《世田谷の古道を行く》

 
滝坂道(後編:世田谷・宮の坂~調布・滝坂)

 甲州街道が開かれる前の江戸と武蔵国府(府中)を結ぶ主要道だった滝坂道。起点の渋谷・道玄坂からたどる旅の後編。


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    宮坂

 滝坂道の旅の後編は東急・世田谷線(大正14年開業)の踏切から始まります(右写真)。
 スタート地点の最寄駅は東急世田谷線の宮の坂駅、または小田急線(昭和2年開業)の豪徳寺駅ですが、昔は滝坂道の踏切付近に旧宮の坂駅がありました。新しく建設された鉄道と古くからある主要道の交点に駅が設置されるのはごく自然なことです。
 踏切に立って両方向の線路を見渡すと、どちらも下り坂です。北側(山下駅方面)は北沢川の低地、南側(現・宮の坂駅方面)は烏山川の低地で、滝坂道が二つの河川の分水尾根を通っているのがよく分かります。ちなみに旧宮の坂駅の跡は今もそこだけ線路の敷地の幅が広くなっています。

 また、世田谷線の線路の西側を南から上ってきて踏切で滝坂道と交差し、線路の東側を北上していく道もかなりの古道で、北へ行くと、小田急線・豪徳寺駅前を過ぎ、北沢川(現在は暗渠・緑道)沿いの低地を渡り、赤堤通りを越え、凧坂(半田坂)を上って甲州街道方面へ通じています。
 一方、南へ行くと、すぐ下り坂となります。これが宮の坂で、台地の斜面に立地する世田谷八幡宮の脇を通ることからの命名です。下った先が宮の坂駅前。同駅はかつて坂上にあったのが坂下に移動したわけです。さらに行けば、烏山川(現在は暗渠・緑道)沿いの低地を越え、世田谷城主・吉良氏が創建した勝光院の前を通り、大山街道(旧道)と津久井往還(登戸道)の世田谷新宿(上町、いまのボロ市通り)方面へ通じています。

 滝坂道を進む前に世田谷八幡宮勝光院に立ち寄りましょう。ともに「せたがや百景」に選ばれています。
 世田谷八幡宮(世田谷区宮坂1-26)は1091年に後三年の役を平定した源義家が奥州からの帰途、大雨に降られてこの地に逗留し、その際に今度の戦勝は源氏の氏神である八幡大神のご加護によるものとして豊前国・宇佐八幡宮の御分霊を勧請したのが始まりとの伝承がありますが、確かな証拠はなく、確実なところでは天文15(1546)年、世田谷城の第7代城主・吉良頼康の造営(再興)ということが神社に残された棟札から判明しています。いずれにせよ、世田谷を代表する古社のひとつで、江戸時代の『江戸名所図会』にも描かれ、境内での奉納相撲は「江戸三大相撲」のひとつとして知られ、現在でも境内に土俵があって、秋の祭りの時には近くの東京農業大学相撲部により相撲が奉納されています。

 
(世田谷八幡宮と勝光院)

 八幡宮から烏山川の低地をはさんで向かい側の台地には勝光院(桜1-26)があります。建武2(1335)年、初代世田谷城主・吉良治家の開基と伝えられ、当初は竜鳳寺といい、次いで興善寺と改め、その後、中興開基・7代頼康の法名にちなんで頼康の子・氏朝(8代=最後の世田谷城主)が勝光院と改称し、同時に臨済宗から曹洞宗に改宗しています。
 氏朝は天正18(1590)年、豊臣秀吉軍の小田原攻めで北条氏が滅ぶと、戦わずして世田谷城を明け渡し、一時は下総国に逃れましたが、その後、世田谷に戻り、弦巻の実相院に隠居し、そこで没しました。吉良氏はその後も徳川将軍家の旗本として上総国に所領を与えられましたが、引き続き世田谷の勝光院を菩提寺とし、歴代の墓がここにあります。
 蛇足ながら、この世田谷吉良氏は赤穂浪士に討たれた吉良上野介とは遠い先祖は共通ですが、直接的な関係はありません。


 さて、滝坂道に戻って、世田谷線の踏切から西に進みましょう。線路の西側は世田谷区宮坂となります。宮坂とは言うまでもなく八幡宮の坂から起こった地名で、古くは旧世田谷村の字名(宮ノ坂)でした。昭和7年の世田谷区成立で世田谷3丁目となり、昭和41年に現在の世田谷区宮坂1~3丁目が成立しました。これは世田谷村時代の字名でいえば、宮ノ坂だけでなく谷中・殿山・辺房谷・鶴免を含む地域です。

 とにかく、滝坂道の南側が宮坂1丁目、北側が2丁目で、まもなく、左手に曹洞宗の常徳院(宮坂2-1、右写真)があります。創建は15世紀末で、一説によれば、室町幕府9代将軍・足利義尚(8代・義政と日野富子の子)の開基と言われますが、これは義尚の法名が「常徳院悦山道治大居士」であることから生まれた説のようです。実際は吉良氏の開いた寺院らしく、当初は浄徳庵と称し、船橋村(現在の世田谷区船橋)にあったのを移したものだそうです(今の船橋観音堂が旧所在地か)。
 常徳院は世田谷城から見て北西に位置し、南西の勝光院、西の世田谷八幡宮とともに、いざという時の砦の役割があったとも言われ、当地に移されたのもそのためかもしれません。

