、道はさらに続いて、世田谷通り(登戸道)に出て、さらに現在の馬事公苑の敷地内を抜け、用賀本村を経て、大山道(矢倉沢往還)に通じていました(地図①参照)。経堂付近では、この道を用賀道、あるいは二子道などと呼び、経堂やさらに北の高井戸方面から二子の渡しへ行くのに利用されたようです。陸軍自動車学校が開設されたせいで、二子道が分断されたため、代替ルートとして、先ほどの十字路で交差した道(現・農大通り)が東側に通されたわけです。このあたりのことについては、のちほど南ルートをたどる際に改めて触れます(地図②参照)。

 経堂二子道との十字路を過ぎると、西へ向かっていた六郷田無道は南西寄りに向きを変えます。これは烏山川支流の水源がある小さな谷戸を避けるためで、この谷戸の湧水池はこの土地の旧家・長島氏(元吉良家臣)の敷地内にありましたが、現在は世田谷区の「経堂五丁目特別保護区」となり、春と秋に一般開放されています。

(経堂五丁目特別保護区の湧水池)

 まもなく、左手に世田谷区立桜丘小学校(桜丘1‐19)です。小学校の北側に南ルートとの合流点(地図①のE地点)がありますが、道はすぐに学校の敷地で途絶えています。これは校地拡張によって南ルートが分断されたものです。この合流点付近にかつては横根駐在所がありました。

(南北ルートの合流点跡。ここに交番があった)


 では、いったん桜に戻って、今度は南ルートをたどってみましょう。
 六郷田無道から地図①A地点で左に分かれ、世田谷2丁目と桜2丁目の境界の道を南に行くと、まもなく六叉路があります。ここから桜2-1と2-8の間を西へ行くのが古道です。
 なお、古くはこの地点から細谷戸川を渡って東へ向かい、地図①のB地点で大山道に直接つながる道があり、そちらが旧ルートでしたが、昭和初期の区画整理で一部区間が消えています(地図②参照)。また、『世田谷の古道』(世田谷区教育委員会、1975年)によれば、地元の古老の話として、ここでいう南ルートの方が本道だったにもかかわらず、地元の「えらい人」が北ルートを本道にしてしまった、という記述があります(p.34)。恐らく、大正時代、府道に指定された時の話でしょう。道幅も南ルートのほうが広かったということですが、明治13年の地図①をみると、北ルートのD~Eの区間が細い線で描かれているので、古老の話と一致します。

地図②(昭和12年)

(南ルートの一部区間が区画整理により消滅。また桜丘小学校の東側の区間も校地拡張によって消滅)

(六叉路を右へ行くのが古道)

 さて、六叉路から西へ行くと、やがて左手に「桜みんなの公園」(桜2-3)という広場があり、ここで左に折れると、東京農業大学の敷地にぶつかり、ここから農大の北側の道を西へ向かいます。

(左に「桜みんなの公園」をみて農大の敷地にぶつかる)

 東京農業大学のキャンパスは旧陸軍の自動車学校(大正14年発足、昭和16年、機甲整備学校と改称、昭和18年、相模原市に移転)の跡地です。大正5年に設立が決まり、土地の買収が開始されました。
 農大の敷地沿いを注意してみると、陸軍時代の境界石がいくつか現存し、「陸軍」の文字が確認できます。おそらく「陸軍省」と彫られているのが半分埋もれているのでしょう。

(旧陸軍自動車学校の境界石)

 まもなく、農大の土地を分断するように南へ行く道が、経堂駅から城山通りと農大北で少しずつ東にずれながら南下してきた農大通りで、その先は世田谷通りです。先に触れた通り、農大通りの前身にあたる経堂からの二子道(用賀道)は自動車学校の造成によって分断されました(地図②)。その代替ルートとして造られた新道が、現在の農大通りです。今の農大の土地の一角には昔、横根山善徳院という曹洞宗寺院がありましたが、廃仏毀釈により明治の初めに廃寺となって取り壊され、跡地は桑畑になっていたそうです。その寺の山門へ通じる参道跡を道路に転用し、世田谷通り(登戸道)まで繋げたのが農大通りのうち、六郷田無道南ルートと世田谷通りの間の区間というわけです。なお、善徳院のお堂の廃材は桜小学校の校舎に再利用されたということです。

(旧善徳院参道を利用した農大通り。両脇の門柱はいつのものだろう?)

