《東京の水辺》

江戸城のお濠めぐり

 東京都心には皇居(昔の江戸城)を取り巻く内濠や外濠が多く残存し、美しい水と緑の風景を今に伝えています。東京は水の都、といっても過言ではないほどです。そんなお濠をめぐってみると、今まで知らなかった東京の姿が見えてくる気がします。ここでは江戸の名残であるお濠の風景を紹介します。では、まず外濠から廻りましょう。

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江戸城の外濠

 江戸城が戦国時代の1457年、太田道灌によって築かれたことはよく知られています。その後、城主は上杉氏、北条氏と替わり、1590年に徳川家康が入府し、1603年に江戸幕府が開かれました。
 この頃までは江戸城の前面に海(日比谷の入江)が広がっていたということです。幕府は江戸城の防衛と城下の治安維持のため諸大名に命じて濠の整備を進めます。江戸城を取り巻くのが内濠、城下町をぐるりと囲むのが外濠です。外濠は部分的には自然の地形~海や川や谷も活用し、江戸湾(東京湾)や隅田川もその役割を果たしていました。
 なお、外濠跡は神田付近を例外として、ほぼ千代田区と周辺区との境界になっています。

     神田川(仙台堀)

 まずは神田川の下流部。飯田橋付近から河口までが外濠の役割を担っていました。 

 
(隅田川・両国橋から見た神田川河口と神田川最下流部))

 現在の神田川は井の頭池を水源に都内を東へ流れ、御茶の水を通って隅田川に注いでいます。そして、後楽園近くの小石川橋の下手で南に日本橋川を分岐しています。幕府が開かれる以前は今の日本橋川が神田川の流路で、竹橋付近で江戸湾の日比谷入江に注いでいたということです。当時は名前も平川と呼ばれ、それは現在も皇居内濠の平川濠や平川橋、平川門に名残をとどめています。その後、この平川は日比谷入江埋め立てのため現在の日本橋川の流路に付け替えられました。
 今の神田川は御茶の水駅付近で深い谷を流れていますが、当時は両岸の台地は地続きで、神田山と呼ばれていました。これを崩して、その土砂によって江戸城前面の海や低湿地が埋め立てられ、さらに深く開削して平川の水をまっすぐ隅田川に流す放水路がつくられたのです。これが現在の神田川下流部で、当時は工事が仙台藩の伊達家によって行なわれたので仙台堀と呼ばれました。今でも地下鉄丸の内線の線路が水上に露出してしまうほどの深い堀です。人工とはいえ、その渓谷美は「茗渓」と呼ばれ、江戸の新名所になったということです。


(御茶ノ水駅のすぐ下を流れる仙台堀=神田川。昔は両岸の台地がつながっていた)

 また、この仙台堀が開通すると、小石川橋の分岐点以南の平川の一部区間が治水対策で埋め立てられてしまいました(明治33年に再び掘削され、現在の日本橋川となっています)。



(小石川橋から見た神田川と日本橋川の分岐点)

 この仙台堀が江戸城外堀の一部となり、下流から浅草橋筋違橋(昌平橋~万世橋間。現存せず)、小石川橋見附(城門)がありました。見附は通行人の監視と敵の侵入を防ぐ防御のための施設で、二重の門の間に石垣に囲まれた枡形という方形の空き地があり、最初の門が破られても枡形に侵入した敵を討ち取れるようになっていました。江戸には外濠、内濠沿いにたくさんの見附があり、今も赤坂見附、四谷見附などの名前が残っています。
 ついでに、旧交通博物館付近から御茶ノ水駅手前までと水道橋~飯田橋間のJR中央線の線路は外堀の内側に築かれた土塁の上を通っています。


     飯田濠

 四ツ谷・市ヶ谷方面から続く外濠が飯田橋駅付近(牛込橋~飯田橋間)では1980年代初頭に埋め立てられ、その上にビルが建っています。お濠は暗渠化され、飯田橋のところで北から流れてきた神田川に合流しています。
 神楽坂下交差点の角に飯田濠の石垣の一部が保存され、また、暗渠の上には水辺公園ががあります。
 右の写真は牛込橋の下手で暗渠の水路に流れ込む外濠の水です。



