《世田谷の古道》 品川道

人見街道  府中~新川宿

 古代の武蔵国府と江戸湾の港・品川を結ぶ「品川道」。いくつものルートが考えられますが、まずは人見街道経由で品川をめざします。


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品川道 府中~新川宿 新川宿~給田 給田~世田谷  世田谷~駒沢 駒沢~品川 

     府中~狛江  狛江~喜多見~用賀~駒沢


  府中における「品川道」とは何か

 古代において武蔵国府の置かれた東京府中市から東へ連なる調布市、狛江市にかけて「品川道」「品川街道」「品川通り」などと呼ばれる古道が存在します。めざす品川とはいまの目黒川(古くは品川と呼ばれた)の河口部にあたる品川湊であり、武蔵国府から最も近い海港として重要な場所だったとされ、『調布市史』(上巻)では「古代以来の江戸湾の水運の拠点と国府の置かれた府中をむすんでいた」のが品川道であると位置づけています。
 また、武蔵国の神々を合祀した総社である大國魂神社(近世までは六所宮六所大明神と呼ばれた)では毎年五月五日の大祭に先立って神職が品川沖の海で禊を行い、海水を汲んで持ち帰る「浜下り」の行事も古来、行われています。
 『調布市史』によれば、「品川道は大國魂神社の神事の道であり、江戸湾の水上交通網とむすぶ交易・物資集散の道としても機能していた」ということになります。ただ、品川湊が発展したのは中世の14世紀以降だといい、古代の品川に関する記録はほとんど残っていません。また、後述するように六所宮の「浜下り」神事に『調布市史』のいう「品川道」が利用されたという記録もありません。従って、『調布市史』の記述をそのまま受け入れることはできません。
 さらに、古代における武蔵国の重要な海港として、武蔵国府と下総国府(千葉県市川市)を結ぶ古代官道が国境にあたる現在の隅田川を渡っていた石浜(台東区橋場・荒川区南千住)から浅草にかけての一帯が陸上交通と水上交通の結節点として「国府の外港」だった可能性を提示する見解もあります(小野一之「隅田川から武蔵野へ―『伊勢物語』の史的一考察」、「府中市郷土の森博物館紀要」15号、2002年)。東京最古の寺院とされる浅草寺がこの地域にあることも、この一帯が古代から重要な場所だったことの証といえます。

 ところで、府中、調布、狛江と続いた「品川道」の呼称は世田谷区に入ると消え、その古道ルートは世田谷区内では専ら「筏道」と呼ばれています。筏道とは江戸から明治にかけて青梅、奥多摩方面で伐りだした木材を筏に組んで多摩川を流れ下った筏乗りたちが六郷や羽田で木材を引き渡した後、徒歩で家路を急いだ道です。つまり、品川道と筏道はルートが一部重なるとしても、時代背景も性格も全く異なるわけです。
 世田谷区から先で府中から続く「品川道」の伝承が途絶えるため、そこから東のルートは何通りも考えられます。『調布市史』では狛江市以東について「その先はよく分からないが、世田谷を経て、品川の立会川付近で東海道に結ばれていたという」と書いています(地図①ののルート)。ただ、このルートは途中で野川や入間川、仙川、谷戸川、谷沢川、呑川など多くの河川を渡らねばならず、古代の武蔵国府と品川を結ぶ幹線道路としては難があるようにも思えます。そもそも古代の品川道と中世、近世の品川道がずっと同じルートだったのかどうかも分かりませんし、古代の品川に特に重要な意味があったのかどうかも不明です。また、多摩川の水量が今より多く、途中に堰など存在しなかった昔は府中から品川まで舟で行くことも可能でしたし、陸路と多摩川水運を組み合わせたルートも考えられますが、ここでは陸路に限定して考えることにします。

地図①東京府郡区全図(部分) 明治29年


 そんななか、六所宮の「浜下り」神事の際の道筋として江戸時代の安永8(1779)年と天保14(1843)年の神主の日記(『六所宮神主日記』)に記録が残されています。それによれば、早朝に神馬を引いて府中を出発した神職一行は金子(いまの調布市西つつじヶ丘付近)、馬引沢(いまの世田谷区上馬付近)を経て、目黒不動尊に立ち寄り、品川宿へ至ったということなので、府中から金子まで甲州街道(正式には甲州道中)を来たことは確かです。
 その甲州道中は江戸初期に開かれた道です。それ以前はより古い南側の品川道を通り、狛江を経由して品川へ行ったのであれば、甲州道中が開かれた後も金子より手前の国領から狛江へ出て、伝統的なルートを辿ったはずです。実際、国領と狛江を結ぶ現・狛江通りも江戸時代の「品川道」だといいます。
 しかし、神職一行は狛江を通っていません。どこを通ったのか。金子の先、滝坂上で甲州道中から分かれる「滝坂道」に入り、祖師谷ので「南せたがや めぐろみち」の道標に従って南へ折れ、いわゆる「六郷田無道」を辿って馬引沢へ至り、ここからはひたすら品川用水に沿って目黒、品川へ行ったのだろうと思われます(地図①ののルート)。

 大國魂神社の神職一行が休憩した「馬引沢」は三軒茶屋であったという解釈も成り立ちます。その場合、六郷田無道の世田谷新宿から今の世田谷通りを通って三軒茶屋に出て、さらに次の休憩地、目黒不動尊へも全く違うルートをとったことになりますが、それは寄り道、遠回りであって、府中と品川湊を結ぶ本来の幹線ルートからは大きく外れることになるので、ここでは考えません。

 江戸後期の文化3(1806)年完成の『甲州道中分間延絵図』では甲州道中と滝坂道の分岐点に「品川道宿迄道法五里」ほかの表記があり、渋谷や目黒不動へも通じる旨が記されています。ここからも甲州道中~滝坂道~六郷田無道経由が江戸時代には調布・府中方面から目黒・品川方面への主要ルート(のひとつ)になっていたことが推察できます。

 そして、この経路を通るのが当時の「浜下り」の慣例だったとするなら、甲州道中開通以前は府中から人見街道新川宿(三鷹市)へ行き、そこから六郷田無道に入って品川へ行ったのではないか、と個人的には想像しています(地図①のルート)。このルートは古道らしく大部分が尾根筋を通っているのが特徴で、甲州道中だと途中で野川、入間川、仙川を渡りますが、人見街道経由だと渡るのは野川だけで、入間川と仙川の源流域の北側を通り、しかも距離はほとんど変わりません。むしろ短いのではないでしょうか。

 また、この人見街道は新川宿からそのまま東へ直進すれば江戸へ到達するように、近世以前の府中と江戸方面を結ぶ主要道でもあったと思われ、武蔵国府から石浜・浅草方面へ通じ、下総国府に至る古代の官道だったともいわれます。
 そして、徳川幕府がより距離の長い甲州道中を開いて以降も人見街道は府中方面と江戸方面を結ぶ近道と認識されており、それなりに利用されていたようです。ただ、水の便が悪く、開発が遅れた人口希薄な地域を通り、休むのに適した場所が少ないという難点はありました。新川宿も宿場だったわけではありません。
 それでも三鷹市教育委員会『三鷹の民俗10 新川』(1987)によると、明治期の話だと思いますが、新川宿付近は「東京方面への荷馬車が多く通っていた」といい、新宿からちょうど3里の新川宿には馬を休ませる「ケイバ(かいば)屋」などがあったと書かれています。そして、「府中の神主の馬が通ったことがあるという」との興味深い記述もあります。また、新川宿にはこの道筋を「六ごう道」(六郷道)とする道標があり、世田谷区内ではこれを「品川道」とする伝承もあるようです。
 
