《世田谷の古道》


品川道 駒沢~品川


 世田谷から目黒不動尊・品川湊へ通じていた「品川道」をたどります。

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 品川道 府中~新川宿  府中~狛江 狛江~用賀


   駒沢~二本松

 品川は武蔵国の湊、いわば海の玄関口として六浦(横浜市金沢区)や神奈川とともに古くから知られていました。なかでも品川は武蔵国府の置かれた府中から最も近い湊として重要だったと思われます。
 その品川へ府中から人見街道~六郷田無道経由(地図①の赤ルート)、そして狛江、喜多見を通る品川道~筏道経由(青~赤ルート)の二つの道筋たどっているわけですが、ここからいよいよ最終コースです。

地図①東京府郡区全図(部分) 明治29年


 今回のスタート地点は用賀。府中から狛江、喜多見経由の品川道~筏道を通って用賀まで来ると、そこからは大山道に入ります。大山道はすでに紹介済みなので、ここでは簡潔に。
 用賀の東で大山道は世田谷宿経由と新町経由の新旧2ルートに分かれますが、ここは右の新ルートを行きます。三軒茶屋から世田谷新町を通って用賀までの大山道新道は大山参詣が盛んになった文化文政時代(1804‐1830)に開通したといわれますが、地図②A地点(駒沢2‐17‐1)にあった庚申塔は延享4(1747)年に建立されたので、少なくとも用賀からA地点まではそれ以前から存在したようです(この区間で最後に開通したのは三軒茶屋~上馬間の蛇崩川の低地を横切る区間だと思われます)。
 用賀から旧世田谷新町村の区域に入ると、かつては北から来た品川用水が並流していました。この先、小さな谷を通る区間で迂回する以外は品川までずっと我々がたどる道の傍らを品川用水が流れていました。要するにこの流れに沿って行けば品川まで行けたわけです。
 そして、大山道がバイパスの玉川通りと合流して、地図②A地点まで来ると、そこで右に分かれる道に入ります。

地図②(明治42年) 

(青線は品川用水)

 
「右めくろミち」道標と大山道=玉川通りから右へ分かれる目黒道)


 このA地点にあった庚申塔は現在は世田谷区郷土資料館に移されていますが、道標を兼ねていて、正面には「庚申供養」の文字とともに「西ハ大山道」とあり、向かって右側面には「東ハ赤坂道」、左側面には「右めくろミち」となっています(上写真)。我々はここで大山道(現在の国道246号線、玉川通り)から分かれ、「右めくろミち」を行くわけです。交通量が多く、頭上に首都高速の高架が覆いかぶさる玉川通りから急に静かな細道に入り、ホッとします。そして、いかにも古道らしい雰囲気が感じられます。



 ところで、駒沢は歴史のある地名と思われがちですが、実際は明治22年に生まれた新しい地名です。同年の近代的町村制施行に伴い、上馬引沢、下馬引沢、野沢、深沢、、弦巻、世田谷新町の6村が合併した時に新しい村の名前として考案されました。「沢」のつく村名が多かったのと、馬引沢の馬を「駒」に変えて駒沢としたのです。駒沢村は大正14年に町制施行、昭和7年に世田谷町、松沢町と合併して世田谷区の一部となっています。いま我々がいる駒沢1丁目はかつての上馬引沢村の一部(字南野)でした。
 貴重な緑が保存されている「松之木都市林」を左に見て、まもなく自由通りに突き当たります。古道はこの先で少し北にずれて続き、ここから左側が世田谷区上馬(旧荏原郡上馬引沢村)、右側が目黒区東が丘(旧荏原郡衾村)で、この道が区境になっています。古くから村境の道だったわけです。
 衾(ふすま)村は明治22年に隣の碑文谷村と合併し、碑衾村となり、昭和2年に町制施行、昭和7年に目黒区が成立し、その一部となっています。碑文谷、衾の両村は世田谷領に属し、中世には世田谷領主・吉良氏の支配下にありました。世田谷吉良氏の初代・治家が夭逝した嫡子・祖朝(ちかとも)の菩提を弔うため貞治4(1365)年に創建したと伝わる春陽山霊徳院東光寺(曹洞宗、創建時は臨済宗東岡寺)も旧衾村にあります(現・目黒区八雲1丁目)。

 ところで、この道をたどっていると、わずかな起伏があるのに気がつきます。南側から呑川水系(柿の木坂支流)の谷が迫っていて、道は谷頭をかすめるように続いているのです。地図②でも芳窪という地名が確認できます。用賀の東端からずっと大山道沿いを流れていた品川用水がこの区間だけ北へ迂回しているのも、この谷を避けるためでしょう。

 

 まもなく現在の玉川通りと環状七号線が交わる上馬交差点から宗圓寺の東側を下ってくる道があり、これを過ぎると、左側は世田谷区野沢となります。旧荏原郡野沢村(のち駒沢村大字野沢)です。
 そして、まもなく右手に小さなお堂があり、庚申塔が2基並んでいます(東が丘1‐12、地図②B地点)。ひとつは延宝4(1676)年建立。もうひとつは風化して、年代不明です。



 環状七号線とぶつかると、そこが野沢交差点で、環七と斜めに交差して、まっすぐ続くのが目黒、品川方面です。

(環七と斜めにクロスして直進が品川道)

