知床半島で自然観察 朝・昼・晩   1998年8月11日

 知床半島のオホーツク海側・斜里町宇登呂の北にある温泉付きキャンプ場「しれとこ自然村」に滞在して、朝から晩まで知床の自然を満喫しました。走行距離36.7キロ。

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 昨日からオホーツク海を見下ろす高台にある「しれとこ自然村」の宿泊施設に泊まっている。
 夜が明けると、まだ雲が低いとはいえ、天気は回復の兆しが見えていた。今日は一日かけて宇登呂周辺の自然を探索する予定なので、まずはひと安心。
 今夜は雨の心配もなさそうなので、外にテントを張ることにしたが、とりあえず荷物は館内に置かせてもらい、まずは朝一番の知床観光船に乗るべく7時半に自転車で出発。宇登呂の観光船乗り場へ向かう。
 「しれとこ自然村」から海岸道路までの下り坂は急勾配の砂利道でちょっと怖いが、海岸に出てしまえば、今日は重い荷物も積んでいないから、自転車が軽く、スイスイ走れる。

     知床観光船

 知床観光船には先端の知床岬まで行くコース(1日1便、3時間45分、6,000円)と途中の硫黄山沖で引き返すコース(1日5便、1時間30分、2,700円)があって、これから乗るのは8時15分発の硫黄山コースである。

   

「うねりがあるから、かなり揺れますけど、いいですか?」
 切符売り場で、僕の前に並んでいた女性客に係員が確認していた。僕には何も言わずに切符を売ってくれたけれど。
 港には観光バスやマイカーが続々と到着して、大変な人の数である。観光船「おーろら」はそれほど大きくないので、全員乗れるのか不安になるほどだ。
 乗船の際に係員が乗客にカメラを向けていたのは、たぶん下船までに写真が出来上がっていて、高い値段で売りつけようという観光地にありがちなサービスだろう。
 とても全員は乗り切れないのではないかと案じられた大勢の客をすべて乗せて、「おーろら」は定刻通りに出航した。

(幌別沿岸を行く。丘の上に「しれとこ自然村」見える)


 防波堤の間を通り抜けて外海に出ると、さすがにうねりがあって、船が揺れる。甲板に出てみると、海面が間近で、船は波を蹴立て、飛沫を上げて進んでいる。

 

 その船のあとをけたたましい声とともにカモメたちが追いかけてくるのは、乗客が投げる餌が目当てである。船内の売店でカモメの好物として「かっぱえびせん」を売っていて、これが飛ぶような売れ行き。僕もつい買ってしまった。

 

 カモメたちは、投げてやったえびせんを空中でうまくキャッチするばかりでなく、手でつまんで差し出すと、勢いよく飛んできて、サッとくわえていったりする。うまくえびせんだけキャッチしてくれればいいが、鋭い嘴で思い切り指先をつついていくヘタクソもいる。相手はアヒルみたいに大きなオオセグロカモメだから、あちこちで「痛いっ!」という声が上がるが、それでも、みんな懲りずにまたえびせんをカモメに向かって差し出している。実に熱心である。僕も熱中している。

 

 しかし、忘れてはならないのは素晴らしい海岸風景である。
 宇登呂から知床岬へ続く海岸には高さ200メートルにも達する急峻な断崖絶壁が屹立し、至るところで滝が流れ落ちている。断崖の上半分は霧に包まれ、それがなおさら秘境めいた雰囲気を醸している。陸上からはほとんど近づけないため、船で海に出てはじめて目にすることができる風景でもある。
 イルカやクジラ、そして海岸へのヒグマの出没も期待していたのだが、残念ながら会うことはできなかった。



 というわけで、知床連山は雲をかぶって見えないまま、硫黄山の沖あたりで引き返して、宇登呂港には9時45分頃に帰着。
 下船すると、予想通り、ボードに先ほど写されたスナップが乗船記念写真となってたくさん貼り出されていた。一応、自分の姿が写っているのは確かめたが、買わなかった。そのまま廃棄処分になるのだろう。

(船上から見た知床横断道路。プユニ岬へと続く急勾配)

(プユニ岬から宇登呂方面を眺める。港を出て行く観光船も見える)