 では、先へ進みましょう。
 農大の北側を西へ行くと、まもなく左側に庚申塔があります(桜丘1‐4‐10)。ここに北から来るのが経堂二子道で、ここから南の区間が陸軍自動車学校設立により途切れました。
 この西を向いた庚申塔は安永8(1779)年の建立で、道標を兼ね、「西 府中道 四里」「北 四ツ谷道 二里半余」「南 大山道 二子川迄一里余」「東 青山道 二里半余」と刻まれています。我々が辿っているのが西へ行けば府中へ通じ、東へ行けば世田谷新宿から矢倉沢往還を通って青山へ通じる道です。南が消えた二子道、そして、北の四ツ谷は経堂からいずれかのルートを通って甲州街道へ出て、四ツ谷へ通じることを示しているのでしょう。

 
(六郷田無道・南ルートに突き当たる経堂二子道。突き当たりに道標兼庚申塔がある)

 庚申塔を過ぎると、左側の一段高い場所に稲荷社の小さな祠があります(桜丘1‐3)。

(稲荷社)

 まもなく、右手に桜丘小学校です。ここから校地を斜めに横切るように道があり、北ルートとの合流点に達していましたが、戦後の校地拡張によって消えています。そして、学校の南東角にかつて「首なし地蔵」があったということですが、現在は宇山の天台宗・久成院(桜丘4‐13)に移されています。寛延元(1748)年に建立されたこの地蔵尊も道標を兼ねていて、台石に「右 府中道 左 村中道」と彫られています。当時、六郷田無道は地元の人々に西へ行くと府中へ通じる道と認識されていたことが、この地蔵尊や先ほどの庚申塔から分かります。「村中道」とはどこかへ通じる道というより村内の道というぐらいの意味でしょうか。


(右が桜丘小学校。この地点から校地を斜めに横切る旧道があった。直進は旧「村中道」で分岐点に地蔵尊があった)


(宇山の久成院に移された「首なし地蔵」=右。今は頭部も復元。桜丘小創立50周年記念誌によれば、この2体は元から一緒だったらしい)


   菅刈橋と稲荷森稲荷神社

 さて、桜丘小学校の北側で合流した南北のルートはここからまた一本道になって西へ向かいます。
 ところで、この合流地点から北に入ると、長島大榎公園があります。樹齢400年を超える榎の巨木がありましたが、昭和44年に台風で上部が裂け、それが原因で枯れてしまいました。その後、下部のみがレプリカとして保存されていましたが(下写真)、それも老朽化のせいか、近年撤去され、切り株のレプリカ(?)のみが残っています。公園名の長島とは公園の土地を提供した長島家に由来しますが、世田谷区長(長島壮行氏、在任1953-1959))も輩出した長島氏の先祖は吉良氏の家臣で、経堂在家村の成立以前から続く旧家です。

  
(長島大榎公園。今は撤去された榎のレプリカ。道標と石橋供養塔。公園の向かい側が湧水池のある特別保護区)

 公園には世田谷通り(旧登戸道)が品川用水を渡る地点に存在した北見橋の改築記念の道標(大正3年建立)や石橋供養塔、地蔵尊(昭和9年再建)、経堂地区の区画整理事業完成記念碑などがあります。
 公園の向かい側にある、これも元々長島家の私有地で春と秋の年2回のみ一般開放される経堂五丁目特別保護区の湧水池(烏山川の水源のひとつ)を柵越しに眺めて、六郷田無道に戻りましょう。