     牛込濠

 JR中央線の飯田橋~市ヶ谷~四ツ谷付近のお濠の風景は東京に住んでいる方にはお馴染みでしょう。これは元来は神田川(平川)の支流の谷に堰を築いて水を溜めたもので、四谷方面へ行くほど水位が高くなっています。
 飯田橋駅の南西側に牛込橋がかかり、その南詰に牛込見附跡の石垣が残っています。この道は江戸城の田安門に続いています。この牛込橋から次の新見附橋の間の水面が牛込濠です。ここにはボート乗り場と水上カフェがあります。

(新見附橋から見た牛込濠)

 ちなみに中央線の線路も飯田橋~四谷間は外濠の土塁の内側を通っています。また土塁上は市ヶ谷までずっと外濠公園として遊歩道があり、桜の名所にもなっています。


(お濠沿いを行く貨物列車も過去の光景となりました。)


     新見附濠

 新見附橋市ヶ谷橋の間の濠です。新見附橋は江戸時代にはなかったので、当時は牛込濠と一体でした。
 市ヶ谷橋側が釣り堀になっていて、水面も一段高くなっています。このあたりは濠が造られる以前は小川が流れる低湿地で、絶滅してしまったトキもいたそうです。今でも電車の車窓からカワウ、カイツブリ、ダイサギ、アオサギ、カルガモなどの姿が見られますし、冬には多くの渡り鳥が飛来します。

(土塁上の外濠公園から見下ろす新見附濠と線路)

(市ヶ谷駅下の釣り堀とお濠)


     市ヶ谷濠

 かつて市ヶ谷見附があった市ヶ谷橋(靖国通り)の上流側が市ヶ谷濠です。橋を挟んで見比べると、新見附濠よりかなり水面が高いのが分かります。
 濠の水面はだんだん細くなり、やがて埋め立てられて、野球場やテニスコートがある千代田区立外濠公園となります。濠の外側は外堀通りで、この付近の上り坂はかつての東京国際(女子)マラソンの勝負どころとして有名でした。
 以前はここにもボート場がありましたが、現在は営業していません。


(市ヶ谷駅とお濠。ホームと水面の標高差が上の新見附濠と違うのが分かります。)


(市ヶ谷濠の末端。ここから上流部=写真手前は埋め立てられ、公園になっています。)


     四谷濠(真田濠)

 四ッ谷駅を跨ぐ四谷見附橋から喰違見附までの間が四谷濠(真田濠)ですが、この区間は完全に埋め立てられ、上智大学のグラウンドになっています。ただ、外堀の形だけは残っているので、かつての風景を想像することはできます。



 ちなみにJR四ッ谷駅は埋め立てられた濠の底に位置し、ここからトンネルで濠の外(信濃町方面)へ抜けていきます。また、地下鉄丸の内線も御茶ノ水駅付近に続いてここでまた地上に露出しています。
 四谷見附は江戸城の半蔵門に通じる甲州街道(現在の新宿通り)を通す城門で、四ッ谷駅の麹町口には見附跡の石垣が残っています。
 ここから再び濠の内縁の土手上は遊歩道となり、次の喰違見附まで続きます。左手は上智大学。この敷地は江戸時代には尾張徳川家の屋敷でした。また、濠の対岸の高台は紀伊徳川家の上屋敷跡で今は迎賓館や赤坂御用地になっています。
 土手の遊歩道の終点が喰違見附跡。江戸城の城門の中でも最高地点に位置する門です。ここは枡形門ではなく、道がクランク状になっていたため喰違門と呼ばれたわけです。現在はS字カーブになっています。ここで濠は喰違橋の土手によって仕切られ、この先には再び水面が現われます。


     弁慶濠

 喰違見附跡から見えてくる濠が弁慶濠です。ここから水系が変わり、外縁を行く外堀通りも赤坂見附へ向って下っていきます。これが紀伊国(きのくに)坂です。また、喰違見附の地下からは首都高速新宿線が現われ、高架橋が濠の上に半ば覆いかぶさるようにせり上がっていきます。

