《世田谷の古道》

 登戸道 (後編:三本杉~登戸の渡し)

  登戸道(前編:世田谷新宿~三本杉)   世田谷の古道   トップページ


 世田谷から多摩川・登戸の渡しへ通じる登戸道をたどる旅。後編は三本杉からスタートです。登戸道の後身である世田谷通りが環状8号線と交わる三本杉交差点の南で環八の陸橋によって途切れた登戸道旧道の続きがあります。

 

 角には造園業・矢藤園の稲荷社がひっそりとあります。三本杉陸橋を背に旧道を行くと、すぐに右手に地蔵尊があり、環八の旧道といえる旧東京府道67号・田無溝口線が南へ分かれていきます(地図①の紫線)。

 (地蔵堂と環八旧道)

 このあたり登戸道の北側は砧(きぬた)1丁目、南側は大蔵1丁目で、どちらも多摩郡(明治11年~北多摩郡)大蔵村だった地域です。そのうち大蔵1丁目の区域は明治8(1875)年までは横根村といいました。世田谷では最小の村だったそうで、江戸後期の『新編武蔵風土記稿』によると、横根村は「民戸九軒」に過ぎなかったようです。
 明治8年に横根村を合併した大蔵村は明治22(1889)年に喜多見、宇奈根、岡本、鎌田の各村と合併して北多摩郡砧村となり、昭和11年に東京市世田谷区に編入されています。

地図①(平成2年)


 さて、旧道は下り坂で、この先は谷戸川の谷です。その坂の途中で左へ分かれ、台地上を行く道があり、その先に旧横根村の鎮守、横根稲荷神社があります(大蔵1‐6)。横根村が大蔵村に編入され、神社は一村一社とする合祀令により明治41年にこの稲荷神社も大蔵氷川神社(大蔵6‐6)に合祀されます。しかし、その後、天災や疫病が続いたので、人々はお稲荷さんの祟りだと恐れ、移転跡地に改めて社殿を造営し、伏見稲荷から勧請して横根稲荷神社を再興したということです。三本杉の地名の由来となった幹の先が三本に分かれた杉の大木が生えていたのがこの神社の境内で、「三本杉のお稲荷さん」として親しまれたということです。その杉は現存しませんが、かつては谷戸川を見下ろす丘の上に聳えていて、遠くからでも見えるランドマークだったのでしょう。

 
(横根稲荷神社と大蔵庚申神社) 

 横根稲荷神社の北側には大蔵庚申神社という祠がありますが、私有地にあり、近づくことはできませんでした。お堂の中に庚申塔があるようです。

 さて、登戸道に戻ります。坂を下り、左上に庚申神社を見上げながら右にカーブすると、そこで谷戸川を渡ります。この道を江戸方面から来た場合、常盤橋の細流や品川用水を除けば、目黒川以来の川です。旅人や牛馬にとっても貴重な休息の場だったと思われます(現在は下写真のような状況ですが)。そこに架かる橋は横根橋。上流側は暗渠になっていますが、下流側で開渠となり、川は直角に曲がって道に沿い、それからまた直角に曲がって流れていきます。

 
(横根橋の上流側は暗渠で、下流側は開渠。谷戸川は橋をくぐると直角に曲がる)

(のどかな旧道は再び交通量の多い世田谷通りに合流)

 谷戸川を過ぎると、道は上りになり、NHK技術研究所の前で三本杉から一直線に続く世田谷通りに合流します。大蔵通りを南に見送ると、左(南)側は大蔵2丁目で、古くからの大蔵村の領域です。
 大蔵2丁目には世田谷通りに面して国立成育医療研究センターがあります。元の国立大蔵病院で、その前身は東京第四陸軍病院。日中戦争による傷病兵の増加に対応すべく昭和13年に東京第二陸軍病院大蔵臨時分院として開設されたのが始まりです。それ以前は広々とした農地が広がっていたのでしょう。

(日大商学部前で旧道が右に分かれる)

 まもなく世田谷通りはまた旧道が今度は右に分かれます。左へカーブして桜並木の坂をまっすぐ下っていく世田谷通りを見送り、日本大学商学部前を進み、まもなく旧道も下り坂となります。かつて坂の下に畳屋があったことから「畳屋坂」の名があります。

(旧道らしい風情の畳屋坂)

 坂の途中で斜めに交差するのが荒玉水道道路。関東大震災後、東京西郊の人口が激増し、これに対応するため関係町村が荒玉水道町村組合を結成し、多摩川の伏流水を採取して砧浄水場から野方(現・中野区)、大谷口(現・板橋区)の配水塔まで送る水道管が敷設されました(水道はその後、東京都水道局に移管)。この水道上を砧浄水場前から杉並区梅里までほぼ一直線に造られた道が荒玉水道道路で、水道管保護のため、1962年までは自動車通行禁止でしたが、自動車の通行が認められた後も車両の重量制限があり、大型車が進入できないように交差点ごとに車幅制限のポールが立っています(下写真)。

 
(仙川の谷から台地上へ一直線に上る荒玉水道道路)

