《東京の水辺》

江戸城のお濠めぐり~内濠編その弐


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(地図の下方が北です)


     大手門

 江戸時代には繋がっていたという桔梗濠和田倉濠の接続部を埋め立てて、その上を通る内堀通りを桔梗濠に沿って北へ行くと、すぐに大手門が見えてきます(その門前の一帯が大手町です)。
 大手門は言うまでもなく江戸城本丸への正門です。当然、厳重な警備が行なわれ、大名など特別に許された者以外はここで乗物を下り、徒歩で登城しなければなりませんでした。
 現在は旧江戸城本丸・二の丸・三の丸跡が皇居東御苑として一般開放されているので、誰でも大手門を通ることができます。



 桔梗濠と大手濠を隔てる土手を渡ると、まず高麗門をくぐり、中に入ると右手に渡櫓門(写真)があります。ただし、これは戦災で焼失し、昭和42年に復元されたものです。また、枡形内に旧渡櫓にあった鯱(しゃちほこ)が1基保存展示されています。


     大手濠

 大手門によって桔梗濠と隔てられ、内堀通りに沿って北へ続く水面が大手濠です。濠はやがて西へ折れ曲がり、平川門へと続きます。



 ちょうど濠が曲がる部分の濠端(大手濠緑地)には1940年に建立された和気清麻呂(わけのきよまろ)の像が立っています。和気清麻呂は奈良時代から平安京遷都の時期に朝廷に仕えた人物で、女帝・称徳天皇(聖武天皇の娘)の寵愛を受けた僧・道鏡が自ら皇位に就こうとした野望を阻止した忠臣として知られています。
 また、同緑地には「震災イチョウ」と呼ばれるイチョウの老樹があります。関東大震災でこの一帯が焼け野原になった時、奇跡的に生き延びたことから、この名前があります。もとは別の場所にありましたが、区画整理で伐採されることになったのを惜しんで、この地に移植されたということです。
 また、大手濠の向かい側にはカルガモの子育てで有名な三井物産の池があります。カルガモ親子は池から内堀通りを横断して大手濠へと引越しをするわけです。

(和気清麻呂像と三井物産の池)


     白鳥濠

 大手門をくぐり、受付で入園票を受け取って東御苑に入ると、すぐ右手に三の丸尚蔵館(皇室の宝物等を展示)や休憩所(売店)があり、大手三之門跡の石垣の右脇には同心番所、門を入ってすぐ左手には百人番所の建物があります。ここで道は二手に分かれます。左へ行くと中之門跡、大番所中雀門(玄関前門)跡を経て本丸跡へ通じています。
 しかし、ここでは百人番所前から右へ行きましょう。ここが江戸城二の丸跡で、将軍の世継ぎが住んだ場所です。小堀遠州作の庭園を復元した回遊式庭園や武蔵野の自然を再現した雑木林があります。
 そして、二の丸と本丸を隔てる濠が白鳥濠です。ここだけほかの濠とは離れて孤立しています。また、皇居のお濠といえば白鳥が有名ですが、名前に反して、ここにはいません。



 写真の石垣の上が本丸跡。手前の斜面は汐見坂と呼ばれ、江戸城が築かれた当時、お城の前面が海だったことを偲ばせます。





     江戸城本丸跡

 汐見坂を登ると、今は広大な芝生が広がっていますが、ここが江戸城本丸跡です。江戸城の天守閣は1657年に明暦の大火で焼失、以後再建されることはありませんでした。現在は天守台として石垣だけが本丸跡の北隅に残っています。

(天守台)

 また、「松の廊下」や「大奥」などの跡を示す石碑や説明板がありますが、それ以上のものは残っておらず、ただ敷地の広さから本丸の広壮さを想像するだけです。また、敷地南端からは天守閣の代わりに利用されたという三層の富士見櫓を鉄柵越しに見ることができます。

(富士見櫓)


     蓮池濠と乾濠

 本丸とその西側に広がる西の丸(現在の皇居)を隔てる濠が蓮池濠(写真左)と乾濠(写真右)です。
 名前の通りハスの花が咲く蓮池濠は皇居の一般参観にでも参加しない限りちゃんと見ることはできませんが、本丸跡西端の最高所付近からフェンス越しにわずかに覗きみることができます。
 下の写真は2014年の紅葉の季節に皇居・乾通り(坂下門~乾門)が一般開放された時に撮影した蓮池です。12月なので、蓮はご覧の通り冬枯れ状態でした。

  2014年の皇居・乾通り一般開放

(蓮池濠。画面左の石垣上が本丸)

 その蓮池濠から西桔橋門(皇居に通じているため見ることはできません)を隔てて北へ続く濠が乾(いぬい)濠です。名前の通り本丸の戌亥=北西の方角を囲む濠です。この濠は本丸北側にかかる北桔橋門(きたはねはしもん。ここからも東御苑に入退場できます)から見ることができます。ちなみに、西と北の2つの桔橋門前にかかる橋はいずれも名前の通り、かつては可動式になっていて、いざという時には橋がはね上がる仕掛けになっていました。現在は金具だけが残っています。