     経堂の二つの滝坂道

 常徳院の先(宮坂1-43)に地蔵尊と庚申塔があり、ここで道が左に分かれていきます。一般的にはまっすぐ続く道が滝坂道と考えられていますが、ここで左に分かれる道も滝坂道の支道だったと思われます(この先で再合流)。実際、この支道(?)には庚申塔、地蔵尊、道標などが点在していますが、本道にはまったく見られません。ここでは両方の道をたどってみましょう。とりあえず、分岐点からまっすぐ続く道を北ルート、左に分かれる道を南ルートと呼ぶことにします。ちなみに大正9年に滝坂道が東京府道23号線となった時、府道指定されたのは北ルートです。

(右が直進の北ルート、左が南ルート)


     滝坂道・経堂北ルート

 地蔵尊と庚申塔のある分岐点から直進する道はやがて経堂本町通りという商店街になります。左手に世田谷区の経堂出張所、続いて右に消防署があります。
 右側はずっと宮坂2丁目ですが、左側はまもなく宮坂1丁目から経堂1丁目となります。そして、まもなく小田急線経堂駅に出ます。その直前を左に入ったところに経堂本村稲荷が桜の木とともにひっそりとあります(下写真)。

 
(高架の経堂駅に通じる滝坂道北ルート。撮影地点を左に入ると本村稲荷)

 世田谷区経堂は古くは経堂在家村といいました。経堂という地名の由来にはいくつかの説があります。昔、この地に経典を納めた石室を埋め、その上に小堂を建てたことにちなむとか、あるいは関東では珍しい京風のお堂があったので京堂と呼ばれ、それが経堂になった、はたまた、当地に住んだ松原土佐守弥右衛門という人物が敷地内に仏堂を建てたが、この人は漢方医で多数の医学書を所蔵していたのを、里人が経典と思い込み、その屋敷を経堂と呼んだ…など。
 このうち最後の松原弥右衛門が建てた仏堂は経堂駅南側にある福昌寺で、その山号は経堂山です。また、村名の「在家」については、松原氏は僧侶ではないので世俗的な生活を送っていたため、土地の人が「出家」した僧侶に対して俗人を意味する「在家」という言葉で呼んだとも言います。このあたりも諸説あり、確かなことは分かりません。いずれにしても、遅くとも江戸初期には成立した古い村です。

 (すずらん通りと天神神社)

 さて、滝坂道は高架の経堂駅の下をくぐり、経堂すずらん通り商店街へと続きます(上写真)。
 ついでですが、経堂駅北口の正面には小さな天神神社がこれもひっそりとあります。祭神はもちろん菅原道真です。かつての経堂在家村には北野神社があったという記録があり、北野神社も菅原道真を祀る神社ですから、この天神神社はその名残と思われます。
 明治39年に政府が「神社は各町村に一社ずつ」を原則とする合祀令を出し、各町村のあちこちに祀られていた神々は一か所に集められ、合祀されました。これには神社を合併させることでその財政基盤を強化するという現代の市町村の合併と同様の目的と、もうひとつは人心統一の手段としての政治宗教である国家神道の立場から町村民をそれぞれ1つの神社の氏子として束ねるという狙いもあったようです。とにかく、経堂でも村内に散在していた北野神社や稲荷神社はすべて今の経堂4丁目にある天祖神社に合祀されたはずなのですが、元の場所にも境外社として小さな祠が残されたということでしょうか。

 滝坂道は商店街となって続きます。経堂駅を過ぎてからは右(北)側が宮坂3丁目(旧世田谷村鶴免)、左(南)側が経堂2丁目で、つまり、このルートはずっと経堂の北辺を通っていることになります。昔で言えば、経堂在家村と世田谷村の境界にあたるわけです。
 道はずっと平坦(実際はほとんど気がつかないほどの上り勾配)ですが、宮坂側に折れる道はすべて下り坂になっていて、その先は北沢川とその支流の低地です。
 このルートには古道の歴史を物語るものはあまりないので、ついでに紹介しますが、商店街の中ほどの葬祭社の前に「宮坂観音」が立ち、道行く人を見守っています(右写真)。この葬祭社が近年建立したものですが、なかなか立派な観音様ではあり、この写真を撮った時も手を合わせて拝んでいる人がいました。

 やがて、右側に世田谷区立経堂小学校が見えてきます(下写真)。ここで道の北側は宮坂3丁目から桜上水1丁目に変わります。これは余談ですが、今は一方通行のこの商店街、かつてはバスが走っていました。経堂小学校前(下写真の左側)がバスの折り返し場で、「恵泉女学園」という乗降場があったのです。ここから経堂駅を経て渋谷までバスが通っていました。ある時代には渋谷からここまで滝坂道とほぼ同じルートを走っていたこともあるようです。

(経堂小前。画面左手にかつてバス折り返し場があった)

 経堂小学校の正門前で南から突き当たる道が先ほど宮坂1丁目で分かれたもう一本の滝坂道(南ルート)です。再び宮坂の分岐点に戻って、今度は南ルートをたどってみましょう。

地図①(昭和12年) 経堂付近の南北ルート



     滝坂道・経堂南ルート

 宮坂1-43の分岐点を左に入る道はすぐにまた二股に分かれます。ここは右へ行きます。この2本の道にはさまれた三角地帯は畑になっています。渋谷をスタートして初めて見る農地です。
 このあたりには旧家が多く、立派な門があったり、敷地内にケヤキの巨木がそびえていたり、蔵のあるお屋敷があったりします。

