《世田谷の古道》


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 古代の武蔵国府が置かれた東京府中市から東に連なる調布市、狛江市にかけて「品川街道」「品川道」「品川通り」などと呼ばれる道があります。国府と武蔵国の重要な外港であった品川湊を結ぶ道という意味です。あるいは古代東海道の大井駅へ通じる道だったともいいます。江戸初期に甲州街道が開かれる以前の東西交通の幹線ルートのひとつであった品川道をたどってみましょう。
 現在の「品川街道」は京王線東府中駅付近で甲州街道から分かれて始まりますが、ここではもっと古い時代の道を武蔵国の総社だった大國魂神社(近世以前は六所宮、六所明神と呼ばれた)からスタートします。

(北向きに鎮座する大國魂神社の拝殿)

 京王線府中駅の西側に大國魂神社の参道である南北におよそ550メートルも続くケヤキ並木があり、これを南に進んで旧甲州街道を越えると、そこに大鳥居があります。さらに厳かな雰囲気の参道を行くと、随神門(平成23年改築)をくぐります。その門前を東西に走る道が古道です。甲州街道も開設当初はここを通っていました。この道は西へ行くと、立川段丘から多摩川の氾濫原である分倍河原の低地へ下っていました。当時の名残として、府中市日進町のNEC府中事業場内に日本橋から8里目の「本宿一里塚」跡があります。このルートは水害の影響を受けやすかったためか、慶安(1648‐52)の頃、大國魂神社の大鳥居前を通り、段丘上を続く新ルート(いまの「旧甲州街道」)に切り替えられました。街道沿いに府中宿を整備するうえでも、道幅が狭く、六所宮の境内を横切る旧ルートは不都合だったと思われます。

 
(大國魂神社の随神門と門前から東へ向かう旧街道)

 では、大國魂神社随神門前を東へ行きましょう。大國魂神社の境内とその東側の一帯が武蔵国府の中枢機関(国衙)の大型建物群が存在した場所で、神社の東側に建物跡が史跡として整備されています。

(武蔵国衙跡)

 この場所に中央官庁街が建設されたのが8世紀前葉と考えられていますが、それ以前からこの一帯には大規模なマチが存在し、多くの人が住んでいました。従って、初期の国衙は府中市内の別の場所にあった可能性もあります。
 とにかく、大國魂神社の東側の鳥居を出ると、「京所道」(きょうづみち)と呼ばれる道が東へ伸びています。京所はいかにも国府の中心部に相応しい地名ですが、六所宮の社領に属する集落で、国府の写経所のような施設があった名残と伝えられ、経所が転訛したのではないかと考えられているそうです。

(京所道)

 まもなく左側の角(宮町2‐10)に庚申塔がありますが、大正4年建立なので、そんなに古いものではありません。

(大正4年の庚申塔)

 その次の角を右に入ると、大國魂神社の末社である天神社があります(宮町3‐21‐1)。天神というと菅原道真を思い浮かべますが、ここの祭神は少名彦命(スクナヒコノミコト)で、大国主命の義兄弟となって国土経営にあたった神として国府に多く祀られているそうです。大國魂神社と同様に社殿は北を向いています。この神社のある一帯は天神山と呼ばれ、横の坂が天神坂、坂下には府中用水(いまは暗渠)に架かる天神橋がありました。
 大國魂神社の宮司・猿渡盛厚氏(1875‐1965)の著書『武蔵府中物語』(1963年)によると、天神山はかつて前方後円墳のような形をしていたといい、古墳であるとか、被葬者は武蔵国造ではないか、などという説もあるようですが、確かなことは分かりません。

 (天神社と日吉神社)

 また、天神山には天神社と背中合わせに南を向いて日吉神社があります。かつて石塚神社とも呼ばれ、古くは崖線下の低地、現在の東京競馬場の中にありました。競馬場の造成によって移転したのでしょう。深大寺の僧・花光坊長弁(1362‐?)が嘉慶2(1388)年に書いた「武蔵惣社六所宮般若会の願文」(深大寺住僧長弁の文集『私案抄』、調布市史研究資料Ⅲ、1985年)の中に六所宮の摂社が記されており、「即宮(=本宮)、一宮、八幡宮、天神宮、天満宮、坪宮、宮目、雷電宮、日吉社、加茂宮」となっています。天神社も日吉神社も14世紀末にはすでに存在していたことが分かります。
 東京競馬場は目黒にあった競馬場が手狭になったため、昭和8年に広大な土地と豊かな水と緑を求めて府中へ移転してきたものです。目黒の厩舎にいた競走馬たちがどんな経路で府中までやってきたのか、興味深いところです。
 競馬場前の崖線下には馬を供養するために建立された馬頭観音や馬霊塔などがあります。武蔵国は古来、馬産が盛んで、府中では馬市が開かれるなど、もともと馬と縁の深い土地でした。広大な武蔵野において馬は重要な交通手段だったのでしょう。

 京所道に戻って、さらに行くと、すぐ普門寺前交差点で、その北西角にも庚申塔があります。表面の文字が磨滅して判読困難ですが、庚申の年にあたる延宝8(1680)年に建立されています。

(延宝8年の庚申塔)

 この庚申塔の背後の一帯に多磨寺という古代寺院があったといいます。「多寺」「□磨寺」の文字瓦が出土しており、軒丸瓦の紋様は朝鮮半島・統一新羅の瓦との類似性が指摘されています。国衙跡から出土した瓦よりも古く、国府が属する武蔵国多摩郡の支配層が7世紀末から8世紀初めに創建した寺院と考えられています。その近くに多摩郡の役所である多摩郡家があったのでしょう。
 交差点の南東側に大悲山清涼院普門寺(真義真言宗)があります。創建年代不詳で、中興開山は天文21(1552)年寂の惠傳法印ということなので、それなりに歴史のある古刹です。かつては七堂伽藍がそろった大寺院だったということですが、現在は小さな本堂と墓地があるだけです。この本堂は明治になって廃寺となって普門寺に合併された西蓮寺の薬師堂で、薬師如来は眼病に霊験あらたかといい、「目の薬師様」として信仰を集めています。また、普門寺の境内にはかつて天満宮があったともいいます。長弁が書き残した天満宮でしょうか。

(普門寺)

 普門寺を過ぎると、まもなく京王線府中競馬正門前駅で、駅から東京競馬場に直結する歩道橋が架かっています。駅は台地上にあり、競馬場は低地に位置しています。駅から先、道は崖沿いを行きますが、この部分は崖下が競馬場の駐車場となっており、競馬場造成時に台地を削って土砂を採取したようで、本来の古道はここで消えています。

(府中競馬正門前駅)

 それでも崖上の道を行くと、道は突き当りになり、ここは右に曲がって、いったん崖線沿いに低地へ下ります。この坂が消えた古道の続きのようで、「天地の坂」という名があります。すぐ下を府中用水が流れており、「天地」の屋号をもつ家に水車があったことが由来だといいます。天神下が転じて天地になったともいいます。駐車場の造成で切り崩されてしまいましたが、かつてはここまで天神山と呼ばれる台地が続いていたわけです。