 旧街道は経堂4丁目の交差点で新しい2車線道路を越え、経堂4丁目と桜丘2丁目の境界をさらに西へ進みます。道は緩やかに下りながら商店街に入り、まもなく小さな水路跡を越えます。ここが菅刈橋の跡です(地図③)。

(菅刈橋跡) 

 そばに世田谷区教育委員会が昭和60年に立てた説明板があります。

 江戸幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』には、今の世田谷区・目黒区・大田区にまたがる旧三十九カ村の区域と、飛地として品川区・三鷹市の旧各一村が、古代末期の「菅刈庄(すげかりのしょう)」に属していたと記されている。
 同書はさらに、現在このあたりが、庄名発祥の地で、菅刈谷の地名と、菅刈社・菅刈橋があった。菅刈橋について「字横根ヨリ北ノ方ニアリ、悪水溝ニカカル橋ニシテ、漸ク石梁二枚ヲ渡セリ。」と述べている。
 区内旧大蔵村の出身で、江戸幕府の書物奉行の石井至穀著述『世田谷徴古録』の中にある菅刈谷・菅刈社・菅刈橋などの挿絵図と、国土地理院の発行の明治・大正時代の地形図とを対照すると、風土記稿に言う菅刈橋は、この位置にあったと推定される。
 よってこの標示をして、往時をしのぶよすがとする。


 この説明文中の悪水溝とはふつう、用水路や上水路などの増水時の余り水や濁り水の排水路を意味するようですが、ここを流れる水路の上流端にはかつて品川用水が流れていたので、そこから通じていたのかもしれません。また、ここから北へ流れると、現在の小田急線付近から東に向きを変え、烏山川に注いでいました。
 この流れに沿って谷戸地形が確認できます。旧経堂在家村の南西端にあたるこの場所に古くは菅刈谷戸という地名があり、『新編武蔵風土記稿』の経堂在家村の項には「小名、菅刈谷戸、本村の坤(ひつじさる=南西)にあり、此辺菅の類繁茂したれば名とせり、当庄名(菅刈庄)の起りもこの地名によれりと土人いへり」と記しています。
 『世田谷の地名』(上)では文献資料の乏しい菅刈庄について、まとまった考察をしていますが、菅刈庄の辺境(北西端)に位置する菅刈谷戸が庄名になったのは、この付近に庄司の館があったからではないか、と推理しています。その根拠として、古代からの道である六郷田無道と、やはり当時から存在し、のちのある時期には鎌倉街道の中道にもなった道路がこの場所で交差していた、つまり交通の要衝であり、なおかつ地形的にも烏山川とその支流の谷戸に囲まれた要害の地であったことを挙げています。この付近では世田谷新宿(ボロ市通り)に市場が開かれる以前に市が開設されていたという伝承があり、実際、付近に市場開設区域の終点を意味する「市土尻」という地名があったのが、その裏付けであるとしています。

 なお、この付近にあったという「菅刈社」は創建年代や祭神は不明ですが、『世田谷の地名』によれば、「現在は経堂5丁目12番の長島池の傍に移されて『菅刈弁財天』と称えられている」としています。実際、経堂五丁目特別保護区の池のほとりには小さな祠があります。

(経堂五丁目特別保護区の池のほとりにある大小2つの祠。これが菅刈社?)

 とにかく、菅刈庄については、江戸時代以降の文献にしか記録がなく、謎に包まれているというのが現実で、その存在自体を疑う見方のほうがむしろ有力とさえいえるのですが、その範囲が伝承通り世田谷・目黒・大田区にまたがり、品川区や三鷹市の一部にも飛び地があったとするなら、その領内各所を結ぶ六郷田無道は当時から極めて重要な道だった可能性が浮かび上がるわけです。とにかく先に進みましょう。

地図③(昭和12年)