 とにかく、個人的には古代からの武蔵国府と品川湊を結ぶ幹線道路は人見街道、六郷田無道経由だったと考えているわけですが、それとは別に府中から調布市、狛江市にかけて「品川道」との伝承をもつ古道が存在したことも確かです。この道がたどる府中崖線(多摩川の沖積低地と武蔵野台地立川面の段丘崖)沿いには旧石器時代や縄文時代の遺跡が発見され、数多くの古墳が存在し、奈良・平安時代の遺跡があるなど、人々の生活の営みが連綿と続けられていました。古代においては武蔵国府と古代東海道の大井駅(品川区大井付近)への道、あるいは荏原郡衙(所在地不詳)への道としての役割があったことも考えられます。この地域を古くからの幹線道路が通る必然性はあるわけです。
 このルートが「品川道」と呼ばれた記録は江戸時代以降にしか残されていませんが、なぜ品川道だったのか。当時、多摩地方からみて、「品川」が単に品川湊や品川宿を指すだけでなく、江戸湾岸地方の象徴的な地名として、より広い範囲を指し、府中から東へ向かう道筋に「品川道」という呼称がついたということなのかもしれません。

 とにかく、ここでは甲州街道が開かれる前に府中から東へ通じていた人見街道(ルート)と品川街道(ルート)、ふたつの道筋をたどって品川をめざすことにします。
 まずは人見街道を行きましょう。


    府中と大國魂神社

 京王線府中駅の西口に出ると、国天然記念物に指定されたケヤキの並木道があります。南北に550メートルほど続くこの並木道が大國魂(おおくにたま)神社の参道(馬場大門欅並木)です。

(大國魂神社の馬場大門欅並木。両側が家康の寄進した馬場跡)

 大國魂神社は第十二代景行天皇41年(西暦111年)に創建と伝わる、それが本当なら1,900年以上の歴史を持つ神社です。その時、この地に降臨した大國魂大神を地元の人々が祀ったのが起源だといいます。それが史実かどうかは別としても、大変な古社であることは間違いありません。

 
(武蔵国総社の大國魂神社)

 多摩川の流れが形成した河岸段丘のうち、多摩川低地より一段高い立川段丘上に立地し、段丘崖(府中崖線)を背に北向きに鎮座する大國魂神社とその周辺地域に大化の改新後、武蔵国府が置かれ、神社は祭祀の場となります。当初、都から派遣された国司は任国内の神社を巡拝し国の安寧を祈願する慣習がありましたが、巡礼は長期にわたるため、やがて11世紀後半に国内の神々を一か所に祀る総社が成立します。大國魂神社が武蔵国の総社となり、ここには武蔵国の一之宮から六ノ宮までが合祀されています。一之宮から六之宮までの順位について異説もあるようですが、公式には以下の通りです。

 一之宮 小野大神   小野神社 (多摩市)
 二之宮 小河大神   二宮神社 (あきる野市)
 三之宮 氷川大神   氷川神社 (さいたま市大宮区)
 四之宮 秩父大神   秩父神社 (秩父市)
 五之宮 金佐奈大神  金鑚神社 (埼玉県神川町)
 六之宮 杉山大神   杉山神社 (横浜市緑区)

 このため、大國魂神社は六所宮、六所大明神と呼ばれるようになり、時代ごとの関東の支配者から崇敬を受けるようになります。
 古くは平安時代に源頼義・義家父子が陸奥の前九年の役の平定に向かう途上、六所宮に戦勝を祈願し、この時、品川の海で禊を行ったともいい、それが大國魂神社の浜下り神事の起源とも言われています。父子は奥州平定を果たした後、再び六所宮に参拝し、ケヤキの苗木千本を寄進したのがケヤキ並木の始まりとも伝えられています。これらはいずれも伝説の域を出ず、証拠は一切ありませんが、現在、並木道に源義家の銅像が立っています。頼義・義家父子が遠征の途上で武蔵国府に立ち寄ったことは確かなのでしょう。

(八幡太郎源義家公)

 また源頼朝が六所宮に使者を送って妻・北条政子の安産を祈願し、さらに社殿を造営したり、徳川家康が関東に入ると、破格の500石もの朱印地を寄進し、参道のケヤキ並木を整備し、その両側に馬場を寄進したりしています(武蔵野は馬産地として知られ、この馬場で馬市が開かれました)。現在の社殿は正保3(1646)年に火災で社殿が焼失した後、4代将軍・徳川家綱の命により寛文7(1667)年に再建されたものです。
 もちろん、権力者だけでなく、多くの民衆の信仰も集め、例大祭には遠方からも多くの人が集まったといいます。
 その例大祭は武蔵国の国府祭を起源とし、「くらやみ祭り」として知られています。4月30日(昔は4月25日)の品川での海上禊祓式から始まり、5月5日には六宮の神々と大國魂大神、御霊大神が8基の神輿に乗せられ、府中の町を巡行し御旅所へ渡御して夜を明かし、翌日、再び町を廻って神社に還御して祭礼は終わります。この神輿の渡御が神聖なものは人目に触れてはならぬという考えから深夜に町のすべての灯火を消した闇の中で行われたため「くらやみ祭り」の異名がついたわけです。現在の神輿渡御は夕刻から行われています。
 とにかく、武蔵国府が滅びてから長い年月が経った江戸時代の各地の道標にも行き先に府中を示すものが多く見られるのは、六所宮の存在が大きかったと思われます。六所宮では「くらやみ祭り」のほかにも年間を通じてさまざまな祭礼が行われ、また市が開かれ、多くの人を集めていたのです。

 大國魂神社の鳥居前を東西に走る旧甲州街道を西へ行くと市役所前の交差点があり、ここで交差する南北の道が今は府中街道と呼ばれますが、かつては相州街道、鎌倉街道などと呼ばれました。相州街道は古代においては相模国府と武蔵国府を結ぶ道であり、その後、鎌倉が軍事・政治・経済の中心となった時代にも、さらに戦国期の関東を支配した小田原北条氏の時代にも、この南北の道は大変重要な往還として機能していたのです。南からきた街道は交差点で少し西にずれて北上しており、その旧道は今も残っています。府中から北は川越街道とも呼ばれました。交差点の南西角には御旅所と高札場があります。また、交差点を西へ行くと、多摩川の低地を見渡す台地上に足利尊氏が再興したとの伝承をもち、南北朝の動乱期にはたびたび鎌倉公方の陣所となった古刹、高安寺があります。

(市役所前交差点の御旅所と高札場)

(府中街道旧道と御旅所)

 古くから交通の要衝であった府中は江戸時代に甲州街道が整備されると、江戸から4番目の宿場町となります。府中宿は江戸時代以前、相州街道沿いに発達した本町、大國魂神社前から西の甲州街道沿いの番場宿、神社前から東の甲州街道沿いの新宿からなっています。

    府中~人見

 では、大國魂神社前からスタートしましょう。そこには「府中町道路元標」があります。当時の北多摩郡府中町(昭和29年に西府村、多磨村と合併し府中市となる)の道路の起終点として大正9年に設置され、平成2年に復元されたものです。

(府中町道路元標)

 ここから旧甲州街道を東へ向かいます。江戸初期の甲州街道は大國魂神社の境内を横切る形で随神門前を通っており、慶安から寛文の頃に現在のルートに付け替えられたと考えられています。ただし、古代武蔵国府の発掘調査で現在の旧甲州街道とほぼ重なる東西の道の遺構が発見されています。

 
(旧甲州街道)

 とにかく、旧甲州街道を東へ行きます。まもなく「八幡宿」の交差点を過ぎます。ここから東の八幡町はかつての多摩郡八幡宿です。宿場があったかのような地名ですが、六所宮領の農村でした。ちなみに府中の属していた多摩郡は明治になって東西南北に分割され、この一帯は北多摩郡になっています。現在の杉並区・中野区にあたる東多摩郡(のち豊多摩郡)だけが東京府で、ほかは明治26年まで神奈川県でした。

