《世田谷の古道》

 品川道(狛江~喜多見~大蔵~用賀)


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 古代に武蔵国府の置かれた府中市から武蔵国の重要な湊であったとされる品川湊へ通じる「品川道」の伝承をもつ道筋を調布市、狛江市とたどってきました。今回は小田急線の狛江駅からスタートします。
 前回は狛江駅近くの六郷用水駄倉橋跡までやってきました。駄倉は旧多摩郡和泉村の古い地名で、今も地元の町会名などに残っています。駄倉橋跡の背後に立つビル「エコルマ3」の中を通り抜けると、駄倉塚古墳があり、墳丘に登ることができます。現在は周囲を削られ、墳丘の中心部が残るのみですが、もとは径40メートル以上の円墳だったといい、5世紀中頃の築造と推定されています。墳丘頂部には地元出身の日清戦争戦死者を慰霊する「征清戦死招魂碑」の石柱と第六天の祠があります。狛江駅前の旧狛江第一小学校の敷地内にかつて第六天塚古墳があったというので、そこに祀られていた第六天を遷したのでしょう。

(駄倉塚古墳)

 さて、出発しましょう。駄倉橋跡から道路を挟んだ向かい側の「エコルマ1」と「エコルマ2」の間の道が古道です。かつては駄倉橋に続いて、すぐ六郷用水の分水路(内北谷用水)に架かる和泉橋を渡っていました。我々がたどっている古道は今は街なかの普通の道ですが、大正9年の道路法施行以降、東京府道73号・調布川崎線と呼ばれた幹線道路であり、東海道に接続する大田区の六郷まで続いていました。

(駄倉橋跡)

 小田急線の高架をくぐり、そのまま道なりに行くと、道は左へカーブしていきます。そこで南へ折れて細道を行くと、小さな稲荷神社があります(狛江市東和泉1‐26)。揚辻稲荷とか、この土地の旧家にちなみ谷田部稲荷と呼ばれる神社で、祠の裏手にかつては湧水池がありました(1960年代に涸渇)。今も石垣に囲まれた池跡やそこから流れ出ていた水路跡が残っています。


(揚辻稲荷と境内の池跡)

 谷田部家は茨城県の谷田部(現つくば市)の出で、戦国時代に甲州武田氏に仕え、川中島で父を失った二人の息子が武田家を離れて流浪の果てに当地にたどり着き、定住したと伝えられています。この一帯には谷田部の名が多く見られます。

 品川道に戻って、さらに進むとすぐに道が二本に分かれ、そこに道標を兼ねた庚申塔があり、文字は判読が難しいですが、南(右)は登戸方面、北(左)は江戸青山六郷方面、西は府中方面となっているようです。我々は左の道を行きます。

 
(庚申塔のある追分を左へ行く)

 
(狛江通りに合流。「品川道」の標識がある)

 まもなく狛江通りと合流して、世田谷通りとの「狛江三叉路」交差点に出ます。狛江通りは江戸初期に甲州街道が開通した時に品川道を甲州街道に直結するために開かれたと思われる道が原型で、このルートも地元では「品川道」と呼ばれたといいます。ただ、武蔵国の総社である府中の大國魂神社(当時は六所宮)の大祭の前に神職一行が品川の海で禊を行い、清めの海水を汲んで持ち帰る「浜下り」神事のルートとしてこの狛江経由の「品川道」が使われたという記録はなく、我々のたどっている「品川道」に武蔵国府と品川の湊を結ぶ往還としての役割が本当にあったのかどうかははっきりしないというのが実情です。他方、「品川道」には「筏道」の呼称もあるように青梅・奥多摩地方で伐りだした木材を筏に組んで多摩川を流れ下り、六郷や羽田で木材を引き渡した筏乗りたちが徒歩で家路を急ぐルートとして江戸時代から明治の鉄道開通まで利用されたのは確かで、筏乗りたちは狛江から現狛江通りのルートを通って甲州街道の国領宿に出たようです。現在は2車線の立派な道路ですが、かつては人家もなく、追剥が出ると噂されるほどの寂しい道だったといいます。
 ちなみに狛江三叉路から駄倉塚古墳近くの狛江市役所付近までの狛江通りの新道が開通したのは昭和初期のことで、それまではいま我々がたどってきたルートでした。新道は水田地帯を突っ切っていますが、古道は低地を避けていたのが地図①から分かります。
 狛江三叉路は現在は世田谷通りから狛江通りが分岐する三叉路ですが、昔は世田谷通りの前身である登戸道の登戸の渡し方面と品川道(筏道)の府中方面が分かれる追分でした。登戸道はここから南へ向かい、品川道は北へ分かれていましたが、ここで直進する登戸道の新道(現世田谷通り)が開通したのも狛江通りの新道の開通とほぼ同時期のことです。

地図①(昭和20年)


 ここには明治33(1900)年に旭貯金銀行(本店は赤坂)の狛江支店が設立され、それをきっかけに「銀行町」と呼ばれるようになり、銀行は大正初期に倒産してしまいますが、銀行町は昭和初期にかけて狛江随一の繁華街として賑わいました。現在もバス停名などに狛江銀座の名が残っています。
 また、この三叉路付近には「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目塔が地元や近隣の村の日蓮宗信者によって明治9(1876)年に建立され、今も交差点北側の私有地内にあります。

(「南無妙法蓮華経」の題目塔)