 水道道路と交差して、さらに下ると、すぐにまた北から下ってくる道が合流します。昔は赤土の切通しだったため、地元で「赤土坂」と呼ばれた古道で、今は小田急線の祖師ヶ谷大蔵駅方面へ通じる祖師谷通りです。かつて道沿いに円谷プロダクションがあったことから駅周辺では「ウルトラマン商店街」と呼ばれています。芳賀善次郎『旧鎌倉街道探索の旅・中道編』でも登戸方面から荻窪方面や大宮八幡方面へ行く古道として取り上げられています。

 
(登戸道の畳屋坂に祖師谷通りの赤土坂が合流。合流点の向かい側に庚申塔)

 畳屋坂と赤土坂との合流点で、道の左側にひっそりと庚申塔があります(砧7‐1‐6)。元治2(1865)年に建立されたもので、風化して文字が読みにくいですが、正面には「庚申塔」の文字とともに「のぼりと大山道」と彫られ、左面には「右江戸道」と刻まれています。右面にも「道」の文字があり、赤土坂の行き先を示していたはずですが、何道となっていたのか判読不能です。もとは道の分岐点にありましたが、坂で車の滑り止めに使われたりもしたといい、保存のため現在地に移したそうです(『世田谷の古道に沿って』せたがやトラスト文庫)。

 さて、坂を下りきると、そこは仙川の谷です。仙川は三鷹市新川3丁目の丸池の湧水を水源とする河川で、武蔵野台地を開析しながら湧水を集めて流れる川です。改修によりすっかり都市河川の姿となっていますが、魚や水鳥の姿も多くみられます。流れのあちこちに段差が設けられているので、もともと急流だったのでしょう。

 (仙川に架かる石井戸橋)

(下流側からみた石井戸橋)

 そして、仙川に架かる橋が石井戸(いしいど)橋です。石井戸は「石井土」とも書き、この地に古くからある地名です。広大な大蔵村のうち、北西部の仙川流域の水田のある谷地が石井土で、もとは「いわいど」と読み、磐井という霊泉があったことに由来するともいいます。現在の大蔵3・4・5丁目あたりということになり、今も湧水の豊富な地域です。

(大蔵3丁目。仙川の谷の崖線下の湧水池)

 大蔵村の鎮守・大蔵氷川神社(大蔵6-6)は暦仁元(1238)年に江戸氏が武蔵一の宮の大宮氷川神社(さいたま市)を勧請して創建したと伝わる古社で、神社に残る永禄8(1565)年の棟札には「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神第四ノ宮」と記されており、『江戸名所図会』でも氷川神社のある殿山を「大蔵村石井土の内、殿山」と書いているので、石井土という地名が大蔵村内を流れる仙川沿岸の全域を指していた可能性もあります。また、棟札にあるように大蔵村は当時は荏原郡に属していて、多摩郡に編入されたのは明暦年間(1655‐58)のことだといいます。
 この石井戸(土)の地に古くから住み、開発してきたのが石井氏です。鎌倉時代の仁治元年(1240)年に幕臣の安達出羽守景盛の次男、石見守兼周(かねちか)やその子の左衛門尉兼章が幕府から武蔵国石井(いわい)郷を拝領して移住し、石井氏を名乗るようになった(江戸名所図会)、あるいは戦国時代、世田谷吉良氏の家臣・石井内匠助平兼実が石井土に住み、徳川家康の娘・督姫の北条氏直への輿入れに従って北条臣下となり、小田原落城後、再び当地に戻って土着した(新編武蔵風土記稿)など、諸説ありますが、いずれにせよ、石井家は江戸時代に幕府の書物奉行も務めた文人石井至穀を輩出するなど、大蔵の旧家として現在に至っています。

地図②(昭和12年)


 とにかく、歴史のある地名にちなむ石井戸橋ですが、すぐ下流側に架かる荒玉水道道路の大蔵水道橋の袂に鉄柵で厳重に囲われた石橋供養塔があります(砧7‐1)。当然、石井戸橋のもので、明和4(1767)年の建立です。昔、仙川はたびたび氾濫し、石井戸橋もそのたびに損壊、流失していました。そこで橋の通行料を徴収して、橋の維持費用に充てていたといいます。しかし、公道においてカネをとるのは罷りならん、ということで、登戸道を利用する沿道各村の有志から広く資金を集め、石橋を完成させ、それを記念して供養塔が建てられたのです。塔には寄進した個人名や村名がびっしりと刻まれ、町田方面の村など広範囲から寄付があったことがわかります。
 現在の橋は昭和41年竣工ですが、先代の橋のものと思われる親柱が供養塔と並んで保存されています。

 
(石井戸橋の石橋供養塔と先代の橋?の親柱)