 (国府八幡宮)

 まもなく八幡宿の地名の由来となった武蔵国府八幡宮の長い参道が南へと伸びていきます。社殿が西を向き、国府を守護する国府八幡宮の創建年代は不明ですが、鎌倉時代に存在していたことは確実で、聖武天皇(在位724‐749)の勅命により一国一社の八幡宮として創建されたという伝承をもっています。

 八幡宮を過ぎると、小さな公園に「八幡宿」についての解説碑があり、その次の角を北へ行きます。ここで甲州街道から分かれて人見街道に入るわけです。ちなみにここを南へ行くと、八幡宮の森の東端で昔の江戸初期の甲州道の名残とされる未舗装の小径「八幡道」にぶつかります。

(古道はここから北東=右斜め方向へ続いていた)

 さて、人見街道に入って北へ行くと、すぐに京王線の踏切を渡り、道はそのまま北上しますが、昔の人見街道はこの踏切付近から北東方向へ伸びていました。しかし、この区間は完全に消えてしまっています。
踏切の向きとその先の道路の向きが微妙にずれているのが消えた古道の名残でしょうか(上写真)。もっといえば、鉄道開通時に線路と直交するように道路が改修されており(地図②)、それ以前は甲州街道から分かれてすぐ北東に向かい、踏切部分での屈曲はありませんでした。
 この区間の京王線(当時は京王電気軌道)が開通したのは大正5(1916)年のことです。そして、この踏切に接するように京王線開業時には八幡前駅がありました。鉄道と幹線道路の交点に駅ができるのは自然なことでしょう。この八幡前駅は昭和12(1937)年に東府中駅と改称されますが、500メートル東に開設された臨時競馬場前駅に「東府中」の名称を譲り、昭和15(1940)年に廃止されています。

地図②(昭和2年)


 とにかく、この先はしばらく人見街道をたどることができないので、現在の甲州街道・国道20号線を渡って住宅地を北へ行きます。そこにはかつて陸軍の燃料廠がありました。昭和15年に人見街道を分断する形で開設され、戦後は米軍に接収されます。そして、現在は広大な敷地の北から東側が航空自衛隊府中基地となり、西側が芸術劇場や市立美術館のある府中の森公園となって、敷地の南西角には市立浅間中学校があります。

地図③(平成5年)都市化と基地の設置で途切れた人見街道


 
(航空自衛隊府中基地。鉄塔をほぼ真横に見る地点で右折))

 府中基地の敷地を南から東側へ回り込み、基地のフェンスを背に立つ芸術劇場などの道案内のある地点を右折するのが基地で消えた人見街道の続きで、まもなく新小金井街道の交差点に出ます。
 交差点手前に府中市が建立した「人見道」の碑があります。

 
(人見街道起点の新小金井街道交差点と「人見道」碑)

 「人見道の名は、この道が八幡宿から人見へ行く道だったことに由来します。この道は「こみとめ道」と合流して人見街道に通じています」

 現在の人見街道はこの新小金井街道交差点が起点となっているため、それより府中寄りの消えた区間のうち断片的に残る道を「人見道」と称しているわけです。ここで合流する「こみとめ道」とはやはり府中市街からこの地点まで人見道よりも西側を通ってやってくるルート(地図②参照)で、やはり府中基地で分断されています。現在の府中の森公園内にかつて「小人見塚」と呼ばれるなだらかな丘があり、そのそばを通っていたので「こひとみ道」と呼ばれていたのが、転じて「こみとめ道」になったといいます。
 「人見道」と「こみとめ道」はかつては新小金井街道交差点付近で合流していましたが、現在はその西側で「こみとめ道が」が「人見道」に直角にぶつかる形になっています。いずれにしても、どちらの道も現在は基地によって消えてしまっています。

 さて、新小金井街道の交差点から正式に「人見街道」です。現在は都道110号線ですが、大正9年以降は旧東京府道24号府中中野線でした。もっと昔は氷川神社のある埼玉県の大宮、あるいは大宮八幡宮のある杉並区の大宮へ通じるという意味で「大宮街道」とか下総国へ通じる「下総街道」の名前もあったといいます。

 
(現在はここから「人見街道」)

   人見村

 とにかく、いかにも旧街道らしい道幅の人見街道を東へ行きます。現在の町名は府中市若松町ですが、ここがかつての武蔵国多摩郡人見村です(若松町3・4丁目付近)。
 人見村はこの街道沿いではかなり古い歴史を持つ村で、村の東部で大正15年に「奉祭祀三所之宮陽魂 擁護所資頼一躯志」と刻まれた府中最古、建長4(1252)年の板碑が出土しています。『府中市郷土資料集3・府中の石造遺物』(1980年)では年号の「建長」は「建武」の改刻であろうとしていますが、建武4年だとしても1336年ですから、古いことに変わりはありません。この出土地には六所宮の大祭(国府祭)の時、三之宮である大宮氷川神社からやってきた神輿が立ち寄る御旅所があり、ここで一泊して国府からの迎えの使者を待ち、六所宮へ渡御したといいます。
 この板碑の「三所之宮」について大國魂神社の宮司・猿渡盛厚氏(1875‐1965)は著書『武蔵府中物語』(1963年)の中で「三所之宮」と「三之宮」の意味の違いを指摘し、板碑にある「三所之宮」とは氷川神社のことではなく、六所宮の内の一之宮・小野神社(多摩市)のことであるとし、小野神社の祭神である天下春命、瀬織津比咩命、倉稲魂命の三柱(三所の御神)を人見村に勧請したのが、このあと訪れる人見稲荷神社の起源であるとしています。
 また、府中出身の歴史家・菊池山哉氏(1890‐1966)は板碑の「三所之宮陽魂」というのは三之宮(大宮氷川神社)の神輿のことであるとし、それを擁護するところを資頼ひとりの志でこしらえたという意味で、従来は仮設だった御旅所を資頼という人物が本建築にしたのだろうと述べ、猿渡氏の説とは対立する見解を述べています(「六所明神の起源に就て」、『府中市史史料集11』、1966年)。
 さらに府中市教育委員会編『府中市の文化財』(1985年)には「この板碑については諸説あるが、『三所宮』は熊野本宮・新宮・那智の三所と考え、修験道板碑とする意見が有力である」とあり、その改訂版(1997年)では熊野三所に加えて東国の武家が尊崇した箱根三所権現の可能性も提示しています。

 では、板碑にある「資頼(すけより)」とは何者なのか。鎌倉時代の史書『吾妻鑑』に寛喜4(1232)年2月24日に武蔵国六所宮の拝殿が壊れ、これを修理するため武藤左衛門尉資頼が奉行に任じられたという記事が載っています。また人見稲荷神社の縁起ではその1年前の寛喜3年に同一人物と思われる武蔵左衛門尉資頼が人見村に三所宮を勧請し、以後神事に尽くしたという伝承があります。この三所宮とは『武蔵府中物語』では小野神社のことであり、それを資頼が人見村に勧請したということになるようです。
 この資頼が板碑の人物と同じであるとして、建長4(1252)年なら20年後なので、さほど矛盾はありません。ただ、『府中の石造遺物』の建武4年の改刻説に従うと、1336年なので、100年以上も後になってしまいます。
 ところで、この武藤氏は藤原氏の後裔といい、武蔵に土着した藤原氏ということで、武藤を名乗ったとされます。そして、その系譜において武藤資頼といえば平安末期の平家方の武将で、源平の戦いでは源頼朝に臣従し、鎌倉の御家人となった人物が有名です。この後、資頼は九州に派遣され、太宰少弐に任ぜられ、以後、その子孫は九州でこの職を世襲して少弐氏と称するようになります。ただ、太宰少弐武藤資頼は安貞2(1228)年没と伝わっています(生年は1160年)。となると、『吾妻鑑』の武藤資頼は太宰少弐の資頼とは別人ということになります。だんだん話がややこしくなってきたので、ここでは深入りしないことにします。