(天地の坂を下る。前方に鳩林荘の樹林)

 さて、天地の坂はフェンスに囲まれた鬱蒼とした樹林に行く手を阻まれ、ここで右に下れば低地を行く競馬場通りに出ます。左は再び急な上り坂でフェンスに沿って登っていくと、林の中の未舗装の道に続きます。我々が進むのはこちらですが、実は天地の坂からそのまま続く古道がフェンスの中(鳩林荘という別荘地)に存在し、それが一番古い道です。この道が府中崖線の崖っぷちを狛江までずっと続いていた最初期の街道なのです。府中市内では「いききの道」の名があり、別名として「筏道」「ハケタ道」「御滝道」とも呼ばれました。崖下には湧水が多く、旧石器時代から人が住み着き、縄文遺跡、古墳群、奈良・平安期の遺跡など時代ごとの人々の生活の痕跡が帯状に残る地域なので、そうした歴史と結びついた道だと思われます。しかし、地形的には崖崩れなどの災害も多かったのでしょう。崖線から少し離れた街道(これからたどる品川道)が開かれ、さらに江戸時代になると甲州街道(いまの「旧甲州街道」)が開通し、さらに現代の甲州街道である国道20号線へとこの地域の東西交通路は徐々に北へ移っていき、同時に村落も移動したようです。「いききの道」は一部消えている区間もありますが、大変魅力的な道なので、べつのページで辿ってみることにします。

 
(八幡道。道の左が国府八幡宮、右が鳩林荘)

 とりあえず、鳩林荘のフェンスに沿って左に回り込むと、林の中に入っていきますが、ここは武蔵国府八幡宮の境内で、左手に社殿があります。国府の守護神ということで、国府のあった西を向いています。この国府八幡宮の創建年代は不明ですが、鎌倉時代に存在していたことは確実で、聖武天皇(在位724‐749)の勅命により一国一社の八幡宮として創建されたという伝承をもっています。なお、参道は北へ伸びて旧甲州街道に通じており、途中を京王・競馬場線の線路が横切っています。

(国府八幡宮)

 この地域はいまは府中市八幡町で、かつては八幡宿と呼ばれ、すべて六所宮の社領に属する農業中心の村落でした。六所宮は戦国期の小田原北条氏からも江戸期の徳川幕府からも500石という破格の待遇を受け、広大な土地を領有していました。八幡町に隣接する清水が丘も六所宮領でした。
 ところで、八幡宮の森と鳩林荘の間の未舗装路を抜けると、そこに「八幡道」の解説碑があります。

 「八幡道(やわたみち)の名は、この道が国府八幡宮のそばを通ることに由来します。江戸時代の古図にもこの名が記されており、道筋は北東に向かい品川道に通じていたようです」

(府中東方面村落古図写しの一部)

 解説文にある「古図」とは猿渡盛厚氏の『武蔵府中物語』の中に収録された猿渡家に伝わる地図の写し(府中東方面村落古図写し)であり、享保・元文(1716‐41)の頃のものだといいます。そこに「八幡道」が描かれ、「品川海道」に繋がっていたことが分かります。

(鳩林荘の正門)

 右手には鳩林荘の茅葺の門があります。旧岸和田藩主で明治時代に子爵となり、二代にわたって明治天皇の侍従を務めた岡部氏が交友のあった大國魂神社の猿渡家から八幡宮の境内の一部を借りて別荘を建てたのが始まりで、その後、西園寺公望の秘書で茶人の加藤辰彌氏の所有となり、戦後はブリヂストン創業者・石橋正二郎氏の別荘となっています。戦時中には昭和天皇の意向を受けた終戦工作の秘密会議がここで行われたそうです(小澤幸治「府中の歴史名園『鳩林荘』物語」、『府中市史談』39号、2013年)。敷地は府中崖線の上下にまたがり、地主は今も大國魂神社です。
 その門前の坂を下っていくと、南側にも門があり、そこに「天地の坂」から続く古道が来ており、門から出てさらに東へ伸びていますが(下写真)、その先は競馬場の駐車場造成で途切れています。

  
(鳩林荘の崖線下の門と門内の古道および東に延びる古道の続き)

 なお、鳩林荘門前から北へ行くと旧甲州街道を横切り、人見街道に通じていました。そして、京王線が開通した当初、この道との交点に八幡前駅が開設されました。

 さて、直進すると東京競馬場日吉体育館と八幡町運動広場(旧乗馬練習場)に突き当たるので、北側に回り込むように道なりに進みます。この付近も競馬場造成に伴う地形の改変により道路の形が変わったようです。

(八幡道解説碑の地図)

 甲州街道から競馬場に通じる競馬場通りを横切り、そのまま進むと東府中駅の東側で京王線の踏切を渡り、府中市がとなえる「品川街道」に合流します。昔は我々がたどってきた道が本来の道筋でした。

地図1(昭和初期)


(京王線踏切を越えると品川街道に合流)

 
(品川街道)

 ここからはいかにも旧街道らしい道が続きます。このルートが開かれたのは中世以前であることは確かですが、いつの時代なのかは分かりません。上の「府中東方面村落古図」でも「古道但し品川海道」と記されているので、江戸中期の時点ですでにそういう認識だったのでしょう。



 やがて道の右側に「史蹟一里塚」の碑があります。通称は常久一里塚です(清水が丘3‐15)。一里塚は旅人に里程を知らせるため、街道の両側に一里(約4キロ)ごとに塚を築いたもので、江戸初期の慶長9(1604)年に徳川家康が江戸日本橋を起点に各街道に築かせたのが始まりです。ここは日本橋から7里目にあたり、この品川街道が江戸初期には甲州街道であった証拠でもあります。塚の高さは7尺ほどあったそうで、明治30年頃、開墾して畑にするにあたり、石碑が建立されたようです。
 ちなみに常久はこの付近の旧村名で、人名に由来する地名のようです。是政、小田分などとともに中世の名田の名残で、村の歴史の古さの証しといえます。村の成立当初は多摩川沿い(小柳町5丁目付近)にあり、度重なる洪水被害により万治年間(1858‐61)に台地上に移ったといいます。常久村は明治22年に現府中市東部の8か村の合併により生まれた多磨村の一部となり、昭和29年に府中町、西府村と合併し、府中市の一部となっています。現在の町名は若松町(の一部)などです。このあたりの村は多くが多摩川低地の旧村域と台地上の街道沿いに移転後の村域、さらに北部の原野を開拓した新田があり、村の土地が分散し、しかも各村の領域が複雑に入り組んでいるのが特徴です。

(甲州街道沿いにある常久八幡神社)

 さらに進みます。交通量はさほど多くなく、しかも歩道が整備されているので大変歩きやすい道です。北側が旧常久村の若松1丁目、南側が旧六所宮領の清水が丘3丁目です。
 まもなく若松町の東端で2車線の道路と直交します。そして、この交差点の南西側に少し変わった形の庚申塔があります(清水が丘3‐21)。嘉永元(1848)年に常久村の人々が建立したもので、石の正面に「庚申」の文字を刻み、向かって右に「府中道」、左に「おし立舩ば道」、裏に「おだぶん これまさ道」と彫られて道標を兼ねています。「おし立舩ば道」は府中市南東部の押立村(府中市押立町)の多摩川渡船場への道であり、「おだぶん これまさ」はここから東郷寺通りを行くと南部の小田分村(府中市小柳町2丁目付近)、是政村(府中市是政)へ通じることを意味します。