     フレぺの滝遊歩道

 さて、次は知床自然センターを再訪する。宇登呂市街からおよそ5キロ。昨日、知床峠から下ってきた道を逆に上っていくわけだ。船から眺めると、宇登呂の北のプユニ岬を巻いてグングン高度を上げつつ山中へ消える道路は相当な急勾配に見えたが、実際に走ってみると、それほどでもなかった。もっとも、自転車が軽いせいもあるが、とにかく、途中でチャリダー1名を追い抜いて、10時20分には到着。このあたりで標高は150メートルほどである。
 昨日は暴風雨の知床峠から下ってきて、ズブ濡れの悲惨な姿だったが、今日は洗濯したてのTシャツにジーンズという服装。この恰好ならどこへでも堂々と入っていける。

 まずは知床自然センターの裏手から始まるフレペの滝遊歩道を歩く。
 双眼鏡を片手に広葉樹の原生林を下っていくと、草原が広がり、歩道から10メートルほどの場所にエゾシカが2頭いた。僕のほかにも数人が足を止めている。シカも多少は警戒しているようだが、食欲には勝てないのか、熱心に草を食んでいる。明るい茶色の背中に白い斑点があり、1頭は短い袋角が生えているから若いオスだろう。よく見ると、林の中にも母子ジカがいて、樹皮を食べている。

 

 

 4頭のシカがゆっくりと原生林の奥へ姿を消すのを見届けてから、僕もまた歩き出す。
 柏の林に沿って草原の果てまで行くと大地は海に向かってストンと落ちている。そこに簡素な展望台があり、地中から湧き出た水がおよそ100メートル下の海岸まで落下するフレペの滝を見ることができる。「乙女の涙」とも呼ばれる滝。水量が少なくて、迫力はあまりない。ちなみにフレペとはアイヌ語で赤い水の意味で、滝の水は鉄分を含んでいるそうだが、べつに赤く見えるわけではない。
 次々と観光客が訪れるけれど、滝よりもむしろ、切り立った断崖に営巣するオオセグロカモメやウミウなど海鳥の賑やかな乱舞や大空を飛び交うアマツバメに目が向いてしまうのは、みんな同じのようだ。岩場にはイソヒヨドリの幼鳥らしき姿も見られた。

(柏の木)

 自然の聖域・知床半島を歩いているんだ、というゼイタクな気分に浸りながら散策路を一巡し、途中で遠い木立の間を今度は立派な角をもった雄ジカがゆっくり移動していくのを発見し、通りかかった親子連れに教えてあげたりして、自然センターに戻った。

(知床連山は雲の中)

     知床五湖へ

 12時に出発。次の目的地は知床五湖。知床を代表する観光地で、自然センター前で知床横断道路から分かれる舗装道路を北へ9キロほどの道のりである。
 このあたりはシカやキツネはもちろん、いつヒグマが出没してもおかしくない地域なので、注意を怠らずに森の中を走っていくと、視界が開けて海が見えてきた。
 先刻船から見た通り、知床半島の海岸は人を寄せつけない険しい断崖絶壁が連なっているが、ここには珍しくささやかな平地があり、清流が海に注いでいる。人家やサケ・マスの孵化場らしき施設もある。そこが岩尾別。道路はヘアピンカーブの連続で海岸レベルまで下って、岩尾別川を渡り、岩尾別ユースホステル前を過ぎて、岩尾別温泉へ至る道を右に見送ると、再び上りの急勾配が始まる。

  
(坂を下ると岩尾別)

 初めての道なので、この坂がいつまで続くのかも分からないまま、ノロノロとペダルを漕いでいくと、原生林の中に草地が目立ってきた。すでに住む人のいない廃屋もある。こんな場所に人手が入っていることを不思議に思ったのだが、かつて入植者によって開拓された土地らしく、ここが全国に知られたナショナルトラスト「知床100平方メートル運動」の対象地だそうである。あまりに過酷な自然条件に開拓を断念した入植者が去った後、土地投機ブームの中で乱開発の危機にさらされたため、寄付金(1口8,000円が土地100㎡の購入資金になる)を募って土地を買い取り、植林によって自然を回復しようと始められた運動である。
 自然センターでもらったパンフレットによれば、昭和52年から運動が始まり、20年後の平成9年3月に4万9千人もの人々の協力によって募金目標は達成されたそうだが、今度新たに森林と自然生態系の再生事業推進のための募金が1口5千円で始まったらしい。100年、あるいは200年という長い時間をかけて原生の自然を復活させようという長期プロジェクトであるが、僕も微力ながら協力しようかと思う(この旅行後に本当に微力ながら、募金させてもらいました)。

