《世田谷の古道をゆく》

 滝坂北道(八幡山~下高井戸)

 古道「滝坂道」の支線にあたる「滝坂北道」を八幡山から下高井戸までたどります。

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 古道「滝坂道」(渋谷区・道玄坂~調布市・滝坂)の経路上にある世田谷区八幡山の八幡社前で分かれて北東方向へ行き、京王線下高井戸駅に近い世田谷区松原で甲州街道に接続するのが「滝坂北道」と呼ばれる古道です。北沢川(目黒川の支流)の上流域に位置する上北沢村(現在の世田谷区上北沢および桜上水)の中心部を通ることから「北沢道」などとも呼ばれたようです。恐らくは江戸時代に開かれた道で、上北沢村やそれより西の村々と甲州街道経由江戸方面を結ぶルートとして利用されたのでしょう。今風にいえば、滝坂道は渋谷・青山方面、滝坂北道は新宿・四谷方面ということになるでしょうか。滝坂道を全区間踏査したついでに、この北道もたどってみました。

 現在、滝坂道を西から来ると、八幡社前で本道は右へ折れる形になっていますが、もともとは神社西側の信号付近で分かれていたようです。この分岐(東から来れば合流)部分は区画整理によって消えています(地図①)。

地図①
(点線部分が消えた区間)


(分岐点跡。右のビルのほうへ滝坂道が伸びていた。左奥が八幡社))

 とにかく、旧武蔵国多摩郡世田谷領八幡山村の鎮守だった八幡社(創建年代不詳)に参拝し、裏手にある3基の庚申塔(左から1743年、1722年、1757年)も拝んでスタートしましょう。

 

 滝坂道を右に見送り、まっすぐ進むのが滝坂北道。烏山川と北沢川にはさまれた台地を横切るように続きます。

(画面奥へ行くのが滝坂北道。滝坂道はここで右折してすぐ左折)

地図②(昭和30年)


 まもなく交差点があり(地図②のA地点)、現在は3本の道路が交わっています。ほぼ垂直に交差する南北の広い通りは都市計画道路補助215号線。そして南東方向から北西方向へ斜めに交わるのが赤堤通り(地図②の緑線)です。昭和30年の地図②には215号線は描かれていませんが、その元になった道が交差点から南下して滝坂道に通じていたことが分かります。この道は明治初期の地図にも描かれているので、それなりに古い道なのでしょう。

(二本の道路と交差して直進)

(交差点から北望。左が赤堤通り=古府中道)


 この交差点を越えると八幡山から上北沢に入ります。昔の荏原郡上北沢村(明治22年に松原村、赤堤村と合併して松沢村大字上北沢。昭和7年に東京市世田谷区に編入)です。つまり赤堤通りが多摩郡と荏原郡の境界になっているのです。この場所に河川や尾根筋などの自然の境界線が存在するわけではないので、大化の改新の頃に多摩郡と荏原郡が置かれた当時からここに郡境となる道路があったと考えられ、従って、赤堤通りは大変古い道であろうと思われます。ここから北へ行き、現在の京王線八幡山駅や甲州街道を突っ切り、世田谷区(荏原郡)と杉並区(多摩郡、明治以降、東多摩郡→豊多摩郡)の境界を通って下本宿通り、人見街道に繋がり、府中へ通じる道だったと推定され、世田谷区では「古府中道」などと呼ばれたりもしています。

 さて、上北沢に入った滝坂北道はなおもまっすぐ進みます。右に上北沢自動車学校が見えてくると、左から水路跡の道がぶつかってきます(下写真・左)。そして、教習所の向かい側にわずかに水路跡と分かる部分が残っています(下写真・右)。水路はこの後、道の下をくぐって教習所側を流れていたようです(地図④参照)。そして、この場所には並山橋が架かっていました。

 

 この水路は北沢川(北沢用水)から分かれてきて、ここから滝坂北道に沿うように流れ、やがて南に向かい、密蔵院の南側を通り、今の世田谷区立緑丘中学校の向かい側にあった水車(地図③参照)に利用されていたため、地元ではこの水路を「水車堀」と呼んだりもするようです。水車堀は緑丘中の南隣の早苗保育園の南東角付近で北沢用水と再合流していました。今でも水路跡の大部分はたどることができます。

  
(左から水道道路との交点付近、密蔵院付近、緑丘中前の水車跡)