(庚申塔)

 交差点を過ぎると、白糸台1丁目で、昔の多摩郡上染屋村です。この村もかつては多摩川低地に集落があり、常久村と同時期に台地上に移ってきたといいます。
 交差点から2車線道路(浅間山通り)を北へ行くと、国道20号線(現在の甲州街道)に面して上染屋八幡神社があります(白糸台1‐42)。社伝によると、正慶2=元弘3(1333)年に上野国碓氷郡八幡庄より武蔵国府に遷座したということです。初めは多摩川低地に創建されました。御神体は阿弥陀如来像で、背面の銘文には上州八幡庄、弘長元(1261)年の文字が残されています。この仏像は鎌倉攻めに向かう新田義貞軍の陣中守護として新田一族の上州里見氏が奉戴し、鎌倉幕府を打倒して建武中興を成し遂げた後、当地に建立された神社に神仏習合の本地仏として奉安されました。正平11(1356)年に武蔵守新田義宗(新田義貞の子)が社殿を再建しますが、承応2(1653)年の多摩川洪水で社地が流失し、村の移転と同時に現在地に遷座したということです。阿弥陀像は明治の神仏分離、廃仏毀釈の流れの中で売り払われますが、その後、上染屋に戻され、昭和初期に旧国宝に指定され、現在は国指定重要文化財です。同じ白糸台1丁目の旧甲州街道沿い、上染屋不動尊(白糸台1‐11)境内に安置されています。

 
(上染屋八幡神社と上染屋不動尊。不動尊境内の左手前に阿弥陀堂)

 さて、品川街道に戻ります。浅間山通りの交差点を過ぎてすぐ東郷寺通りが北東から南西に斜めに交差します。この通りを南西に行くと京王線多磨霊園駅前を通り、東郷寺方面へ通じます。東郷寺は東郷平八郎の別荘地に昭和15年に創建された日蓮宗寺院ですが、通りは古くからあるようで、道標にあった小田分、是政方面がこの道です。反対方向へ行くと旧多磨村役場(跡)前を通り、上染屋不動尊の脇で旧甲州街道に突き当たります。

(東郷寺通り。この通りに沿って「ムダ堀」が埋もれている)

 そして、この交差点付近では東郷寺通りに沿うように通称「ムダ堀」と呼ばれた溝跡があり、品川街道を横切っていたようです。現在は確認できませんが、埋没した溝の痕跡である帯状の窪地の存在が古くから知られており、一部は1970年代まで残っていたそうです。溝は中世末から近世初期に掘られたと考えられ、最初に玉川上水を掘り割ろうとして失敗した痕跡だという伝承があります。深澤靖幸「『ムダ堀』に関する覚書―玉川上水失敗伝承のある大溝の基礎的考察―」(『府中市郷土の森博物館紀要』第25号、2012年)によると、1996年に清水が丘2丁目で実施された武蔵国府関連遺跡の発掘調査で、巨大な溝の遺構が発見されたことで、再び注目されたということですが、部分的な発掘調査や文献資料から大國魂神社東隣の神主邸の南側から始まり、府中崖線沿いに瀧神社(清水が丘2‐37)付近に至り、ここから北へ向かって、崖線から北西方向に入り込んだ谷戸を迂回し、谷地形に沿うように東へ向きを変え、多磨霊園駅北東方向へ伸びて、現在、我々がいる地点に達していたようです。「府中東方面村落古図写し」にも描かれ、「新堀」という名称が記されています。


(図の最上部が甲州街道、その下が品川街道でその画面右端でムダ堀が横切っている)

 この溝が本当に玉川上水を開削しようとして失敗した痕跡なのかは否定的見解もあり、不明ですが、清水が丘の谷戸へ下る坂には「かなしい坂」という名があり、上水掘削失敗の責任を問われ、処刑された役人が「かなしい」と嘆いたという伝説があります。ただ、そのあたりには金尻(かなしり)という地名があり、金尻坂と呼ばれたのが転じて「かなしい坂」になったともいいます。実際、「府中東方面村落古図写し」にも「金尻坂」と記されています。現在は地表面には溝の痕跡はまったく見られませんが、将来的に調査が進んで、地中に眠る溝の正体が明らかになるのを待ちたいと思います。

地図②(昭和初期)


 さて、品川街道をさらに進みましょう。
 まもなく府中市立第四小学校があります。明治初期の手習い塾を起源とする歴史の古い小学校で、その西側の道を北へ行くと東郷寺通りにぶつかる角に府中市成立前の多磨村役場跡の碑があります(白糸台1‐59)。

 
(多磨村役場跡の碑と彦四郎塚)

 そして、その南側の駐車場の中にはフェンスに囲まれた小さな円墳のような塚があります。これが彦四郎塚(鎧塚)です。ここにはかつて薬師堂がありました。源頼朝が奥州藤原氏を討伐し、平泉から鎌倉へ凱旋する際、藤原秀衡の持仏であった薬師如来像を畠山重忠に命じて鎌倉まで運ばせます。しかし、その途次、この地で野営した時に薬師如来の夢告があり、そこに草案を結んで薬師像を安置したのが寺の起源だと伝えられています。この時、移送用の車をもとへ返したので、この付近の土地に車返という地名がついたという伝承があります。その後、兵火に焼かれたお堂を当時、この地を領地としていた大久保彦四郎という人物が永正13(1516)年に再建し、彦四郎は他所に新たな領地を賜り、当地を去る時に塚を築いて武具などを埋めていったといい、それが彦四郎塚です。同じ駐車場の奥にもフェンスで囲まれた一角があり、鏡塚とか首塚などと呼ばれた小さな塚があったようですが、そちらは削平されてしまったようで、跡地が保存されているだけです。なお、薬師堂はその後、当地に来住した宮崎泰重によって天正2(1574)年、府中崖線沿いの白糸台5‐20に再興されています。この時から八幡山本願寺と称するようになり、徳川幕府から十一石四斗の朱印地を賜り、同時に葵の御紋の使用も許されています。本願寺は「いききの道」探訪時に訪ねます。

 品川街道に戻ります。府中第四小学校の向かい側に寿司屋があり、その前にこの寿司屋が建てたと思しき道しるべがあり、(布田)五宿、府中、稲城の方角を指しています。そこから南へ折れる道は昔から多摩川方面へ通じる道だったのでしょう。多摩川の対岸が稲城市です。

 
(寿司屋の道標と「品川道」碑)