 環状七号線も元は古道で、南へ行けば池上や六郷方面へ行ける、世田谷区でいう「六郷田無道」です。府中から人見街道で新川宿へ行き、そこから六郷田無道を通って品川へ行く場合、あるいは甲州道中~滝坂道経由で来る場合も今の環七を通ってここに至ります。そして、品川用水も上馬交差点からここまで環七沿いを流れており、ここからは品川道に沿っていました。その品川用水も昭和初期には役目を終え、戦後埋め立てられ、今は跡形もありません。

 ところで、この野沢交差点がかつて二本松と呼ばれた地点です。南西側に呑川水系、北東側に蛇崩川水系の谷が迫る台地尾根に位置し、そこに2本の松の巨木がそびえていたことにちなむ地名です。この木は明治中頃に落雷が原因で枯れ、2代目が植えられましたが、昭和20年5月25日の空襲で焼亡。3代目は昭和39年の東京オリンピックに向けた環七拡幅の際に伐採され、それ以来、松が植えられることはなく、二本松という地名も忘れられつつあります。

(龍雲寺境内の二本松地蔵尊)

 この二本松に昔は寛政9(1797)年に建立された地蔵尊(二本松地蔵尊)がありました。現在は野沢の龍雲寺(野沢3-38)に移されていますが、これが道標を兼ねています。台石の正面には「北 世田ヶ谷道 堀之内道」と刻まれ、側面には「東目黒道」、背面に「西大山道」と彫られています(ただし、古い写真では東目黒道が正面になっています)。我々は西の大山道方面からやってきて、東の目黒方面へ向かうわけです。
 ちなみに二本松から南南西方向へ行く道は柿の木坂通りで、旧衾村の中心部、今の八雲に通じ、そこには東光寺などがあります。

   野沢~鷹番

 では、品川道を行きましょう。この道は大正9年の道路法施行時に指定された旧「東京府道58号駒沢品川線」でもありました。今は2車線のバス通りで、進行方向左側を品川用水が流れていました。



 道はすぐ下り坂になり、500メートルほど行くと、水車橋というバス停があります。かつて品川用水に架かっていた橋の名前で、そこに水車があったことにちなみます。

(水車橋バス停。左側が水車跡)

 品川用水の水は品川領以外の上流部では原則的に利用が認められていませんでしたが、用水維持費用の財源として用水利用料を徴収できる水車の設置を認めることになったようです。その代わり、水不足で下流の水量が減少した場合は水車の操業を休止することが条件になっていました(品川用水普通水利組合『品川用水沿革史』、昭和18年)。
 この野沢水車(野沢3‐10)は明治14年に谷岡慶治氏(のちの駒沢村初代村長)が設置を出願して認可され、明治16年に完成したもので、直径一丈六尺(4.8m)の巨大な水車は建物内にありました。用水の水を300メートルほど上流で堰を作って導水路に引き込み、高台上に流して、そこからの落水で水車を回したのです。水車というと、のどかなイメージがありますが、ここの水車は発電できるほど猛烈な勢いで回転し、杵のつき音も水音も凄まじいものだったということです。


(大正12年頃の野沢水車。絵:山野井鉄雄氏)

 現在は水車小屋も水車橋も存在しませんが、水車跡の碑と解説板があります。また、背後の高台には日蓮宗の野沢山正徳寺があり、水神が祀られています。また水車の歯車や石臼などが保存され、境内には馬頭観音や庚申塔、二十三夜塔などが集められています。

(野沢山正徳寺)

 水神は品川用水開削の際、この区間が難工事だったため、工事完遂と安全を祈願して祀られたといい、白蛇がとぐろを巻き、頭をもたげた姿の像だったということですが、今は祠とともに行方不明になっています。
 また、水神がお寺に祀られているのは、野沢水車の建設に際して土を掘り下げたところ、7体の人骨が発見され、境内に埋葬して寺院を建立したためです。供養のために招かれた日蓮宗の僧が「相当名のある武士の遺骨に相違ない」と告げたといい、勧めに従い、地元の人が納めた「南無妙法蓮華経」の題目三万部が堂内に残されています(高橋信次郎『下馬史』、昭和62年)。
 なお、野沢水車跡の斜向かいには送電線鉄塔の下に稲荷社の祠もあります。大正12年の野沢水車図に正徳寺境内に水神祠と並んで稲荷社が描かれていますが、同一のものでしょうか。