 仙川を渡ると、成城1丁目です。今は高級住宅街として知られる成城ですが、もとは多摩郡喜多見村の一部で、西ノ原、中ノ原、東ノ原といった地名がありました。村の中心から離れ、しかも大部分が台地で水の便も悪く、ほとんど人家もなく、住んでいるのは野鳥やキツネ、タヌキ、野ウサギ、ヘビばかりの林や原野でした。明治22年の合併で、喜多見村は北多摩郡砧村大字喜多見となります。そこに小田急線(小田原急行鉄道)の建設計画が持ち上がると、鉄道開通に先立って大正14年に東京市牛込区の成城学校から分離独立した成城学園が移ってきて、昭和2年の小田急開通時に成城学園前駅を誘致。同時に周辺の土地を宅地開発して利益を得ることで学園を拡大していきます。
 この成城学園から成城の地名が生まれ、砧村喜多見成城となり、昭和7年に砧村が東京市世田谷区に編入された際に世田谷区成城町となっています。同年に仙川沿いに東宝の撮影所ができたことから映画のスターが多く住むようになり、それも高級住宅街としてのイメージにつながったわけです。

 
(7方向から道が集まる「砧小学校」交差点。右写真の奥が大蔵道))

 とにかく成城に入ってすぐ世田谷通りと再会する「砧小学校」の交差点です。ここには水道道路、成城からのバス通りなど合わせて7方向から道が集まっています。そのなかでも古い道といえば、登戸道のほかに南東方向へ行く細道でしょう(上写真・右)。仙川と野川に挟まれた舌状台地を行く尾根道で、旧大蔵村のうち氷川神社(大蔵6‐6)や永安寺(大蔵6‐4)がある本村地区へ通じています(現在は東名高速道路で分断されています)。

 この大蔵道に入ってまもなく東光山妙法寺(日蓮宗、大蔵5‐12)があります。350年ほど前に石井土の人々が隣の宇奈根村の常光寺に発願して、大蔵村にも日蓮宗寺院を建ててもらったのが始まりといい、開山の日詮上人が寛文4(1664)年没ということなので、それ以前の創建ということになります。現在の妙法寺といえば、日中は境内を見守り、夜間は180度回転して背後の世田谷通りを見守るハイテク大仏(おおくら大仏、1994年完成)と境内の見事な枝垂桜が有名です。また、山門は碑文谷にあった法華寺(現・円融寺。元日蓮宗寺院で、法華経を信仰しない者からは施しを受けず、与えもしないとして、政権とも一切妥協しなかった不受不施派に対する幕府の弾圧で天台宗に改宗させられる)の門を昭和61年に移築復元したものです。

  
(妙法寺山門とおおくら大仏、石井戸稲荷)

 さらに、境内には石井戸稲荷大明神が鎮座しています。もとは大蔵3丁目にあった稲荷社を移したものだといい、石井戸橋とともに石井戸の地名を現代に伝えています。

 さて、砧小学校の交差点に戻ります。この先、世田谷通りの南側は世田谷区喜多見6丁目です。
 登戸道は世田谷通りと斜めに交差して、すぐにまた南側に旧道が分かれます。そこに明治39年に開校した砧小学校があり、その西隣に砧村役場がありました。この付近の登戸道はかつては現在よりも高い位置を通っていて、仙川の谷からの勾配もきついものでした。荷車などにとっては相当な難所だったようです。そこで地元の人が協力して道路を掘り下げ、切通にして勾配を緩和したそうです。その結果、道路よりも土地が高くなった小学校を取り巻く玉石垣は近くの河原の石を積み上げたということです。恐らく多摩川の石でしょう。

(旧道。左側が砧小の玉石垣)

 小学校の先で交差点からここまで登戸道と一体化していた荒玉水道道路が再び分かれて南西方向に一直線に坂を下っていきます。太古の多摩川が形成した河岸段丘のうち、武蔵野段丘と立川段丘の間の崖である国分寺崖線の急坂で、築堤により勾配が緩和されています。

(一直線に下っていく水道道路)

 登戸道は水道道路を見送り、右へカーブして世田谷通りに合流します。世田谷通りも国分寺崖線に沿うように下っていきます。このあたりが野田という地名だったため、「野田の坂」と呼ばれています。崖上は戦前まで喜多見御料地でした。そして、坂の途中で道路の右(北)側に小さな湧水池があります。「お滝と野田の不動」という説明板によると、この湧水は「お滝」と呼ばれ、そばに明治8年(1875)年に造られた不動尊像があります。この土地がかつて砧村大字喜多見字下野田(今は成城1‐7)だったことから「野田の不動」として坂を上り下りする人々に親しまれ、同時に貴重な潤いを与えていたようです。ここからも近い国分寺崖線の小田急線のすぐ北側に喜多見不動堂と不動滝があるので、そのミニチュア版のようなつもりで「お滝」と名づけたのかもしれません。

(お滝と野田の不動尊)

 さて、登戸道は坂の途中、喜多見6‐19の先で左折します。住宅街の中の何の変哲もない細道になってしまいますが、これが古道です。この先、世田谷通りとは多摩川まで全くの別ルートとなります。

(世田谷通りから南へ折れる古道)