 また地図には描かれていませんが、自動車学校付近で分かれて南側に回り込んで、東へ流れる分水路(江下山堀)も存在し、今でもその水路(跡)は北沢川に再合流するまでずっとたどることができます。この地域はいわゆる暗渠マニアにはとても魅力的な地域といえるでしょう。

地図③(明治13年)


 地図③で水車堀が滝坂北道から南へ分かれていく地点で、水路に沿うようにカーブしていく点線で描かれた道があります。この道は今もあり、荒玉水道道路(昭和初期に建設)と交差して密蔵院の前に至ります。
 この区間(滝坂北道~水道道路)の水路は昭和30年の地図④(地図②を拡大)ではもう少し滝坂北道に沿って流れてから直角に曲がってまっすぐ水道道路の交差点に来ていたことが分かります。現在、残っている水路跡もこちらです(下写真)。

(滝坂北道から水道道路へまっすぐ続く水路跡)

 またこの密蔵院前のカーブした道は滝坂北道の北側にも続いていますが、この半円形の道路と北沢川に囲まれた地域が旧上北沢村の中心部といえ、滝坂北道はそこを貫通していたことが分かります。
 さらにまた府中道(赤堤通り)から水車堀に沿うように滝坂北道へ来る道も村から府中方面へ向かうそれなりに重要な道だったと思われます。

地図④(昭和30年)


 とにかく、上北沢村では重要な寺院、密蔵院に寄って行きましょう。なお、上北沢は昭和41年の住居表示実施に際して東側の地域が分離して桜上水1~5丁目となり、密蔵院の所在地も桜上水2丁目となっています。ちなみに「桜上水」の名称は甲州街道の北側(杉並区下高井戸)を流れる玉川上水が桜の名所だったことから、昭和12年にそばを通る京王線の駅の名(それ以前の駅名は北沢車庫前→京王車庫前)に採用され、それが駅の所在地である新町名となったものです

 さて、密蔵院です。正式には幽谿山密蔵院観音寺といい、小石川護国寺の末寺にあたる真義真言宗豊山派寺院です。
 戦国末期の天正の頃、今の栃木県にあたる下野国都賀郡水代の城主一族だった榎本重泰・氏重の親子が戦乱の中、城を退去して、流浪の果てに上北沢にたどり着き、当時世田谷城主吉良氏の家臣で当地の地頭だった鈴木重貞と親しくなり、天正8(1580)年、ここに居を定めます。
 その後、都賀郡の僧・頼慶が榎本親子のもとを訪ね、鈴木重貞とも親交をもちます。重貞は学徳ともに優れた法師に深く帰依し、当所に古くからあった観音堂に住まわせました。
 その後、慶長3(1598)年、重貞の養子・但馬定宗が観音堂を再建して頼慶法師を開山(初代住職)として創建したのが密蔵院であり、鈴木家・榎本家の菩提寺となっています。本尊は不動明王立像(制作年代不詳、1782年彩色)です。また観音堂には百体の観世音菩薩像と地蔵菩薩像1体が安置されています。

 
(密蔵院の本堂と観音堂)

 境内には寛文10(1670)年から正徳元(1711)年にかけて造立された六地蔵や享保3(1718)年に造られた六観音・勢至菩薩像があります。施主はいずれも「鈴木左内」となっています。昔の上北沢村の領主で、江戸時代には村の名主を世襲で務めた鈴木家の当主は代々、左内を名乗っていて、当時の左内は鈴木重貞から数えると6代目の鈴木正清だったようです(上北沢桜上水郷土史編さん会『わたしたちの郷土』、1977年)。

 
(六地蔵と六観音・勢至菩薩)

 また、密蔵院の門前には2基の庚申塔があります。元禄3(1690)年と年代不詳のもので、もともとの所在地は不明ですが、上北沢に残る庚申塔はこの2基だけです。

(左は年代不詳、右は1690年の庚申塔)