 さて、ここから品川道(筏道)は世田谷通りに入って世田谷区の喜多見方面へ向かいますが、喜多見から狛江三叉路までの区間はすでに「登戸道」として紹介済みなので、ここでは簡潔に済ませます。
 世田谷通りを東へ向かうと、道路の北側は狛江市岩戸北、南側は岩戸南となり、どちらも旧多摩郡岩戸村(明治22年の合併で北多摩郡狛江村大字岩戸)です。道はわずかに下って、多摩川の支流・野川の旧河道跡(六郷用水の分水路跡2本が存在)を越え、再び緩やかに上ると「新一の橋」交差点で左から「いちょう通り」が合流します。これが六郷用水の跡です。野川も六郷用水が開削されると、その水は用水に取り込まれていました。
 この新一の橋は昭和2年に世田谷通りが整備された時に架けられた橋で、それ以前の古道は六郷用水の右岸側を進み、次の一の橋で用水を渡り、左岸側に移っていました。
 「新一の橋」交差点を過ぎて、最初の角を右に入ると、すぐ「土屋塚古墳」(岩戸南1-5)があります。5世紀中ごろに築造された円墳で、比較的保存状態も良好です。狛江から喜多見にかけて、このルート沿いには多くの古墳が存在するので、この道の原型は古墳時代から存在したものなのでしょう。

(土屋塚古墳)

 さらに世田谷通りを進むと、「一の橋」交差点で、かつてはここで六郷用水を渡り、ここから次の二の橋までは用水を右に見ながら進んでいました。交差点角には文政6(1823)年の石橋供養塔があります。道標を兼ねていて、西は「登戸/府中道」、東は「六郷/江戸道」となっています。北は「ほりの内/高井戸道」、南は「家村道」となっています。我々は「品川道」のつもりでたどっていますが、道標の行き先は六郷になっています。六郷から帰る筏乗りたちが歩いた「筏道」でもあるわけですが、こちらから六郷や品川へ行く人がどれぐらいいたのかは分かりません。それでも狛江三叉路に題目塔を建てた日蓮宗信者は池上本門寺への参詣にこのルートを使ったことでしょう。

(文政6年の石橋供養塔)

 品川道は「二の橋」交差点で世田谷通りから右へ分かれ、また旧道らしい道幅となります。かつてはここで再び六郷用水を渡り、さらに現世田谷通り沿いを流れていた用水を左に見送っていました。この区間の六郷用水が埋め立てられたのは昭和40年代後半のことです。

(二の橋で世田谷通りから分かれる古道)

 まもなく世田谷区喜多見に入ります。旧多摩郡喜多見村です。明治22年に周辺の村と合併して北多摩郡砧村大字喜多見となります。砧(きぬた)は布を叩いてやわらかくしたり、つやを出すために使う台のことで、調布などとともに古代から糸や布の生産が盛んだったこの地方らしい地名です。ただし、地名としては明治22年の合併で初めて登場した比較的新しいものです。

 まもなく道が二手に分かれます。左は「中通り」と呼ばれ、喜多見の中心部を通らずに江戸青山方面と狛江方面を結ぶ短絡ルートでした。我々は右へ行きますが、この追分の三角地帯に地蔵尊(1719年)と庚申塔(1692年)を安置したお堂と念仏車(1821年)があります。念仏車は喜多見の女念仏講が設置したもので、石の柱にはめ込んだ六角形の車輪の各面に「南無阿弥陀仏」の6文字を刻し、念仏を唱えながら1回まわすと経典1巻を読んだのと同じ功徳が得られるという素朴な民間信仰の所産です。この道をたどった数えきれないほどの人々が通るたびに車を回したのでしょう。

(分岐点の真ん中にお堂と念仏車がある)

 
(庚申塔、地蔵尊と念仏車)

 追分を右へ行くと、旧喜多見村の中心部へ通じています。最近まで農地や屋敷林に囲まれた旧家が多い、農村時代の面影をよく残す道でしたが、真新しい分譲住宅群が増えて、だいぶ雰囲気が変わりました。

 (筏道=旧東京府道73号・調布川崎線)

地図②(明治14年)


 突き当りを右折して左折するクランク状の道を行けば、龍寳山常楽寺知行院(天台宗)前に出ます(喜多見5-19)。文明年間((1469-87)の草創と伝えられ、本尊は薬師如来です。天正16(1588)年に江戸(喜多見)勝忠が居館の鬼門除けの祈願所として不動明王と閻魔大王をあわせて奉安し、頼法印が中興開山となったといいます。慶安2(1649)年には江戸幕府より寺領8石2斗余の朱印状を受けています。
 境内はやや殺風景な印象でしたが、元号が改まる直前の平成31年4月28日に新しい山門の落慶法要が行われ、面目を一新しました。

(新しい山門が完成した知行院)

 寺の門前に南から来るのが登戸道です。ここが二つの街道の交じわる地点で、旧喜多見村の中心部にあたります。
 喜多見は喜多見氏の本拠地で、喜多見氏は桓武平氏の流れをくむ武蔵の豪族で、江戸の地を開発した江戸氏の後裔です。戦国時代に江戸を太田道灌に明け渡し、一族の居住する木田見(今の喜多見)に本拠を移し、小田原北条氏傘下の世田谷領主・吉良氏の家臣となりますが、小田原落城で世田谷城も廃されると、江戸氏23代当主・勝忠は新たに江戸に入府した徳川家康に仕え、木田(多)見の地を安堵されると同時に将軍家に遠慮して江戸氏から喜多見氏に改名しています(地名もこの前後に喜多見に改めたのでしょう)。
 その後、喜多見氏は幕府における地位を高め、徳川綱吉に重用された喜多見重政は将軍の側用人に取り立てられ、2万石の大名となって貞享3(1686)年、喜多見藩を立てます。東京23区内に本拠があった唯一の藩ですが、元禄2(1689)年、重政は突然、改易されて喜多見藩はわずか3年ほどで廃止されてしまいます(領地没収・御家断絶)。一般には一族が起こした刀傷事件が理由とされますが、綱吉の側用人として権勢を振るった柳沢吉保の陰謀説もあるようです。喜多見氏の陣屋跡には綱吉の「生類憐みの令」により保護された野犬を収容する犬屋敷が造られました。