 ついでに書くと、旧人見村では応永16(1409)年の「南無妙法蓮華経」の題目を刻んだ板碑も出土しており、日蓮宗の板碑としては府中市内でも三多摩地方でも唯一のものだといいます。これから我々がたどる道は池上本門寺へ通じる道でもあるので、人見村の日蓮宗信者にとっては大切な道だったかもしれません。

(浅間山)

 ところで、人見村ですが、街道の北側にある浅間山の別名が人見山であり、その麓にできた村落が人見村となったとか、昔、武蔵七党の人見氏一族が来住したことにちなむ、などの説があります。ただ、人見氏の本拠は現在の埼玉県深谷市人見(昔の武蔵国榛沢郡人見郷。合併により大里郡藤沢村人見)とされ、ここにも浅間神社が鎮座する人見山(仙元山、浅間山)があり、人見氏の創建した一乗寺(時宗)があり、境内には人見氏累代の墓もあります。こうしたことから『武蔵府中物語』では府中の人見村と人見氏の関係を疑問視し、深谷市の人見と混同したものとして、府中の人見村は平地にそびえる浅間山が敵勢の動向を見張るのに適した山という意味で人見山と呼ばれ、それが村名になったとしています。
 ただ、八王子市明神町の子安神社(祭神は浅間神社と同じ木花開耶姫命)には元徳2(1330)年に人見四郎入道光行という人物が社殿を再建したという伝承があり、御神体を納めた神櫃に「武州多西郡子安大明神 元徳二年七月再造移奉也 同国多東郡住人 人見四郎 入道光行」の墨書銘文があったといいます。その神櫃は現存しませんが、銘文の写しが残っているそうです。多西郡、多東郡というのは当時、多摩郡が東西に二分されていたので、そう呼ばれたわけですが、この人見四郎が多東郡の住人であったなら、府中の人見村に住んでいた可能性はあります。そして、榛沢郡の人見氏の一族が根拠地と似た地形の土地に移り住み、浅間神社を勧請したという考えも成り立ちます。ちなみに、この人見四郎は鎌倉幕府の武将で、元弘3(1333)年に幕府軍の一員として楠木正成が籠城する赤坂城攻めに参加して戦死したことが『太平記』に記されています。そして、その墓は深谷市の一乗寺にありますが、府中の浅間山にも「人見四郎の墓」があったという伝承地はあり、今は新しい石碑が建っています。

 この人見村について歴史学者・峰岸純夫氏はそこにかつて上ノ関中ノ関下ノ関という小字が存在したことに注目し、中世における府中南方の関戸宿(多摩市)と同様に府中東方を守備する関所が人見村に設けられていた可能性を指摘しています(「武蔵国府中の人見街道と五日市場宿」、『府中市郷土の森博物館紀要』第21号、2008年)。上野国新田荘の新田岩松氏に伝わる『正木文書』の中の「五日市庭宿在家年貢注文」という史料があり、この五日市庭宿の所在地が不明だったのが、文書の中に「人見やしき」「人見のと殿」の文字があり、そこから「推測に推測を重ね」て人見村がそれに該当する可能性を提起したもので、具体的な証拠はないものの、興味深い論考です。少なくとも、武蔵国府に東西南北から通じる街道にそれぞれ関所があったというのは自然なことに思えます。峰岸氏はそれを南は関戸、東は人見、北は恋ヶ窪、西は分倍であろうとしています。

 ところで、人見村はかつては湧水のある浅間山の周辺に村落がありました。縄文遺跡(浅間山前山遺跡)が発見されており、『武蔵府中物語』によれば「人見七塚」といういずれも高さ9尺(2.7m)ほどの古墳のようなものもあったということなので、かなり古くから人が住んでいたのでしょう。しかし、中世には何度も兵火の難に遭い、近世以降、街道沿いに移転しています。
 なお、人見村は近代的町村制が施行された明治22年に周辺の村と合併して神奈川県北多摩郡多磨村となり、明治26年に東京府に移管、昭和29年に府中町などと合併して府中市の一部となっています。

地図④(昭和2年)人見村と浅間山



 
(浅間社表参道)

 その人見村の旧村域に入ってすぐ若松町4-17と18の間を北へ入る道が「浅間社表参道」です(地図④の赤線)。道の途中に解説碑があります(上写真)。

 「浅間社表参道の名は、この道が浅間神社へ参詣する道だったことに由来します。かつて祭礼の日は道の入口に提灯が下がり、屋台も出てにぎわったそうです」

 参道はこの碑のある地点で右に曲がり、すぐまた北へ向き直りますが、この地点で小さな水路を越えていたようです。その地点から始まる「野溝緑道」がその跡です。この水路は大雨の時に水が流れる野水の溝で、国分寺市との境界付近の湧水も流れ込んでいたようですが、ふだんは水が流れていないか、ごく少なかったと思われ、その流れもどこかの川に通じるわけではなく、途中で地中に染み込んで消えていたようです。それでもこの水路を越える人見街道には石橋が架かっていたそうです。

(水路跡の野溝緑道)

 さて、参道は浅間山麓に造成された三井物産グラウンド(現・明治大学グラウンド)により分断されていますが、山裾を回り込むと、都立公園になった浅間山に到達できます。

  
(浅間山山頂の浅間神社。110段ほどの石段を登ると石の祠がある))

 浅間山は平らな立川段丘にぽつんとそびえる小山で、太古の多摩川が武蔵野台地を侵食した時に削り残した孤立残丘です。そのため周辺の平坦地とは地質が違うことが古くから知られていました。三つの峰からなり、それぞれ堂山中山前山と呼ばれます(異説あり)。最高峰は東側の堂山で標高は79.6メートル。周辺との比高は30メートルほどです。かつて観音堂があったことが名前の由来で、現在は山頂に浅間神社が鎮座しています。創建年代不詳で、祭神は木花開耶姫命ですが、ご神体は5センチ弱の銅製の仏像(観音像)だといい、中山の清泉中から出現したものだと伝えられています。旱魃の際はこの霊像を清泉に遷して祈願すれば必ず雨が降ると言われて村民の信仰を集めていました。また、霊像は村内の幸福寺(明治初めに廃寺)に納められたともいいます。
 その清泉は浅間山北麓の水手洗(みたらし)神社にあり、今もわずかながら湧水が見られます。

(水手洗神社)

 ところで、平地にそびえ、眺望がよい浅間山は軍事的要所として古来、たびたび戦場となりました。『武蔵府中物語』には以下の合戦が記されています。
 正慶2(1333)年、鎌倉幕府打倒をめざす新田義貞と幕府軍の分倍河原の戦いの際には兵火で人見村が焼かれ、三所之宮も焼失。
 南北朝時代の正平7(1352)年には北朝方の足利尊氏の軍勢と南朝方で新田義貞の遺児・義興、義宗らの軍勢が人見村周辺で戦い、「人見原古戦場」として史跡にもなっていますが、再び兵火で村が焼失。この時は足利軍が敗走するものの、その後、石浜(台東区、荒川区)まで撤退した足利尊氏は勢力を回復し、再度武蔵国府を押さえ、さらに武蔵国内各地を転戦しています。人見村から退却する尊氏軍は人見街道を通ったのでしょう。芳賀善次郎『旧鎌倉街道探索の旅・下道編』(1982年)に「(尊氏の)敗走路は人見街道を通って(杉並区の)天沼に出て、旧官道を鳥越―石浜と通ったと思われる」とあります。
 また、戦国時代の天文7(1538)年には小田原の北条氏康と関東管領・上杉憲政が関東の覇権をめぐって争い、人見原で上杉軍が敗北を喫しています。
 さらに戦国末期の天正18(1590)年、豊臣秀吉の軍勢による小田原攻めの時にも八王子城主・北条氏照の軍勢が浅間山に布陣し、前田・上杉・毛利軍と戦い、人見の村落がまたも兵火に包まれています。
 