 まもなく、右手に旧横根地区の鎮守である稲荷森稲荷神社(桜丘2‐29)があります。この場所だけ桜丘の町域が六郷田無道の北側に張り出しているのです。そして、神社の東側、経堂4丁目と桜丘2丁目の境を北へ行く道が『世田谷の地名』で「ある時期において鎌倉道の中道になった」と推定している道路です。この道を北へ行くと、昔の経堂在家村・市土尻や船橋観音堂、上北沢を経て、神田川の鎌倉橋へと通じていたというわけです。
 ただ、これまで何度も引用しておきながら今さら、なのですが、『世田谷の地名』は著者の推測、推理に頼っている部分が多く、世田谷区の教育委員会が刊行しているとはいえ、全面的に受け入れるわけにはいかない書物であることも付記しておきます。読み物としては大変面白いのですが。まぁ、歴史に関する書物というのは程度の差こそあれ、基本的にそういうものなのかもしれません

(稲荷森稲荷神社の南東角の庚申塔群と地蔵堂)

 さて、稲荷森(とうかもり)稲荷神社です。創建年代は不明ながら、この神社こそ「菅刈社」であるという説もある古社で、街道の要所として神社の前には馬市が立ったという伝承もあります。
 神社の南東角には地蔵堂(延宝4=1676年建立)があり、その傍らには4基の庚申塔(1679年・1713年・1739年・1777年建立)が並んでいます。また、神社の境内にも文政9(1826)年建立の道標を兼ねた庚申塔が1基あり、「南二子道」「西登戸道」「東青山道」「北高井戸道」と刻まれています(下写真)。西が府中ではなく登戸になっているのが、これまでと違いますが、この先で登戸方面の道に接続しているので、このような標示になったのでしょう。

 
(稲荷森稲荷神社と境内の道標兼庚申塔)

 
(稲荷前の商店街。城山通りに合流した先で小田急線・千歳船橋駅により旧街道は分断される)

   千歳通り~荏原郡から多摩郡へ

 稲荷森稲荷神社を過ぎると、小田急線千歳船橋駅への道を北に見送り、すぐに城山通り(世田谷城址に由来する名称)と出合い、その先は小田急の高架線路によって分断されています。しかし、すぐ西側の交差点で南から来る千歳通りに入り、小田急の高架下をくぐり、ここから北西に続くのが旧街道の続きです。そして、この千歳通りは品川用水の跡でもあります。駒沢で別れて以来の再会です。
 この付近の品川用水は低地を通るため、土手を築いて、その上を流れていました。そのため、小田急線の建設時には盛り土の上に線路を敷いて用水を越えていたようです。

(小田急線をくぐって左へカーブする千歳通り=六郷田無道)

 さて、六郷田無道は2車線の道路になって続きます。品川用水は道の南側を流れていました。道路の南側は桜丘5丁目で、北側は船橋1丁目です。世田谷区船橋は昔の多摩郡船橋村です。つまり、ここでは六郷田無道が荏原郡と多摩郡の境界となっていました。これらの郡が置かれたのは大化の改新の頃だということなので、それだけ古い道だということです。多摩郡は明治5年から明治26年まで神奈川県に属していたので、当時は東京府との府県境でもありました。船橋村は明治22年に周辺の8ヵ村による合併で北多摩郡千歳村に編入され、明治26年に東京府に移管、昭和11年に世田谷区に編入されました。
 千歳船橋駅は昭和2年の小田急線開通時、千歳村大字船橋だったことから千葉県の船橋市と区別するために千歳船橋となったわけです。駅は経堂と船橋と横根の境界付近に位置しており、駅名をめぐって争いがあったといいますが、船橋村の村民が土地や労働力を提供したために、船橋の名前がついたということです。当時、駅の北側には湧水の池があり、烏山川に通じていたようで、この水源を求めて経堂の領域が千歳船橋駅付近まで伸張していたわけです(今でも千歳船橋駅の東半分は経堂の町域に含まれます)。