 この一帯には古墳も多く、それだけ古くから人々が暮らしていたわけで、いま我々がたどっている道の原型も古墳時代からのものと思われます。古墳や古い寺社の点在する喜多見の里については登戸道のページなどもご覧ください。

 登戸道  喜多見の里

 さて、知行院門前の品川道(筏道)と登戸道の分かれる角にはかつて城田家があり、江戸時代から農業の傍ら酒屋を兼ねていました。街道を行き交う人々がここで一服できるような店だったと思われます。城田家主屋は現在、治太夫堀公園に移築保存されています。

(城田家主屋)

 また、知行院前に現代の喜多見散策用の道しるべがありましたが、2021年5月の時点では消えていました。このあたりは道が複雑で分かりにくいので、より分かりやすい道しるべが復活するとよいのですが。

 さて、品川道は直進ですが、実はここから大蔵まで南回りの別ルートもありました。ふたつのルートで大蔵へ向かうことにしましょう。まずは直進の北ルートから。

   喜多見~大蔵・北回り

 知行院前からそのまま東へ直進し、すぐに荒玉水道道路(昭和初期に開通)と交差すると、駐在所や郵便局があり、いかにもかつての村の中心だったことが分かります。郵便局を過ぎるとすぐに登戸道(江戸青山方面)は左折して北へ向かいます。品川道(筏道)はそのまま直進です。旧府道73号線に指定されていたのもこの道です。

(写真の角を右折すると坂を下って喜多見小前)

 まもなく、右手に喜多見小学校が見えますが、そこに高低差が小さくなった府中崖線の終端部が走り、斜面の裾に湧水が見られます。昔の喜多見は府中崖線と国分寺崖線に挟まれた立川段丘上に位置し、水に恵まれた豊かな土地であり、それゆえに古くから多くの人が住み着いていたわけです。その豊かだった湧き水も都市化の進展により減少の一途をたどり、渇水期には水も途絶えがちで、消滅の危機です。

(府中崖線からの湧水が流れる水路)

 道なりに行くと、右に崖線が近づいてきて、崖下に喜多見東記念公園が見えてきます。近年、土地区画整理事業が行われ、新たに開設された公園で、復元された水路や湧水の池があります。水路はかつて清水川と呼ばれ、水源は狛江の泉龍寺の弁天池でした。水はこの先で野川に通じています。また、暴れ川でたびたび流路を変えていた多摩川がこの場所を流れていたこともありました。
 府中崖線はこの先では高低差がほとんどなくなり、立川段丘は多摩川の洪積地に埋没してしまいます。

 
(府中崖線と喜多見東記念公園の湧水池)

 道はまもなく多摩堤通りに合流し、そこに「下宿」バス停があります。いかにも古くからそこに街道が通っていたことを思わせる地名です。もちろん、その街道は現代のバス通りである多摩堤通りではなく、我々がたどっている品川道(筏道)です。ただ、古道はここからしばらくは多摩堤通りに吸収されてしまいます。
 この下宿のバス停の北側にはこの地区の鎮守だった稲荷神社がひっそりとあります。

 
(下宿停留所と稲荷神社)

 多摩堤通りはまもなく新井橋で野川を渡り、東名高速道路をくぐりますが、現在、この付近は景観が激変しつつあります。建設中の東京外郭環状道路と東名道のジャンクションが造られるためです。



 さて、新井橋は現在は野川に架かる橋ですが、昔の野川は今の狛江市内を曲がりくねりながら流れ、世田谷区の宇奈根で多摩川に合流していました。そして、この付近を流れていたのは入間川でした。野川も入間川も六郷用水の開削によって流路を分断され、その水は用水に取り込まれたわけですが、この付近で六郷用水に堰(新井堰)を設け、多摩川へ通じる分水路が存在しました。六郷用水右岸に広がる多摩川低地の水田地帯の灌漑に利用したり、用水の増水時に余分な水を流したりしたのではないかと思われます。
 現在、ここを野川が流れているのは狛江市内で洪水を年中行事にしていた野川を昭和40年代に改修した際、野川を拡幅・直線化し、入間川に接続したためで、その結果、入間川が野川の支流のような形になっています。
 とにかく野川を渡ると世田谷区大蔵で、旧多摩郡大蔵村(明治22年の合併で北多摩郡砧村大字大蔵)です。そのまま多摩堤通りを300メートル余り行き、最初の信号を左折して北へ行きます。この信号に南からくるのが喜多見からの南回りの道です。喜多見の知行院前に戻って、今度はその南回りの道をたどってみましょう。

地図③(明治末)




     喜多見~大蔵・南回り

 喜多見の知行院の門で登戸道と一体になって南へ向かうのが南回りの筏道です。現在は知行院の東側を通り、南南西から北北東に一直線に伸びる荒玉水道道路(昭和初期に開通)があるので、分かりにくいですが、頭の中でこの直線道路を消去すると、少しは道筋が分かりやすいかと思います。