  

 道は右に左にカーブしながら台地から烏山川沿いの低地に下り、洪水時に浸水するかどうかギリギリと思われる台地の裾を行きます。北ルートがずっと台地上の平坦ルートなのとは対照的です。交通路としては、しかも昔の幹線道路だったことを思えば、平坦な北ルートの方が遥かにふさわしいように思われます。実際、距離も北ルートの方が短いですし…。
 ただ、滝坂道が世田谷城のすぐそばを通っていること、城が烏山川の低湿地とその支谷に三方を囲まれた要害の地にあり、唯一、西方の経堂方面から最も攻められやすい立地だったことなどを考え合わせると、事情は少し違ってきます。
 要するに敵軍が西から攻めてくることを想定すると、平坦な台地上をまっすぐ通ってくる北ルートは絶好の進攻ルートになってしまうということです。むしろ、敵が低地を通ってきた方が迎え撃つ側としては高地を占めることができて有利ともいえそうです。まぁ、この辺は知識が乏しく、素人考えの域を出ません。

 とにかく、南ルートは初め南西に向かい、経堂1丁目に入るあたりから西に向き、だんだん北西寄りに針路をとります。まもなく経堂駅南口から南に伸びる農大通り商店街と交差しますが、その角に庚申塔があります(経堂1-12-5)。北ルートには庚申塔などはまったく現存せず、やはりこちらの方が旧道の風情があります。この庚申塔(1826年)は道標にもなっていて、「東青山道 南二子道 西ふちうミち」と刻まれています。農大通りも古道で、経堂から多摩川の二子の渡し方面へ通じるルートだったことが分かります。「西ふちうミち」はもちろん西へ行くと府中に通じるという意味です。

 
(庚申塔と福昌寺)

 農大通りを越えてすぐ右に入ると経堂の古刹・経堂山福昌寺です。中国から帰化した漢方医で江戸城の御殿医でもあった松原土佐守弥右衛門が開いた寺で、開山には常徳院の玄甫大和尚が招かれました。従って、ここも曹洞宗です。
 経堂在家村の中核的存在であったこの寺の参道が南ルートに面していることも南ルートこそが本来の滝坂道であることを示しているように思います。もっとも、さらに古い時代には北ルートがメインだったことは大いに考えられることです。要するに、本来の街道は北ルートだったのが、戦国時代に軍事上の理由から南ルートに切り替えられ、その時代に福昌寺が開かれ、南ルート沿いに経堂の村が成立した、ということかもしれません。まぁ、これも素人考えに過ぎません。

(小田急の高架が見えてくる)

 とにかく、南ルートをさらに進むと、経堂駅の西側で小田急線の高架をくぐりますが、その手前右側に馬頭観音があります(経堂1-22-14、建立年不詳)。滝坂道ではここまでに梅丘と豪徳寺に馬頭観音があり、いずれも文字を刻んだだけでしたが、ここの馬頭観音は三面六臂の尊像が彫られています。これも道標を兼ねており、「南ふたこ道 西ふちう道 北たかいど道」となっています(右写真)。

 小田急線の下をくぐり、正面の左(西)へ行きます。ここで道が少し下って上る小さな谷を越えます。ほとんど気づかないほどですが、昔は経堂2丁目にあった湧水を源とする小川が流れていたようで、南へ下って烏山川に通じていました。
 とにかく、小さな谷を越えると、すぐ道が分かれますが、線路沿いに直進するのは小田急線の高架化に合わせて新設された道で、斜め右に入る経堂西通り商店街が滝坂道です。ちなみに小田急線の北では滝坂道の右側が経堂2丁目、左側が3丁目です。

(滝坂道は右側)

 商店街を進むと、自転車店の前に地蔵尊(経堂3-38-1、1715年)があり、今でも「子育地蔵尊」として親しまれています。ここでまた道が分かれます。ここは右へ行くのが滝坂道です。分岐点に地蔵尊があるということは左の道もそれなりに古い道だと思われますが、とにかく右へ行きます。

(地蔵尊の前を右に行き、道なりに進む)

 経堂2丁目と3丁目の境界の道を行くと、気がつかないほどの緩やかな上りで、経堂地区会館の前を過ぎ、やがて左手に小さな社があり、そこで突き当たりとなります。

(経堂3-28の稲荷神社)

 生い茂る老木に囲まれたこの小さな社は稲荷神社です。恐らく、古くからこの地に祀られ、明治40年頃、天祖神社(経堂4丁目)に合祀されたものの、経堂駅前の天神神社と同様に祠だけは残されたのでしょう。現在、この神社は塀にかわってフェンスで囲まれ、立ち入れなくなっています。1本の木に「国有地」と書かれ連絡先を記した紙が貼りつけてありましたが、どうなってしまうのでしょう。

 さて、滝坂道はここで右折すれば、まもなく経堂小学校の正門前で北ルートにぶつかります。そして、稲荷神社の向こう側はもう世田谷区船橋です。昔は船橋村でした(明治22年以降は合併により千歳村)。つまり神社から経堂小学校までの道は昔で言えば経堂在家村と船橋村の境界線だったわけです。それだけではありません。経堂在家村は武蔵国荏原郡に属し、船橋村は多摩郡(のち北多摩郡)に属していたので、ここは村境というだけでなく、郡境でもあったのです。ついでにいえば、明治の廃藩置県後、多摩郡は明治5年から26年まで神奈川県に編入されたので、この道は東京府(当時)と神奈川県の境でもありました。