 ところで、江戸時代の密蔵院は枝垂桜が有名で、また今の緑丘中学校の向かいには「凝香園」という牡丹園があり、当時の江戸の行楽ガイドというべき『江戸名所花暦』(岡山鳥著、長谷川雪丹画、1837年)でも紹介されています。また牡丹園の西隣の水車屋にも見事な藤棚があるなど、当時の上北沢には花の名所がいくつも存在し、江戸市中からも文人墨客を含む多くの花見客が多く訪れたということです。江戸からは甲州街道~滝坂北道というルートが利用されたものと思われます。
 江戸の侍で、江戸城下の自宅から近郊各地に徒歩で出かけては数多くの旅日記を遺した村尾正靖(号は嘉陵、1760‐1841)も上北沢の凝香園を訪れています(『江戸近郊道しるべ』)。嘉陵は甲州街道から滝坂北道を通って上北沢を訪れ、その後は再び甲州道に出て西へ行き、滝坂の上で分かれる深大寺道に入って深大寺に詣でて、その日のうちに帰宅したようです。すでに若くはない嘉陵の健脚ぶりに驚かされます。
 また小日向(現・文京区)廓然寺の住職だった十方庵敬順(1762‐1832)が隠居後に各地を旅した詳細な記録をまとめた『遊歴雑記』にも上北沢の旅の記録があり、花見客で賑わう当時の様子を克明に描いています。江戸市中から渋谷道玄坂に出て、滝坂道を歩き、下北沢の森巌寺を経て、上北沢に至った十方庵は牡丹園を訪れ、第一の花壇から第七の花壇までおよそ385種の牡丹が咲き、その見事さは予想以上のものだったと賞賛しています。また、道沿いには葭簀で囲われた出茶屋が並び、蕎麦切りや粟餅、茶漬、団子、菜飯、田楽などを出して、どこも賑わっており、南側の高台には身分の高い人が憩う料理屋もあったそうです。ただ、鈴木左内家の内庭に秘蔵されている絶品の牡丹を見るためには料理屋でもない邸内で高い金を払って料理を注文しなければならず、十方庵はそこまでして花を見るのは風流ではないと諦め、「牡丹の手入ハいかにも賞すべく、主が風流なくして金銀を貪るハ憎むべし」と批判的に書いています。十方庵は時季はずれだった密蔵院の桜に心を残しつつ、来た道を引き返し、往復八里(約32キロ)の日帰り徒歩旅行を終えています。

 なお昭和22年に緑丘中学校が建設された場所が鈴木左内の屋敷跡で、往時の名残として校庭の真ん中にケヤキの大木2本がそびえ、また校章には牡丹が象ってあります。

 (緑丘中の大ケヤキと校章)

 さて、滝坂北道に戻って先へ進みましょう。
 水道道路までまっすぐ伸びる水車堀跡を右に見て、少し行くと、右手に草地があり、奥にぽつんと地蔵尊が立っています。台石を含めると高さが2メートルを超えるお地蔵様で、地元では「北向き地蔵」と呼ばれています。「貴泉妙保信女」という鈴木一族の女性の菩提のために宝暦9(1759)年に彼女の姉妹や村の女性たちによって造立されたものです。

 (北向き地蔵)

 北向き地蔵を過ぎると、まもなく交番のある交差点に出ます。3本の道が交わる上にもう1本、密蔵院の裏参道らしき道があり、七叉路になっています。このうち、1本は一直線の荒玉水道道路で、昭和初期にできた道です。北のほうを望むと北沢川の低地に下って、その先でまた台地に上っているのがわかります。


(桜上水交番前交差点。地図④とは交番の位置が違う))

 また、交差点から北西方向へ延びる道は今は京王線上北沢駅に通じていますが、もとは上北沢駅の北で甲州街道から北へ入る「旧鎌倉街道」(その先の神田川に鎌倉橋あり)と呼ばれる道に通じる道筋と考えられます。
 さて、滝坂北道はそのまま直進ですが、その前に近くにある上北沢八幡神社、通称・勝利八幡神社にも立ち寄りましょう。

 
(勝利八幡神社と旧社殿)

 旧上北沢村の鎮守である上北沢八幡神社(桜上水3‐21‐6)は社伝によれば平安時代の万寿3(1026)年に京都・岩清水八幡宮より祭神・応神天皇の御分身を勧請して創建されたといい、そうだとすれば世田谷区内最古の八幡様ということになります。ただし、詳しいことは不明です。古くからあった小さな祠を江戸時代になって村の有力者である鈴木家や榎本家が中心となって再興し、社殿を造営したようで、敷石に「寛文九己酉年」(1669)の文字が刻まれていたということです(『わたしたちの郷土』)。
 現在の社殿は昭和43年に再建されたもので、先代は天明8(1788)年の建築であることが判明しています。この旧社殿は築山の上にあり、15段の石段が設けられていました。築山は崩されてしまいましたが、旧社殿は現存する世田谷区内最古の神社建築として区の有形文化財に指定され、覆殿に収められ保存されています(上写真・右)。
 ところで、この神社の通称、勝利八幡は日露戦争に出征した氏子が無事生還できたことに由来するということです。
 また、ここには明治40年に山谷稲荷神社が合祀されていますが、もとは村の北部、甲州街道に近い現在の上北沢4丁目にあったものです。