 そして、この道はいったん右折してすぐ左折すると茶屋道橋野川を渡ります。しかし、現在、この世田谷区内でも最も自然の残る野川沿いで東京外環自動車道の建設工事が始まり、盛大に景観破壊が進行中です。そして、この古道も現時点では分断されています。高速道路は地下40メートル以上の大深度を通るそうですが、このすぐ下流で東名高速とのジャンクションが建設されるので、たぶん野川と国分寺崖線の風景も台無しになるのでしょう。


(1980年代後半の野川・大正橋付近。向こうに東名道。両岸の林は跡形もなく消え、ここにジャンクション建設中)

 この区間の登戸道については茶屋道橋の1本上流側の喜多見大橋(多摩堤通り)で野川を渡るルートが紹介されるケースもあります(狛江市教育委員会『狛江の古い道』など)。世田谷通りを成城通り、多摩堤通りとの交差点のひとつ手前の角(喜多見6‐24と25の間)で曲がって喜多見大橋に出るコースです。明治時代の地図ではこちらのほうがメインルートとして描かれていますが、どちらが古いのかは分かりません(『世田谷の古道に沿って』は茶屋道橋ルートです)。
 とりあえず喜多見大橋の袂で野川に出て、川沿いの遊歩道で茶屋道橋へ行きます。

 
(多摩堤通りの1本東側の道で喜多見大橋に出る)

(1本下流側の橋が茶屋道橋)

 
(茶屋道橋。川の北側は高速道路の工事で、古道が分断されている)

 この茶屋道橋の名は昔、喜多見の地を治めた喜多見氏(江戸氏の後裔)の居館から茶室へ通うのに使う道だったことに因んだようです。成城3丁目にお茶屋坂という急坂があるので、国分寺崖線上の高台に茶室があったのでしょう。
 ただし、昔の野川は狛江市内で江戸初期に開削された六郷用水に取り込まれ、もう少し南を流れていたので、この場所には喜多見大橋も茶屋道橋も存在しなかったと思われます。六郷用水の分水路が田んぼを潤しつつ流れていたかもしれませんが。ちなみに茶屋道橋のひとつ川下には水道橋があり、荒玉水道道路と水道管を渡しています。

 とにかく茶屋道橋を渡ると、すぐに多摩堤通りにぶつかります。喜多見大橋経由の場合もここで合流です。そして、多摩堤通りを渡り、南下すると内田橋で復元された六郷用水を渡ります。

 
(内田橋と復元された次大夫堀=六郷用水。昔はカワウソも生息していたという)

 六郷用水は今の狛江市元和泉(旧和泉村)で多摩川から取水し、世田谷区内を多摩川と並行して流れ、大田区の六郷方面に通じる灌漑用水で、徳川家康の命により1597年から15年の歳月をかけて用水を整備した小泉次太夫にちなんで次太夫堀とも呼ばれます。そして、この復元された六郷用水が流れているのが世田谷区立次大夫堀公園で、農村時代の世田谷の風景を再現した公園です。野川から取水し浄化した水が流れる次大夫堀や水田や畑、そして区内各地から移築した古民家があります。

(昭和30年頃の内田橋付近を流れる次大夫堀)

 
(旧喜多見村の登戸道沿いにあった城田家と喜多見の農家・加藤家。ともに江戸後期の建築)

 さて、内田橋を過ぎると、西からくる道(中通りあるいは中道と呼ばれる古い道)に出合い、その突き当りの塀に囲まれる形で馬頭観音があります(年代不明。喜多見5‐22)。

(布に巻かれて正体不明の馬頭観音)

 現在は下部が埋もれて見えませんが、その台石に「左り のぼりと」「右り ふちう 八王寺(ママ)と彫られていたそうです。西へ行くと筏道(狛江以西では品川道という)に繋がり、府中、さらに甲州街道で八王子へ通じるということでしょう。

 そこでやや左に折れると、すぐ荒玉水道道路と再び出合います。これを突っ切ると、その先で左手に浄土宗の長徳山宝寿院光伝寺があります(喜多見5‐13)。永禄12(1484)年創建という古刹で、開山は西誉上人方阿玉公和尚です。江戸時代には幕府から7石2斗余を拝領し、その御朱印状が寺宝として保存されています。本尊の木造阿弥陀如来坐像は平安末期の作とされ、世田谷区有形文化財に指定されています。

(玉川六阿弥陀の三番札所・宝寿院光伝寺)

 明治時代には小学校としても使用された光伝寺をあとにさらに南下すると、左(東)からくる道に突き当ります。これが古道の筏道です。江戸時代から明治・大正にかけて奥多摩方面で伐りだした木材を筏に組んで多摩川を流れ下り、六郷や羽田まで運んだ後、筏乗りたちが多摩川沿いを徒歩で帰るのに利用した道です。そのため大田区や世田谷区では「筏道」と呼ばれていますが、府中と品川湊を結ぶ道として府中市から調布市、狛江市にかけては「品川道」とも呼ばれています。

地図③(平成2年)赤線が登戸道


(筏道と合流して西へ) 