(知行院前からまっすぐ伸びる筏道。斜めに横切るのは水道道路)

 とにかく、すぐに水道道路を斜めに横切り、車2台分のパーキングの角ですぐにまた右折して、水道道路を横切って西へ向かうのが登戸道です。われわれはそのまま直進です。この道沿いの集落はかつて宿と呼ばれた地区です。
 まもなく左手にこんもりと木々が茂っているのが見えます。行ってみると、小さな鳥居があり、木立の中に大小の祠があります(喜多見3-20)。手前が御嶽神社、奥が諏訪神社です。この諏訪神社は室町時代に江戸氏の家臣・香取氏が信州の諏訪明神を勧請したものといいます。

(諏訪神社。小祠は御嶽神社)

 さて、古道をさらに進むと、道は緩やかな下り坂となり、坂の途中、右手に斎藤家があります。この家には昔、マムシ除けの呪文やマムシに噛まれた時に毒を消し、痛みを取り去る秘術を会得した伊右衛門という人物がおり、代々、その秘法を受け継ぎ、多くの人が訪ました。とりわけ、毎年4月8日にマムシ除けの護符を配布したため、江戸や近傍各地から大勢が押し寄せたそうです。世田谷区の無形文化財にも指定されています。

 坂を下りきると、小さな橋を渡ります。東側の水路は消えていますが、西側には開渠が残っています。これは狛江の泉龍寺の池を水源とする清水川で、新井橋付近で野川に注いでいます。
 我々は立川段丘の裾へ下ってきたわけですが、昔のある時期、ここを多摩川が流れていて、その流れによって立川段丘が分断されました。従って、この南方にも立川段丘の続きがあり、その微高地にいまは世田谷区宇奈根となっている旧宇奈根村の集落がありました。道はここで突き当りの丁字路になっていて、西へ行けば途中、砧浄水場で古道が分断されていますが、登戸の渡しに通じ、そして東へ行くのが我々の進む方向です。要するにこの道は大蔵や用賀方面と登戸の渡しを結ぶ道でもあったということです。ちなみに、砧浄水場内を通っていた古道に安政2(1855)年に造られた道標があり、我々が進もうとしている道は宇奈根、大蔵を経て池上・六郷方面へ通じるとなっていました。この道標は現在、喜多見の慶元寺の門前に移されています。

(清水川。水は流れていない)

 さて、丁字路を東へ行きます。左手は近年、土地区画整理が完了したばかりの地域です。急速に宅地化が進んでいますが、多摩川の旧流路でもあり、かつては水田が広がっていました。
 まもなく、東名高速道路の高架下をくぐります。ここだけ古道が消えていますが、高架の先には続きがあります。

(宇奈根を行く古道)

 そして、東名道の先は宇奈根です。旧多摩郡宇奈根村で、明治22年の合併により北多摩郡砧村大字宇奈根となりました。江戸初期までは荏原郡に属していたもいいます。宇奈根は多摩川に面した地域ですが、対岸の神奈川県側にも川崎市高津区宇奈根があります。両者はかつては一体の村でしたが、多摩川の流路が変わって分断され、対岸は宇奈根山谷と呼ばれ、渡し船で結ばれていました。また、宇奈根と喜多見が一体だった時代もあるといい、恐らく喜多見と宇奈根の間を多摩川が流れるようになった時代に宇奈根が独立した村になったと思われます。
 いまだ農地があり、野菜や花の直売所が点在する道を行くと、途中で道は少し左にずれて続きます(下写真)。ここを右折して南へ行くと、旧宇奈根村の中心部で、観音寺(天台宗)や常光寺(日蓮宗)といった古刹や古い歴史を持つらしい氷川神社があります。

(ここを右折すると旧宇奈根村の中心部へ)

 このうち、樹齢数百年の大イチョウがランドマークとなる観音寺(宇奈根2-24-2)は薬滝山修善院観音寺といい、永正年間(1504-21)に小田原に創建され、当時は円正寺といいましたが、天文年間(1532-55)に兵火で焼失します。その後、元亀年間(1570-73)にこの地に再建され、「えんしょう」が炎上に通じることから観音寺と寺号を改めました。上州新田出身でこの地を開発した荒井氏(小田原北条氏の家臣)の菩提寺にもなっており、本尊の十一面観音はお寺の歴史よりも古い平安末期から鎌倉初期の作という世田谷区内でも屈指の古仏です。

(観音寺)

 玉川山常光寺(宇奈根2-21-2)はやはり戦国時代、越後出身の泉蔵院日礼が旅の途次、宇奈根村を訪れ、村の青山氏の家に泊まり、これをきっかけに青山氏が日蓮宗に帰依し、日礼を開山として天文7(1538)年に創建した寺院です。江戸時代になると、日蓮宗不受不施派に対する幕府の弾圧により、村の檀家はすべて観音寺に移されるという苦しい時代を乗り越え、また昭和20年5月25日の空襲でも被災していますが、現在は近代的な建築になっています。
 また、宇奈根には筏宿もあり、多摩川を下る筏乗りたちが宿泊しました。この筏宿を営んでいたのも青山家だということなので、常光寺開基の青山氏の子孫でしょうか。多摩川の筏流しは江戸初期に始まったと思われますが、最盛期は幕末から明治にかけてで、大正末には終わりを迎えています。ちなみに、青梅・奥多摩方面から河口に近い六郷・羽田まで順調にいって3泊4日ほどだったそうです。そして、木材を引き渡した筏乗りたちが筏道を歩いて帰る際には調布の布田五宿か府中あたりで一泊するのが普通だったようですが、なかには未明に六郷を発って、その日の夜遅くには青梅方面の自宅に帰着する健脚の者もいたそうです。