 この浅間山の南東部にかつて「三所之宮」と呼ばれた人見稲荷神社がありますが、一度浅間社表参道の入口に戻りましょう。

 人見街道に戻って先に進みます。このあたり、浅い谷に向かってごく緩やかな下りになっています。そして、まもなく先ほどの野溝緑道が北からぶつかります。その南側は少し東にずれて続きます。この付近に石橋があったのですが、橋の痕跡はありません。

(水路跡。この付近に石橋があった)

 まもなく若松防災センターバス停があり、そこから人見稲荷神社の長い参道が北へ伸びています(地図④の橙線)。参道の右側には消防団の建物があり、その奥には人見研修所があります。ここが明治初めに廃寺となった大悲山興観院幸福寺(天台宗)の跡地です。天正8(1580)年に浅間山にあった観音堂がここに遷されたといい、お堂に当時の鰐口があったことが知られています。現在はお寺の痕跡は何もないかと思いきや、研修所右手の建物内に六地蔵や観音像などの石仏が納められています。安置というより保管という感じでしょうか。

(人見稲荷神社参道。右奥が研修所)

 
(幸福寺跡地にある人見研修所。右の建物に保管されている石仏)

 また参道沿いに2基の庚申塔があります。青面金剛像を刻んだものは明和5(1768)年建立、「庚申塔」の文字を彫ったのが安政2(1855)年のもので、かつては人見村西端の路傍にあったそうです。台石に「北小金井、南常久、西府中」の文字が刻まれ、道標を兼ねていました。南の常久は甲州街道沿いの村落です。もう1基、正徳3(1713)年の庚申塔がありましたが、現在は府中市郷土の森博物館に移されています。また、そばにある「賽の神」は昭和43年建立です。

(2基の庚申塔)

 さて、農地の中を続く細い参道の先が人見稲荷神社です。今は稲荷神社と称していますが、伝承によると、武蔵国造兄武比命が倉稲魂命、天下春命、瀬織津比咩命を三所の御神として祀ったのが起源といい、それが多摩市一ノ宮の小野神社のことと思われます。それを寛喜3(1231)年、武蔵左衛門尉資頼が人見村に勧請し、三所宮を造営したと伝わります。

 
(稲荷らしからぬ建築の人見稲荷神社)

 『武蔵府中物語』の説では、武藤氏の嫡流が九州に移った後、武蔵国に残った傍流が代々六所宮の大祭に際して、三之宮の神輿に休息の場を提供し、奉仕する役目を担っていました。しかし、板碑の資頼から4代めの頼次が正平7(1352)年の人見原の合戦で新田方に加勢し、戦死。 人見村の武藤氏は断絶し、この後は三之宮神輿奉仕役を名主の河内家が継承しています。河内という旧家は街道沿いに今も多く見られます。人見街道はこの先も昔の村ごとに名主を務めた旧家が残り、それが街道を味わい深いものにしています。

 さらに人見街道を東へ行くと、浅間山通りと交差します。その南西角に「人見」の解説碑があります。また、さらに東の紅葉丘文化センターの敷地内には「人見街道」の由来碑があります。

 「人見街道の名は、この道が旧人見村の中心を通ることに由来します。大宮へ通じることから『大宮街道』、下総への道として『下総街道』の名もあります」

地図⑤(明治15年)


 昔の人見街道は人見村の集落を過ぎると、もう人家もない原野だったようです。独立した村は存在せず、人見村や甲州街道沿いの村々の飛び地がモザイク状に存在していました。そんな土地に東京の人口増加による墓地不足に対応すべく広大な多磨霊園(当時は多摩墓地)が造営されたのは大正12年のことです。多磨霊園は浅間山の東、人見街道の北側に広がっていて、街道沿いには石材店や花屋が目立つようになります。

 
(かつては無人の原野を貫いていた人見街道。霊園の造営にあわせてお寺も増えた。写真は観音寺)

(石材店の隣の地蔵尊)

 そして、街道は西武多摩川線(単線、武蔵境~是政)の踏切を渡ります。踏切の南側には多磨駅があります。平成13(2001)年に改称されるまでは多磨墓地前駅でした。ここに多摩川の砂利採取を目的に鉄道(当時は多摩鉄道)が開通したのは大正6(1917)年のことですが、当時はまだ多磨墓地も駅も存在せず、多磨墓地前駅が開設されたのは昭和4(1929)年のことです。

(西武多摩川線の踏切を渡る)

 多磨駅を過ぎて、まもなく「三鷹市」の標識がありますが、実際には街道は200メートルほど調布市内を横切ってから三鷹市に入ります。そのわずかな調布市区間に新選組局長近藤勇の生家跡があります(調布市野水1‐6、地図⑤のA地点)。現在では調布市野水ですが、当時は多摩郡上石原村(の飛び地)でした。明治初期の地図を見ても人見村を出てから久しぶりの集落という感じです。

 (近藤勇生家跡と近藤神社)

 近藤勇はここで天保5(1834)年に百姓宮川家の三男として生まれ、幼名は勝五郎でした。彼は天然理心流剣術の宗家三代目・近藤周助に入門し、やがて周助の跡を継ぐため近藤家の養子となり、近藤勇と名乗るようになります。そして、万延2(1861)年には天然理心流四代目襲名披露の野試合を府中六所宮で行っています。
 生家は昭和18年に取り壊され、広い敷地のごく一部が史跡として保存され、井戸が残るのみです。また敷地内には近藤神社の小さな祠があります。

(調布飛行場)

 さて、このあたりの人見街道の南側には調布飛行場があります。昭和16年に完成し、戦時中は陸軍が使用しました。周辺には戦闘機を米軍の空襲から守るための掩体壕が残っていますが、別の遺構として「玉石張りの水路」があります。基地跡地に造成された武蔵の森公園の北端部に玉石を敷き詰めた水路が残っているのです。これは飛行場に周辺から水が浸入するのを防ぐことと、周壁の代わりにすることを目的に東京市が建設したものです。玉石張りはごく一部に残るだけですが、水路は野川まで続いています。ただし、ふだんは水は流れていません。

(草に埋もれかけた玉石張りの水路跡)

 そもそも、このあたりには多磨駅付近から人見街道の南側に沿うように大雨の時などに一時的に水が流れる溝が元から存在していました。調布市野水という地名もこの水路と関係があるのでしょう。そして、太古には府中市の浅間山周辺部から湧き出た水が南東方向に流れて野川に注いでいたのです。それは遠い昔に浅間山を削り残した多摩川がここを流れていた痕跡でもあるのでしょう。その旧河道が今はほとんど地中に埋もれ、谷の地形も分からなくなっていますが、浅間山から多磨霊園の南縁を通り、調布飛行場の北を経て野川へと続く埋没谷の存在が知られています。そして、実際にその痕跡といえる水路跡が今も断続的に残っているのです。たとえば、府中市若松町の市立第十小学校付近には暗渠水路や橋跡が健在です(下写真)。この水路を流れていた水は府中市紅葉丘の雑木林の中で地下に消えていたといい、その後は伏流水となっていたのでしょう。

(府中十小付近の水路跡。浅間山の湧水が流れ、流末は雑木林に消えていたとのこと)

 その川がまだ地表を流れていた時代には、その水を頼りに人が暮らしていました。実際、武蔵野の森公園の敷地内やその周辺でも旧石器時代や縄文時代の遺跡(朝日町遺跡や野水遺跡など)が発掘されています。地表から川が消え、この地域はほとんど無人地帯になってしまったのですが、遠い時代の人々が利用した道が人見街道の起源なのかもしれません。