 では、先に進みます。水車橋バス停を過ぎて、すぐに世田谷区下馬に入ります。旧荏原郡下馬引沢村で、のちに駒沢村大字下馬引沢となり、町制施行時に略して下馬となりました。
 次の三谷(さんや)バス停を過ぎると、目黒区五本木に入ります。五本木という地名は旧荏原郡上目黒村五本木組に由来します。江戸時代の上目黒村では地域を四つの「組」(上知、宿山、石川、五本木)に分けて年貢徴収などの地域行政や生活共同体としての機能を持たせていました。上目黒村は明治22年に下目黒、中目黒、三田の各村と合併して目黒村となり、大正11年に町制施行。昭和7年に碑衾町と合併して目黒区が成立しています。
 現在の目黒区五本木は昭和43年の住居表示実施でそれまでの上目黒五丁目、中目黒三丁目、三谷町の各一部が合併して成立しました。このうち、三谷は昔の碑衾町三谷で、古くは碑文谷村の領域でした。
 そして、世田谷区と目黒区の境界で交差する道が旧鎌倉街道との伝承をもつ道です。二子玉川方面から目黒通りを来て、柿の木坂交差点から環七を北上し、柿の木坂1丁目交差点で環七から分かれて北北東に上がってきた道筋です。世田谷・目黒区境をこのまま北上すると、道路の真ん中に葦毛塚があります。葦毛の馬を埋葬した場所だといい、その馬の主は源頼朝だとも、鎌倉期の当地の領主・北条左近太郎だともいいます。頼朝が奥州攻めの際にこの地を通ったところ、馬が何かに驚いて蛇崩川の沢にはまり、すぐに従者が救い出したものの助からず、以後、ここは馬を引いて渡るように命じたことから「馬引沢」の地名が生まれたという伝承があります。そして、その馬を埋葬したのが葦毛塚というわけです。道路が塚の両側を避けて通っているので、簡単には動かせない、ただならぬ霊地なのだと感じさせます。

(道の真ん中にある葦毛塚)

 さて、品川道は目黒区に入ってすぐ駒沢通りにぶつかり、一旦合流し、すぐに右に分かれます。ここから目黒区鷹番で、昔の荏原郡碑文谷村鷹番です。鷹番は江戸時代、鷹番屋敷が置かれたことに由来するとか、鷹場が転訛したとかいい、将軍家の鷹狩り場と関係のある地名のようです。
 まもなく、東急東横線学芸大学駅の北側で高架線をくぐりますが、その手前を右に入ると、地蔵尊があります。

(学芸大学駅商店街の地蔵尊)

 学芸大学駅は昭和2年の東横線開業時は碑文谷駅でした。その後、昭和11年に世田谷区下馬町に青山師範学校が進出すると、最寄り駅ということで青山師範駅に改称、以後、学校の変遷に合わせて昭和18年に第一師範駅、昭和27年に学芸大学駅と改称し、東京学芸大が昭和39年に小金井市に移転した後も学芸大学駅の名称が使われています。

 東横線の高架を過ぎて100メートルほどの地点で左から合流するのも古い道で、近代以降は旧東京府道42号大井世田谷線でもありました。ここから府道58号線は番号の若い42号線の陰に隠れることになります。
 さらに進むと、五差路があります。学芸大学駅からの商店街は新しい道ですが、ここで交わる南北の道は古い道で、北へ行けば祐天寺・中目黒方面、南へ行くと碑文谷の円融寺を経て丸子や池上方面に通じています。旧東京府道102号目黒池上線でもありました。ここには品川用水の筋違橋があり、傍らに水車もありました。

(鷹番の五差路。右の角に道標があった)

 また、その交差点に通称「仁義礼智道標」という道しるべがありました(鷹番2‐4‐7)。「行路是東西南北、人是原仁義礼智」(行く路はこれ東西南北、人はこれもと仁義礼智」の文字が彫られているので、こう呼ばれます。現在は「めぐろ歴史資料館」(中目黒3‐6‐10)に展示されていますが、弘化4(1847)年に建立されたもので、正面には「向テ右青山ぞうし谷・左いけ上みね丸子道」、右面には「右二子世田谷ほりの内・左なかのべ品川道」と彫られています。このうち、「ぞうし谷」は雑司ヶ谷の鬼子母神で、江戸時代には目黒不動尊、浅草寺と並ぶほどの崇敬を集めていました。「みね」は当時多くの参詣者があった大田区西嶺町にある観蔵院の「峯の薬師」と思われます。「ほりの内」は祖師像で知られる杉並区堀之内の日蓮宗・妙法寺です。「なかのべ」は品川区旗の台の旗岡八幡神社(中延八幡宮)でしょう。「いけ上」が池上本門寺なのは言うまでもありません。

(めぐろ歴史資料館に展示されている仁義礼智道標)

 この交差点を過ぎると、目黒区中央町で、昔の碑文谷村唐ヶ崎です。明治時代までは見渡すかぎり畑が続き、ほとんど人家もない寂しい土地だったということです。
 そこに大正4年、北里研究所飼畜部が設立され、家畜を飼育してワクチンの研究開発や製造を行っていましたが、都市化が進むと家畜飼育に適さなくなり、昭和36年に千葉県へ移転。その跡地には昭和41年に市外電話の中継基地、唐ヶ崎電話局が設置されます。現在のNTT唐ヶ崎ビルで、その鉄塔は地域のランドマークになっています。唐ヶ崎町は昭和41年に住居表示実施により中央町の一部となり、今はバス停名やNTTのビルや児童遊園にその名を残すのみです。

地図③(昭和7年)


 曲がりくねりながら続く品川道はまもなく目黒通りと交差します。目黒通りは交通量の多い大通りですが、古くからあり、かつては地元で二子道と呼ばれました(この交差点の西側に旧道が残っています)。世田谷方面から目黒不動尊へ行く場合は、ここで目黒通り(二子道)に入るのが近道でした。

(目黒通り交差点。正面は目黒郵便局)