 
(乾通り一般開放時に撮影した乾濠)

 なお、乾濠と蓮池濠は千鳥ヶ淵から続く自然の谷戸地形を利用し、水をせき止めて濠にしたもので、昔の谷は蛤濠を経て海(日比谷の入江)に通じていました。現在の乾濠と千鳥ヶ淵は300メートルぐらい離れており、その間には国立近代美術館工芸館や代官町通り、皇居の乾門などがありますが、ここは谷を埋め立てて造成された土地ということです。この事実はちょうどこの部分の地下を通る首都高速・北の丸トンネル工事の際に判明したということです。

(竹橋付近から見た北桔橋門。手前の水面は平川濠)

 下の写真はやはり乾通りを散策した時に撮影した道灌濠です。皇居内にあり、ふだん見ることのできない、大都会の秘境ともいえる壕です。

(道灌濠)



     平川濠と天神濠

 乾濠から北桔橋門を隔てて東へ続く濠が平川濠です。平川濠は本丸の北辺を守る濠で、その東端にある門が平川門。ここも現在は東御苑の入退場門として利用されています。
 平川門には正門の脇に小さな門があります。これは「不浄門」とされ、死者や罪人を運び出す時に使われたということです。
 また、平川門の桝形から平川濠を斜めに横切る形で、細い堤がかつての竹橋門(現存せず。石碑のみ)に続いています。これは城の防御のためのもので、帯曲輪(おびぐるわ)といいます。このあたりは内濠と外濠の距離が最も接近しているため防御施設も厳重に造られていたのでしょう。


 北桔橋門から見た平川濠
 左側は国立近代美術館などがある北の丸
 対岸の石垣が折れ曲がっている部分に竹橋門がありました。










 その竹橋門跡から見た平川濠
 向こうに平川門に通じる平川橋が見えます。
 右側は帯曲輪で、その向こうにも水面があります。
 左手のビルは毎日新聞社です。










 平川門内から見た平川濠
 写真右側の木立が帯曲輪












 さて、平川門内で平川濠と接し、本丸の北東辺と二の丸の北側を守る濠が天神濠です。この濠は一部だけしか見ることができません。また、天神濠の北側の敷地(旧三の丸)には厩舎があります(馬は見えませんが)
(天神濠)

 平川門を通って東御苑から出ると平川橋。右手は大手門から江戸城の北東辺を囲む大手濠です。

(平川橋)


     竹橋と代官町通り

 平川橋から平川濠に沿って内堀通りを西へ行くと、すぐに内堀通りは北へ折れますが、濠を渡ってまっすぐ伸びる道があります。代官町通りといい、濠にかかる橋が竹橋です。江戸時代には橋を渡ったところに竹橋門がありましたが、現存せず、門の跡を示す石碑があるだけです(下写真の対岸)。現在の竹橋は大正15年に完成した洋風の橋です。



 代官町通りは左に平川濠、北桔橋門を見ながら紀伊国坂と呼ばれる坂を上っていきます。右側はかつての江戸城北の丸で、現在は北の丸公園となり、園内には国立近代美術館、工芸館、科学技術館、日本武道館などがあります。
 代官町通りは皇居の乾門の前を通り、北の丸公園と皇居吹上御苑の間を抜け、千鳥ヶ淵半蔵濠の間を通って再び内堀通りにぶつかります。


     清水濠と清水門

 
皇居一周のジョギングや散歩、サイクリングでは代官町通りを通って半蔵門方面へ向かうのがポピュラーなルートですが、ここでは竹橋を渡らずに内堀通りを北へ行きましょう。
 
竹橋から北へ続く水面が清水濠です。この濠は江戸城北の丸の東側を守っています。大手濠から平川濠、清水濠は橋で隔てられているだけなので、実際には一体の濠です。
 竹橋のすぐ北側には首都高速・都心環状線の竹橋ジャンクションがあり、高架橋が濠を渡って北の丸トンネルへと通じています。
 また、清水濠のすぐ東側には外濠(現在の日本橋川)があり、その距離は一番近いところで50メートル程度しか離れていません。その外濠に雉子橋がかかっています。現在の雉子橋は専大通りを渡し、南北方向ですが、当時は東西方向にかかっていたようです。そして、雉子橋を渡ると雉子橋門があったわけですが、その桝形の西側は清水濠に接していました。門の位置は内堀通りと専大通りの分岐点あたりだったようです。

(清水濠から見た竹橋)

(清水濠と清水門)