 また、四小前には府中市が建てた「品川道」の碑があり、さらに校地の南東角に道標を兼ねた庚申塔があります。
 この庚申塔は嘉永6(1853)年に建立され、昭和3(1928)年に改造されたといい、正面には「庚申塔」の文字を刻み、側面に「東品川 西府中 道」「上車返村」と彫られています。この街道沿いで品川と府中の両方を示した道標は注目すべきものですが、字体をみても、昭和の改造の際に「品川道」の伝承にちなんで彫られたのではないか、という気がします。そもそも車返村はありましたが、上車返村という村名は聞いたことがありません。車返村の中央部に村を東西に引き裂くように下染屋村が挟まっていたので、車返村の西側を上車返、東側を下車返と通称したのでしょうか。このあたりには村が上と下に分かれている例が多く見られますが、京都に近いほうを上とするのが当時の慣習です。

(品川道庚申塔)

 とにかく、「東品川」の道標に従い、東へ向かいますが、すぐ先で西武多摩川線の線路に遮られ、そこで街道は途切れてしまいます。そのため南へ迂回して踏切を渡ると、線路の向こう側にまた街道の続きがあります。

 
(西武多摩川線の線路で途切れる街道。踏切の北側に白糸台駅)

 踏切の北側に白糸台駅があります。かつては北多磨駅でしたが、平成13年に北隣の多磨墓地前駅が多磨駅に改称された時に白糸台に改称されました。ここに鉄道が開通したのは大正6(1917)年のことで、境(現・武蔵境)~北多磨(現・白糸台)間で開業。大正8年に常久(現・競艇場前)まで延伸、大正11年に是政まで全通しています。当時は多摩鉄道で、多摩川の砂利の輸送が主目的でした。
 ところで、白糸台というのは新しい地名に思えますが、このあたりの車返村(白糸台2・4・5丁目付近)の古名が白糸村だったといいます。府中市から調布市にかけて糸や布、染め物に関係する地名が多いのは、古代律令体制下の税制で租庸調の調(その土地の特産物)として布を納めていたことに由来するといいます。ただし、「調布」という地名はそのような歴史にちなんで明治22年の町村制施行により調布町が成立した時に生まれた近代地名です。

 さて、多摩川線を越えてまもなく街道の南側に京王線武蔵野台駅があります。この駅の旧名が車返駅で、昭和34年に武蔵野台に改称されています。



 ところどころに農地も残る街道は白糸台3丁目、旧下染屋村の領域に入ります。白糸台五丁目交差点を北へ行くと旧甲州街道に面して下染屋村の鎮守だった下染屋神明社とその別当寺だった神明山観音院金剛寺(天台宗)が並んでいます(白糸台3‐10)。どちらも創建年不詳のようです。

 
(下染屋神明社と観音院)

地図③(昭和初期)


 品川街道は再び旧車返村の村域(白糸台6丁目。下車返?)に入り、まもなく調布市との境界を越えます。品川道はここで右折してすぐ左折というクランク状の道筋です。そのまま直進すると、250メートルほどで飛田給薬師堂に出て、そこで旧甲州街道に合流します(地図③参照)。恐らく江戸初期までの甲州道は江戸から来てこの地点で品川道に入って常久の一里塚を経て大國魂神社随神門前に至るルートだったと思われます。それが慶安(1648‐52)の頃、ここから現在の「旧甲州街道」ルートに切り替えられたということなのでしょう。

(府中・調布市境。品川道は右折してすぐ左折)

 市境からは府中市でいう「品川街道」が調布市では「旧品川みち」と表記が変わります。しかし、その「旧品川みち」を行く前に直進して飛田給薬師堂(調布市飛田給1‐25)に立ち寄りましょう。

(飛田給薬師堂に行き当たり、旧甲州街道に入る)

 この飛田給薬師堂の本尊は石造瑠璃光薬師如来立像といい、「飛田の原の石薬師」として信仰を集めていたようです。仙台藩に仕えた医師の松前意仙という人物が貞享3(1686)年に彫刻して安置したものです。意仙は仏道を志し、諸国遍歴の末、この土地を生涯の地と定めて庵を結び、、医業のかたわら人々の救済を願って石の薬師像を刻んだのです。そして、像の完成後、元禄14(1701)年、薬師像の傍らに自ら穴を掘り、その中に入って鉦を叩きながらお経を唱え、そのまま入滅しました。意仙の成仏後、村人たちがその遺徳を称えて行人塚を築き、また弘化4(1847)年にはお堂が建てられ、それまで野外にあった薬師像を奉安したということです。行人塚は昭和47年の改修の際、専門家により内部が調査され、遺骨の存在が確認されています。座禅を組んだまま白骨化していたともいいます。

 
(飛田給薬師堂と行人塚)

 薬師堂境内には近隣から集められたと思われる庚申塔や馬頭観音などがいくつかあり、その中に道標を兼ねた庚申塔があります。文化15(1818)年に建立されたもので、正面に「庚申塔」の文字を刻み、側面に「北 所沢道」「南 相州大山」と彫られています。薬師堂の筋向い(飛田給1‐10)にあったといい、ここで甲州街道と交わる南北の道の行き先を示しています。北は現在は調布飛行場やその北の都立野川公園で道が消えていますが、所沢方面へ通じる古道がありました。南は押立の渡船場に出て多摩川を渡り、稲城市長沼を経て鶴川街道に入り、町田・相模原方面へ行けたので、その先には相模の大山があり、参詣道となっていたのでしょう。薬師堂西側の道がそれで、南へ行くと京王線飛田給駅前で府中・調布市境からくる「旧品川みち」と出合います。
 
 それでは飛田給薬師堂から一度府中・調布市境に戻って、「品川街道」からわずかに南にずれる形で始まる「旧品川みち」を行きましょう。

 
(府中・調布市境で右折してすぐ左折。「品川街道」から「旧品川みち」に名前が変わる)

 ここからは歩道もなくなり、いかにも古道らしい道幅となり、まもなく京王線飛田給駅前に出ます。薬師堂から南下してきた道と合流して駅西側の踏切を渡り、すぐ左へ行きます。かつては駅東側で京王線と交差していたようです。

(京王線飛田給駅。踏切を渡って左へ)

 飛田給(とびたきゅう)とは変わった地名ですが、このあたりが誰かの荘園だった時代、その管理を任された飛田氏が領主から支給された領地が飛田給と呼ばれたという説があります。また、もとは悲田給で、「悲」の字が村名に相応しくないということで、同音の「飛」に改め、読み方も「ひでんきゅう」から変化したものとの伝承もあります。古代の武蔵野は無人の原野が果てしなく広がり、飢えや病気で苦しむ旅行者が相次いだため、多摩郡と入間郡の境に悲田処を設け、食料などを提供して救護したといい、その給田地が悲田給だというわけです。



 現在の調布市飛田給は1丁目~3丁目まであり、京王線以北が1丁目、線路の南側に2・3丁目があります。しかし、かつての飛田給村は品川道以北が村域で、現在の飛田給1丁目のほか、その北側で調布飛行場などがある調布市西町の大部分を含む地域でした。一方、品川道の南側は多摩川まで上石原村で、飛田給2・3丁目の大部分も旧上石原村の村域です。
 そして、飛田給村は江戸時代には上飛田給と下飛田給の二村に分かれており、下飛田給村は『新編武蔵風土記稿』によれば、「下石原宿ヨリ持添ノ地ニテ民戸ナシ。御料私領入会ニテ、下石原宿ト入交リ分別シカタシ」という状態だったようです。
 また、同書の下飛田給村の条には品川道に関する記述もあります。