   目黒不動尊へ

 品川道から一旦逸れて、目黒通りを行きます。右手に東急バスの車庫がありますが、そのあたりにかつて湧水があり、六畝(ろくせ)川の水源となっていました。小川は南へ流れ、目黒川の支流・羅漢寺川に合流し、東へ向かい、目黒不動尊前へと流れていました。
 湧水のそばには明治30年頃から清水稲荷神社が祀られていましたが、昭和27年にすぐ東側の目黒本町1‐1に移されています。拝殿は鷹番小学校の御真影(=天皇陛下の肖像写真)奉安殿を移築したものだということです。かつてはどんな旱天でも涸れることがなかったという湧水も今は失われ、六畝川は暗渠化されて六畝川プロムナードという遊歩道になっています。現代ではこの遊歩道をたどって行くのが目黒不動尊までの最も気持ちのよい散歩道といえます。

(清水稲荷神社と六畝川プロムナード)

 さらに目黒通りを東へ行くと、「元競馬場」信号、「元競馬場前」バス停があります。目黒通りの南側、不動尊の北西側に明治40年に開設された目黒競馬場の名残です(厩舎は目黒通りの北側にあった)。昭和7年に始まった「日本ダービー」も最初の2回は目黒で開催されています。しかし、目黒競馬場は面積6万余坪(20ha)と手狭なうえに敷地の大部分が借地で、地主から地代値上げを要求されたため、昭和8年春の開催をもって廃止され、広大な土地と豊かな水に恵まれた府中に移転しています。移転に際して、目黒から府中まで我々がたどっている旧街道を馬たちが歩いていった、というのなら面白いのですが・・・。
 いまは目黒通りに面して「目黒競馬場跡」の記念碑があり、6頭の日本ダービー優勝馬を出した大種牡馬「トウルヌソル」号の銅像が立っています。また、競馬場跡地の住宅街には当時の第3~第4コーナーの外周道路がそのままのカーブで残っています。

(「目黒競馬場跡」の碑)

 道はやがて目黒川の谷へ向かって下りとなります。金毘羅坂といい、明治初期まで道の北側(目黒3丁目)に金毘羅社があったのが由来です。下の「江戸名所図会」で画面の右からくる道が金毘羅坂で、道沿いに小川が流れていたのが分かります。


(『江戸名所図会』より「大鳥明神社」)

 坂を下って、山手通りとの交差点角に目黒総鎮守の大鳥神社があります(下目黒3‐1‐2)。大同元(806)年創建と伝わる目黒で最も古い神社で、主祭神は日本武尊。伝説によれば、日本武尊が東征の旅の途中で当地に立ち寄り、そこにあった社に東夷平定成就を祈願したといい、その後、亡くなった日本武尊の霊魂が白鳥の姿になってこの地に舞い降りたので鳥明神として祀られたということです。

(大鳥神社)

 では、目黒不動尊へ参りましょう。目黒通りの金毘羅坂の途中、目黒寄生虫館(下目黒4‐1‐1)の角を南へ入るのが裏参道になります。不動尊の境内が広がる不動山を越える道です。また、大鳥神社から不動山の東の裾を回っていく道もあります。この道は江戸方面から行人坂を下り、目黒川を太鼓橋で渡ってくる道とも合流し、道沿いに門前町が形成された、いわば表参道です。いずれにせよ、ここまで来れば目的地に着いたも同然で、数多い寺社や名所を巡ったり、名物(飴、餅花、粟餅など。明治以降は筍飯、栗飯も。さんまは目黒名物ではありません)を味わったりしながら、不動尊へお参りすればよかったわけです。

 さて、目黒不動尊(下目黒3‐20‐26)は正式には泰叡山護國院瀧泉寺という天台宗の寺院で、大同3(808)年に慈覚大師円仁が創建したと寺伝はいいます。慈覚大師が創建と伝わる寺は関東に多数あるので史実かどうかは不明ですが、江戸東京を代表する古刹であることは間違いありません。目黒川の支流・羅漢寺川が門前を流れ、台地斜面に広がる高低差の大きな境内には湧水が多く、寺名の由来となった「独鈷の滝」は水音が絶えず、水行の場となっています。
 江戸初期の火災で伽藍が焼失しますが、3代将軍・徳川家光の篤い信仰により諸堂が再建され、それ以降、特に江戸庶民の崇敬を集め、門前町が発達しました。また周辺一帯に広く知られた寺社や名所が集中し、さらに文化9(1812)年には富くじ興行が許可されたこともあり、江戸近郊の一大行楽地として大いに賑わったのです。近代以降、都市化の進展によって往時の景観の多くは失われましたが、今でも見どころの多い土地ではあります。


(『江戸名所図会』より「目黒不動堂」) 

 
(目黒不動・瀧泉寺山門と独鈷の滝)

(不動堂)

地図④(明治42年)



   目黒から品川へ

 では、品川道と目黒通りの交差点、目黒郵便局前に戻って、品川をめざしましょう。このあたりでは「26号線通り」の通称があります。これは東京都の都市計画道路補助26号線に由来します。
 すぐに右に分かれる道があります。それが品川用水跡です(地図④参照)。品川用水は目黒通り以北では我々の進行方向左側を流れていましたが、目黒通り以南では品川道の右側を流れていました。そして、この先、品川道が羅漢寺川源流部の谷に下るので、品川用水はその谷頭の西側を迂回するのです。用水のすぐ西には呑川水系の谷が入り込み、その水を溜めた清水池があるので、品川用水は二つの水系の狭間の尾根を通り抜けているわけです。品川用水の川床から漏れる水が両側の水系に湧き出ていた可能性も考えられます。