  内堀通りをさらに北へ行くと、濠は徐々に北西寄りに向きを変え、やがて清水門が見えてきます。
 清水門は往時の面影を色濃く残す門です。清水濠と牛ヶ淵を隔てる築堤を渡り、小さな石橋を越えると、高麗門(右写真・左)があり、枡形の中に入ると、門内は舗装もされず、なだらかな石段になっていて、正面は高い石垣、左は清水濠、そして右に立派な渡櫓門(右写真・右)があります。この渡櫓をくぐって、180度方向転換するように、さらに間延びした石段を登っていくと北の丸公園内に通じているわけです。現代では公園通路などもバリアフリーになっているのが普通ですが、ここはバリアフリーの思想を徹底的に無視しています。城門というのは本来軍事施設なので仕方がありません。
 なお、北の丸には8代将軍・徳川吉宗の子孫である御三卿(田安家・清水家・一ツ橋家)のうち田安・清水両家の屋敷が置かれました(一ツ橋家は大手濠と外濠にはさまれた、現在の気象庁付近一帯に広大な屋敷がありました)。


     牛ヶ淵

 北の丸の北東側を囲む濠が牛ヶ淵です。清水門前で左右を比較すると分かりますが、牛ヶ淵は清水濠よりも水位が2~3メートル高くなっています。
 清水門から先は内堀通りと濠の間に千代田公会堂、千代田区役所(2007年5月に斜向かいに移転)、九段会館、昭和館などが立ち並び、通りからはお濠を見ることはできません。九段下で左折して九段坂を上っていくと、桜並木越しに再び水面が見えてきます。
 牛ヶ淵はほかの濠と違って、水生植物が繁茂し、ハスが群落を作っていたりもします。
 九段坂を上ると北の丸公園・日本武道館への出入口としておなじみの田安門です(ここも桝形門ですが、清水門と違って通路はちゃんと舗装、バリアフリー化され、車両も通れます)。
 田安門の向こうは千鳥ヶ淵ですが、牛ヶ淵より10メートル以上も水位が高く、千鳥ヶ淵から牛ヶ淵に滝のように水が落ちています。

(九段坂から見た牛ヶ淵)

 
(春の牛ヶ淵)


(田安門前で千鳥ヶ淵から牛ヶ淵に水が落ちる)


     千鳥ヶ淵

 田安門を過ぎると桜の名所として有名な千鳥ヶ淵北の丸の西半分を囲む濠です。自然の谷戸地形を利用した濠で複雑な形状をしています。江戸城の内濠の中で半蔵濠とともに最も水面標高が高く、日比谷濠など最も標高の低い濠との水位差は15メートルほどあるそうです。現在は牛ヶ淵に水を落としていますが、本来の水系は乾濠~蓮池濠へと繋がっていました。千鳥ヶ淵の北部は恐らく人工的に掘削して田安門をはさんで牛ヶ淵に接する形にしたのでしょう。

 田安門前から靖国神社へ渡る歩道橋の脇に常燈明台があり、さらに品川弥二郎大山巌の銅像が並んでいます。その先で内堀通りから分かれて濠沿いの遊歩道が整備され、桜並木になっています。お濠沿いにはインド大使館や千鳥ヶ淵戦没者墓苑などがあります。お濠の対岸は北の丸公園で、公園側から見る千鳥ヶ淵もまたいいものです。
 やがて、ボート乗り場が見えてきます。千鳥ヶ淵は内濠でボート遊びができる唯一の濠でもあります。

  

 そして、そのボート場の向こうに見えてくるのが首都高速・都心環状線。先ほど清水濠で竹橋ジャンクションの高架下をくぐりましたが、首都高速は竹橋から北の丸トンネルを抜け、千鳥ヶ淵の水上に姿を現わすのです。そして、高架橋で濠の最も幅の広い部分を渡りきると、再びトンネルに入り、半蔵門方面へ向かいます。
 原地形としての千鳥ヶ淵の谷はもともと乾濠方面へと続いていましたが、谷の埋め立てが行なわれ、千鳥ヶ淵と乾濠はまるで無関係であるかのように300メートルも離れて位置しています。北の丸トンネルはその埋め立て造成部分を貫通しているわけです。
 さて、遊歩道が再び内堀通りに合流し、千鳥ヶ淵が尽きたところで、竹橋からの代官町通りと再会します。代官町通りの築堤の向こうは半蔵濠ですが、江戸時代にはこの築堤はなく、千鳥ヶ淵と半蔵濠は完全に繋がった1つの濠だったようです。






     半蔵濠

 江戸城のお濠めぐりもいよいよ最後、半蔵濠です。千鳥ヶ淵とは代官町通りで隔てられ、まっすぐ南へ伸びる濠です。この濠沿いも公園になっていて、やはり桜の木がたくさん植えられています。そして、内堀通りをはさんだ反対側は英国大使館です。お濠の対岸は皇居吹上御苑(旧江戸城西の丸)です。


(代官町通りから見た半蔵濠と彼岸花群落。向こうに国会議事堂)

 濠が尽きたところが半蔵門。伊賀忍者・服部半蔵が徳川家康に召し抱えられ、この付近に屋敷を与えられたことから半蔵門と呼ばれたそうです。ここも当時は桝形門でしたが、渡櫓は残っておらず、高麗門だけです。しかし、門の中は皇居なので、警備は厳重で、もちろん一般人が通ることはできないばかりか、近づくこともできません。

(半蔵門)

 さて、これで皇居一周が終わりました。半蔵門の向こう側は再び桜田濠の絶景です!


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