 「村内ニ往還ノ小路二条アリ。一ハ下石原宿ノ南ニアリ。西上石原宿ヨリ東ノ方小島分村ヘ達ス。村内ニカカルコト六丁余、コレヲ品川道ト呼ベリ。(中略) 道幅イツレモ四尺許」

 飛田給駅の南側には調布市教育委員会が建てた「品川道(いかだ道)」の標柱があり、つぎのような説明があります。

 「品川道は、今の府中に武蔵国府がおかれたころ、国府から東海道に通じる脇街道であったという。その名称は、大國魂神社(六所宮)の大祭に用いる清めの海水を、品川の海から運んだことによるといわれ、もとは道幅約一・二メートルの小道であった。
 近世になると、筏乗りたちが多摩川の上流から河口まで材木を運び、その帰り道に利用したので、『いかだ道』とも呼ばれている。このように由緒ある品川道も、今では市内のところどころに残るのみである」


 道幅1.2メートルとはずいぶん狭いなと感じますが、これは『新編武蔵風土記稿』にあった「道幅四尺許」が根拠となっているのでしょう。また、近世以前において六所宮の大祭の時に品川沖で採取した清めの水をこのルートを使って運んだという確実な証拠は存在しません。少なくとも江戸時代の神主の日記では甲州街道を行き、金子、馬引沢、目黒不動尊を経由しているので、我々がたどっている品川道は通っていません。

 さらに行くと、左手に道生(みちおい)神社があります(飛田給2‐39)。もとはこの地に鎮座していた稲荷神社で、明治維新後に飛田神社と改称しています。さらに明治17年に村の北部にあった道生神社(もと山王社)に合祀されます。ところが、道生神社の社地が調布飛行場の建設用地となったため、昭和18年に現在地に遷座したということです。祭神は宇気母智命(ウケモチノミコト)です。また、境内には嘉永4(1851)年の道祖神がありますが、これは旧甲州街道北側にあったものだということです。

 (道生神社と道祖神)

 さらに進みます。まもなく調布市上石原に入ります。ここでも品川道の北側は飛田給村で、南側が上石原村でした。石原とは多摩川の石の多い河原に由来すると言われ、初期の村は多摩川低地にありました。それが甲州街道の開通により、街道沿いに移動して、飛田給村の中の甲州街道沿いに飛び地のように上石原宿が開かれ、いわゆる布田五宿の一つとなります。さらに飛田給村の北(現在の調布市野水)にも新田開発により上石原村の飛び地がありました。近藤勇の生家があったのは、この上石原村の飛び地にあたります。
 ところで、甲州街道の江戸から3番目の宿場、布田五宿は江戸方から国領・下布田・上布田・下石原・上石原の各宿をいい、甲州街道は五街道の中でも閑散路線であったため、五宿が6日交代で宿場の機能を担っていました。五宿あわせても旅籠は9軒しかなく、本陣・脇本陣はありませんでした。

(中央道下をくぐる)

 まもなく、中央高速道路の下をくぐり、京王線西調布駅(旧称・上石原)の南方を通り、下石原に入ります。
 やがて、「旧品川みち」はクルマが行き交う都市計画道路「品川通り」に合流します。

(旧品川みちは品川通りに合流)

 道路の反対側には太田塚があります(下石原3‐50)。太田道灌の弟・資忠が当地に滞在中に地元の石原出雲守の娘を娶り、生まれた男子が石原太田氏の祖となり、その子孫が下石原村の名主を世襲しています。その太田一族の墓地が太田塚というわけです。資忠の孫・太田対馬守盛久は天文6(1537)年、甲州街道沿いに臨済宗の金剛山源正寺(下石原1‐36))を開き、天正7(1579)年に120歳で没したと伝えられています。

(太田塚)

 品川道は一旦は2車線の品川通りにのみ込まれますが、すぐに南側に旧道が分かれます。

(旧道が分かれる)

 しかし、数十メートルで鶴川街道との交差点にぶつかり、そこからまた品川通りの下に隠れてしまいます。
 鶴川通り交差点を過ぎると、すぐにまた交差点があります。これが甲州街道の下石原宿の東端から南下してきた鶴川通りの旧道で、「江戸道」と呼ばれたといいます。ここから低地へ下って矢野口の渡しで多摩川を渡り、三沢川沿いに多摩丘陵に分け入り、長沼、百村、坂浜、黒川といった村々を経て小野路方面に通じていました。そして、これらの村々から江戸へ出る道筋だったことから「江戸道」の名がついたわけです。このルートを通じて黒川炭や禅寺丸(柿)などの特産物が江戸へ運ばれました。なお、鶴川街道の多摩川原橋が開通したのは昭和10(1935)年のことです。
 この道を過ぎると、調布市小島町に入ります。昔の布田小島分村です。小島という地名はかつてこの地域が多摩郡小島郷と呼ばれた名残であるとか、小島某の所領であったことに由来するとか、諸説あるようです。上布田宿と下石原宿の間にあった小島は上布田宿の加宿として役割の一部を分担していました。
 品川通りはまもなく京王相模原線と交差します。ここに鉄道が開通したのは大正5(1916)年のことで、多摩川の砂利運搬のため調布~多摩川原(現・京王多摩川)間に支線が建設されたのが最初です。当初は踏切で、のちに渋滞解消のため立体交差になりましたが、平成24年に線路が地下化され、陸橋も撤去されています。地上の線路跡は駐輪場や防災倉庫などに利用されています。

 まもなく、再び旧道が右側に分かれます。旧道はすぐ南北の道にぶつかり、そこから少し南にずれて続きます。そして、150メートルほど行くと左折して、すぐまた右折して品川通りに付かず離れず続きます。ここで北へ行けば京王線調布駅です。

地図④(昭和初期) 

橙線の品川通りは当時は未開通。現在の調布駅は当時より東寄り。地図の学校付近)

 ここから調布市布田5丁目に入ります。昔の上布田宿(布田1・4・5丁目ほか)です。もちろん、宿場は調布駅北側を通る旧甲州街道沿いにあったので、この品川道沿いは人家もまばらで、畑が広がっていたと思われます。明治時代の地図ではほとんどが桑畑でした。

 
(品川通りから分かれて南側を並行する古道)

 道はまもなく南にカーブしてすぐ北へ切り返し、東へ向かうという形になります。北からくる二本の道が合流するY字路を横切るので、このような形状になっています。そこに半鐘の付いた防災スピーカーのポールが立ち、品川通りの標柱と解説板があります。
 ここで交わる南北の道は白山通りといい、沿道に白山宮神社があります(布田5‐32)。この道は鎌倉道であるとの伝承もあり、この道を境に布田6丁目、昔の下布田宿(布田2・3・6丁目ほか)に入ります。

(白山宮神社)

