北海道じてんしゃ紀行*1997年夏

  斜里岳の見える大地(峰浜~浜小清水) 1997年8月13日


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     峰浜

 知床半島の付け根に位置する斜里町峰浜のキャンプ場。寝袋を紛失して2度目の夜もなんとか無事に明けた。
 朝日が燦々と照りつけるなんていうことはもう期待していないけれど、やっぱり今日もまた白々と涼しい朝である。未明の雨は上がったものの、相変わらず雲が低い。
 オホーツク海はのっぺりとした鉛色。海面がわずかに盛り上がって濃緑色の壁が現れては白く崩れて砂浜に打ち寄せる。過去の旅ではオホーツク海といえば、いつも流氷が漂っていたり、あるいは完全に氷に覆い尽くされていたりだったので、氷のないオホーツク海を見るのは今回が初めてだ。
 すっぽりと雲をかぶった知床半島から網走、能取岬方面まで見渡せる浜辺を散歩していると、朝早くから釣竿を何本も波打ち際に立てているおじさんがいる。帯広から昨夜仕事を終えた後、クルマで来たといい、狙っているのはマスだそうだ。サケがやってくるのは9月になってからとのことだが、毎年この時季になるとサケやマスのことで気もそぞろになって、この海岸へ通ってくるそうである。大きなマスが釣れるところを見たかったけれど、それぞれの竿先から海に向かってピンと張られた糸に今のところアタリはないようだった。

 


     斜里岳

 テントが雨に濡れたのと、砂を除去するのに手間取ったせいで、撤収に時間がかかり、7時半過ぎに出発。まずは10キロほど先の斜里をめざす。
 国道334号線が海岸部を離れると、周囲にはジャガイモやトウモロコシや小麦やビート(砂糖大根)の畑が一面に広がる。ジャガイモはちょうど花盛りだし、トウモロコシは金色の穂が出揃っている。刈り入れの進む麦畑は薄茶色で、緑の中に美しいコントラストを描き、整然と並ぶカラマツの防風林もいかにも北海道らしい。
 そして、何よりも素晴らしいのは標高1,543メートルの斜里岳。知床連山から少し離れて、凛とした風格を漂わせている最果ての名峰で、かつて春先の浜小清水から朝に夕に飽きずに眺めた懐かしい山でもある。隣り合う海別岳の女性的なやわらかな稜線とは対照的に斜里岳は荒々しい岩峰に深い谷がいくつも刻まれ、春の陽射しを浴びた雪の峰の輝きよりも谷筋の青い影の模様が印象的だった。

(かつて早春の浜小清水から眺めた斜里岳)

 その斜里岳も今日は曇り空に山頂を隠し、中腹にも白い雲が棚引いて、その全容を拝むことはできない。それでも、のびやかな農村風景が雄大に感じられるのは斜里岳が長々と青い裾を広げているからである。

(雲に包まれた夏の斜里岳)

 しばらく自転車を停めて斜里岳の夏姿を眺めていると、まるで故郷へ帰ってきたような幸せな気分になる。あちこちに旅をしてきた中で「第二の故郷」のように愛着を抱いている土地はいくつかあるが、この斜里岳の見える土地もそのひとつなのである。

     斜里

 さて、幸福感に浸りながら、朱円(しゅえん)、以久科(いくしな)と広大な農地の中をほぼ一直線に走り抜け、おととい標津で別れて以来の国道244号線に出合うと斜里の市街である。宇登呂以来の本格的な町だが、海と山に挟まれた宇登呂と違って土地に余裕があるから、おおらかで、空が広い。

 ここでの当面の関心事は自転車屋があるかどうか。ひどく磨り減り、擦り切れた後輪のタイヤ、いつまでも放置はできないので、ここでなんとかしたい。まぁ、自転車屋はあるだろうけれど、問題は僕の自転車に合うサイズのタイヤがあるかどうか、である。
 商店街に古びた自転車屋が見つかったが、まだ開いていないので、とりあえずJR釧網本線の斜里駅へ行ってみる。知床観光の玄関口であり、釧路方面から来た列車はここで初めてオホーツクの海岸に出るのである。
 何度となく通った駅だが、降りたのは1回だけ。その時は2駅先の浜小清水から列車で来て、20キロほどの道のりを歩いて帰ったのだった。3月末のことで、海にはまだ一面の流氷が張りつめていた。うららかな春の陽射し、ひんやりした微風、光り輝く斜里岳や海別岳、雪解けの進む農場や牧場、小鳥のさえずり、流氷の上で死んでいたアザラシ、凍りついた涛沸湖の彼方に沈む夕陽…。すべてが思い出深く、これまでの旅の日々の中でもとりわけ懐かしい一日である。