(交差する道が水道道路。その先右が知行院。登戸道は門前で左折)

 そこで右折し筏道と一体となって西へ行くと郵便局や世田谷区の出張所、交番、商店があり、かつて本村地区と呼ばれたように、いかにも村の中心集落といった雰囲気で、また水道道路と交差します。
 交差点の先の右側が天台宗の龍寳山常楽寺知行院です(喜多見5‐19)。文明年間(1469‐87)の草創と伝えられ、本尊は薬師如来です。天正16(1588)年に江戸(喜多見)勝忠が居館の鬼門除けの祈願所として不動明王と閻魔大王をあわせて奉安し、頼存法印が中興開山となったといいます。慶安2(1649)年には江戸幕府より寺領8石2斗余の朱印状を受けています。

(知行院)

 筏道は門前の道を西へ直進です(ただし、世田谷新宿などと同様にこの先で道が右折してすぐ左折という形状になっています)。
 一方、筏道から分かれた登戸道はここで知行院を背に南へ折れ、再び水道道路を横切り、すぐに西に折れ、三たび水道道路を横切ります(地図④参照)。ここで西に折れずに、そのまま南へ行く道は宇奈根を通って野川を町田橋で渡り、大蔵・永安寺前へ通じる道で、これも「筏道」の別ルートと言われています(地図③参照)。
 知行院の門前に現代の喜多見散策用の道しるべ(右写真)がありますが、登戸道のルートは非常にややこしいので、昭和初期に開通した水道道路を頭の中で消去すると、いくらかは分かりやすいと思います。
 なお、次大夫堀公園に移築保存されている旧城田家主屋は知行院前で筏道と登戸道の分かれる角にあったといい、江戸期には農業のかたわら酒屋を兼ねて、「さかや」の屋号を持っていました。

 
(知行院前から南へ進み、水道道路と斜めに交差して、すぐ先で右折して、また水道道路を横切るのが登戸道。直進は宇奈根方面)

 とにかく逆Z字形に進んで西へ道なりに進むと、道は南へカーブして須賀神社の前に出ます。小高い塚の上に舞台のある社殿があり、周囲をムクノキやケヤキの巨木に囲まれています。
 須賀神社(喜多見4‐3)は承応年間(1652‐54)に喜多見久大夫重勝が館の庭園に勧請したのが始まりといわれ、近郊では「天王様」と呼ばれています。毎年8月2日の例大祭では社殿前で大釜に湯を沸かし、その湯を笹の葉で人々に振りかけ無病息災を願う「湯花神事」が行われます(世田谷区指定無形民俗文化財)。

 
(須賀神社と第六天塚古墳)

 須賀神社の南には第六天塚古墳があります。古墳時代中期の5世紀末~6世紀初頭の築造です。『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代には塚の上に第六天が祀られ、松の木が生えていたといいますが、この松は大正時代に伐採され、今は竹が密生しています。
 喜多見の里は多摩川の低地と武蔵野台地の間の立川段丘上を中心に広がり、段丘崖の裾から豊富に水が湧き出す土地なので、古くから人が暮らしていたのでしょう。須賀神社の塚も古墳でした(天神塚古墳)。

 また、須賀神社前をさらに西に行き、登戸道から外れますが、突き当りを右に行くと、稲荷塚古墳があります。横穴式石室をもつ円墳で、古墳時代後期7世紀の族長墓とみられ、圭頭太刀、鉄鏃、耳環などの副葬品が発掘されています(世田谷郷土資料館に展示)。

(稲荷塚古墳)

 稲荷塚古墳の向かいには喜多見農業公園(園内の周辺案内図に登戸道のルートも描かれている)があり、その向こうには慶元寺の三重塔が望まれますが、登戸道のルートに従って、南へ行くと、慶元寺の門前に出ます(喜多見4‐17)。

地図④(平成2年)赤線が登戸道、黄線が筏道


 永劫山華林院慶元寺(浄土宗)は喜多見の領主だった喜多見氏の氏寺です。喜多見氏は桓武平氏の流れをくむ武蔵の豪族で江戸の地を開発した江戸氏の後裔です。慶元寺ももとは今の皇居にある紅葉山に江戸太郎重長が文治2(1186)年に創建した岩戸山大沢院東福寺(天台宗)が前身です。

(慶元寺境内にある江戸太郎重長像)

 ちなみに江戸重長は源頼朝が伊豆で平氏打倒の兵を挙げた時、参陣の要請にすぐには応じず、安房から上総、下総と進んだ頼朝の軍勢の武蔵進出の障害となりましたが、結局は頼朝に従い、鎌倉幕府の御家人となっています。その後、江戸氏は戦国時代に太田道灌に江戸の地を明け渡して、一族が居住していた木田見(今の喜多見)に移り、東福寺もこの地に移り、天文9(1540)年、真蓮社空誉上人が中興開山となって浄土宗に改め、慶元寺と改称しています。
 江戸氏の居館(陣屋)は慶元寺前の一帯にあったといい、先に訪ねた須賀神社も庭園内に勧請されたものです。