(常光寺)

 宇奈根の古社・氷川神社(宇奈根2-13-19)は創建年代不詳ですが、村の成立の頃から存在したのでしょう。創建当時の社殿が多摩川の洪水で流失し、現在地に遷座したともいいます。喜多見と大蔵にも氷川神社があり、宇奈根と合わせて「氷川三所明神」と称し、多摩川の上流から流れ着いた同じ木から御神体を作ったという伝説もあります。この氷川神社も空襲で焼失し、昭和37年に社殿を再建。現在の社殿は平成11年に新しく建てられたものです。なお、多摩川によって分断された川崎側の宇奈根にも分霊を祀った宇奈根氷川神社が昭和2年に創建されています。

(宇奈根氷川神社)

 さて古道に戻ります。道なりに進んでいくと、前方に我々がめざす用賀のランドマーク、世田谷ビジネススクエアの高層ビルが見えます。

(行く手に用賀のSBSビルが見える)

 そして、道はやがて野川にぶつかります。かつては野川に面して、庚申塔が2基並んでいましたが、今は道が野川に出る直前の新しい住宅の庭先にあります。享保2(1717)年と寛政2(1790)年に建立されたものです。



 このあたりの野川は昔、喜多見と宇奈根を分断して多摩川が流れていた時の流路にあたり、「筏の昼寝場」と呼ばれました。大きく北に蛇行して流れていた多摩川がこの付近で急に曲がっていたため、筏が浅瀬に乗り上げて動かなくなったためだといいます。

(野川にかかる町田橋)

 古道は野川にぶつかると、少し下流側で町田橋を渡り、直進すると多摩堤通りに出て、北回りのルートと合流し、大蔵の永安寺へと向かいます。

 まもなく明らかな水路跡を横切りますが、これはかつて六郷用水から分かれていた水車用水路の跡で、下流へ行くと「水車橋」が残っています。その水路跡を越えると、古くからある河原酒店があります。酒類だけでなく、食料品や日用雑貨も扱う店で、昔から万屋としてこの土地の消費生活を支えていたようです。その店の前を過ぎると、すぐに国分寺崖線を背にした永安寺前に出ます。


(水車用水路の暗渠を越え、酒屋の前を過ぎると、永安寺の門前に出る)
 
 龍華山長壽院永安寺(天台宗)がこの地に創建されたのは延徳2(1490)年のことですが、そもそもは室町時代に東国を統治した鎌倉府の第2代鎌倉公方・足利氏満(尊氏の孫)の菩提寺として応永5(1398)年、鎌倉の大蔵谷に開かれた寺で、当初は臨済宗でした。その後、氏満の孫で第4代鎌倉公方・足利持氏が室町幕府の第6代将軍・足利義教に反旗を翻して永享の乱を起こして敗れ、永享11(1439)年に永安寺で自害。寺も廃れてしまいます。その後、持氏の遺臣の子・清仙上人が寺の再興を願い、鎌倉の大蔵谷と同じ地名のここ大蔵村に永安寺を開いたわけです。天台宗に改宗したのは天正年間のことです。
 本堂には本尊の千手観音菩薩像のほか、秘仏の石薬師が安置されています。この石薬師は二尺七寸の自然石だといい、かつては門前にありましたが、江戸時代にその著しい霊力を恐れた村人たちが境内に埋めてしまったと伝えられています。のちに住職が掘り起こし、秘仏として堂内に安置したということです。



 永安寺の門前で筏道は右折して六郷用水(跡)に沿って東へ向かい、六郷方面へ向かいます。筏乗りたちが帰路に利用したのがこの道です。そして、旧東京府道73号・調布川崎線も同じで、六郷までずっと筏道のルートと重なっていました。

 しかし、我々は門前を左折してすぐに右折。永安寺の西側の「新坂」という坂を登ります。府中からずっと立川段丘上を辿ってきましたが、品川へ行くためにはどこかで一段高い武蔵野段丘へ上がらねばなりません。その地点がここです。
 国分寺崖線を切通しで登るこの坂道はかつては関東ローム層の赤土が露出した昔の面影を残す道でしたが、今は道も拡幅され、風情はすっかり失われています。

 
(1980年代の永安寺切通しと現在)

 そして、この丘は古くから「殿山」と呼ばれ、木曽義仲の父である源義賢の居館があった場所との伝承があります。義賢は久寿2(1155)年に甥の源義平(頼朝の兄)に館を襲撃され、討たれていますが、当時まだ2歳だった義仲(幼名・駒王丸)は乳母の夫・中原兼遠とともに信濃国の木曽へ逃れたと伝わります。ただ、一般的には義賢の居館の所在地は武蔵国比企郡の大蔵(いまの埼玉県比企郡嵐山町大蔵)であるとされています。
 それでも、永安寺の裏手の旧家・清水家の敷地内に「源義賢朝臣墳」と彫られた石碑の立つ塚があり、「大将塚」と呼ばれています。天明8(1837)年にこの塚から古刀や砂金の類が見つかり、祟りを恐れて埋め戻し、その場所に供養碑を建立したということです。

(源義賢朝臣墳の石碑)

 とにかく、切通しの坂を登ったところに現在は五差路があります。ここで右折すると、「大将塚」のある清水邸を左手に見て大蔵村の鎮守・氷川神社の前に出ます。石段の脇には庚申塔もあります。

 