(画面右から来た滝坂道は稲荷社前で右折。画面奥が経堂小学校。この道が昔の村境であり、荏原・多摩郡境でもあった)

 滝坂道は経堂小学校前で2つの道が合流して北西に向かいます。南ルートは、西から来た場合、ここで直角に右(南)に折れ、すぐにまた左折という街道としてはずいぶん不自然な形状だったことになります。しかし、このようなクランク状に折れ曲がった道路というのは城下町では普通に見られるものですし、滝坂道の松原宿や大山街道の世田谷新宿(今のボロ市通り)の前後でも見られます。また、経堂の南縁を東西に走る古道「六郷田無道」でも桜2丁目22番地で見られます(この道も勝光院前を通って世田谷城に通じています)。もちろん、これは敵の視界を遮り、スムーズな行軍を妨げるという軍事的な意味がありました。したがって、この場所(経堂在家村の北西端)でも世田谷城主・吉良氏が道をあえて屈折させたことは大いに考えられることです。西方からの敵に対して弱点をもつ世田谷城の防御という観点からは、平坦で直線的な北ルートよりは、屈曲も起伏も多い南ルートの方が好ましいのです。当時は北ルートは直進できないように竹林にでもなっていたのではないかと想像しています。世田谷城が築かれる以前には北ルートが幹線道路で、その後、軍事的な理由で南ルートに切り替えられ、戦国末期から江戸初期にかけて南ルート沿いに経堂在家村が形成されたという考えに再び到達するわけですが、いずれにせよ、遥か遠い昔のことなので確かなことは分かりません。

(経堂小学校正門前の信号機のある地点に左から南ルートが突き当たる)


     旧荏原郡・多摩郡境の道

 とにかく、先へ進みましょう。経堂小学校前から先は右(北)側が桜上水1丁目、左(南)側が船橋5丁目です。世田谷区桜上水は旧上北沢村(明治22年に松原村・赤堤村と合併して松沢村)の一部で、荏原郡に属していたので、ここでも滝坂道が村界であると同時に郡境でもあるわけです。ちなみに「桜上水」の名称は甲州街道の北側(杉並区下高井戸)を流れる玉川上水が桜の名所だったことから、昭和12年にそばを通る京王線の駅の名(それ以前の駅名は北沢車庫前→京王車庫前)に採用され、それが昭和41年、住居表示の実施に際して上北沢から分離した新町名となったものです。
 まもなく、桜上水一郵便局があり、その向かい側の船橋5-11に郵政宿舎があります。ここに昭和47年まで千歳郵便局がありました。船橋は千歳村の一部だったので、それで千歳郵便局です。現在は千歳という地名とは無縁のはずの経堂1丁目に移転していますが、名称はそのままです。

(右からくる赤堤通りに合流)

 道はやがて2車線の赤堤通りと合流します(上写真)。赤堤通りは世田谷区代田で環状7号線と接続し、赤堤、桜上水、上北沢などを経て、京王線八幡山駅の北方で甲州街道に通じる昭和30年代以降に開通した比較的新しい道ですが、その一部に滝坂道が組み込まれているわけです。

 まもなく、城南信用金庫前の信号の角(下の地図②のA地点)に小さな道標があります(右写真)。ここで左折して南へ向かう道は近年拡幅されましたが、古くからある道なのでしょう。道標は本来の向きとは変わって立っているようですが、正面には「向右千歳役場・左宮坂停留場」の文字が刻まれています。すでに書いたように、この道標の所在地である旧船橋村は明治22年に合併により千歳村となったわけですが、千歳村役場があったのは世田谷区粕谷3丁目の今は東京中央農協がある場所で、まさに滝坂道沿いです。一方、宮坂停留場とは言うまでもなく、このページの冒頭部分の滝坂道と世田谷線の交差する地点にかつて存在した駅(現在は移転)です。ここに経堂駅ではなく宮坂停留場が出てくるということは、この道標が建立されたのは世田谷線の開業した大正14年から小田急線が開通する昭和2年までの間だろうと推理してみたのですが、道標の背面を見てみたら、ちゃんと「大正十五年」と刻まれていました。つまり古道の遺物というにはかなり新しいものではあります。なお、道標の左側面には修復痕もあって判読が困難なのですが、「向左土手…」の文字が読めます。旧船橋村の南部に「土手下」という地名がかつてあったので、そちら方面に通じるということでしょう。土手下とは玉川上水の分水路である品川用水がその区間で低地を横切るため築堤の上を流れていたことから生まれた地名で、品川用水に沿う形で古道「六郷田無道」(現在の千歳通り)が通っていたので、滝坂道との連絡ルートとなっていたのでしょう。途中には旧船橋村の中心であった本村集落がありました。土手下からさらに南下すれば三本杉で登戸道(現・世田谷通り)、さらに二子渡し方面へも古道が通じていて、この道標が設置された時点では東京府道にも指定されていました(67号線)。

 さて、道標を過ぎてすぐ、ヨークマートの前で直進する滝坂道から赤堤通りが右に分かれていきます(下写真)。

(左の細道が滝坂道。右が古府中道=赤堤通り)