 布田(布多)は平安時代にはすでにあった地名で、調布駅の北方にある布多天神社は「延喜式」神名帳にも記載された古社です。ただし、かつては白山通りを南へ行った府中崖線沿いにありました。多摩川の洪水で被災し、文明9(1477)年に現在地に遷座しました。祭神は府中の天神社と同じ少名彦命で、遷座の際に菅原道真を合祀しています。

 
(調布市を代表する古社・布多天神社とその旧地にある古天神公園)

 天神社の旧地は古天神と呼ばれ、公園になっています(布田5‐53)。古天神公園周辺は昔の天神社の跡地というだけでなく、古天神遺跡(上布田遺跡)として知られ、旧石器・縄文時代から古代・中世・近世の住居跡や墓の遺構などが発見されています。そして、そこには崖線に沿って東西に品川道の原型といえる古道(府中市でいう「いききの道」=調布市では「はけ道」)が通っていました。

(品川通りに再合流する古道)

 さて、品川通りの南側を行く「旧品川みち」は布田3丁目の交差点の手前で再び品川通りに合流します。
 そして、次の角を南に入ると、その東側の農地の中に少し高くなった東京都史跡「狐塚古墳」(下布田6号墳)があります(布田6‐53)。7世紀前半に築造された円墳で、周溝の内径44メートル、外周直径が60.5メートルに及び、終末期古墳としては多摩川流域で最大級の円墳です。墳丘はほぼ削平されていますが、横穴式石室が残っており、鉄製大刀3点や小刀、鍔、刀子、鉄鏃などの副葬品が出土しています。被葬者は在地豪族の系譜を引く有力首長層と考えられています。周辺には多数の古墳が存在したことが判明しており、狐塚南方の府中崖線沿いには国史跡の下布田遺跡(縄文時代から古墳・奈良・平安、中近世の複合遺跡)があります。

(「歴史の広場」という公園になっている狐塚古墳)

 さて、品川通りに戻って、まもなく「椿地蔵」の交差点です。交差点南西角のフェンスで囲まれた中に享保20(1735)年の地蔵尊が立ち、その背後に推定樹齢700年で市天然記念物のシロハナヤブツバキが葉を茂らせています(布田6‐41)。このツバキはかつては5メートルほど北に生えていましたが、品川通りの拡幅に際して移植されました。地蔵尊もその時に移動したのでしょう。

 
(椿地蔵とシロハナヤブツバキ)

 ところで、ここで交わる南北の道もまた鎌倉道との伝承があります。鎌倉から北へ伸びる街道は幾筋にも分岐しながら武蔵国に入るので、この地方を南北に走る古道の多くが鎌倉道であるとの伝承をもち、実際にその沿道の武士が鎌倉との往来に利用したのでしょう。
 椿地蔵前を過ぎると、調布市国領町に入ります。昔の国領村です。古代から中世にかけて府中にあった武蔵国衙の領地があったことに由来する地名といわれています。なお、国領の村域には下布田村や上ヶ給村の飛び地がありました。
 そして、まもなく今度は道の北側に小さなお堂があり、庚申塔が2基あります(国領町5‐37)。元禄14(1701)年と天保9(1838)年のもので、その隣には「赤いなり」と呼ばれる稲荷祠があります。品川通りは味気ない道路ではありますが、随所にこうした歴史遺産が存在し、見逃せません。

 (庚申塔と赤稲荷)

 少し脇道に逸れますが、調布第二小学校の東側には杉崎稲荷があります(国領町4‐22)。旧上ケ給(あげきゅう)の鎮守です。上ケ給は布田宿のうち旗本の所領が収公されたことから「布田宿の内上ケ給」の地名が生まれ、のちに布田宿から独立して一村となったと言われています。稲荷社の境内には明和5(1768)年の廻国供養塔があります。なお、杉崎は上ケ給村の旧家の名です。

(杉崎稲荷)

 さらに品川通り沿いの国領町4‐41には文化14(1818)年の地蔵尊と明治43(1910)年の馬頭観音があります。

(地蔵尊と馬頭観音)

 やがて「多摩川住宅入口」の信号手前で再び旧道が右に分かれ、交通量の多い品川通りとはここでお別れです(ここにも品川道の標柱あり)。旧道に沿ってケヤキ並木があります。

(品川通りから分かれる旧品川みち)

 旧道は古道らしい道幅に戻って染地通りを突っ切り、南東へ向かい、旧矢ケ崎村の領域に入ります。現在の地名でいえば国領町7丁目と8丁目の一部に相当する小さな村で、『新編武蔵風土記稿』によると江戸初期に矢ケ崎長右衛門という浪士が開墾したのが村の起源といいます。開村から昭和初期まで戸数は12戸前後で変わりがなく、全員が矢ケ崎姓でした。
 この村は伝統的な技術による鋸の製造が有名で、多くの鍛冶屋がありました。紀州徳川家の御用職人だった伊勢二見ヶ浦の甚八が徳川吉宗の将軍就任により享保2(1717)年に江戸へ出て、当地に所領を得たのが矢ケ崎の鋸鍛冶の始まりです。故郷の地名にちなんだ「二見屋」の屋号で知られました。筏道を通って家路を急ぐ多摩川の筏乗りたちも品質の良い矢ケ崎の鋸を買い求めていったといいます。戦後、機械での生産が主流になるにつれ、矢ケ崎の鋸鍛冶は衰退しますが、伝統的な「二見屋」の屋号を持ち、刃物の販売や研ぎを行う店が今も付近に数軒あります。

  
(「開祖二見屋甚八之碑」と二見屋忠造店、二見屋浦吉店)

 品川道の北側、国領町7‐53にひっそりと矢ケ崎稲荷神社があります。旧矢ケ崎村の鎮守で、境内には庚申塔や地蔵尊、道標などが集められています。このうち宝暦4(1754)年の道標は風化してほとんど文字が読めませんが、『調布の古道・坂道・水路・橋』によれば「西ふちう道(不明)とのことで、元の所在地も不明です。

 
(矢ケ崎稲荷と石造物群)

 また、矢ケ崎稲荷の北にある二見屋工業の敷地にも稲荷祠があり、そこに「開祖二見屋甚八之碑」があります。

 さて、古道はまもなく調布市国領町から狛江市中和泉に入ります。調布市側には西を指す「旧品川みち」の標識が立ち、狛江市側には東を指して「品川道」の標識が立っています。

(調布の「旧品川みち」は狛江市では「品川道」に)

 中和泉は旧多摩郡和泉村です。和泉は村内の泉龍寺境内の湧水に由来し、古くは「出水」と書いたといいます。和泉村は明治22年の近代的町村制施行により6村合併で成立した狛江村の一部となり、狛江村は昭和27年に町制施行、昭和45年に狛江市に昇格しています。
 狛江の地名は平安中期に源順が編纂した『和名類聚抄』の中に多摩郡のうちの狛江郷とあるのが初出で、現在の狛江市だけでなく、調布市や三鷹市、武蔵野市の一部を含む地域だったとされます。井の頭池の古名が狛江だったともいい、池には今も狛江橋が架かっています。郷内の深大寺(調布市)が高句麗系の満功上人によって創建されたように渡来人が多く住んだ地域であり、狛江の「コマ」も高麗と関係があるとの説があります。実際、大和朝廷は武蔵国に多くの渡来人を移住させており、彼らがもたらした先進技術によってこの地域は開発されたのでしょう。