 千歳通りとなった六郷田無道から桜丘5-48と49の間で南へ行く道(地図③参照)は環状8号線の前身にあたる旧東京府道67号・田無溝口線で、三本杉を経て、今の砧公園内を通り、瀬田で玉川通り(大山街道=矢倉沢往還)に接続しています。一方、ここから北へは少し西へずれた船橋1-37と38の間から伸びていき、旧船橋村の中心部を通り、現在の赤堤通り、環八旧道を経て、最終的に荻窪駅の東側で青梅街道に接続しています。

 
(六郷田無道と交わる旧府道67号線。左が南方向、右が北方向)

 さて、まもなく左手に浄土真宗の浄立寺があります(桜丘5‐50‐22)。戦国末期の慶長年間に高輪(港区)に創建された寺で、元和3(1617)年、築地本願寺の寺地に移転、関東大震災で被災し、昭和4年に現在地に移ってきました。

(水道道路の手前にある水路跡。谷戸川の源流部か)

 浄立寺前を過ぎ、昭和初期にできた荒玉水道道路と交差すると、すぐその先で環状8号線にぶつかります。昭和40年代に造成された道路ですが、この場所で品川用水は六郷田無道の南側から北側に移っていました(水の流れはこの文章表現とは逆方向です)。築堤上を流れる用水と道路との交差地点にかかる橋が稗殻橋で(地図③参照)、その前後は急坂になっており、交通の難所でした。また、このあたり、船橋村には土手下という地名があり、品川用水が氾濫すると、土手が洪水をせき止めて、一帯が湖のようになったようです(世田谷区『ふるさと世田谷を語る~粕谷・上祖師谷・千歳台・船橋・八幡山』、平成7年)。

地図③(明治42年)


 
(環八と斜めに交差する千歳通り=六郷田無道。この交差点付近に稗殻橋があった)

 環状8号線を越えると、世田谷区千歳台、昔の多摩郡廻沢(めぐりさわ)です。六郷田無道は引き続き2車線の千歳通りとなっていて、バス停に「廻沢」の名前が残っています。

(廻沢バス停)

   塚戸十字路から榎交差点へ

 やがて、塚戸十字路に出ます。ここに南から来るのが祖師谷通りで、現在は沿道にある円谷プロダクションにちなんで「ウルトラマン商店街」と呼ばれていますが、これもかなりの古道です。小田急線・祖師谷大蔵駅を経て、世田谷通り(旧登戸道)に通じています。逆方向は一部消えた区間もありますが、京王線・芦花公園駅、井の頭線・富士見ヶ丘駅を経て荻窪方面へ通じていたようです。芳賀善次郎著『旧鎌倉街道探索の旅・中道編』では鎌倉街道の支道として、このルートが取り上げられています。
 その祖師谷通りはこの十字路から千歳通りに吸収され、今はなき品川用水沿いに北へ向かい、一方、品川用水と再び別れた六郷田無道は昔のままの道幅に狭まって、北西へ向かいます。

(塚戸十字路。千歳通りと品川用水跡は右へ。六郷田無道は直進)

 
(十字路の郵便ポスト前に庚申堂。祖師谷通りはウルトラマン商店街))

 十字路の南東角には庚申堂があり(上写真)、享和2(1802)年建立の「庚申塔」の文字を刻んだ道標があります。「東 世田ヶ谷道」「南 二子道」「北 高井土(戸)道」と彫られていて、西は摩耗が激しく読み取れませんが、「西 府中道」だったようです(庚申塔は元は南西角にあったようです)。
 なお、塚戸の地名は付近に大きな塚が存在したことに由来します。また、このあたりには根ヶ原または根河原という地名もあったようで、一時、他所に移されていた庚申塔を現在地に再建したのも「根ヶ原講中」の方々です。