 では、再び交番前の交差点に戻って、滝坂北道を行きましょう。交差点を過ぎると下り坂となり、その先は北沢川の低地で、八幡神社から下ってくる道との合流点で川跡の緑道と交差します(地図④)。ここに八幡下橋が架かっていました。

 
(交番脇から坂を下りきると、北沢川跡の緑道と交差=八幡下橋跡))

 北沢川は目黒川の支流で、世田谷の北部を流れる川、あるいは目黒川本流に北から流入する川ということで、北沢(川)と名づけられたと考えられます。その上流域が上北沢で、烏山川との合流点に近い下流域が下北沢ということになります。
 本来の主な水源は上北沢2丁目の今は都立松沢病院(大正8年に巣鴨から移転)の構内にある湧水でした。地図④にある将軍池は精神科の専門病院だった松沢病院において患者の作業療法の一環として大正10年から15年にかけて造られた池です。地面を掘り下げて地下水を湧出させ、掘った土で池の真ん中に築山(加藤山)を造成しました。山は当初、富士山の形でしたが、関東大震災で崩れ、なだらかな姿になってしまったということです。
 「将軍池」の名は作業に参加した患者で自称「将軍」の芦原金次郎氏(ユニークな言動で全国的な有名人だったそうです)にちなんだもので、「加藤山」は作業を指導した医長・加藤普佐次郎氏に由来します。

(将軍池と加藤山)

 このように将軍池は比較的新しい池ですが、この一帯はもともと湧水のある湿地帯だったようで、広大な敷地を持つ松沢病院の中でも現在に至るまで病棟などが建設されることなく放置されているのは、軟弱地盤のせいなのかな、と考えてみたりもします。将軍池の水は今も暗渠化された北沢川に流れ込んでいます。
 なお、北沢川はもとは水量も多くはなかったようですが、江戸初期に玉川上水からの導水路が開削されて、北沢用水と呼ばれるようになり、水量も増え、村内に水車堀や江下山堀など幾筋もの分水路が開かれたました。

 ところで、地図④をみると、ここまでほぼ一直線に伸びてきた滝坂北道はこの先、極端に折れ曲がっています。これは言うまでもなく、北沢川を直角に渡り、川沿いに広がる低湿地を極力避けて通るためです。昭和30年代までは川沿いに水田が広がっていました(地図④)。この低湿地帯は現在、日本大学の陸上グラウンドになっています。

地図⑤(明治42年)


 地図⑤をみると、いま渡った川と並行するように北側にもう1本の水路が描かれています(仮に北堀と呼びます)。そして、北堀は滝坂北道にぶつかると南に折れて八幡下橋のところで南側の水路(仮に南堀と呼びます)に合流しています。この北堀も暗渠化され緑道になっていて、滝坂北道に沿う区間では水路跡が日大グラウンド側に歩道となって残っています。明治42年とは道と北堀の位置関係が逆になっています(下写真)。

 
(道路の右側の日大グラウンド沿いの歩道が仮称「北堀」跡)

 そして、北堀が滝坂北道にぶつかる地点に月見橋が架かっていました。広々とした田園風景の彼方に昇る月を眺めるのによい場所だったことは間違いありません。

 
(仮称「北堀」跡の緑道と保存された月見橋の橋名標)

(日本大学の陸上グラウンド。昔は田んぼだった)

 この月見橋跡を過ぎると日大グラウンド沿いの暗渠歩道もなくなります。しかし、昭和30年の地図④をみると、北堀は明治42年の地図とも現在の水路跡とも違って月見橋から北へ折れて今の日大グラウンドの北側を滝坂北道と並んで流れていたことがわかります。北沢川流域の水田が住宅地やグラウンドに変わっていく過程で水路の改修も行われ、流路の変更もなされたということでしょう。

 
(月見橋跡を過ぎると暗渠歩道も消え、突き当りの桜上水ガーデンズ前で右折)