 大蔵氷川神社は暦仁元(1238)年に江戸氏が大宮氷川神社(さいたま市)を勧請して創建したと伝わる古社で、神社に残る永禄8(1565)年の棟札には「武蔵国荏原郡石井戸郷大蔵村日川大明神第四ノ宮」と記されており、これが誤記でなければ、大蔵村が当時は荏原郡に属していたことになります。多摩郡に編入されたのは明暦年間(1655‐58)のことだともいいます。



 さて、五差路に戻ります。かつては永安寺から登ってくる道と氷川神社下から登ってくる道が交差する形だったようです。ここから北西へ行く道は台地尾根を行き、妙法寺を経て世田谷通り(旧登戸道)の「砧小学校」交差点に通じていましたが、東名高速道路によって分断されています。このルートの途中には大六天社がありました。現在はさらに西寄りに新しい道が開かれ、高速道路を陸橋で渡っていて、この橋の名が大六天橋です。
 この大六天社は天文6(1537)年にこの地に居館を構えていた石井良寛という人物が小田原北条氏との戦いで戦死し、その霊を祀ったとの伝承があります。あるいは、ある土地を開墾したところ、火災が起きたため、火の神の祟りだとしておそれ、祀ったのが由来だという伝承もあります。神社は東名道の建設で道路脇に移転したのを今度は外環道とのジャンクション建設でさらに追い立てられ、今は氷川神社裏手の井川ゴルフ練習場の敷地内に遷座しています

(外環道の工事で遷座した大六天社)

 さて、せっかく坂を登って武蔵野段丘へ上がったのですが、すぐにまた急な下り坂で、その先は仙川の谷です。永安寺や大蔵氷川神社は武蔵野台地を開析する仙川と国分寺崖線に挟まれた舌状台地に位置しているわけす。

(台地上から仙川の谷を見渡す)

 坂を下ると、東名高速道路の建設で古道は消えていますが、高架をくぐると、仙川を清水橋で渡ります。

(清水橋で仙川を渡る)

 そして、橋を渡ればまた上り坂です。台地の崖に突き当たると、坂は左右に分かれます。そこは打越(おっこし)辻といったそうで、小堂があり、石仏・石塔が並んでいます。説明書きによると、中央は享保元(1715)年の庚申塔で、両脇は地蔵尊と田の神と言われていると書いてあります。『世田谷区民俗調査第七次報告・大蔵』(1987年)では庚申塔の両脇はエビスと道しるべであるとしていますが、エビスではなく田の神が正しそうです。田の神は本来、鹿児島県から宮崎県にかけて見られる民間信仰で、打越の像の農民の姿をして飯椀と杓子を手にした姿は南九州の田の神の典型的なものといえます。地元の九州に縁のある人が九州の田の神に模した石像を造ったのか、あるいは九州から持ってきて、ここに据えたのでしょう。道しるべは大正年間のものだそうですが、文字は読み取れません。また、現地の説明板には鎌倉道の道標があったものの、盗難に遭い、失われたという興味深い記述がありますが、『調査報告』では大山街道の道標だったといい、昭和40年頃に盗難に遭ったということです。鎌倉道にせよ、大山街道にせよ、北からの坂(愛宕坂)を下ってきて、永安寺前から二子の渡し方面へ行くルートでしょう。

(打越の田の神・庚申塔・道しるべ)

 さて、我々が進むべき道は打越辻から右で、崖に沿って急坂を登っていきます。勾配7%の標識がありますが、昔はさらに険しい坂道だったと思われます。雑木林の中の昼でも薄暗い坂で、古くから「ざとうころがし」という名がありました。人里離れた寂しい場所で、追剥が出たとか、キツネやタヌキに化かされたといった話も数多く伝わっており、恐ろしくて転げ落ちるように坂を下ったから「里ころがし」、あるいは盲目の旅人がよく転げ落ちたので「座頭ころがし」と名づけられたようです。昔からそれだけ難所として認識されていたわけです。ちなみに崖の上は平坦な台地で、今は世田谷区の大蔵運動公園になっています。

(ざとうころがし)

 坂を登りきると、東名高速道路の上をグランド橋で渡ります。運動場に由来する名称で、本来ならグラウンド橋とすべきでしょうが、グランド橋です。高速道路は仙川の谷では高架橋ですが、ここでは切通しになっています。それだけの高低差を登ってきたわけです。

(グランド橋で東名道の切通しを越える)

 橋を渡ると、世田谷区岡本で、昔の多摩郡岡本村(明治22年の合併で北多摩郡砧村大字岡本)です。ここから高速道路に沿って東へ向かいますが、言うまでもなく、東名道の造成で、古道は完全に消えています。
 そして、グランド橋の東にかかる公園橋を過ぎると、道はまたしても下りになります。今度は谷戸川の谷に下るのです。これだけ難所が連続することからも、このルートは府中と品川を結ぶ品川道のメインルートではなかったと僕は考えているのですが、どうなんでしょう。

地図④(明治14年)


 とにかく、坂を下ると、東名道の北側に広がる砧公園の中を貫流してきた谷戸川を渡りますが、古道はひとつ下流側の橋を渡っていました。庚申橋という名称で、傍らに庚申社があり、すっかり風化した庚申塔(年不詳)がお堂に安置されています。碑文によれば、この道は地元では大山街道と府中方面を結ぶ道と認識されていたようです。また、庚申堂の裏には宝暦13(1763)年の地蔵尊があります。

 
(庚申橋で谷戸川を渡る)

 (庚申神社と地蔵堂)