(右へ分かれる品川用水跡)

 とにかく、品川用水跡の道を右に見送って、すぐ「清水庚申」バス停があり、次の交差点角に庚申堂があります(目黒本町1‐10‐17)。元は道の向かい側(目黒本町2‐1‐17)にあったそうです。嘉永7(1854)年に建立された庚申堂は道標を兼ねていて、府中と品川の両方が刻まれている点で興味深いものです。正面には「庚申講中」と刻まれ、右面に「右いけがみ まりこ 左めくろ みち」、左面に「右せたかや ふちう 左しな川 みち」と彫られているのです。我々が世田谷・府中方面から来て、品川方面へ向かっているのは言うまでもありません。ここで交差するのは南へ行けば池上、丸子方面、北へ行くとすぐ目黒通りにぶつかる道です。

 (清水庚申と「ふちうみち」の文字)

 池上方面の道は今は円融寺通りと呼ばれ、途中、旧碑文谷村の古刹・円融寺(碑文谷1‐22‐22)を通ります。
 円融寺は寺伝によると、仁寿3(853)年、ここも慈覚大師円仁が創建した法服寺(天台宗)が始まりといいます。その後、弘安6(1283)年、日蓮の弟子・日源により日蓮宗に改宗し、寺名も法華寺と改められます。碑文谷を領有した世田谷吉良氏の保護を受け、寺は大いに発展しますが、江戸時代に入り、不受不施派(法華経を信仰しない者からは施しを受けず、与えもしないという一派で、日蓮宗総本山の身延山久遠寺と対立し、また政権にも妥協せず、禁圧の対象となる)への幕府の弾圧により、法華寺は改宗を余儀なくされ、元禄11(1698)年に再び天台宗寺院となり、名を円融寺と改めます。この際、法華寺にあった日蓮42歳の時の姿を刻んだという祖師像が堀之内妙法寺に移され、「厄除け祖師」として信仰を集めることになります。
 円融寺では仁王門に安置された金剛力士像が霊験あらたかであるとして江戸の庶民から「碑文谷仁王」「黒仁王」などと呼ばれ、篤い信仰を集めました。当時は作者不明で、慈覚大師作であるとか運慶・快慶作であるとか言われたそうですが、昭和43年の解体修理で内部から木札が発見され、永禄2(1559)年に鎌倉扇ヶ谷の権大僧都大蔵法眼が制作したことが判明しています。また、釈迦堂(国重要文化財)は室町初期の建立で、東京都区内最古の木造建築です。

  
(円融寺仁王門と釈迦堂。金剛力士像)

 品川道に戻って、清水庚申を過ぎ、緩やかに坂を下ると、左に羅漢寺川跡の遊歩道が分かれていきます。この辺りが水源だったようです。川の名前は目黒不動尊の東にある五百羅漢寺に由来しますが、同寺は元禄8(1695)年に江戸本所に創建され、目黒に移ってきたのは明治41年のことなので、それ以前は羅漢寺川も別の名前で呼ばれていたはずですが、確かなことは不明です。

 
(26号線から左に分かれる品川道。さらに左に羅漢寺川跡)

 そして、そこで左に分かれる道があります。これが品川道です。野沢交差点からずっと2車線道路でしたが、ここからしばらく古道らしい道幅になります。しかし、この細道が目黒区と品川区の境界で、また羅漢寺川跡も区境です。つまり、羅漢寺川と品川道に挟まれた細い部分が品川区小山台2丁目の北西端で、まるで品川区が目黒区に角を突き刺したような形になっています。昔の地名は荏原郡戸越村槍ヶ崎でした。
 この品川道と羅漢寺川に挟まれた場所に林試の森公園があります。目黒・品川両区にまたがる広大な森林公園で、明治33年から昭和53年まで林業試験場があった土地を平成元年に都立公園として開放したものです。
 ところで、戸越村は明治22年の合併で平塚村大字戸越となります。平塚村は大正15年に町制施行、昭和2年に荏原町と改称。域内を通る中原街道が東京と神奈川県の平塚を結ぶ道であることから混同を避ける意味もあったのでしょうか。そして、昭和7年に東京市に編入され、荏原町がそのまま荏原区となります。昭和16年には荏原区戸越町の一部が小山台となり、荏原区が昭和22年に品川区と合併すると、品川区小山台になっています。
 道の右側は目黒区目黒本町3丁目で、昔の碑文谷村です。

(画面左から品川用水跡の道が合流)

 品川道を少し行くと、小山台公園前で再び品川用水跡が右から合流してきます(上写真)。ここから用水は最初は道の右側を流れていましたが、途中で左側に移り、そこに槍ヶ崎橋がありました。
 そして、左に品川区立小山台小学校を見て、広い通りと交差しますが、これは最近完成した新しい道です。この道路を渡ると、すぐ右から合流する道があります。円融寺方面からの道です。
 そして、合流地点から左に入った場所に「お猿橋庚申堂」があります(小山台1‐21‐17)。延宝2(1674)年に旧戸越村槍ヶ崎の人々が建立したもので、かつてはそばにあった品川用水のお猿橋付近にあったそうです。お猿橋という名前は庚申塔に彫られた三猿にちなんでいます。