 木田見を本拠とした江戸氏は小田原北条氏傘下の世田谷城主吉良氏の家臣となりますが、小田原落城で世田谷城も廃城となり、徳川家康が江戸に入府すると、江戸氏23代当主・勝忠は家康に仕え、木田見の領地を安堵されると同時に徳川家に遠慮して江戸氏から喜多見氏に改めています(地名もこの前後に喜多見となったと思われます)。喜多見氏はその後も幕府における地位を高め、2万石の大名となって喜多見藩を立てます。東京23区内に存在した唯一の藩ですが、元禄2(1689)年、当時、徳川綱吉に仕えていた喜多見重政は突然、改易されて喜多見藩は廃止されてしまいます(領地没収、お家断絶)。一般には一族の刀傷事件が原因とされますが、異説もあるようです。
 喜多見陣屋跡には綱吉の「生類憐みの令」により野犬を保護収容する広大な犬屋敷が造られたといいますから、犬が江戸から登戸道を通ってやってきたのかもしれません。

 なお、喜多見勝忠の子・重勝は小堀遠州らに茶道を学んで茶人としての評価を高め、喜多見流茶道の創始者となっています。その茶室が成城3丁目の高台にあったことから、そこへ通じる坂道が今も「お茶屋坂」と呼ばれ、のちに野川に架かる「茶屋道橋」の名も生まれたわけです。
 
 
(慶元寺の門と参道)

 さて、慶元寺です。これまでに立ち寄った宝寿院や知行院より遥かに大きな寺で、寛永13(1636)年には幕府から十石の御朱印地を拝領しています。現本堂は享保元(1716)年の再建で世田谷区に現存する寺の本堂としては最古の建築といいます。本尊は阿弥陀如来。幕末に巡礼が始まった玉川六阿弥陀の二番札所です。境内には江戸氏喜多見氏の墓所があり、それより遥かに古い時代の古墳もあります。

(世田谷区に現存する最古の寺院建築)


(「江戸名所図会」に描かれた喜多見の里)

 慶元寺門前には2基の道標があります。いずれもこの先の砧浄水場の北西の道路脇から移されたものだそうです。ツツジの植え込みに埋もれて確認しづらいのですが、1基は安政2(1855)年のもので、上部に地蔵と馬頭観音の二尊を刻み、その下に「右り宇奈根大蔵ヨリ/右リハ池上六郷 左リハ世田谷青山/左六阿弥陀弐番慶元寺/道」と彫られています。ちなみに「右り」、「左り」と「り」を送るのは江戸後期の道標に見られるそうです(『狛江の古い道』)。もう1基は上部に横向きの矢印を彫り、「丸山教本院 弐拾四町五拾八間」とあるそうです。丸山教は明治時代に登戸で創設された神道系の教団です。24町58間は大体2.7キロということになります(1町=約109m、1間=約1.8m)。

 (慶元寺前の道標)

 さて、慶元寺前を南へ行くと下り坂となって右へ曲がり、慶元寺幼稚園前に至ります。幼稚園も当然、慶元寺の土地で、寺が立川段丘の縁にあたる府中崖線上に立地していたのが分かります。
 『新編武蔵風土記稿』には「コノ川(=多摩川)古ハ慶元寺ノ下ヲ通ゼシニ、中古川ノ瀬カハリテ今ノゴトク南方ニヨレリ」とあります。
 つまり慶元寺の下はもう多摩川の氾濫原です。幼稚園の向かい側には喜多見緑道がありますが、これは狛江の泉龍寺の弁財天池などを水源とする川の跡です。狛江市では岩戸川と呼ばれ、世田谷では清水川の名があり、野川に合流しています(一部は多摩川に合流)。また、この川は江戸初期に六郷用水に取り込まれる以前の野川の下流部でもあったと思われます。昔は農業用水として利用され、いくつもの支流や分水路があり、川跡探索の醍醐味を味わえる川でもありますが、複雑すぎてワケが分からなくなる川でもあります。

(右が幼稚園、左が緑道。登戸道は左折)

 ここからは慶元寺をあとに狛江に向かうわけですが、その前に喜多見の古社、喜多見氷川神社にも寄っていきましょう。ちょうど慶元寺の裏(西側)にあり、幼稚園前から敷地に沿って西へ行き、北へ回り込むように坂を上がっていくと、神社前に出ます。

(左が慶元寺、右が氷川神社)

 鬱蒼とした樹林の中にある喜多見氷川神社(喜多見4‐26)は天平12(740)年創建と伝わる古社ですが、当時の記録は多摩川の洪水で現在地より南にあったという社殿が大破したため何も残っていません。永禄13(1570)年に当時の木田見領主・江戸頼忠により再興されました。江戸(喜多見)勝忠が神領5石2斗を寄進したほか、承応3(1654)年には勝忠の子、喜多見重恒、重勝兄弟によって二の鳥居(現存する世田谷最古の石鳥居)が寄進されるなど、江戸氏、喜多見氏の氏神といえる神社です。慶安2(1649)年には幕府より御朱印地10石2斗の御朱印地を寄進されています。