 庚申橋を渡ると、古道はそのまま直進し、右にカーブしながら坂を上っていましたが、その道は消えているので、再び高速道路沿いの道に戻って坂を上ります。

(岡本1-33と37の間を右に入る)

 途中、岡本1-33と37の間を右に入ります。古道ではありませんが、とりあえずこの道を行きます。斜面の中腹を等高線沿いに行く道で、消えた古道はこの道と交差していました(地図⑤参照)。右に谷戸川の谷を見渡し、まもな一直線に上ってくる2車線道路に合流し、さらに坂を上り、次の角、岡本1-31と18の間を右に折れ、南東に進むのが多くの人が「品川道」と考える道筋です。この道を行くと瀬田5-22で環状8号線の前身といえる古道と合流しますが、そこには地蔵堂があり、明和3(1766)年の地蔵尊が道標も兼ねていて、「是より右高井戸道」「是より左府中道」となっています(地図④参照)。南から来た旅人からみれば左が府中への道で、すなわち我々がいまたどってきた道ということになります。

地図⑤(点線部分が消えた古道の推定ルート)


(右折も直進も品川道。ここでは直進)

(瀬田5-22の地蔵堂。右が高井戸道、左が府中道)

 しかしながら、品川湊をめざすのであれば、そちらへは行かず、再び東名道の側道に出て、用賀へ向かうのが本筋だろうと個人的には考えています。もちろん、古道が通じていました。
 谷戸川の谷から上ってきた2車線道路は瀬田方面への道を右に見送り、すぐに東名道にぶつかります。ここで高速道路沿いの道を西へ戻ると、すぐに小さな木立を避けるように道路が不自然な急カーブを描いている場所があります(岡本1-32)。これはかつて第六天が祀られ、地元で「第六天の森」と呼ばれていた場所(の一部)で、古くからこの森の木を切ると祟りがある、といった話が伝わっています。高速道路の建設に伴う側道整備の際に祠は岡本八幡神社の境内に移されましたが、ご神木を伐採することができず、道路を曲げることになったようです。現代社会において、このような得体の知れない力が人間の活動を規制する場所が存在することは悪いことではないと思っています。道路交通の障害かもしれませんが、通行する車は速度を落として迂回すればいいだけの話です。

 
(岡本八幡境内の第六天神と第六天跡地を避けて通る道路)

 第六天(大六天)は仏教では欲界の六欲天の最高位に位置する他化自在天のことで、人々を楽しませることで自らも楽しむという性格を持っているそうです。とても良い存在に思えますが、仏教の世界では人々を悦楽に耽るように仕向けることで仏道の修行を妨げる魔王と考えられていました。一方で、その強大な魔力ゆえに密教、とりわけ修験道で信仰されたともいいます。また、比叡山を焼き討ちし、本願寺(一向宗)門徒とも戦うなど仏教勢力の制圧に乗り出した織田信長が自らを第六天魔王と称したこともよく知られています。
 その第六天魔王はもとはヒンドゥー教のシヴァ神が仏教に取り入れられたものだともいいますが、日本では神仏習合し、さらに明治以降の神仏分離の流れで神として祀られるようになります。その強大な魔力により災難を避ける神として、あるいは縁結びや夫婦和合、長寿をもたらす神として信仰を集めますが、一方で祟る神として恐れられたことも確かなようです。あまりにも不自然に道路を曲げてしまったこの第六天跡地は世田谷区内でも最強クラスのパワースポットといえるかもしれません。そして、我々がたどっているルート沿いには今回のスタート地点の駄倉塚古墳に第六天が祀られていたのを手始めに、喜多見の中心部にも第六天塚古墳があり、さらに大蔵の大六天、そしてこの岡本と第六天や大六天が点在しています。さらに用賀にも第六天があり、世田谷区内の喜多見・大蔵・岡本・用賀の第六天は何故かほぼ等間隔でほぼ一直線に並んでいます。

 さて、東名高速の側道の南側に並行する道が古道と思われるので、それを行くと、まもなく世田谷区瀬田に入ります。昔の荏原郡瀬田村で、明治22年の合併で玉川村大字瀬田となっています。ここが村境だっただけでなく、多摩郡と荏原郡の境界でもあったわけです。ここから品川までずっと荏原郡です。
 瀬田に入ってすぐ瀬田5-33と34の間で南へ伸びていく道も古道で、先ほど分かれた道と地蔵堂のある辻で合流し、大山街道に接続しています。この道は東名道で分断されていますが、北側の砧公園内の園路に続いていて、さらに登戸道と三本杉で交わり、船橋を通り、八幡山、上北沢を経て、杉並区の荻窪で青梅街道に接続しています。かつては東京府道67号・田無溝口線という幹線道路でもありました。

(旧東京府道67号・田無溝口線)

 そして、砧公園内にはこの古道沿いに「砧大塚」と呼ばれる小山が雑木林に囲まれて存在します。円墳のように見えますが、説明板によれば、古墳ではなく鎌倉から室町期にかけて築かれた「修法の壇」(仏教の呪術を行った祭壇)であったと考えられるそうです。実際は東名道の下に存在したのを道路建設の際に約50メートル北に移して復元したとのことです。すぐ近くに第六天の森があり、第六天が密教、とりわけ修験道で信仰の対象だったということですから、森と大塚に何か関連があるのだろうか、とも考えてしまいます。

(砧大塚。径22.5m、高さ4m)

 さて、我々がたどっている品川道は旧府道67号線の後身といえる環状8号線(環八)にぶつかります。ここは歩道橋でマクドナルドのある南西角から木曽路のある北東角に渡ります。