 過去に開拓民が切り開いた草原でまた数頭のエゾシカの群れを目にして、やがて分岐点に出る。左へ行けばすぐ知床五湖。右はおよそ11キロの未舗装の林道で、温泉の流れる滝として有名なカムイワッカの滝に通じている。そちらへも行ってみたいが、今日はやめておく。

     知床五湖ネイチャーウォッチング

 知床五湖の駐車場には12時半に着いた。さすがに有名観光地だからクルマや観光バスがずらりと並び、ライダーもたくさんいる。レストハウスも大賑わいで、ここが秘境だなどと言っても説得力は全然ない。とにかく人が多いわけだが、自転車で来ているのはあまりいないようだ。

 ここでの目当ては13時半からの「知床五湖ネイチャーウォッチング」に参加すること。知床五湖はその名の通り原生林の中に点在する五つの湖の総称で、それらの湖をめぐる遊歩道を知床自然センターのレンジャーの案内で散策するというガイドツアーがあるという情報を自然センターで知り、やってきたわけである。今晩も同じく自然センター主催の「夜の動物ウォッチング」に参加することになっているから、今日は「やけに自然への関心が高い人」みたいになっているが、これも「野生の聖域」という知床半島のイメージの魔力のせいだろう。

 レストハウスでオムライスを食べて腹ごしらえをしたりして時間をつぶすうちに集合場所にちらほらと人が集まってきた。一応の定員は20名ということで、最終的にはそれなりの人数になった。家族連れが多いようだ。
 資料代として200円(しれとこ管理財団の活動資金になるらしい)を払い、知床五湖のガイドマップを受け取り、参加者全員に貸し出される双眼鏡を(自前のも持っているけれど)一応、借りておいて、2人の女性ボランティアレンジャーの案内で曇り空の下を歩き出す。

 知床五湖の各湖には個別の名前がなく、便宜的に1湖、2湖…という風に呼ばれているが、散策ルートの案内板にはこんな掲示が出ていた。

「ヒグマ出没のため、本日、3湖・4湖・5湖方面の立入りはできません」

 ヒグマたちと空気を共有しているのだという緊張感で身が引き締まる。毎日パトロールをして、実際にクマがいたり、出没した形跡があれば、探勝路への人間の立ち入りを禁止するそうだ。レンジャーは万が一に備えてクマ撃退用スプレーを携行している。クマも人間を恐れているから、これだけ大勢で歩けば、向こうから出てくることはないだろうが、すぐ近くに身を潜めている可能性がないとは言えない。ヒグマが活発に動き回るのは早朝と夕方なので、知床五湖一帯は夕方から翌朝まで駐車場も含めて完全に閉鎖されるとのこと。ここでの主はヒグマたちであって、人間が無闇に立ち入るべき場所ではないのである。

 (1湖)

 とにかく、老若男女が一列になって笹の生い茂る中をゾロゾロ行くと、1湖が見えてきた。このあたりまでは開拓の跡が残り、湖の対岸は森を切り開いた草原になっているし、澄んだ水の中に群れている魚影はかつて開拓民が放したフナだそうである。今は姿は見えないけれど、錦鯉も1匹いるらしい。
 そんな湖に沿って歩いていくと、霧の流れる対岸の草原にまたまたエゾシカ出現。少なくとも大きな角を持ったオスが2頭、メスが3頭はいるようで、親子連れなどが双眼鏡を覗き込んで歓声をあげている。シカはもう飽きるほど見たので、クマが出てこないかな、と思ってしまう。もちろん、近くに出てこられると困るけど…。

 1湖の岸辺を離れた道は鬱蒼とした針広混交林の奥へと我々を導いていく。途中には日本最大のキツツキ、クマゲラの食痕もあった。クマゲラの開けた穴は縦長になるのが特徴である。頭頂部が赤いほかは全身が真っ黒で、カラスほどの大きさがあるというクマゲラにはぜひ会ってみたいが、今のところは縁がないようだ。

 ジーッと一本調子で鳴くエゾゼミ(正確にはコエゾゼミというらしい)の声が聞こえる林の中には湿地もあって、ミズバショウが巨大な葉を広げている。これはシカやクマの好物でもあるそうで、実際に食痕も残っていた。この場所でヒグマが食事をしていたかもしれない。そう考えると、いろんな意味で背筋がゾクゾクする。

 レンジャーさんの話を聞きながら、ぬかるみの多い道を行くと、今度は2湖のほとりに出た。1湖よりはだいぶ大きな湖で、湖岸を取り巻く原生林が鏡のような水面にくっきりと映っている。湖にはカイツブリがいたほか、ネムロコウホネの黄色い花も咲いていた。コウホネはスイレン科の植物で、漢字だと河骨と書く。これは水中の白い根が白骨のように見えるところからついた名だという。