 ところで、調布飛行場は戦後は米軍に接収され、米軍用の野菜を生産する水耕農場が造られます。下肥を使って栽培する日本の“不衛生”な野菜ではなく、化学肥料を含んだ水を使う最先端の栽培技術で衛生的に野菜を作り、米軍関係者らに供給したのです。ここで栽培された野菜は敷地内から冷蔵貨車に積まれ、貨物列車で日本各地の米軍施設に輸送されました(沖縄や朝鮮半島へは立川基地までトラック輸送し、空輸)。その引き込み線は北へ向かい、人見街道を横切り、多磨駅の北方で西武多摩川線に入り、武蔵境駅で国鉄の線路に繋がっていました。玉石張り水路の石も多摩川からこの引き込み線を使って運ばれたということなので、線路は飛行場造成時に敷かれたものと思われます。この引き込み線がいつまで存在したのか不明ですが、下の図で人見街道に2か所存在したらしい踏切の痕跡は見当たりません。
 水耕農場は昭和36年に閉鎖され、跡地には東京五輪の選手村に決まった代々木の米軍住宅ワシントンハイツが移転してきて「関東村」と呼ばれます。日本に全面返還されたのは昭和48年のことで、調布飛行場の周囲には東京(味の素)スタジアム、スポーツ施設、福祉施設、病院、大学、公園などが造られています。

調布水耕農場略図(部分)

『郷土史 大沢6 陸軍調布飛行場に建設された世界一の水耕農場』(2011年)より


 さて、人見街道に戻って、近藤勇生家の先、都立野川公園前で左から合流する道は今は「多磨町通り」の名がありますが、これも古道です。西へ行くと今は多磨霊園などで分断されていますが、昔は立川、拝島方面へまっすぐ通じていました。府中市では「青梅街道」、「横街道」、「いな道」などと呼ばれ、『三鷹市史』では「拝島みち」と称し、「甲武鉄道開通以前の山梨方面からの物資輸送路の一つであった」としています。檜原村の浅間尾根から数馬、鞘口峠と続く中世以前の甲州古道に通じる道だったのかもしれません。

(人見街道に合流する「拝島みち」とジチンサマ)

 道の合流点に小さな神社があります。鳥居の扁額に「堅窂地神」とあり、地元では「ジチンサマ」として信仰されていたようです。

 三鷹市大沢(旧多摩郡大沢村)に入って、まもなく大沢山龍源寺(曹洞宗)があります(大沢6‐3‐11)。戦国末期に大沢村を開拓した箕輪将監が府中・高安寺の家山東傳を開山に招いて創建した寺です。近藤勇の墓がある寺として有名で、山門前には近藤勇の銅像があるほか、庚申塔や六地蔵などが並んでいます。

 (龍源寺と近藤勇像)

 本堂裏の墓地に入ると、すぐ右手に近藤勇の墓があります。幕末、新選組局長として活躍した近藤勇はその後、戊辰戦争で甲陽鎮撫隊を率いて甲州で官軍と戦って敗れ、下総流山で投降。慶応4(1868)年に板橋で処刑されています。近藤の首は京都に運ばれ、三条河原で晒されますが、首のない遺体は甥の宮川勇五郎(天然理心流五代目・近藤勇五郎)が肩の鉄砲傷を目印に掘り起こして、生家に近い龍源寺に埋葬されたのです。

 なお、近藤家墓所の向かい側には「穴佛」という塚があります。これは明治17(1884)年に付近の国分寺崖線で発見された横穴墓から出土した人骨を埋葬したものです。農家の鶏を襲うキツネやタヌキを退治しようと巣穴を探していて、偶然発見されたそうです。その後の調査で7世紀頃の横穴墓が相次いで発見され、「出山横穴墓群」と呼ばれ、そのうちの8号墓が公開されています。

(出山横穴墓8号墓。男児1体、成人男性2体、成人女性1体の骨が出土。人骨はレプリカ)

 さて、龍源寺前で人見街道は新旧二筋に分かれます。右の旧道を行きましょう。この付近の旧家には屋敷神として稲荷祠が多く見られます。

 
(龍源寺前で旧道が右に分かれる。屋敷神の稲荷祠があちこちに見られる)

 まもなく野川相曽浦橋で渡ります。近藤勇の首のない亡骸を家族が迎えたのがこの橋だったと伝えられています。

 
(相曽浦橋と野川。向こうの丘が国分寺崖線)

 そして、その先には国分寺崖線が立ちはだかります。府中からここまでほぼ平坦な立川段丘上を来ましたが、ここで一段高い武蔵野段丘へ上がるのです。その段丘崖が国分寺崖線で、崖下は豊富な湧水が今も健在で、ワサビ田もあります。大沢のワサビは江戸時代から特産品になっていました(僕も20年以上前ですが、ここでたまたま直売していたワサビを購入したことがあります)。
 そして、その湧水を集めて流れるのが野川です。このあたりの旧村名の「大沢」も野川にちなむのでしょう。流域には古くから人が住み着き、実際、旧石器時代や縄文時代の遺跡も発見されています。出山横穴墓群も崖線斜面で見つかり、この地域で遠い昔から人が暮らした証拠のひとつであるわけです。人見街道の坂道も武蔵国が成立するよりはるか昔から人々が台地の上り下りに利用した道だったのかもしれません。そして、後の世の人々も崖下から湧き出る清らかな水でのどを潤し、牛馬を休ませてから、この先の難所に挑んだのでしょう。

 相曽浦橋を渡った人見街道旧道のさらに右側に残る旧々道を通り、再び新旧道が一本になって国分寺崖線を登ります。現在は切通しになって勾配が緩和されていますが、昔はもっと急勾配だったと思われます。街道脇にも湧水があるので、小さな谷戸地形を利用して道を造ったようです(地図⑥参照)。府中から品川までこのルートで行く場合、ここがほとんど唯一最大の難所でした。換言すれば、ここさえ越えてしまえば、あとは品川まで比較的スムーズに行けたのがこのルートなのです(例外的に今の世田谷区千歳台で、並流していた品川用水の築堤を乗り越える部分が急坂で難所になっていましたが)。大沢の坂の勾配緩和のための改修は道の開通当初から長い年月をかけて継続的に行われたと思われます。

 
(相曽浦橋付近に残る旧々道と国分寺崖線の坂)

(崖線上の農地。また平坦な武蔵野台地が広がる)

 立川段丘から武蔵野段丘に上がり、東八道路を越えると、引き続き旧街道らしい道が続きます。交差点近くの道路際に昔ながらの火の見櫓が最近まであったのですが、いつのまにか撤去されてしまいました。

 すぐに左手に大沢八幡神社があります(大沢3‐7‐15)。大沢村は三鷹では古い村ですが、初めに村落が形成されたのは崖線下で、慶長年間(1596‐1615)に創建と伝わる八幡神社も崖下にありました。旧地には今も古八幡社があります(大沢5‐1‐16)。
 この八幡神社の別当寺だったのが応神山長久寺(真義真言宗)です。創建年代は不明で、往時は八幡山長久寺と称したようです。しかし、天文7(1538)年の北条と上杉の合戦に巻き込まれて焼失し、この時の住職が後世の再興を願って仏舎利三粒と八幡山長久寺の名を記した紙を納めた銅箱を旧境内に埋めておいたのを慶長3(1598)年に村人が見つけ、村を訪れた高野山の旅僧・長祐に見せたことから、長祐が翌年に現在の国立天文台の敷地内に長久寺を再興したのです。そして、元和3(1617)年に長祐が八幡社を寺の西隣に遷座させ、長久寺が別当寺となりました。明治の神仏分離後、大正6年に天文台建設のため八幡神社は現在地に遷り、長久寺も大沢2‐2‐16に移転しています。
 現在、八幡神社の境内には青龍権現・二ツ塚神社が合祀されています。青龍権現は古くは精霊権現と呼ばれたようで、大沢の洞穴(横穴墓か)から出た人骨と天文7年の合戦の戦死者を祀ったのが始まりといいます。人見街道北側の大沢新田の産土神(地図⑥の大沢八幡の北西)として雨乞い信仰の対象となり、明治4(1871)年に二ツ塚神社と改称し、昭和19年に中島飛行機三鷹研究所(上の「調布水耕農場略図」に飛行場と中島飛行機を結ぶ誘導路が描かれています)の建設に伴い、大沢3‐4に移転。そして、近年、八幡神社境内に新しい社殿が建てられ遷座しています。