 滝坂道が古いのはもちろんですが、ここで分かれる赤堤通りもこの先のルートは実はそれ以上に古いようです。ここから先の赤堤通りは右が世田谷区上北沢、左が八幡山で、旧上北沢村は荏原郡、旧八幡山村は多摩郡(のち北多摩郡)です。つまり、郡境の道路ということで、それらの郡が置かれた大化改新以前から存在する道であると推定されています。河川や尾根筋などの自然境界が存在しない場所なので、ここに境界線が引かれた根拠としては道路があったと考えるほかないわけです。
 そして、恐らく、江戸初期に甲州街道が開かれるまで、江戸と府中を結ぶ府中道はこの先、我々が進もうとしている滝坂道ではなく、今の赤堤通りを行き、京王線八幡山駅や国道20号線を越えて、世田谷区と杉並区の境を進み、古刹・医王寺(杉並区上高井戸1-27)の北を通り、下本宿通りに入り、三鷹市牟礼付近で人見街道に接続して府中へ向かっていたと思われます。このルートだと、烏山川や仙川の水源地帯の北側を迂回する形になり、この先、府中までの間に渡らねばならない大きな川といえば、野川ぐらいのものですから、街道のルート選定に当たっては滝坂道より遥かに相応しいといえます。
 ただ、この先の赤堤通りには古道らしい風情はまったくありません。なので、そちらは見送って、滝坂道を行きましょう。


     八幡山

 赤堤通りと分かれてすぐに世田谷区を南北に貫く一直線の荒玉水道道路と交差して、その先で広い道路にぶつかります。この付近は右も左も船橋6丁目で、古くは船橋村葭根(よしね)といった地域です。昔は湿地が広がり、ヨシの茂る寂しい土地だったそうです。昭和40年代から区画整理が行われ、新しい道路が建設されました。そのため、滝坂道の全区間の中で、ここだけ古い道筋が失われています。
 ここでぶつかる南北の2車線道路は都市計画道路補助215号線で、すぐ北側で交差する東西の道が都市計画道路補助54号線です。この54号線はこの先、滝坂道の新道としての役割を担っており、西進すると、すぐ烏山川の低地に下ります。現在、この低地には希望が丘団地がありますが、昔は大雨が降ると、烏山川の氾濫でちょっとした湖ができたというほどの水害多発地帯でした。今は川は完全に暗渠化され、元は水田や湿地だった土地に団地や道路が建設されていますが、滝坂道は当然ながらそのような場所は避けて北へ迂回しています。
 また、これは余談ですが、54号線沿いで子どもの頃、ウルトラマン・シリーズのロケ撮影をやっていたのを見たことがあります(たぶん、エースかタロウ)。まだ、広い空き地が残っていた時代の思い出です。

地図②(昭和30年) 八幡山付近

現代の54号線が低地をまっすぐ突っ切るのに対して、滝坂道は北側の台地に迂回している)

地図③ 地図左上が北

(消えた滝坂道の推定ルート。街区案内図に加筆)

 さて、その滝坂道の道筋は54号線を斜めに横切り、八幡社の前に通じていたはずですが、この区間がほとんど消えてしまいました。ただ、215号線と54号線が交わる八幡山1丁目交差点(上図の「現在地」の地点)から西へ行き、すぐにファミリーマートの横を北に入って、最初の角を左折すると、八幡山1-6で消えた滝坂道の痕跡が見つかります。
 通常、建物の向きというのは敷地に接する道路と平行であるものですが、ここでは現行道路に対して民家が斜めに建っているのです。そして、その民家の敷地に沿って並木(屋敷林)がありますが、これも道路と平行ではなく斜めに並んでいます。つまり、この区画を昔の滝坂道は斜めに横切っており、民家も屋敷林も区画整理で消えた旧道に沿っていたと思われるわけです。この一角では新しい学生寮(下写真の白い建物)だけが道路に平行に立っています。

(道路に対して斜めに立つ並木と民家。八幡山1-6)

 そして、この地点から右手に畑を見ながら西へ行き、突き当たりを右折すると、八幡社の前に出ます。ここで北東方向から来る道と出合いますが、これも「滝坂北道」などと呼ばれる古道で、旧上北沢村を通って、今の京王線下高井戸駅の先で甲州街道に通じています。途中には上北沢村の名主で元は世田谷城主・吉良氏の家臣だった鈴木氏が開いた密蔵院(真言宗)や万寿3(1026)年の創建と伝えられ、そうだとすれば世田谷区内最古の八幡神社である勝利八幡神社があります(地図②参照)。
 この下高井戸方面からの道に現在の滝坂道は突き当たる形で合流していますが、かつてはYの字を東西に寝かした形で合流していました。その合流点は八幡社の西寄りの信号がある地点で、そこだけ道幅が拡がっているのがその跡と思われます。

(八幡社前で下高井戸方面からの道と合流)

 さて、この八幡社は創建年代など不詳ですが、それなりの古社のようで、北側に3基の庚申塔があります(右写真)。
 社は烏山川の北側の台地上にあり、言うまでもなく八幡山の地名の由来となっています。現在の世田谷区八幡山は昔は多摩郡八幡山村といい、さらに中世には鍛冶山村とも呼ばれたそうです。この付近の台地の裾から縄文時代の住居跡とともに江戸初期の炭焼き窯の跡が4基発見されており、鍛冶山の地名と関係があると思われます。また、江戸時代には彦根藩・井伊家の領地で、御林地とされていました。明治22年に周辺の村と合併して千歳村大字八幡山となり、昭和11年に世田谷区に編入されています。
 現在は北端の京王線八幡山駅周辺が最も賑やかですが、昔は八幡社周辺が村の中心でした。といっても、人口の少ない村で、わずかに商店が点在する程度だったようです。現在も郵便局や理髪店、酒屋などがあります。