 塚戸十字路を過ぎると、北側は千歳台6丁目、南側は祖師谷6丁目となります。
 世田谷区祖師谷は昔の(北)多摩郡下祖師谷村(明治22年の合併により千歳村大字下祖師谷)で、現在の世田谷区上祖師谷にあたる旧上祖師谷村とは17世紀末の元禄時代に分かれるまでは一つの祖師谷村でした。
 祖師谷
という地名は昔、この地に地福寺(日蓮宗か)という寺があり、境内に祖師堂があったことに由来するといいます。地福寺がどこにあったのかは不明ですが、一説には釣鐘池(祖師谷5‐33)の北側台地付近と伝えられています(地図③参照)。祖師谷の域内には北から南へと仙川が流れ、そこに釣鐘池の湧水が注いでいるので、これらの川沿いの谷地に人が住みつき、村ができて、そこに寺が建立され、祖師谷の地名が生まれたということでしょう。

(塚戸十字路の南西にある釣鐘池)

 まもなく左手に塚戸公園(祖師谷6-20-1)があり、そこに六郷田無道をたどる者にとって見逃せないものがあります(実は僕はずっと見逃していました…)。
 「せたがや百景」「上祖師谷の六郷田無道」が選定されているわけですが、その解説プレートが設置されているのです。公園の所在地は祖師谷であり、上祖師谷はこの先の榎交差点以北なのですが、とにかく、この場所に解説があります。

 「この道は、かつて『府道六郷田無線』といって、今の中央線である甲武鉄道が明治22年に新宿~八王子間に開通するまでは、六郷・蒲田・大森方面から大岡山・上馬・上町を経て、給田の北縁を通り三鷹を経由して田無方面に通じる昔の往還道でした。今では、狭いうえに交通量も多く、古い道とは想像もできませんが、地形に素直に合っている道筋は、なぜか人の匂いがあります」

 
(塚戸公園にある「せたがや百景 No.48 上祖師谷の六郷田無道」の解説。今は同じ公園内の写真とは別の場所に移設)

 プレートには解説文に昭和30年の地図が添えられ、六郷田無道が図示されていますが、塚戸付近から榎付近までのごく短い区間のみです。どうせなら全区間の地図を載せてくれればありがたいのですが…。

(榎交差点手前の六郷田無道)

 さて、右手に明治8年創立という塚戸小学校を見て、やがて、滝坂道と交わる交差点に出ます。渋谷道玄坂上で矢倉沢往還から分かれて、目黒区から世田谷区に入り、世田谷城の北側を通って、経堂、八幡山、上祖師谷を経て調布市の滝坂上で甲州街道に合流する滝坂道は甲州街道の裏街道として利用された往還です。ここまで道標に多く見られた「西 府中」はここから滝坂道に入って府中方面へ向かうということなのでしょう。
 一方、府中の大国魂神社の神職が大祭を前に品川の海水で禊を行う「浜下り」では江戸時代の記録によれば、府中から金子(いまの調布市西つつじヶ丘)、馬引沢(いまの世田谷区上馬付近)を通って品川へ向かったということなので、甲州街道~滝坂道を通って榎まで来て、ここからは我々が辿ってきた六郷田無道経由で行ったのでしょう。

 とにかく、榎交差点は古くから2本の古道が交わる十字路で、その東側にエノキが生えていたことから、そう呼ばれました。上祖師谷郷土研究会が設置した説明板によると、エノキの根元には石の道標があり、「北・井之頭、東・江戸四谷、西・滝坂、南・二子」と彫られていたということです。

 
(六郷田無道の南側からみた榎交差点=左写真。同じく北側からみた榎交差点=右写真)

 現在はここから北の烏山方面に新しい2車線道路が伸びて、交差点は五叉路になっており、ここから東側の滝坂道も拡幅された立派な道になっているため、古道らしさを保っているのは南北に走る六郷田無道および滝坂道の西側区間だけです。その滝坂道の榎より西の区間も道幅が狭いわりに交通量が多いため、現在、旧来の道の北側に新しいバイパス道路の建設計画が進行中です。これが完成すれば、榎交差点は六叉路になるわけです。