 
(大沢八幡神社と古八幡社)

(長久寺)

地図⑥(昭和12年)



 この付近の人見街道はケヤキ並木が続き、いかにも武蔵野の道らしい風情が感じられます。かつてはケヤキが両側からおおいかぶさり、その間は竹藪で、まるでトンネルのような様相であったといい、昼でも暗いので「暗闇街道」と呼ばれました。夜は恐ろしくて歩けなかったそうです(三鷹市教育委員会『三鷹の民俗1 野崎』)。

(今も残る人見街道のケヤキ並木)

 大沢から野崎(旧多摩郡野崎村)に入ります。大沢は国分寺崖線の上と下にまたがる古い村でしたが、野崎村は水の乏しい台地上の新しい村です。元は南側の深大寺村に属しており、深大寺村の村民が開拓し、元禄8(1695)年に独立したようです。『新編武蔵風土記稿』によれば「民戸十七軒、コノ往来(=人見街道)ノ南側ニ連住セリ」とあります。台地上の村には水田がなく、畑作のほかは養蚕や薪を江戸に売ったりして生計を立てていたようです。
 当時から江戸と直結する人見街道は重要な道でした。府中や拝島方面と江戸を結ぶ往還として江戸へ薪炭その他を出荷して、肥料などを運んで帰る人馬が毎日多数往来していたのです。そこで沿道には農間余業として人馬の休息所を開く者が現れ、大いに繁盛していました。ところが、天保14(1843)年に老中・水野忠邦が取り締まりに乗り出し、休息所の閉鎖を命じます。人見街道には休息所がなくなり、街道を往来する人も馬も難儀するようになりました。そこで村々の代表がせめて馬に飼葉を与え、弁当を食べる馬方に湯茶を出すことだけは認めるよう願い出て、翌年、酒食の提供は一切しないことを条件に野崎村と野川村(野崎村の東隣)で1軒ずつ認められました(「天保十五年六月農間余業取続方嘆願書」、三鷹市史料集第三集)
 やがて武蔵境通りと交差する野崎交差点です。武蔵境通りは旧鎌倉街道との伝承をもつ道であり、深大寺への参詣道でもありました。
 ここには北からやってくる水路跡が残っています。もともとは玉川上水の分水路(梶野新田用水)の分流で、江戸時代半ばに開削され、野崎の交差点付近が終端になっていたようです。その後、明治3(1870)年に取水口を玉川上水からその分水の砂川上水に切り替えられ、また明治4年には野崎から南の深大寺村方面へ流れる深大寺用水が開削されています。野崎付近では灌漑用ではなく、飲用に限って利用が認められていました。

(野崎交差点付近の用水路跡)

 交差点の南側には野崎八幡社があります(野崎1‐23‐1)。深大寺の支院池上院(調布市深大寺元町2‐12‐1)が野崎村の開拓者から寄進を受けた土地に八幡神を勧請して元禄2(1689)年に創建し、その後に成立した野崎村の鎮守となりました。境内には薬師殿があります。これは三河国・鳳来寺の尼僧・梅風尼(梅鳳尼)によってもたらされた薬師如来を安置するお堂で、文久3(1863)年に屋根を修理した記録があるので、それ以前から祀られていることになります。毎年10月8日に朝から作られた団子を薬師殿に奉納し、夜9時から参詣者に撒く「団子まき」の行事があります。団子は「オメダマ」と呼ばれ、眼病などの病に効くと言われています。

 
(野崎八幡社と薬師殿)

 野崎交差点を過ぎると、道の北側は三鷹市上連雀です。多摩郡上連雀村は東隣の連雀新田の住民の開発により生まれた村です。
 江戸初期の明暦3(1657)年、江戸本郷の本妙寺から出火した炎が燃え広がり、江戸城天守閣を含む江戸市中を焼き尽くす大火災となりました。死者10万人とも言われる「明暦の大火」です。この大火事の後、復興に際して、幕府は火災の延焼防止のため、火除け地を設けることとし、当該区域の住人には家の再建を許さず、郊外への移転を強制しました。このうち、神田連雀町の住人25世帯が集団移住したのが、当時は武蔵野の原野が広がっていた現在の下連雀の地です。この地は将軍家の茅場(屋根を葺くための茅の採集地)だった場所で、移住者たちによる新田開発が進められ、新しい村の歴史が始まりました。
 ちなみに「連雀」とは背中に荷物を背負う時に用いた背負子のことをいい、連尺あるいは連索とも書きます。神田連雀町には行商人が多かったことから、この地名がついたのでしょう。つまり、神田の商人たちがいきなり武蔵野の原野に移住させられ、農民になって、下連雀の地を開墾したわけです。
 その連雀村新田の西側の未開地を関村の名主・井口権三郎が開墾し、連雀前新田と呼ばれていた区域が享保の頃(1716‐36)に独立して、京都の朝廷に近い方を「上」、遠い方を「下」と呼ぶ慣習から上連雀村となり、東側の地域下連雀村になりました。江戸初期までの国分寺崖線上の台地はほとんど無人の未開の原野だったわけです。そして、開発が進んでも相変わらず寂しい土地だったのでしょう。

地図⑦(大正8年)


 三鷹通りと交わる市役所前交差点の角、ガソリンスタンドの片隅に元文2(1737)年の庚申塔がひっそりとあります(上連雀8‐4)。

(交差点角の庚申塔と頭部のない坐像)

 ここから道の北側は三鷹市下連雀になります。道の南側は引き続き野崎で、そこに三鷹市役所があります(野崎1‐1)。三鷹市は大沢や野崎、上連雀、下連雀などの村々が明治22年に合併して生まれた北多摩郡三鷹村が昭和15年に三鷹町となり、昭和25年に市制施行して誕生しました。
 原野だったこの一帯は将軍家と尾張徳川家の鷹狩り場で、また府中領、野方領、世田谷領にまたがっていたことから三領にまたがる鷹場ということで三鷹と命名されたと言われています。江戸から5里の範囲が将軍家、その外側が尾張家の狩場で、明和7(1770)年頃に建てられた「従是東西北尾張殿鷹場」「鷹場標石」が三鷹市役所の敷地内に保存されています(原所在地不明)。同様のものは大沢の長久寺境内にもあります。

(三鷹市役所の鷹場標石)

 ところで、人見街道は府中から上石原までは府中領で、戦国時代には小田原北条氏が支配し、その家臣団に所領として分配されました。一方、三鷹市域の大沢からは世田谷領で、世田谷吉良氏(足利氏の支族)の支配下にありました。吉良氏も政略結婚を通じて北条傘下に入り、吉良氏の領主権は名目的なものになりつつあったとはいえ、この地方と世田谷城を結ぶルートとして、我々がたどる人見街道~六郷田無道はそれなりに重要だったと思われます。吉良氏の時代には沿道人口は少なかったものの、付近には北条に対する上杉方の前線の城・深大寺城が存在し、世田谷城主としても敵の存在を意識せざるを得なかったであろうからです。