 品川通りから分かれた「旧品川みち」は南東方向へ伸びてきましたが、狛江市に入って「品川道」に呼称が変わると右へカーブして南へ向かい、府中崖線にぐっと近づくと、左へカーブして再び南東へ向かいます。府中からずっと府中崖線沿いを来た「いききの道」(はけ道)はこの付近で我々がたどる品川道に合流していたと思われます。
 その左カーブ地点に栁久保稲荷神社があります。元は台地の麓の柳が繁茂する「栁窪」にあったそうですが、多摩川の洪水で社殿が流失し、崖線上の現在地に遷座し、名称も栁久保に改めたということです。

(参道が長い柳久保稲荷)

 そこからは府中崖線に沿って道が続きます。ただ、府中市付近に比べると段丘崖の高低差はだいぶ小さくなっています。 
 すぐに山谷庚申塔があります。宝永元(1704)年と文化元(1804)年の2基の庚申塔が並び、お堂の脇は崖になっています。崖下の低地にはかつては水田が広がっていましたが、現在は多摩川住宅(団地)となっています。そして、崖線に沿って根川が流れています。もとは崖裾の豊富な湧水を集めて流れ、水田を潤していましたが、現在は湧水もほとんど失われてふだんの水量はきわめて少なくなっています。

 
(山谷庚申塔と崖線下を流れる根川)

 「品川道」はまもなくちょっとした商店街を抜け、そこで左へ曲がります。直進路は「万葉通り」と呼ばれ、「万葉歌碑450m」の標識があります。ちょっと寄り道してみましょう。

(右が万葉通り。左が品川道)

 『万葉集』巻十四の中にある東歌の一首を刻んだ万葉歌碑(中和泉4‐14)は文明2(1805)年に多摩川のほとり、多摩郡猪方村(いまの狛江市緒方)に建立されましたが、文化12(1829)年の洪水で流失し、行方不明になってしまいます。それを残された拓本をもとに大正11(1922)年に再建したのが現在ある歌碑です。石碑には万葉仮名で次のように彫られています(原碑の揮毫は松平定信)。

 多麻河泊爾 左良須弖豆久利 佐良左良爾 奈仁曽許能児能 己許太可奈之伎

 これで次のように読みます。

 多摩川に 曝す手づくり さらさらに 何そこの児の ここだ愛(かな)しき

 (意味)多摩川にさらさらとさらす手作り(布)のように、どうしてこの娘はこんなに愛らしいのだろう。



 多摩川流域では渡来人のもたらした技術により製糸と織物が盛んになり、布が調(貢納物)として都へ納められましたが、織った布を多摩川の清流にさらし、槌で叩いて柔軟にし光沢を出す工程(この作業に使う道具が砧)が必要でした。そうしたこの土地の古代からの暮らしと結びついた「みつぎの布」を多摩川にさらす光景を歌った一首が刻まれているわけです。


(分岐点。左写真のクルマ後部に立つ標識の脇に庚申塔)

 品川道に戻ります。万葉通りを南に見送り、東へ向かう品川道はすぐに中和泉4-1(地図⑤A地点)で二手に分かれます。分岐点に安政5(1858)年の庚申塔があり、道標を兼ねています。「庚申塔」の文字のほか、「右地蔵尊道、左江戸青山道」とあり、台石には「西府中道」と彫られています。「地蔵尊」とは狛江駅近くにある古刹・雲松山泉龍寺(曹洞宗)のことで、子安地蔵が広く信仰を集めました。この地蔵尊は毎月25日に寺を出発して江戸市中や近郊の信者の家を一軒ずつ廻り、翌月23日に寺に戻る巡行仏として知られ、その慣習は昭和初期まで続きました。地蔵尊が寺に戻った24日が縁日で、門前に市が開かれ、多くの人で賑わいました。
 狛江市でいう「品川道」はその「地蔵尊道」ではなく、左の「江戸青山道」(北回り)ですが、左右の道を両方たどってみます。2本の道はこの先で再合流しますが、古いのは「地蔵尊道」(南回り)と思われます。

地図⑤(昭和初期)


 まずは、左の品川道(江戸青山道)から。品川道は狛江で登戸道(今の世田谷通り)に合流しているので、道標が江戸青山道となっているのです。狛江には六郷を指し示す道標はありますが、品川への道標は存在しません。
 狛江市教育委員会『狛江の古い道』(1992年)では品川道と狛江の人々の関わりについて、西方は布多天神や六所宮への参詣やこれらの神社で開かれる市や布田五宿での買い物などに利用されたのに対し、東方の品川との関係が判然とせず、「おそらく、品川道は往還として機能していなかったのであろう」と書いています。

 とにかく、品川道を行きます。ここから道幅が広がり、ほぼまっすぐでもあり、あまり古道らしさはありません。
 道はやがて2車線で一直線に伸びる都道114号線と交差します。この道は松原通りの名がありますが、この区間の松原通りは徳川家康の家臣で江戸初期にはこの土地の地頭だった石谷氏の馬場でした(地図⑤の緑線部分)。馬場の両側に松並木があったことから松原の地名が生まれたわけです。この馬場が使われなくなった後、道路となり、松並木は明治の初めに伐採されたということです。なお、この松原通りは南へ行くと登戸の渡しへ通じ、地元では「鎌倉道」とも呼ばれ、また北へ行くと甲州街道に通じるので「高井戸道」とも呼ばれました。馬場だった区間はその西側を通っていたといいます。

 さて、品川道は松原通りをまっすぐ横切っていますが、かつてはわずかに南にずれて続いていました。この新道と旧道の三角地帯は公園になっていて、そこに道標のモニュメントがあります。「北高井戸道 西府中道」「東江戸、六郷道」「南登戸道」となっていて、実用性はほとんどありませんが、古道探索者にとっては嬉しい存在です。同様のモニュメントが狛江市内にはほかにもいくつか設置されています。

 
(松原通りを越えてから振り返る。右の道が現在の品川通り。左が旧道。右写真は道標モニュメント)

 松原通りを過ぎると、道の北側の私有地内に松原東稲荷塚古墳があります。墳丘はかなり崩されているものの、5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定される円墳で、もとは直径が33メートルほどもあったといいます。

(松原東稲荷塚古墳)

 そもそも狛江は「狛江百塚」といわれるほど古墳の多い地域ですが、1500年を超える歴史の中で耕地になったり宅地になったりで完全に削平されたものも少なくありません。それでも十数基が不完全ながら残存しています。その中でも亀塚古墳は現在は墳丘の一部しか残されていませんが、昭和26年の発掘調査で銅鏡や鉄剣、馬具などが出土し、その特徴から高句麗との関係が指摘され、渡来系の首長墓と考えられていました。ただ武蔵国に多くの渡来人が移住する以前の築造であることなどから現在ではヤマト政権と深く結びついた在地系豪族の墳墓であるという説が主流になっています。在地系といっても、弥生時代以降、中国大陸や朝鮮半島から先進的な文明や文化を持った人々が断続的に日本列島に渡来、拡散し、圧倒的に優位な立場で在来の縄文人と混血しながら「日本人」が形成されたわけですから、在地系、渡来系といっても列島への渡来が早いか遅いかの違いだと思いますが。とにかく、狛江は武蔵国成立以前から先進的な文明を有する人々が定住していた地域だったのでしょう。