 (明大グラウンド沿いの道と烏山川緑道交差地点)

 八幡社前からさらに進むと、右手に明治大学のグラウンドが見えてきて、道は坂を下っていきます。これまでずっと避けてきた烏山川をここで渡るわけです。暗渠の上に整備された緑道を過ぎ、左手に千歳清掃工場の煙突を見上げ、道は都市計画道路54号線と環状8号線(環八通り)千歳台交差点に出ます。

(環八・千歳台交差点に北東側から進入する滝坂道)

 この交差点に北西から入ってくる道に沿って、かつて烏山川の支流・水無川が流れており、水田や湿地が広がっていました。そして、この区間は大雨が降ると川があふれて冠水することもたびたびだったと思われます(地図④参照)。川の氾濫で滝坂道が通行できない時は赤堤通り~人見街道経由の旧ルートが使われたのでしょう。

(千歳台交差点。画面右が蘆花恒春園)

地図④(明治42年)



     千歳台交差点~榎交差点

 千歳台交差点の北西側は徳富蘆花(1868‐1927)が明治40年から亡くなるまで暮らした旧居跡である蘆花恒春園です。昭和11年、蘆花の十周忌を機に愛子未亡人によって東京市(当時)に寄贈され、公園化されました。園内には茅葺の旧宅や夫妻の墓があります。
 また、公園の北側には粕谷八幡神社があります。鳥居の脇に杉の木があり、蘆花が訪問客をいつもそこで見送ったことから「別れの杉」と呼ばれていましたが、その後、枯れてしまい、根元から5メートルほどの高さで伐られ、現在は2代目が植えられています。

 (蘆花恒春園内の蘆花旧居と粕谷八幡神社)

 環八通りを渡ると、西へまっすぐに上って行く2車線道路が滝坂道です。道の北側は世田谷区粕谷(旧粕谷村)で、南側が千歳台(旧廻沢村)です。粕谷という地名は鎌倉時代に粕谷三郎兼時という人物の所領だったことから村名になったといいます。廻沢(めぐりさわ)は周囲を川に囲まれていたことに由来するようで、昔は烏山川・水無川・仙川・谷戸川に囲まれた、現在よりも広範な地域の名称だったようです。町名が千歳台となったのは昭和46年のことです。この一帯の船橋・八幡山・粕谷・千歳台(廻沢)などの区域は昭和46年の環八通り開通に合わせて境界線が大幅に変更されるまでは複雑に入り組んでいたのですが、ややこしいので、ここでは触れません。
 とにかく、千歳台交差点から坂道を上って行くと、左手に世田谷区立千歳台小学校があり、故谷内六郎画伯による壁画があります。これはこの付近で旧石器時代から縄文時代にかけての廻沢北遺跡が発見されたことにちなんだ作品です。

(谷内六郎画伯による壁画)

 千歳台小学校の南方には廻沢の古刹・東覚院(真言宗)があります。正式には青林山東覚院薬王寺で、本尊は薬師如来、その縁起によれば、正応元(1288)年、大和国・長谷寺の月空という廻国僧が当地を訪れ草庵を結んだのが始まりということです。その後、吉良氏の祈願所として栄えましたが、吉良氏滅亡とともに寂れてしまいます。のちに多摩川近くの氷川明神の神主・河野氏が眼病に悩んでいたところ、薬師如来のお告げによってこの地に薬師如来像を安置すると、ほどなく病が快癒したという伝承があります。秘仏の薬師如来像は20年ごとに開帳されるそうです。このお寺は玉川八十八ヶ所霊場の第42番札所にもなっています。
 この東覚院周辺は今でも農地が多く残る地域でもあります。

 (東覚院と周辺の農地)

 一方、道の北側には「せたがや百景」に選ばれた「廻沢のガスタンク」(現在の町名では粕谷)で、直径33.7メートルの巨大な球形タンクが5基並んでいます。東京ガス世田谷整圧所で、昭和31年に建設され、地域のランドマークとなっています。

(廻沢のガスタンク)

 やがて、東京中央農協のある交差点に出ます(右写真)。農協の敷地はかつて千歳村役場があった場所です。ここで交差する道も古くからの道で、北へ500メートルほど行くと地蔵堂があります。また、この道に沿って、かつて品川用水が北から南へ流れていました。
 品川用水は寛文2(1662)年、熊本藩主・細井越中守綱利の弟・若狭守利重が品川領戸越・蛇窪両村に抱屋敷を拝領し、寛文3~4年にかけて庭園の泉水用に玉川上水からの分水路を掘削したのが始まりです。しかし、用水の維持に莫大な費用と人手を要し、なおかつ地元の湧水で用が足りたことから細川家は寛文6(1666)年にこの水路を廃止しました。その後、水不足に悩んでいた品川の領民が用水堀の下賜を願い出て認められ、幕府の費用で拡張工事を行い、寛文9(1669)年に品川用水が完成しました。用水は世田谷を北西端から台地の尾根筋を南東へと横断していますが、数カ所で低地を横切るため、その区間は土手を築いて、その上に水を通しました。いま我々がいる交差点の北方でも水無川の上を築堤で越える立体交差になっていました。
 なお、品川用水は昭和25年~27年にかけて主に塵芥で埋め立てられ、その跡は道路となっていて、痕跡はほとんど失われています。