(環八を越えるとすぐに高速道路の側道から左へ入る)

 環八を越えると、高速道路の北側は世田谷区上用賀、南側は玉川台で、世田谷区用賀と合わせて昔の荏原郡用賀村(明治22年の合併で玉川村大字用賀)です。

(首都高を離れて左へ入る)

 交差点から高速道路(首都高)北側の側道を行き、すぐに左に入ります。用賀地区は大山街道の北側で昭和初期から区画整理が実施され、道路が碁盤の目状に整備されていて、いま辿っている道は用賀二条通りの名称があります。この道はほぼ一直線で、緩やかに曲がっていた昔の道はほとんど消えてしまっています(地図⑥⑦参照)。
 二条通りを進み、上用賀5-7と8の間を北へ入ると、すぐ左手に「中丸地蔵」の石碑が立っています(上用賀5-7-23)。ここには石碑があるだけで、中丸地蔵とか北向き地蔵と呼ばれた地蔵尊本体は用賀の無量寺の門前に移されています。とにかく、かつてはここに地蔵尊があり、そこを品川道が通っていて、しかも、この場所で最初期の大山道(鎌倉街道か)が分かれていました。享和2(1802)年建立の地蔵尊は道標を兼ねており、「右府中道、左大山道」と刻まれていました。我々がたどってきた道が府中へ通じる道と認識されていた証拠です。

(中丸地蔵旧所在地)


 さて、二条通りを進むと、用賀プロムナード(いらか道)に入ります。東急田園都市線の用賀駅と砧公園、世田谷美術館を結ぶ道で、瓦石で舗装されていたり、水路があったり、さまざまなオブジェが点在していたりします。この道に沿って、かつては耕地整理で改修された谷沢川が流れていました。
 谷沢川は世田谷区桜丘の湧水を水源とする川で、その下流は有名な等々力渓谷となって多摩川へ通じています。その谷沢川を古道はここで渡っていたわけですが、これまでに渡った仙川や谷戸川のような急峻な谷にはなっておらず、ほとんど勾配はありません。それだけ小さな流れだったわけで、その意味では難所とはいえませんが、大雨が降ると川が氾濫して、道路が通行不能になる水害多発地帯ではあったようです。
 品川道(府中道)が渡るのは中丸橋といい、いまもプロムナードの水路に中丸橋が復元されていますが、この付近の古道は完全に消えており、橋の場所も違っていました。

(いらか道に復元された中丸橋)

 プロムナードを抜けて、さらに二条通りを進むと、無量寺の裏手に出ます。その北東角、用賀4-20と18の間を右に入るのが古道に近いルートで、すぐに左折ですが、その前に無量寺は無視できないので、表に回って、まずは門前に並ぶ地蔵や馬頭観音など石仏石塔のうち、山門に向かって左端にある地蔵尊に注目してみます。これが先ほどの中丸地蔵で、台石の中央に「三界萬霊」と刻まれ、その両脇に「右府中道」、「左大山道」の文字が確認できます。

(無量寺の門前左端に中丸地蔵)

  
(かつて府中道と大山道の分岐点にあった中丸地蔵。台石に「右府中道、左大山道」の文字がある)

 無量寺(用賀4-20)は崇鎮山観音院と号する浄土宗の寺です。開山の光蓮社明誉寿広和尚は文禄3(1594)年示寂ということなので、戦国末期の創建です(文禄元年?)。本尊の阿弥陀如来を安置した本堂に向かって左側の観音堂には十一面観音が安置されています。この観音像は天正年間(1573-93)に品川の浜で漁師の網に掛かって海中から現れたものだといい、用賀の住人・高橋六右衛門尉直住という人が譲り受けて自宅で祀っていましたが、夢枕に立った観音様が無量寺に安置してほしいと告げたので、ここに奉安されたという話が伝わっています。用賀と品川の縁を感じさせるエピソードです。この観音像は「用賀の観音さま」として信仰を集め、12年に一度、午年に御開帳されます。

(本堂とその左側の観音堂)

 さて、ルートに戻って、無量寺の東側の道から東へ折れ、突き当りを右折、次の四つ角を左折して、すぐ右折すると、まもなく旧大山街道に出ます。その分岐点、用賀4-11の角に昭和初期まで火の見櫓がありました。

(大山道から右へ入るのが府中道)

 ここは昔から三叉路で、文化10(1813)年建立の馬頭観音があり、これも「左大山道、右府中道」の道標を兼ねていました。この馬頭観音は火の見櫓撤去の際にやはり無量寺に移されましたが、現在は世田谷郷土資料館に保存されています。

(世田谷郷土資料館に保存されている馬頭観音)

地図⑥(明治14年)


地図⑦(点線は消えた古道の推定ルート)


 とにかく、大山街道の用賀までやってきました。大山街道は用賀から三軒茶屋まで上町経由の旧道と新町経由の新道の二つのルートがあります。品川をめざす我々は新道を行きます。新道は大山参りが盛んになった文化文政時代(1804-30)に開かれたと言われますが、用賀から品川方面へ向かう道は古くからあり、その品川道に三軒茶屋からの新しい道を接続させたのだろうと思われます。そして、この道は用賀の東端から品川までほとんどの区間で品川用水が並流しているのです。玉川上水の分水路である品川用水を開削するにあたって、尾根筋を行く品川道を参考に用水のルートを選定したのでしょう。
 とにかく、ここから品川湊までは大きな難所もなく、スムーズに行くことができます。

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