 松原東稲荷塚古墳を過ぎて、まもなく中和泉4-1の庚申塔前で分かれた南回りのルートが右から直角に合流してきて、左にはまた旧家の私有地内にこんもりとした樹林が見えます。東塚古墳です。もとは径35メートル、高さ5メートルの円墳で、周溝の外径は60メートルにもなり、5世紀後半の築造と推定されています。

(狛江通りから見た東塚古墳)

 品川道は新しい道路を突っ切り、左へカーブして狛江通りに合流します。狛江通りは世田谷通り(旧登戸道)と甲州街道の国領宿を結ぶ道で、江戸時代に甲州街道ができた際に開通し、これも品川道と呼ばれました。六郷から奥多摩方面へ帰る筏乗りたちもこの道を通り、賑やかな甲州街道へ出たといいます。
 その狛江通りにぶつかる直前に右側に松の木などが生え、周囲をコンクリートで固められた塚があります。それが駄倉塚古墳です。今は周囲をすっかり削られて、墳丘の中心部が残るのみですが、もとは径40メートル以上の規模があったと推定され、5世紀中頃の築造と考えられています。墳丘の頂部には地元出身の日清戦争戦死者を慰霊する「征清戦死招魂碑」が立ち、また祠には第六天が祀られているそうです。

(駄倉塚古墳)

 では、もう一度中和泉4-1(A地点)の庚申塔前に戻り、今度は南回りの「地蔵尊道」を行きましょう。
 地蔵尊道は南へ向かい、それから東寄りにカーブしていきます。平成元年に建立された「南無妙法蓮華経」の題目碑を過ぎ、まもなく和泉村の鎮守・伊豆美神社の前に至ります。
 伊豆美神社は近世以前は六所明神社と称し、平安時代、宇多天皇の御代・寛平元(889)年に府中の六所宮の分霊を勧請して創建されたという伝承があります。そのためか、大國魂神社と同じく社殿が北を向いています。ただ、当時の確実な資料はなく、古くは多摩川沿いの北谷村大塚山(現在の狛江市元和泉2丁目)に鎮座していたのが、戦国時代の天文19(1550)年の洪水で流され、天文21年に現在地に遷座したということが知られているだけです。当時から我々がたどっている道が存在したということでしょう。神社が伊豆美神社と改称したのは明治元(1868)年のことです。
 境内には慶安4(1651)年に徳川家の旗本で和泉村の領主石谷氏の一族、石谷貞清が建立した石鳥居があります。

 
(伊豆美神社と慶安4年の石鳥居)

 伊豆美神社の南東には兜塚古墳があります。6世紀前半の築造と推定され、墳丘がほぼ原形を保っているところが貴重で、東京都史跡にも指定されています。残存径43メートルで、周溝の外周径は70メートルほど。高さ約4メートルの円墳で、帆立貝形古墳の可能性も指摘されています。

(兜塚古墳)

 伊豆美神社をあとに東へ行くと、すぐに道が分かれ、そこに文政10(1827)年の馬頭観音があり、道標を兼ねています(地図⑤B地点)。その文字を記した道標モニュメントが脇にあります。「右 当村地蔵尊道 玉川渡し場 道」「左 江戸青山 六ごう 道」「西 府中道」となっています。

 
(馬頭観音と道標モニュメントのある追分。背後は東京都の大気汚染測定室)

 我々が進むのは左の江戸青山六郷道ですが、右へ行くと松原通り(鎌倉道)に突き当り、そこから南へ行くと泉龍寺や登戸の渡しへ行けます。松原通りにぶつかる角に安政5(1858)年の庚申塔があり(中和泉3-3、地図⑤C地点)、やはり道標を兼ねています。「左り国領□」「右り高井戸ミち」「南のぼり戸道」となっています。
 なお、この庚申塔から北の松原通りが江戸初期まで馬場だったところで、八町(1町=109m)ほどの長さがあったようです。

(中和泉3‐3の庚申塔)

 さて、馬頭観音のある三叉路から左へ行きます。左手には造園業者の苗木畑があり、その中に白井塚古墳があります。5世紀後半から6世紀前半の円墳で、径40メートルで、その外側に幅10メートル、深さ1メートルの周溝が確認されています。その東側には飯田塚古墳もあるようです。

(白井塚古墳)

 道はまもなく松原通りと交差しますが、ここでも少し南にずれる形になっています。

(松原通りとクランク状に交差)

 旧家が残る道を行くと、やがて突き当りになり、そこを左折すると「品川道」に合流します。

 さて、「品川道」は狛江通りと合流しますが、昔は恐らく駄倉塚古墳の西側を通っていたと思われます。駄倉塚古墳の南側の銀行前には駄倉橋の親柱が保存されています。ここで六郷用水を渡っていたのです。



 いまの狛江市内で多摩川から取水した六郷用水は徳川家康の命により小泉次大夫吉次の指揮のもと慶長2(1597)年に工事が始まり、多摩川北岸に沿っ世田谷領内を流れ、六郷領に至る全長23キロの水路が16年の歳月をかけて完成しています。この付近では昭和40年頃埋め立てられています。

 さて、古道は駄倉橋跡から小田急線の高架をくぐって続きますが、その前に和泉村の名前の由来となった湧水池と泉龍寺に立ち寄りましょう。
 駄倉橋跡から右へ行くと狛江駅前に鬱蒼とした保存樹林があり、その中に池があります。そこから池沿いに行けば泉龍寺です(元和泉1-6)。
 雲松山泉龍寺(曹洞宗)は和泉村の地頭石谷十郎左衛門政清(天正2=1574年没)が鐵叟端牛(慶長17=1612年寂)を開山(初代住職)に招いて創建したといい、江戸時代には幕府から20石の朱印地を拝領しました。
 また、奈良東大寺の開山として知られ、相模の雨降山大山寺を開いた良弁僧正が大旱魃の際に当地を訪れ、雨乞いをしたところ龍神が現れ、雨を降らせたとか霊泉が湧き出たという伝説があり、泉龍寺の縁起では寺の草創も良弁僧正であるとしています。当初は華厳宗・法相宗を兼ねていましたが、のちに天台宗に改宗されます。その後、寺は衰微し、小さな観音堂があるだけになっていましたが、戦国時代に旅の途中で立ち寄った泉祝和尚が泉のほとりで霊感を受け、曹洞宗の道場として再興し、さらに石谷氏が中興開基となり、石谷氏の菩提寺となっています。

 
(泉龍寺の鐘楼と弁財天池)

 泉龍寺の門前にあり、弁財天が祀られている池はいかなる旱魃でも涸れることはないと言われていましたが、都市化の進展により昭和47年に涸渇してしまい、今は井戸水の汲み上げにより給水しているようです。

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