(お猿橋庚申堂)

 お猿橋跡を過ぎると、道の右も左も品川区になり、まもなく東急目黒線武蔵小山駅(大正12年開業。当時は小山駅)の東側を越えますが、今は線路が地下化され、地上は駐輪場になっています。
 そこから品川区小山です。旧荏原郡小山村と旧戸越村のそれぞれ一部から成る町で、まもなく後地(うしろじ)の交差点に出ます。かつて「地蔵辻」と呼ばれた場所で、角に朝日地蔵があります(小山2‐7‐17)。
 朝日地蔵は旧戸越村後地の有志が寛文7(1667)年に建立したものです。奥沢の九品仏浄真寺の開山珂碩(かせき)上人が修行のため芝の増上寺まで日参し、毎朝奥沢村を出て、この辻にさしかかる頃、朝日が昇ってきたので「朝日地蔵」と命名したという伝承があります。安産・厄除け・子育ての御利益があるそうです。

 
(朝日地蔵尊と道標)

 この地蔵尊前には寛政元(1789)年に建てられた道標もあり、「右目黒不動尊 左碑文谷仁王尊」と刻まれている。品川方面から見て、いま我々がたどって来た道が左の仁王尊道で、円融寺へ通じることを意味します。そして、右へ行くと目黒不動尊へ通じています。

 さて、この地蔵辻で品川用水は二筋に分かれます。一方は右(南)へ向かい大井方面へ。そして、他方は左(東南)へ向かい、桐ケ谷、大崎方面へ流れていました。そして、大井方面への流れに沿っていたのが、旧東京府道42号大井世田谷線で、桐ケ谷方面の流れに沿ったのがここで復活する58号駒沢品川線です。もちろん、我々は左の道を行きます。

 まもなく右手に京極稲荷神社があります(小山2‐15)。讃岐国丸亀藩主・京極家の下屋敷(戸越屋敷)があった土地で、稲荷社はその邸内にあったものです。京極家はこの下屋敷から江戸の上屋敷に野菜や薪などを供給していたといい、地元農家との結びつきが強かったと伝えられています。そのため、現代まで地元の人々が京極稲荷を守り続けているということです。

 (京極稲荷と長應寺)

 さらに行くと、左右が星薬科大学の敷地となり、それが途切れると、品川区荏原の町域に入ります。
 その手前を左に少し入ると、芳荷山長應寺(法華宗)があります(小山1‐4‐15)。戦国時代の文明11(1479)年、三河国に創建された後、永禄5(1562)年に兵火により焼失。開基が徳川家康の側室の実家・鵜殿氏だったことから家康の関東入り後、江戸に再興され、その後、江戸市内を転々とし、芝伊皿子で明治維新を迎えます。寺運の衰えた長應寺は明治37年、増大する北海道開拓民の取り込みを狙って北海道に移転し、今も道北の幌延町に現存しています。一方、伊皿子に残った塔頭が明治39年に現在地へ移ってきて、長應寺の名を継承し今に至るということです。
 長應寺から細い道を挟んだ向かい側には赤坂一ツ木通りの浄土寺の境外墓地があります(荏原1‐1)。明治40年に墓地だけが移転してきたといい、敷地内に稲荷社があります。

(荏原1‐1)

 さて、荏原です。荏原郡は武蔵国の成立当初から存在する大変古い広域地名で、9郷に分かれており、そのうちの荏原郷がこの一帯に存在したといいます。ただ、荏原村という村が存在したことはありません。古代における荏原郡の中心地、郡衙の所在地は不明で、近代以降は北品川に荏原郡役所が置かれました。品川区荏原は昔の荏原郡戸越村、小山村、中延村、桐ケ谷村の各一部で、いま我々がいる1丁目は旧戸越村の領域で、一部に旧桐ケ谷村の領域を含んでいます。

(旧中原街道にぶつかり、左折)

 品川道はまもなく旧中原街道にぶつかります。いまはそのまま直進できますが、旧道はここで左折して、すぐまた右折です。その間に「旧中原街道供養塔群(一)」があります(荏原1‐15‐10)。総高1.9メートルもある地蔵尊(江戸中期)、寒念仏供養のための地蔵尊(1746年)、馬頭観音(1736年)、そして最も古い貞享年間(1684‐87)建立の聖観音の姿をした墓碑の合わせて4基です。
 昭和38年の区画整理で現在地に移るまでは北方約10メートルの辻にあったということなので、品川道の右折地点付近にあったのでしょう。

(品川区指定有形民俗文化財「旧中原街道供養塔群(一)」)

 その辻で右折する前に旧中原街道をその次の角まで行くと、そこにも地蔵尊があります(西五反田6‐22‐3)。享保12(1727)年に建立されたもので、「子別れ地蔵」の通称があります。ここは桐ケ谷の火葬場へ続く道筋で、子に先立たれた親が我が子の亡骸を見送った場所だということです。この北方にある桐ケ谷の諸宗山無常院霊源寺の境内(先ほどの長應寺の東方)に徳川家光の時代に火葬場がつくられ、それが現在の桐ケ谷斎場に引き継がれています。我々がたどっている街道を昔から数知れない葬送の列が桐ケ谷へと通っていったのでしょう。