 標高46メートルの表示がある農協前を過ぎると、近年歩道付きの2車線に拡幅された区間で、左手にはレンガ塀が続きますが、ここは青山学院大学理工学部(世田谷キャンパス)の跡地で、現在は集合住宅となっています。その先は左が世田谷区立千歳中学校、右が都立芦花高校です。

 (青学キャンパス跡のレンガ塀と忠魂碑)

 左に芝畑を見て、まもなく廻沢西公園があり、立派な「忠魂碑」が立っています。帝国陸軍皇道派の重鎮・荒木貞夫の揮毫によるもので、肩書が陸軍大臣となっていることから荒木が陸相を務めた昭和6年から9年の間に建立されたものと分かります。

 さて、榎交差点にやってきました。ここで交わるのは六郷田無道です。その名の通り、六郷方面と田無方面を結ぶ往還で、恐らくは古来、府中と六郷・品川方面を結ぶ幹線道路だったのではないかと思われます。ちなみに、「上祖師谷の六郷田無道」「せたがや百景」にも選定されています。

 現在の榎交差点は五叉路になっていますが、北に伸びる2車線道路は近年開通した新しい道で、京王線の千歳烏山駅方面に通じています。この新道のおかげで、このあたりの雰囲気はずいぶん変わりました。
 ところで、榎はニレ科の落葉高木で、江戸時代には街道の一里塚などに植えられ、熟すと甘い果実は道行く人の食料にもなっていたそうです。かつてはこの交差点の東側にエノキの木が生えていたということですが、現在は見当たりません。
 上祖師谷郷土研究会が交差点の一角に設置した説明板によると、エノキの根元には石の道標があり、「北・井之頭、東・江戸四谷、西・滝坂、南・二子」と彫られていたということです。現在、交差点に道標はありません。
 なお、ここから六郷田無道を北に150メートルほど行った三叉路に庚申塔があります(上祖師谷1-1-4)。文化9(1812)年に建立されたもので、「庚申塔」の文字の下に三猿が刻まれ、「東たかいどミち 南せたがや めぐろみち 北ところざハミち」と彫られています。
 さらに北へ行くと、長太稲荷という小さな祠があり、その境内にも古い道標があり、文字が読み取りにくいのですが、どうやらこれが榎交差点にあったという道標ではないかと思われます。

 
(上祖師谷1丁目・六郷田無道沿いに立つ庚申塔と長太稲荷の道標))

地図⑤(明治13年)



     上祖師谷

 榎交差点を過ぎると、道は再び昔ながらの狭い道になり、仙川の低地への下り坂となります(右写真)。狭いわりに交通量が多く、バスも走るので、古道散策者にとっては注意が必要な区間です。数年前にはこの坂の途中でハクビシンが轢かれて死んでいるのを見ました。
 現在、榎交差点から西側にもバイパス道路が建設中です(これが完成すれば榎は六叉路になります)。

 交差点から先、右側は世田谷区上祖師谷2丁目、左側は祖師谷6丁目です。古くは祖師谷村といい、江戸時代に上祖師谷村と下祖師谷村に分かれ、明治22年には千歳村の一部となった地域で、昭和11年に世田谷区に編入されています。
 この下り坂は安穏寺坂といい、右手には安穏寺がありますが、坂上からは墓地越しに富士山が見えます。
 また、坂の途中で左に折れる道の入口に「富士見小路」という石標が立っています。でも、その道に入ってみても、今は住宅が立ち並び、富士山は見えそうにありませんし、この石標はいつ頃だれが建てたものかも分かりません。この先は道の左側も上祖師谷の3丁目です。

 
(安穏寺の墓地の彼方に見える富士山と「富士見小路」石標)

 さて、右側の石垣と築地塀に沿って坂を下って行くと安穏寺の門前に出ます(上祖師谷2-3、右写真)。
 安穏寺は正式には舜栄山行王院安穏寺といい、江戸初期に開かれた真言宗のお寺です。玉川八十八ヶ所霊場の第41番札所であり、「武家屋敷風の安穏寺」として「せたがや百景」に選ばれています。
 安穏寺坂を下りきったところに、地蔵堂や庚申塔、馬頭観音などが並んでいて、いかにも古道らしい風情です。また、そばには昔懐かしいオート三輪が置かれています(その後、見当たらなくなりました)。昭和30年代頃まではこんな車が土埃を上げながら滝坂道を走っていたのでしょう。

 (地蔵堂・庚申塔・馬頭観音&オート三輪)


 かつては水田や湿地であった低地に下ると、小さな水路跡の暗渠を横切ります。そこが源造橋の跡で、上祖師谷郷土研究会の立てた説明板があります。

 「大道(今の滝坂道)と、悪水堀りが交差するところがこの橋である。この橋の名前の由来は、この付近にゲンゾウさんという人がおり、近所の子ども達にヨミカキを教えていていつからかこう呼ばれるようになった」

 さて、滝坂道はケヤキ並木や祖師谷教会(賀川豊彦や徳富蘆花にゆかりがある教会)の前を過ぎ、まもなく右が数々の名選手を生んだ駒沢大学の野球場、左は都立祖師谷公園となり、宮下橋仙川を渡ります(右写真)。
 仙川は三鷹市新川(旧上仙川村)の勝渕神社前の丸池を本来の水源とする多摩川の支流です。戦後、武蔵野の都市化が進む中で排水路として上流に延長され、現在の「上流端」は小金井市貫井北町3丁目になっています。ここまで渡った川はすべて暗渠化されていたので、渋谷をスタートしてから初めての川らしい川で、コイやカモの姿も見えます。
 この仙川が武蔵野台地に刻んだのが祖師谷の地名の起源となった谷で、昔、この付近に地福寺という、おそらく日蓮宗の寺院があり、宗祖・日蓮を祀った祖師堂があったことに由来すると伝えられています。地福寺は現存せず、正確な所在地は不詳ですが、少し南方の釣鐘池(祖師谷5-33)付近ではないかと考えられているようです。