 とにかく滝坂北道は北沢川の低湿地を突っ切り、対岸の台地にぶつかると、そこで右に折れて、台地の裾を行きます。
 この台地には近年まで桜上水団地がありましたが、建て替えで「桜上水ガーデンズ」に生まれ変わっています。団地ができる前は三井牧場でした(地図④)。
 この台地は村の中心からみて対岸なので向山という地名があり、一面の茶畑だったそうですが、大正3年に三井財閥が5万平方メートルを購入し、翌年さらに5万平方メートルを追加。東京近郊に暮らす三井一族に牛乳を供給するための自家用牧場を開設したのです。英国から輸入した10頭のジャージー種が飼育され、丘の上のサイロのあるオランダ風牧舎も含めて、藁ぶき農家の点在する純農村の中にここだけヨーロッパ的な風景が広がっていました。牛はその後、乳量の多いホルスタインに切り替えられ、一般への販売も行われたといいますが、昭和37年に牧場は閉鎖され、跡地を買収した住宅公団により団地が建設されました。

(左は元牧場、右は元田んぼ)

 とにかく、高級マンション群と日大グラウンドを左右に見ながら行きます。左にはのんびりと牛が草をはむ牧場、右には広々とした水田とその向こうの八幡神社の森。そんな風景を思い浮かべながら行くと、日大文理学部のキャンパスに突き当り、ここで左折します。ここからは桜並木の道(通称・日大通り)となりますが、左側に暗渠の歩道が続いています。


(日大通りと暗渠。小川はもとは日大の敷地を斜めに横切って流れていた))

 この水路は京王線桜上水駅付近から流れてくる小川の跡(地図②参照)で、滝坂北道は下橋という橋で渡っていました。この水路はここで先ほどの北沢川北堀と合流して南へ流れていき、さらに本流(仮称・南堀)と合流していました(地図④)。

(この水路跡は桜上水駅まで遡れる)

 道路左側の日大の敷地と都立松原高校の敷地を間を流れていた水路跡(上写真)を左に見送って、日大通りを行き、日大キャンパスと松原高校を過ぎると、その先は世田谷区赤堤となります。昔の荏原郡赤堤村(明治22年から松沢村)です。
 赤堤という地名は赤土の防塁が築かれていたことに由来すると言われますが、それがいつの時代のものなのかは不明です。ただ、北沢川とその支流の谷と台地が入り組んだ地形で、縄文時代から人が住み着き、村内の西福寺には平安後期の薬師如来像が安置されているなど、歴史の古い村です。滝坂北道は村の中心部からは離れた北部を通っていて、周囲には畑や雑木林が広がっていたようです。

 道は賑やかな商店街となって、ゆるやかに上っていき、やがて京王線下高井戸駅に着きます。京王線が開業したのは大正2年のことです。また大正14年には東京世田谷線の前身、玉川電気鉄道の下高井戸線が開業しています。

(下高井戸駅の踏切)

 踏切を越えると世田谷区松原です。松原は旧荏原郡松原村で、世田谷城主吉良氏の家臣であった松原氏が世田谷城の北側の赤堤村内に松原宿を開き、そこから発展して、元禄年間に松原村として独立したといいます。
 ところで、この付近では滝坂北道の1ブロック北側を並行して世田谷区と杉並区の境界線が通っています(地図②参照)。昔でいえば荏原郡の赤堤村、松原村と多摩郡の下高井戸村の境界ということになり、村境というだけでなく郡境でもあったわけです。そして、ここから西へ京王線と甲州街道の間の境界線上を行く上北沢方面の道(一部消えていますが)は江戸初期に甲州街道が開かれる以前からの古道ではないかと考えてみたくなります。ここは玉川上水も流れている尾根筋にあたり、江戸方面から来て、上北沢と下高井戸~上高井戸の間を通って、(赤堤通り=古府中道と同様に)下本宿通り、人見街道に通じて府中へ向かう道筋が考えられます。

 とにかく、踏切の先も古い駅前市場を左に見ながら、まっすぐ商店街を行き、松原3丁目41番地と40番地の間の角を北へ曲がると、すぐに甲州街道にぶつかります。ここに道標でもあればいいのですが、何もありません。

(突き当りが甲州街道)

(調査時期:2017年8月)

 参考文献
  上北沢桜上水郷土史編さん会『わたしたちの郷土』(1977年)
  世田谷区郷土資料館『世田谷地誌集』(1985年)
  世田谷区『ふるさと世田谷を語る 上北沢・桜上水・赤堤・松原』(1996年)
  世田谷区教育委員会『世田谷の庚申塔(世田谷区石造遺物調査報告書II)』(1984年)
  世田谷区教育委員会『地蔵および諸尊』(世田谷区石造遺物調査報告書III)』(1985年)
  世田谷古地図(昭和30年)など
 
  

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