(喰違見附から見た弁慶濠と赤坂方面のビル街)

(弁慶濠。左の樹林がホテルニューオータニの敷地)

 赤坂見附の交差点から弁慶濠の内側へは弁慶橋がかかり、その下にボート乗り場があります。濠の対岸はホテルニューオータニと赤坂プリンスホテル。それぞれ昔の井伊家、紀伊徳川家の中屋敷跡です。
 ちなみに弁慶橋は江戸時代には存在せず、明治22(1889)年に架けられた橋です。その昔、神田付近を流れていた藍染川に弁慶橋が架かっていて、これが廃橋になった後、その廃材を用いて弁慶濠に橋が架けられ、名前も継承したということです。その後は東京の名所として知られるようになりました。
 なお、弁慶橋の親柱には昔の筋違橋、日本橋、一ツ橋、神田橋、浅草橋の擬宝珠がかぶせてあったそうですが、昭和60(1985)年に弁慶橋が改築されてからは用いられていないということです。

 
(弁慶橋)

 弁慶濠の水は高速道路の向こうへと通じていて、今も排水路らしきものが残っています(下写真)。




(赤坂見附交差点から平河町方面へ青山通りの坂を上ると赤坂見附の石垣があります)


     溜池

 赤坂見附から先、しばらく外濠は埋め立てられ、水面は姿を消しますが、外堀通りのルートが外濠跡で、地下を地下鉄・銀座線が走っています。
 その外堀通りを行くと、六本木通りと交わる溜池交差点に出ます。昔、この一帯に広々とした水面を広げていたのが溜池です。川をせき止めた貯水池で、外濠としての役割のほか、江戸南部への上水として利用されていました。2代将軍・徳川秀忠の時代には鯉や鮒が放され、蓮が植えられて、上野の不忍池と並ぶ名所となり、徳川家光が遊泳したという話も伝わっているそうです。
 明治8年から埋め立てが始まり、明治44年には完全に水面は姿を消してしまいました。
 虎ノ門の三井ビル前に当時の石垣の一部が残り、史跡に指定されています(写真)。



     外濠跡をたどる

 赤坂見附の次の城門は虎ノ門です。ここからは外堀通りの一本北側の道が濠の跡のようです。千代田区と港区の境界が濠の内縁なのでしょう。
 現在の西新橋で愛宕通りと交差するあたりに新シ橋という橋が架かっていたそうです。さらに外濠はまっすぐ東へ続いていて、第一ホテルを過ぎ、JRの高架(新橋駅北方)にぶつかるあたりに幸橋門があったということです。

 ここで外濠は2筋に分かれます。1本は線路の下をくぐり、さらに東へ向かい、新橋を経て南へ曲がり、浜離宮(江戸時代は将軍家別邸として浜御殿と呼ばれました)で海に注ぐ水路。これが本来の川筋です。この濠の跡には高速道路が通っています。そして、浜離宮には浜大手門の石垣が今も残っています。

 もう1本は幸橋門から北へ向かいます。こちらはJR線路と並行する高速道路が外濠跡とほぼ一致しているようです。高速道路沿いの銀座コリドー通りを行った突き当たり付近が山下橋門跡です。
 ここから西へ伸びる濠もあって、帝国ホテルと東京宝塚ビル・日生劇場の間を抜け、日比谷交差点(当時の日比谷見附)に通じていました。日比谷公園内の心字池が当時の濠の名残で石垣も残っています。
 さて、山下橋門からさらに外濠跡を北へたどると、有楽町駅前の数寄屋橋門、さらに東京駅八重洲口南側の鍛冶橋交差点付近に鍛冶橋門、東京駅の北方には呉服橋門がありました。
 呉服橋の交差点を過ぎると、弁慶濠以来の水面が現われます。