    上祖師谷の六郷田無道

 その榎交差点を過ぎると、昭和59年、「せたがや百景」に選定された「No.48 上祖師谷の六郷田無道」の区間です。
 ここから上祖師谷(旧多摩郡上祖師谷村、明治22年以降は千歳村大字上祖師谷)の町域に入り、道の東側が1丁目、西側が2丁目です。
 まもなく、右手に庚申塔があります(上祖師谷1‐1‐4、下写真)。文化9(1812)年に建立されたもので、「東たかいどミち 南せたがや めぐろみち 北ところざハミち」と彫られています。説明板によれば、もとからこの場所にあったようで、東の「たかいど」はここで右に入る道を行くと粕谷の地蔵堂を経て甲州街道の高井戸方面に通じるということのようです(地図③参照)。南は我々が辿ってきた六郷田無道で、「めぐろ」は目黒不動尊への参詣者のための道しるべです。北の「ところざハ」は言うまでもなく所沢で、これはこの道を北へ行けば田無から所沢街道へ通じることを意味しています。この道標は六郷田無道がまさに田無へ通じる道と認識されていたことを示すものとして、貴重といえば貴重です。

(上祖師谷の庚申塔)

 
やがて、道の両側が吉実園という農園になります。造園業が中心らしいですが、敷地内にはニワトリが放し飼いされていたり、野菜の栽培や豚の飼育までしているようです。

 
(吉実園前の六郷田無道)

(放し飼いのニワトリがいる吉実園)

 吉実園の敷地の一角には道に面して「長太稲荷」があります。この小さな稲荷社の祠の脇には古い石柱があり、よく見ると、それは道標であることが分かります。そして、それは榎交差点にかつて生えていたエノキの根元にあったという「北・井之頭、東・江戸四谷、西・滝坂、南・二子」の道標のようです(ただ刻まれている文字がちょっと違うような気も・・・)。

 
(長太稲荷社と境内の道標)

 吉実園を過ぎると、閑静な住宅街の道という感じですが、狭いわりにクルマの通行が多く、注意が必要です。途中、左側から合流する道も古いケヤキが並んでいたりして、古くからの道なのでしょう。

(古道沿いには昔ながらの酒屋が多い)

 道は千歳烏山駅方面からの道路と交差し、その信号の先は2車線となり、まもなく世田谷区給田(旧多摩郡給田村、明治22年以降は千歳村大字給田)に入ります。

 
(六郷田無道はこの先、2車線になり、京王線の踏切を越える)

 給田(きゅうでん)とは一般的には荘園領主が現地で土地や農民の管理や徴税を担う荘官に対して報酬として給与した田地をいい、ここの場合もそれがそのまま地名になったものでしょう。戦国時代末期の文献にも見られる古い地名ですが、具体的な領主や荘官の氏名など詳しいことは不明です。
 この給田には六郷田無道沿いではありませんが、六所神社(給田1-3-7)があり、伝承によれば、天文年間(1532-1554)に府中・大国魂神社の分霊を勧請して創建されたといいます。そうだとすれば、甲州街道が開かれる前ですから、大国魂神社の神々は府中から人見街道~六郷田無道を通って給田の地までやってきたのでしょう。

 とにかく、世田谷区の北西端の町、給田までやってきました。京王線の踏切(千歳烏山~仙川間)を越えると、まもなく「給田町」(昭和11年に世田谷区に編入後の町名。昭和45年の住居表示実施により給田1~5丁目となる)の交差点で旧甲州街道にぶつかります。そして、その先は烏山バイパスとして建設された現在の甲州街道・国道20号線と交わる給田交差点で、ここから六郷田無道は「吉祥寺通り」となります。

 
(給田町交差点。左写真は六郷田無道・南側から、右写真は旧甲州街道・西側から)
 

 (昭和6年の地図でみる六郷田無道・世田谷新宿~給田)
赤線が六郷田無道。緑線が本文中に登場するその他の古道)

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