  
(氷川神社。中央の写真が喜多見重恒・重勝兄弟寄進の二の鳥居)

 さらに寄り道になりますが、氷川神社前の道を北へ行くと、立派なイチョウの木が聳えていて、「喜多見小学校発祥之地」の碑が立っています(喜多見4‐13)。ここは氷川神社の別当寺でもあった普明山華蔵院禱善寺(とうぜんじ)という天台宗の寺の跡でもあります。往時は氷川神社の社地と接していたようです。開山は権大僧都法印良尊和尚、長禄元(1457)年10月17日寂ということなので、室町時代の創建ということになります。

(喜多見小学校発祥之地の大イチョウ)

 ここに明治6年頃に「研精学舎」が開かれたのが喜多見の小学校の発祥であるというわけです。しかし、禱善寺はまもなく廃寺となり、学舎はその後、宝樹院など転々としながら発展し、近隣の学校と統合して砧小学校になります。我々が通ってきた玉石垣のある高台の小学校です。この地域の子どもたちは登戸道やのちに開通した水道道路を通って六郷用水を渡り、急な坂道を上って丘の上の小学校に通ったのでしょう。現在、喜多見3丁目にある世田谷区立喜多見小学校は砧小学校から昭和47年に分離独立して開校しました。

 さて、登戸道に戻りましょう。ここまで喜多見地域で登戸道は何度も折れ曲がりつつ来ました。これは戦国時代に江戸氏(喜多見氏)がこの地を本拠と定めた後のことではないかと思われますが、それ以前のルートはもはや分からないので考えないことにします。

(岩戸川緑地公園)

 慶元寺幼稚園前から南へ行くと、すぐ右に喜多見緑地の上流にあたる岩戸川緑地公園があり、これを過ぎると、右(西)側は狛江市岩戸南旧多摩郡岩戸村、明治22年から狛江村大字岩戸)となります。左側はもうしばらく世田谷区喜多見です。喜多見中学校と高齢者施設「こまえ苑」を左右に見て、区市境の道をまっすぐ行くと、砧浄水場の北西部にぶつかり、古道は途切れます。

 
(浄水場にぶつかる直前に道は左右に分かれ、区市境は左の道だが、古道は右)

 砧浄水場(喜多見2‐9)は昭和3(1928)年に荒玉水道町村組合によって建設されました(その後、東京都水道局に移管)。この登戸道が何度も交差した荒玉水道道路は浄水場の北東にある正門前から始まっています。

 浄水場前を右へ曲がり、すぐ左折するとガソリンスタンドがあり、そこで右折する駒井大通りが登戸道の続きです。スタンドの北に水路跡が残っていますが、六郷用水の分水路・猪方(いのがた)用水の跡のようです。浄水場造成により敷地の北側に沿って流れるように流路が変えられ、宇奈根方面に流れていました。

 
(駒井大通りとその北側を流れていた水路跡)

 登戸方面からくると、今の浄水場内で左へ曲がるように喜多見方面の道が続き、それとは別にほぼ直進の道があり、この道は浄水場の北東角付近に抜けて宇奈根を通り、町田橋で野川を渡って大蔵・永安寺前で筏道と合流します(地図③)。先ほど慶元寺門前にあった地蔵と馬頭観音を彫った道標はこの分岐点にあったと思われます。「右り宇奈根大蔵ヨリ/右リハ池上六郷 左リハ世田谷青山/左六阿弥陀弐番慶元寺/道」とは登戸方面からは右が宇奈根、大蔵を通って池上、六郷へ行く道であり、左が慶元寺を通って世田谷、青山へ行く道という意味になります。

 浄水場の西側は道の右も左も再び世田谷区喜多見2丁目ですが、狛江駅からのバスも走る駒井大通りを行くと、まもなく狛江市駒井(旧多摩郡駒井村、のち北多摩郡狛江村大字駒井)に入ります。狛江市域も中世には世田谷領に属し、吉良氏の支配地域でした。

(狛江市に入る)

 やがて左手に明治35年創業の老舗「籠屋」秋元酒店があります(駒井町3‐34‐3)。昔は竹籠などの竹細工の製造・販売もしていたので「籠屋」の屋号があります。店の前に行灯があり、籠屋の文字のほかに「武州駒井」「青山道」と書かれています。店の前を通る登戸道が狛江では「青山へ通じる道」と認識されていたことが分かります。道の向かい側の駐車場には「酒」の文字に「聖徳太子書」とあります。

 

 さらに行って「狛江六小南」交差点の角に「北向き地蔵尊」があります(駒井町3‐13)。江戸時代に地元の人が西国三十三か所観音霊場を巡礼した記念に建立したものだといい、地蔵尊の前に立つ表面が風化した石柱の側面に「寛政五癸丑年」とあるので、1793年のものです。子どもの夜泣きに効き目があるとされ、参拝する人が多かったそうです。

(北向き地蔵)

地図⑤(昭和12年)