 (2湖)

 ところで、知床五湖には流れ込む川も、流れ出す川もない。水源は湖底からの湧水である。この一帯の地面は溶岩で覆われており、その下には地下水脈が存在している。これが最終的には海岸部の断崖の途中で地表に出て、滝となって海に落ちているのだが、その水脈の一部が熔岩の隙間から地上に湧いて知床五湖を形成しているのである。
 そういう地質だから、樹木も深く根を張ることができず、なかには岩の上で芽を出し、根が岩を抱えるように成長したトドマツも見られるし、風で倒れた木も多い。ひとりで歩いていては見落としてしまうようなことにまで、目を向けられるのがガイドツアーの有り難いところでもある。トドマツの葉を手で揉んで、匂いを嗅ぐと、いい香りがする、なんてことも初めて知った。

(「ヒグマ出没のため、本日、3湖、4湖、5湖方面の立入りはできません」)

 2湖から先は道に派手なピンクのテープが張られて、立ち入ることができず、そこで引き返す。
 途中で聞こえた野鳥の声はヒガラやキビタキだと教えられたが、姿を確認することはできなかった。キビタキは図鑑でしか見たことがないけれど、黄色と黒と白の美しい小鳥で、一度は実際に会ってみたい鳥である。

 15時に駐車場で解散し、帰途もまたあちこちでシカを見ながら、自然村には15時45分に着いた。
 まずはキャンプ場にテントを張り、それから自転車のブレーキを再調整する。昨日も羅臼で調整したはずなのに、まだ少しばかり効きが甘い。原因は明白で、ブレーキシューのゴムが磨耗してしまっているのだ。一応、予備のシューも持っているが、まだ交換しなくてもなんとかなりそうなので、シューの取り付け位置や角度を調整し直す。工具袋を広げて、こういう作業に励むのもそれなりに楽しいものだ。いかにも自転車で旅しているって感じがする。敷地内で試運転を繰り返して、ブレーキの効き具合が納得のいく状態になったら、あとは温泉に直行。これしかない。
 露天風呂にのんびりつかっていたら、いつのまにか青空が広がってきて、オホーツクもキラキラと輝き始めた。今度こそ本当に天気が回復して、明日は朝から青空、となってほしいものである。 

     夜の動物ウォッチング

 知床自然センター主催の「夜の動物ウォッチング」は宇登呂のバスターミナルに18時半集合。
 町なかの電光温度計の表示は「18.3℃」で、本州人の感覚からすれば、夏の気温としては低すぎるのだが、こういう数字にはもうすっかり慣れて、むしろ意外に高いな、とすら思う。それでも夜の山に出かけるので、Tシャツの上に長袖のシャツも着てきた。下はジーパンだし、これなら寒くはないだろう。

 食料品店でおにぎりなど買って、オホーツクに沈む夕陽を眺めながら食べ、集合時間に行くと、すでに結構な人数が集まっていた。バスターミナルの建物の陰に自転車を止め、自然センターのスタッフに参加費1,500円を払い、貸切バスに乗り込む。
 車内に、昨日から泊まっている「しれとこ自然村」で親しくなった福島の大学生Yくんの顔があった。坊主頭で目がクリクリとして人懐っこい青年である。昨夜、僕がこのツアーの話をしたら、彼も興味を持ったらしく、一緒に参加することになったのだ。彼はバイクで旅しているのだが、エゾシカはまだ見ていないという。道東まで来てシカに会わない、なんてことが可能なのかと不思議に思うのだが、そうなのである。

 さて、バスは結局41名の参加者を乗せて出発した。
 案内役は自然センターの男性スタッフと、ほかにボランティアレンジャーが男女1名ずつ。また、お客に混じって、立派なカメラを持った女性がいるのは北海道新聞の記者とのこと。
 また全員に倍率8倍の双眼鏡が配られる。昼間は僕も借りたが、今度は借りない。自分の10倍の双眼鏡を取り出すと、Yくんが、
「さすがですねぇ」
 と感心したように言う。すっかり自然観察に熱心な人と思われているようだ。
 それはともかく、バスはどこへ向かうのかと思えば、知床五湖の入口手前まで行くとのこと。その先は道路が夜間閉鎖となるので、そこで折り返してバスをゆっくり走らせながら暗闇を強力なライトで照らして動物を探すという。
 運がよければ、シカやキツネのほかにヒグマ、エゾモモンガなどが出る可能性もあると聞かされ、「ヒグマに出てきてほしいね」なんてYくんと言い合う。実際、参加者の中には、けさ知床五湖からカムイワッカ方面の林道に少し入った地点でヒグマを見たという人もいたから、期待してしまう。