 仙川を渡ると、すぐに上り坂ですが、その左側が宮下橋の由来となった神明社(「せたがや百景」)です。旧上祖師谷村の鎮守で、祖師谷村が上下二村に分かれた元禄年間にこの地に創建されたようです。現在の社殿は昭和42年に再建されたもので、神明社ですから本来の祭神は天照大神ですが、倉稲魂命(うかのみたま=稲荷神)も祀られ、本殿の両側には村内各地から合祀された厳島社、諏訪神社、三峯社、秋葉神社、稲荷社の祠も並んでいます。
 境内には老木が多く見られますが、なかでも都市部では珍しいヤマトアオダモが貴重な存在で、「世田谷の名木百選」に選ばれています。神社に沿う滝坂道を見守るように石橋供養塔(1767年)がひっそりと立っています。

 (上祖師谷神明社と石橋供養塔)

 坂を上ると、左へ分かれていくのが成城通りで、成城の街へと通じています。今は世田谷を代表する高級住宅地となった成城ですが、一帯は平坦な台地で、昔は畑ばかりで、人家もまばらだったといいます。この成城通りからすぐ右に分かれていくのが狛江方面に通じる道で、古道らしい風情が残っています。
 このあたりの旧地名は滝坂道の北側が上祖師谷村大道北、南側が大道南です。「大道」とは先の源造橋の説明板にもあったように滝坂道のことで、上祖師谷村の幹線道路だったことが分かります。
 大道北には上祖師谷阿弥陀堂があります(上祖師谷6-12)。古い墓石やお地蔵様の並ぶ共同墓地です。

(上祖師谷阿弥陀堂)

 さらに滝坂道を行くと、左手に庚申塔があります(上祖師谷5-8-1)。天和2(1682)年に建立されたもので、ここで左へ分かれていく道も狛江方面に通じています。

(上祖師谷5丁目の庚申塔。青面金剛像の下に三猿)


     世田谷区から調布市へ

 道はやがて世田谷区から調布市に入ります。道の北側が仙川町、南側が若葉町です。

 (ケヤキ並木を経て調布市に入る)

 桐朋学園前の交差点から商店街を北に行けば、京王線仙川駅で、さらに商店街を行くと、甲州街道に出ます。ここに一里塚跡の碑があります。
 滝坂道をさらに行くと、右にカーブして京王線の切通しを越えます。ここは太古の多摩川が武蔵野台地を削った国分寺崖線が通っており、京王線は崖下に下る勾配を緩和するため、仙川駅手前から切通しになっています。

 (京王線と旧線跡の坂道)

 線路を越えると、すぐ左に折れる急な下り坂があります。これは昔の京王線の線路跡だそうです。もちろん、こんな急勾配では電車は上り下りできません。昔はこの道も切通しになっていたのが、線路の付け替え後に道路に転用され、滝坂道と接続するために切通しを埋め立てたようです(地図⑥参照)。

(仙川2丁目交差点で甲州街道に合流)

 滝坂道はキューピーマヨネーズの仙川工場を右に見て、仙川町2丁目交差点国道20号線・甲州街道に合流します。かつての合流点は今より少し西寄りで、甲州街道旧道の滝坂に直結していました。仙川町と東つつじヶ丘の境界が旧道跡です(地図⑥の点線区間)。そして、国分寺崖線の斜面を下る甲州街道の坂こそが「滝坂道」の由来となった「滝坂」です。坂の名前は雨が降ると、水が滝のように流れ下ったことに由来するといいます。もっとも、現在の滝坂は切通しと築堤によって勾配が緩和され、緩やかに下っていますが、この区間には旧道も残っており、こちらの方が急勾配です。それでも、昔よりはだいぶなだらかになっているものと思われます(地図⑥参照)。

地図⑥(昭和12年) 滝坂道と甲州街道の合流点付近図

(赤の点線が消えた区間。青の点線が京王線の旧線))

(甲州街道・滝坂の旧道が右に分岐)

 新旧滝坂の分岐点に「川口屋」という馬宿の建物が保存され、入口には「瀧坂旧道」の石碑が立っています。かつてはこの坂道を馬がそれこそ滝のような汗をかきながら荷車を引いて上り下りしていたのでしょう。


(馬宿・川口屋の跡と「瀧坂旧道」の碑)

 ケヤキの古木が並ぶ旧道を下って行くと、左手に薬師如来像が道行く人を見守っています。その隣には首のないお地蔵様。右手は赤土の崖で、旧街道の面影を色濃く残す区間でもあります。

 (滝坂旧道と薬師如来・地蔵尊)

 坂を下って行くと、調布市東つつじヶ丘1丁目に入り、坂を下りきると、右側は三鷹市中原1丁目となります。そして、入間川(中仙川)の暗渠を越えて、4車線の国道に合流し、ここで滝坂道は終わりとなります。お疲れ様でした。甲州街道を少し行けば、京王線つつじヶ丘駅の入口です。

(現国道20号線に合流)


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