(南武線と小田急線の連絡線や多摩川の砂利採取の引き込み線が描かれている)

 駒井大通りはまもなく最後に少し下って「駒井西」交差点で猪駒通りにぶつかります。この高低差で駒井大通りが多摩川氾濫原の微高地(自然堤防)を通ってきたことが分かります。地図⑤をみても、多摩川左岸の低地には水田が広がっているのに、駒井周辺だけは畑となっています(対岸には果樹園が目立ちます)。
 さて、交差点を突っ切ると、すぐに多摩川の土手です。古くはここに渡し場があり、対岸の川崎市多摩区宿河原(昔の武蔵国橘樹郡宿河原村)とを結んでいたといいます。下の「江戸名所図会」には駒井と宿河原を結ぶ橋が描かれていますが、多摩川の渇水期(秋から翌春まで)は仮設の橋が架けられたようです。

 
(坂を下って駒井西交差点。その先は多摩川の土手)

 宿河原については戦国時代の「小田原衆所領役帳」に「駒井宿河原」として記録に残っており、かつては駒井村と一体であったとも言われます。多摩川はたびたび流路を変えており、狛江市側にもかつて宿河原の地名がありました(地図④参照)。


(「江戸名所図会」)

 登戸の渡船場へはここから2車線の猪駒通りを行きます。この道はかつての土手道です(上の絵にも土手上の道が描かれています)。
 このあたりは特に道の北側にかつて砂利を採取した跡が大きな池となって続いていたそうです。多摩川の砂利は非常に良質で、土木建築材料として江戸時代から利用が始まり、江戸が東京となり発展する過程で大量に採取され、流域各地に巨大な砂利穴が出現したのです(現在は砂利の採取は禁止されています)。狛江市内では昭和30年代後半から池の埋め立てが始まり、宅地化されました(『狛江の古い道』)。

(猪駒通り)

 道はまもなく狛江市猪方(いのがた、旧多摩郡猪ノ方村、のち北多摩郡狛江村大字猪ノ方)に入ります。道の左手には住宅の向こうに現在の多摩川堤防が見えています。このあたりは昔から何度も多摩川の洪水被害を経験してきましたが、新しいところでは昭和49年9月の大水害の現場がここです。台風16号の影響で8月31日から9月1日にかけて奥多摩に大量の雨が降り、多摩川の水位が上昇。濁流となった水が二ヶ領宿河原堰にせき止められ、弱体だった堰の左岸側取り付け部を破って迂回流が発生し、これが本堤防をも抉って260メートルにわたって決壊させ、氾濫水が住宅地を襲ったのです。この結果、民家19軒が流失。家屋が次々と濁流にのみ込まれていく映像は衝撃的で、テレビドラマ『岸辺のアルバム』の題材にもなりました。決壊現場には「多摩川決壊の碑」があります。

 
(決壊した多摩川=狛江市HPより。右は「多摩川決壊の碑」)

 やがて道は南北の道に突き当ります。ここに北から来る道も登戸道(北回り)で、この後探索します。ここを左折すると、いよいよ多摩川の土手上に出ます。その手前には橋の親柱が残っています。昭和3年のもので、ここを流れていた用水路を渡る河原橋の名残です。




 土手に出れば、多摩川を渡る小田急線の鉄橋が見えます。鉄橋の先は登戸駅で、開業時の駅名は稲田多摩川でした(昭和30年、登戸多摩川駅に改称し、昭和33年に現在の登戸駅となりました)。
 登戸は旧橘樹郡登戸村で、明治22年に登戸、宿河原、堰、中野島、菅の5村が合併して稲田村が成立すると、稲田村大字登戸となります。稲田村は昭和7年に町制施行し、昭和13年に川崎市に編入。昭和47年には川崎市が政令指定都市となり、登戸は川崎市多摩区登戸となっています。



 ここからは狛江市東和泉、昔の多摩郡和泉村(のちに北多摩郡狛江村大字和泉)です。清水川の水源である泉龍寺の湧水池が地名の由来のようです。
 土手道を左へ行き、鉄橋をくぐると、その先に土手から河原に下りる道があり、これが渡船場への道の名残だともいいます(下写真)。その先は渡船場ならぬ貸しボート屋です。
 昭和12年の地図④をみると、渡し船はごく短い川幅を渡していて、その先には橋が架かっているのが分かります。江戸時代の絵でも登戸の渡しには橋が描かれているものが多く、渇水期には仮設の橋で渡し、原則的に夏の前後の多雨期のみ渡し船を運航していたようです。



(「江戸名所図会」)

 現在、かつて渡し船があった場所のすぐ上手に現代の登戸道=津久井往還である世田谷通りの多摩水道橋が架かっています。昭和2年に小田急が開通し、渡し船の利用者は大きく減りましたが、道路は相変わらず渡船が頼りでしたから、登戸の渡しは存続していました。しかし、道路橋建設を求める声が強まり、ついに多摩水道橋が完成したのは昭和28(1953)年のことでした。それはつまり登戸の渡し終焉の時でもありました。


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