(「子別れ地蔵」)

 さて、旧中原街道から右折すると、すぐ現在の中原街道と交わる桐ケ谷交差点です。桐ケ谷は安政4(1857)年に書かれた地誌『南浦地名考』(隣峨齋松江著、昭和26年復刻)によれば、霧が多い谷筋ということで「霧がやつ」と呼ばれたのが変化したということですが、確かなことは不明です。
 中原街道を横切り、続けて国道1号線と交差します。そして、国道を越えた先で、左下に国道の下をくぐってきた東急池上線の切通しの線路が見えます。この区間の開通は昭和2年で、そこにかつて桐ケ谷駅がありました。蒲田から池上や雪ヶ谷を経て路線を延伸してきた池上線(当時は池上電気鉄道)は昭和2年8月に桐ケ谷まで開通し、ここが終点だったのです。その2か月後に大崎広小路まで延伸。さらに翌年に五反田まで開業しています。その後、桐ケ谷駅は戦災の影響もあり、昭和20年に営業休止となり、復活しないまま昭和28年に正式に廃止となっています。

地図⑤(昭和20年) 戦災の影響かほぼ白地図状態。


 さて、国道を越えると、品川道は百反通りとなります。前方には大崎周辺の高層ビル群が立ちはだかり、品川も近いと感じさせます。

(百反通り)

 道の左(北)側は品川区大崎で、昔の荏原郡居木橋(いるきばし)村(明治22年から大崎村大字居木橋)、右(南)側は品川区戸越で、昔の荏原郡戸越村(明治22年から平塚村大字戸越)です。
 そして、道の南側は戸越から西品川に変わります。昔の三ツ木村で、品川宿の枝郷でした。
 道はしだいに目黒川の低地へと下っていきます。百反(ひゃくたん)坂といいますが、古くは百段(ひゃくだん)坂と呼ばれたようです。坂が階段状になっていたことが由来で、その後、路面が平らに均されて、百反坂になったということです。
 坂を下りきると、そこで鉄道線路に行く手を遮られます。湘南新宿ライン、東京臨海高速鉄道りんかい線、そして東京総合車両センターへの出入区線です。昔は踏切で線路を渡っていたそうですが、現在は近年架け替えられたばかりの百反歩道橋でこれらの線路を越えることができます。歩道橋と並行するように品鶴線(昭和4年開通の貨物線。現在、横須賀線が走る)と東海道新幹線が走り、また正面には山手線の線路が見え、どっちを向いても線路というなかなか楽しい場所です。

 
(百反歩道橋)

 ここに最初に建設されたのは山手線で、明治18年のことです。当時は私鉄の日本鉄道品川線で、品川と赤羽を結んでいました。当初は目黒川沿いの低地に線路を通す計画だったそうですが、住民の大反対により、やむなく台地上の起伏が激しい現行ルートになりました。山手線が当初案通りに建設されていたら、東京の地図はずいぶん変わっていたかもしれません。
 開業時の途中駅は渋谷、新宿、板橋のみで旅客列車は一日3往復でした。半月後には目黒、目白が開業。列車も4往復に増えています。最寄りの大崎駅の設置は明治34年のことです。
 とにかく歩道橋を渡ると、新幹線と横須賀線をくぐり、左折して線路沿いに進み、再び新幹線の高架橋と横須賀線、山手線のガードをくぐると、山手通り(環状6号線)と出合い、目黒川の居木橋を渡ります。

(横須賀線、山手線のガードをくぐる)

 居木橋は中世以前から品川と多摩方面を結ぶ街道を渡す橋であったといい、そばには風が吹くとゆらゆら揺れる松の木が生えていたそうです。それが「ゆるぎの松」と呼ばれ、橋の名前の由来になったと近くの説明板にあります。

 
(居木橋で目黒川を渡る。この付近の目黒川は潮の干満の影響を受ける感潮域))

 ここから旧府道58号線は山手通りに入り、目黒川左岸を行きます。ただ、いま山手通りが通る場所には寛永16(1639)年に徳川家光が禅僧・沢庵宗彭を開山に招いて創建した万松山東海寺(臨済宗)が広大な寺域を誇っていました。東海寺は将軍家の手厚い保護を受け、府中の大國魂神社と同じ500石もの朱印地を与えられるなど大いに栄えましたが、明治維新後は衰退し、今は旧塔頭の玄性院が寺号を引き継ぐばかりとなっています(北品川3‐11‐9)。また、東海寺大山墓地(北品川4‐11‐8)には沢庵和尚や国学者・賀茂真淵の墓(いずれも国史跡)など江戸から昭和の多くの著名人の墓があります。

 
(昭和5年建築の東海寺仏殿と沢庵和尚の墓)

 ということで、古道は居木橋から山手通りを突っ切り、御殿山を越えるルートだったようです。現在は「御殿山通り」の名があり、急な上り坂となっています。

(御殿山通り)