 そうこうするうち、バスはアップダウンと急カーブを繰り返して知床五湖の入口に着いた。すでに駐車場も閉鎖され、昼間の賑わいは失せ、完全な暗闇と静寂があたりを支配している。この闇に包まれた大地のそこかしこでヒグマたちが活発に動き回っているはず。いまや我々にとって安全地帯といえるのはバスの車内だけなのだ。
 そこでバスは方向転換。さっそく“照明係”に任命された人たちが左右の窓から強力ライトの光線を闇の中に走らす。
「あ、いた、いた!」
 すぐにあちこちから声が上がった。
 左側の草原の奥でスポットライトの中にエゾシカの姿が浮かび上がる。
「あぁ、あそこにいますねぇ。角があるからオスですねぇ」
 案内役のスタッフもマイクを握ったまま、目を凝らしている。
 シカは真っ暗闇の中でも黙々と草を食べていた。開拓地の跡には今も牧草が生えていて、しかも天敵はいないわけだから、シカにとってはまさに別天地。それで、この一帯はエゾシカだらけになってしまったのだ。



 一度車外へ出て、数頭のシカの様子を観察した後、バスはゆっくりと走り出す。
 シカは次々と見つかった。ちょっと走ると、「あ、またいた!」という声が上がって、停車。あまりにたくさんいるので、ちっとも進まない。
 闇の中でも思っていた以上に活発にシカたちが活動していることは十分に理解できたが、それにしても少し飽きてきた。ここらでヒグマにでもご登場願いたいところである(草原の中にクマみたいな形の黒い岩がいくつかあった)。リスでもモモンガでもタヌキでもキツネでもいい。シカ以外の動物に会いたい。

「それでは、ちょっとこの辺で外へ出てみましょうか」
 シカばかりで食傷気味になったところで、知床の夜の雰囲気を肌で感じてみようという趣向である。
 まず、スタッフがひとり先に草原へ入っていき、ライトを照らして、近くにクマがいないことを確認した上で、全員がバスを降りた。
 原生林に囲まれた草原の真ん中に立ったところで、スタッフの持つライトもバスの車内灯も消され、エンジンも切られた。恐ろしいほどの静寂が訪れる。同時にこのドキドキするほど張り詰めた空気を無数の生き物たちと共有しているのだ、という感動がじわじわと湧き上がってくる。
 ただ、完全に真っ暗闇かと思っていたら、実はそうでもないことも分かってきた。夜空はいつしかすっかり晴れて、満天の星が光り、星明かりの中に周囲の木々や遠い山の稜線のシルエットが浮かび上がっているのだ。
 そこでライトをつけると、その場は明るくなるけれど、周囲は却って何も見えなくなる。ライトを消せば、また星の明かりであたりの闇がぼーっと透きとおる。
 この世の闇をすべて光で照らそうというのが現代文明の基本的な方向であるけれど、そうした文明化によって我々が見失ったものもたくさんあるのだ、ということを改めて教えられた気がする。
 そんなことを思いつつ、星空を見上げていたら、青い星がひとつスーッと短い軌跡を描いて流れて消えた。

 宇登呂のバスセンターに戻ったのは20時40分。結局、今夜の成果は20頭ばかりのシカと、自然センター付近の道路際をうろついていた子ギツネ1匹だけだったが、流れ星も見えたことだし、まぁ、良しとしよう。
 元来、僕は夜汽車とか真夜中の散歩とかのもつ、日常が非日常へ反転したような不思議な感覚が好きなので、こういうツアーに参加できただけでも満足なのである。

 キャンプ場への帰り道。同行のYくんはバイクなのに僕の自転車のスピードに合わせてノロノロ運転。ずっとこんな調子ではイライラするだろうから、「先に帰ってていいよ」と言ったのだが、結局最後まで付き合ってくれた。バイク乗りにとっては、時速20キロ、しかも人力の自転車なんて、のろまなカメみたいなものだろう。
「ずっとこんなスピードで走ってるなんて考えただけでも気が遠くなるでしょ?」
 そう聞くと、彼は何と答えていいか分からない、というような微妙な笑みを浮かべた。
 今日の走行距離は36.7キロ。通算では705.2キロになった。



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