     日本橋川

 外堀通りと永代通りが交わる呉服橋交差点を過ぎると、一石橋を渡ります。下を流れているのが日本橋川。北西から流れてきて、ここで東へ向きを変えています。そして、300メートルほど下流に架かるのが日本橋です。この日本橋川は、よく知られているように河口部を除いてほぼ全区間、高速道路の高架が川の真上に覆いかぶさり、大変惨めな状況になっています。

(日本橋)

 日本橋川はすでに書いたように昔、日比谷入り江に注いでいた神田川(平川)の流路を変えて開削した水路ですが、ここから上流は外濠としての役割も担っていました。そして、一石橋付近では、あたかも水上の交差点のような形になっていました。日本橋川に南からいま辿ってきた外濠が合流するほか、西方の江戸城の和田倉門前からも水路が通じていたのです。

 和田倉門から通じる水路は道三濠と呼ばれ、徳川家康が江戸に入府してまず開削させた濠です。この水路を使って、江戸城を築くのに必要な物資が江戸湾から運ばれ、それ以降も江戸城と海を結ぶ舟運ルートとして利用されました。その道三濠も明治時代に埋め立てられ、今はまったく残っていません。

 右に日本橋川を見送り、左に今はなき道三濠の幻影を見て、さらに外濠(日本橋川)を上流へ向かうと、すぐに常盤橋です。ここが常盤橋門跡で、枡形の石垣が残り、傍らに明治の実業家・渋沢栄一の像が立っています。また、門につながる明治期に築造された石造アーチ橋(常磐橋)も架かっています。

 
(常盤橋門跡と現在の常盤橋から見た旧常磐橋)

 常盤橋門跡をあとにして、新常盤橋(江戸通り)を過ぎ、JRのガード(東京~神田間)をくぐると、竜閑橋の交差点があります。この手前から北東方向に昔は竜閑川という運河が隅田川へと通じていました。千代田区(神田)と中央区(日本橋)の境界線が大体その川筋と思われます。川は昭和23年までに埋め立てられましたが、竜閑橋や今川橋などの交差点名に名残が見られます(外堀通りに架かるJRのガードの名前も竜閑橋架道橋です)。

 外濠(日本橋川)に架かる次の橋は鎌倉橋です。この橋は江戸時代にはありませんでしたが、この付近は鎌倉河岸と呼ばれ、江戸築城に際して鎌倉の材木商らが荷揚げに利用した場所だといいます。
 次の橋が神田橋で、ここには神田橋門がありました。
 神田橋の上流には錦橋がありますが、この橋も江戸時代には存在せず、その代わり、この付近には錦町河岸があって、荷揚げ場として利用されていました。つまり、外濠は防衛施設というだけでなく、水運の上でも重要だったということです。

 錦橋の上流には一ツ橋雉子(きじ)橋…と橋が続きます。それぞれに城門(見附)があり、一ツ橋門の跡の石垣がわずかに残っていて、また濠の護岸にも石垣が残っています(下写真・右)。
 この付近は外濠と江戸城内濠が近接していて、一ツ橋門を入るとすぐ江戸城の平川門があり、雉子橋門からは竹橋門がすぐでした。そのため警備も厳重だったようです。なお、一ツ橋付近には徳川御三卿の一つ、一ツ橋家の屋敷があり、また、雉子橋(下写真・左)の名称は中国や朝鮮からの使節をもてなすためのキジがこのあたりで飼育されていたことにちなむそうです。

 
(雉子橋と付近に残る石垣=右写真の右側)


 江戸城外濠に設けられた城門は雉子橋門が最後です。日本橋川はさらに続きますが、九段下の俎(まないた)橋の上流部で埋め立てられ、神田川と分断されていました。暴れ川だった神田川の水が外濠に流れ込んで江戸城下に洪水を引き起こすのを防ぐためです。現在の堀留橋付近から神田川との分流点までが埋め立て区間だと思われます。この600メートルほどの区間は明治時代に再び掘削されて、神田川の水が外濠にも流れるようになり、外濠は日本橋川となったわけです。

 これで江戸城を取り巻く外濠めぐりはおしまいです。次はいよいよ江戸城の内濠めぐりに参りましょう。 


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