 さて、三鷹市役所を過ぎると、まもなく道の南側は三鷹市新川になります。旧多摩郡新川村は明治7(1874)年に上仙川村(いまの新川南部)と野川村(新川北部)が合併して成立した村で、野川村はもとは上仙川村の秣(まぐさ)場だったのが元禄の頃に独立しました。人見街道は新川北端部を通っているので、旧野川村の領域です。
 新川村のうち旧上仙川村の集落が「本村」と呼ばれ、人見街道沿いの旧野川村の集落が「宿」と呼ばれました。宿場があったわけではありません。すでに書いた通り、無許可の休息所が天保14(1843)年に幕府のお達しで禁じられ、その後、地元代表の願い出により野川村では1軒だけ馬に飼葉を与え、人には酒食は提供せず、有り合わせの湯茶を出すだけの休息所が認められたというにすぎません。『三鷹の民俗10 新川』に新川宿に馬を休ませる「ケイバ(かいば)屋」があったと書かれているのがそれでしょう。それでも、ほとんど人家もない街道をゆく人々にとってはたまに現れる集落はホッとする存在ではあったのでしょう。大沢でも人見街道沿いの集落は大沢宿と呼ばれ、現在も町会名(大沢宿町会)に残っています。

 道の左手に古い墓や石仏、石塔のある共同墓地をみて、まもなく野川宿橋仙川を渡ります。合併前の野川村の頃から野川宿と呼ばれたということでしょうか。ただし、当時はここに橋はありませんでした。
 仙川の本来の水源はここより下流の「丸池」(新川3丁目)です。しかし、その上流側にもなだらかな谷の地形が存在し、大雨が降った時だけ水が流れ、たびたび洪水を引き起こしていました。府中市の浅間山周辺の野水とまったく同じです。人見街道でもその窪地に水が溜まることが多かったようです。そのため、戦後、宅地化の進展とともに排水の必要から水路が開削され、仙川は上流側に延長されたのです。現在の上流端は小金井市貫井北となっています。ただ、野川宿橋から北では水路の幅が狭く、通常はほとんど水が流れていません。一方、野川宿橋下には新川の天神山付近の取水所から送水管を通じて導水され、ここから下流の“清流”が維持されています。

(下流側からみた野川宿橋)

 野川宿橋を過ぎると、吉祥寺通りと交わる新川交差点です。この交差点以南の吉祥寺通りは昭和2、3年頃に開通しました。旧道は人見街道を東へ行き、島屋敷通り経由で新川3丁目交差点から吉祥寺通りに入るルートで、これが我々がたどる道筋でもあります。そして、ここからはすでに「六郷田無道」として紹介した区間でもあります。

(コンクリートブロックで土留がされた品川用水跡。右の道が仙川用水)

 この周辺だけ新川の町域が人見街道の北側にも及んでいます。そして、その街道北側に旧新川宿公会堂(向かい側に新しい地区公会堂あり)があり、その裏手に新川宿八幡社祖師堂稲荷祠が並んでいます。そして、敷地の西側には品川用水の痕跡が残り、そこが仙川用水との分水点でもありました(上写真)。品川用水はここから人見街道沿いに東へ流れていました。

(八幡社と祖師堂。その奥に稲荷祠がある)

 八幡社はかつては共同墓地付近にあったようですが、『新編武蔵風土記稿』にも記載がなく、詳細は不明です。
 また、祖師堂もやはり共同墓地付近にあったようで、『風土記稿』には野川村の西北に常徳庵という仏庵があり、本尊は一尺五寸の日蓮座像であると書かれているので、これが祖師堂のことと思われます。
 また、街道に面して元禄5(1692)年の庚申塔と享保4(1719)年の地蔵尊が立っています。

  
(旧新川宿公会堂と八幡社鳥居。両脇に庚申塔と地蔵尊)

 さらに東へ行くと、三鷹一小交差点で、現在の人見街道は北へ折れて、牟礼、久我山方面へ向かいます。直進する道はここから下本宿通りと名前が変わります。江戸へ通じる道はこちらです。ただ、ここで北へ曲がる道も古い道で、源頼義が創建したという伝承をもつ大宮八幡宮(杉並区)へ通じていますし、府中の六所宮の大祭に向かう大宮氷川神社(さいたま市)の神輿も北から来たのでしょう。石浜へ敗走する足利尊氏軍もここから北へ行ったでしょうし、源頼朝の軍勢が平家打倒のため挙兵後、下総から武蔵に入り、国府へ向かった時も北から来たと思われます。板橋で処刑された近藤勇の亡骸もこの道を通って無言の帰宅を果たしたものと思います。また、『鎌倉街道探索の旅・中道編』で芳賀善次郎氏は古代の武蔵国府と下総国府を結んでいた官道はここから北へ行き、三鷹台を経て、杉並区の天沼を通って東へ行ったと推定しています。

(人見街道はここで左折だが、、ここは直進して下本宿通りに入る)

地図⑧(昭和12年)


 我々はここで東京都が定めた通称「人見街道」とわかれて、交差点をそのまま直進します。ここからは道路名が「下本宿通り」に変わります。そして、ここから道の北側が三鷹市牟礼です。昔の多摩郡牟礼村は三鷹市内でも最も古い村のひとつで、永禄2(1559)年時点での小田原北条氏家臣団の所領と賦役を記録した『小田原衆所領役帳』によると、大橋某氏が「無連 高井堂」を領有しており、これが牟礼、高井戸です。そして、その頃、牟礼には宿場があったともいいます。

(島屋敷通りを南下)

 新川宿バス停を過ぎ、下本宿通りが東八道路に合流する直前で右折して島屋敷通りを南へ行くのが我々の進む道です。芳賀善次郎氏は「旧街道で、他の道から分岐したり他の道に合流したりする所が、直角の場合は両方の道が古いが、鋭角の場合は室町以後の道であることが多い」と書いています(『旧鎌倉街道探索の旅・中道編』、124頁)。この説をここにあてはめると、下本宿通りも島屋敷通りも中世以前の古い道ということになります。
 そして、島屋敷通りが吉祥寺通りにぶつかる新川三丁目交差点の一角には風化して正体不明の坐像を浮き彫りにした石塔があり、その側面には「東 六ごうミち」の文字が刻まれています。年代も不明ですが、この道が当地で六郷への道と認識されていたことを示す貴重な遺物です(下写真)。

 
(新川三丁目の道標。「東六ごうミち」の文字がある)

 あとは吉祥寺通り(旧府道59号吉祥寺駒沢線)で世田谷区給田まで行き、甲州街道を越え、滝坂道と交わる榎の辻を過ぎ、かつて世田谷城下の宿場(新宿)だった上町まで道なりに行けます。そこからさらに大山道(玉川通り)と交わる上馬(駒沢)に出て、今の環状七号線を南下すれば、世田谷区野沢の二本松です。そこから品川までもスムーズに繋がります。上馬から品川までは旧府道58号駒沢品川線でもあったので、新川宿から品川まで59号線~58号線と番号の連続する2本の東京府道で結ばれていたことになります。
 ちなみに明治22年に烏山や給田など今の世田谷区北西部の北多摩郡八か村の合併により成立した千歳村の「千歳村全図」には我々がたどる道筋を「品川道」と記してあったそうです(世田谷区教育委員会他『烏山~甲州街道間の宿の民俗~』)。また、千歳村の一部となった廻沢村(現・世田谷区千歳台)の古老の聞き取り調査により明治初年までさかのぼる伝承に基づいて作成された「廻澤村略図」にも村内を通る六郷田無道が「品川道」と表記されています(世田谷区史料刊行会『廻沢村の歴史~世田谷・久保池家文書資料集』、1978年)。

 この先は六郷田無道のページをご覧ください。ただし、逆コースをたどっていますが。


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