 御殿山には太田道灌が江戸城を築く前に居館を構えたとの伝承がありますが、確実なところでは徳川家康が別邸(品川御殿)を建て、将軍家の鷹狩りの休息所や茶会などに利用されました。しかし、元禄16(1702)年の大火で全焼し、その後再建されることはありませんでした。ただ御殿山の名は残り、徳川吉宗が多くの吉野桜が植えさせて、江戸を代表する花見の名所になっています。
 幕末に品川沖に台場を築くために山が切り崩されたり、明治5年に開通した日本初の鉄道が御殿山を切通しで抜けたりして地形が大きく変わっており、古道も往時の形状とは違っているものと思われます。

 
(御殿山ガーデンと跨線橋)

 急坂を上った御殿山通りは右折し、御殿山ガーデンの南側を通って、跨線橋で在来線と新幹線の10本もの線路を跨ぎ、そのまま坂を下って国道15号線(第一京浜)を渡り、京浜急行の高架をくぐると旧東海道の品川宿に出ます。品川宿は目黒川を挟んで南北に分かれており、ここは北品川宿になります。

(旧東海道品川宿)

 そして東海道の先は緩やかな下り坂で八ツ山通りを越えたところが昔の目黒川の河口。いわゆる品川湊です。
 居木橋付近では東へ流れていた目黒川ですが、昔は海に出る直前で北へ折れ曲がっていたのです。川が上流から運んできた土砂が堆積してできた砂州が河口を塞ぎ、流れの向きが変わっていたわけです。そして、河口部右岸の砂州上にも漁師町が形成され、砂州の突端には東海寺の沢庵が勧請したと伝わる洲崎弁財天が祀られていました。この砂州は南品川宿の名主利田(かがた)利左衛門により開発されたため、利田新地と呼ばれ、弁財天も明治になって利田神社(東品川1‐7‐17)と改称し、祭神も市杵島姫命に変わっています。

 
(利田神社と鯨塚)

 この利田神社境内には鯨塚があります。寛政10(1798)年5月1日、嵐によって江戸湾に迷い込んだ体長16メートル余りの鯨が品川沖の天王洲で漁師たちに捕らえられ、この巨大生物を一目見ようと大勢の見物人が殺到したといいます。鯨はその後、浜御殿(いまの浜離宮庭園)沖に運ばれ、将軍・徳川家斉の上覧に供されました。その後、鯨の骨をこの場所に埋め、鯨塚が建立されたわけです。

 現在は品川の海は沖へ沖へと埋め立てが進み、また目黒川も直線化されて旧河道は埋め立てられましたが、河口部だけ水面が残り、運河に繋がっています。そこには屋形船などが係留され、今も漁師町の面影はいくらか残っています。とにかく、品川湊に到着です。

 
(船溜まりとして埋め残された旧目黒川河口)

(旧目黒川河口と繋がる運河)

 ところで、府中・大國魂神社の神職一行は「浜下り」の際、品川での目的地は南品川宿貴布禰神社(明治8年に荏原郡で最も由緒のある神社ということで荏原神社と改称)であり、そこから船で品川沖に出て海水で身を清め、また汲み取った海水を府中へ持ち帰りました。

(目黒川沿いの荏原神社=旧貴布禰神社)

 この荏原神社(北品川2‐30‐28)は当時は目黒川の南岸にありましたが、現在は北岸に位置しています。神社が移転したわけではなく、昭和初期に目黒川を直線化した結果、神社の北側を流れていた川が南側に移ったのです(下の地図参照)。

(新旧の目黒川流路図)

 そもそも貴布禰神社は和銅2(709)年に藤原伊勢人という人が当地に勧請したと伝えられる古社で、平安時代には源頼義・義家父子が勅命を受けて陸奥の安倍貞任征討に向かう途上、武蔵国総社六所宮に参詣した後、品川の貴布禰神社にも立ち寄り、社前の海で禊を行って戦勝を祈願したという伝承があり、それが現在まで続く浜下りの神事に繋がったとも言われています。武蔵国府と品川湊の関係がさらに古い時代まで遡るとすれば、浜下り神事も同じく古くから続いている可能性も考えられますが、確かなことは不明です。

地図⑥(明治42年)


 ところで、かつては目黒川の南側(右岸)に貴布禰神社があったということは、府中から品川までやってきた神職一行は居木橋で目黒川を北側へ渡る必要はなかったわけです。南品川へのルートはいくつか考えられます。

 (貴船神社と境内の道標)

 たとえば、百反通りを来て、西品川3-6と3-7の間を南へ入ると、そこは旧品川宿枝郷の三ツ木で、ここにも貴船神社があります(西品川3‐16‐31)。この貴船神社の創建伝承は現在の荏原神社と全く同じで、貴船神社のある場所がもともと貴布禰神社(現・荏原神社)のあった場所だという説もあります。その境内に文政11(1828)年建立の道標があり、正面に「西めくろ」、右面には「右南品川」、左面には「左北品川」と刻まれています。旧所在地は三ツ木と居木橋村の境にあったといいますから、百反通り沿いで、貴船神社へ入る分岐点にあったと思われます。百反通りから神社への道は明治14年の地図には描かれていませんが、江戸時代の絵図にはあるので、古くからの道と思われます。そして、貴船神社前からそのまま東へ行けば、現在はJR東京総合車両センターによって分断されているものの、昔は古道がまっすぐ南品川宿へ通じていました。


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