     知床博物館

 駅の近くのセイコーマートで買った海苔巻などで簡単な朝食を済ませ、それから街はずれにある斜里町立知床博物館を9時の開館と同時に訪れる。
 いわゆる郷土資料館で、知床の自然とそこで暮らしてきた人々の歴史と民俗を紹介する膨大な資料、野生生物の剥製標本、映像展示などかなりの充実ぶり。
 また、隣接する交流記念館では斜里町と姉妹町・友好都市の関係にある沖縄県竹富町、青森県弘前市に関する展示があり、毎年7月に斜里で「知床ねぷた」が行なわれることも初めて知った。斜里と弘前の結びつきは、1807年に斜里警備を任ぜられた多数の津軽藩士が厳しい寒さの中で殉難した事件に由来するそうで、博物館の敷地内にはその慰霊碑もある。
 さらに野外観察園には鳥類保護舎やエゾシカ放飼場もあって、ここでは翼を複雑骨折したり失明したりしたワシや交通事故で後ろ肢が不自由になったエゾシカなどが健気に生きていた。

     ちょっと網走まで

 さて、自転車屋が閉まったままなので、ちょっと網走まで列車で行ってこようと思う。斜里より網走の方がずっと大きな街なので、僕の自転車に合うタイヤを入手できる可能性が高いのではないか。それに新しい寝袋も買えるかもしれない。
 そう考えていたら、斜里駅近くのスポーツ用品店の店先にバーゲン品の寝袋が積んであった。真っ赤なやつで、2,980円。いかにも安っぽくて、しかもデカイ。重量は1.2キロで、これまで使っていたものより5割ほど重い。これでもないよりマシだが、とりあえず網走へ行ってみよう。

 愛車と荷物は斜里駅前に残し、11時09分発の快速「しれとこ」に乗り込む。ディーゼルカーの2両連結で、斜里から観光客の団体が乗ったから、ほぼ満席で、僕は通路に立っていた。
 団体は2組いて、それぞれ原生花園と北浜で下車するらしい。ワンマン運転で一部のドアしか開かないため、降り損ねることがないようにと添乗員が注意して回っている。このあたりの国道は内陸部を通るが、列車はオホーツク海に沿って原生花園の中を走る景色のよい区間なので、観光バス旅行の中にここだけ列車の体験乗車が組み込まれているらしい。美味しいところだけつまみ食いというわけだ。それがどんなに美味しいものでも、単なるつまみ食いでは慌しいばかりで、却ってフラストレーションがたまりそうである。まぁ、僕には関係のないことだ。

 これから自転車で走る区間なので楽しみはあとに残しておくため、なるべく外の景色は見ないようにして、網走には11時48分に着いた。根室以来の都会(?)である。

(網走駅にて。札幌行きの特急「オホーツク」)

 何度も利用した駅の立ち食いそばで簡単な昼食を済ませて、街へ自転車屋探しに出る。
 久しぶりに陽射しが戻って、青空も見えてきた。網走といえば、陰鬱な空と雪と氷の街というイメージだったけれど、やはり夏に来ると、まるで印象が違う。
 かつて旅先で知り合った仲間たちと歩いた懐かしい繁華街を今日はひとりで書店などに寄り道しながら歩き回り、公衆電話の電話帳を頼りに見つけた小さな自転車屋で幸いにも求めるタイヤは入手できたが、結局、スポーツ用品店でも新しい寝袋は手に入らなかった。仕方がない。斜里で売っていたあの赤いやつで我慢するか。

     斜里を出発

 新しいタイヤを肩にかけて意気揚々と13時56分発の列車に乗り込み、斜里には14時40分に到着。
 さっそく駅前でタイヤを交換。古いタイヤは駅前広場脇の不燃ゴミ用の大きなカゴに放り込む。ここまでそれこそ身を磨り減らして頑張ってくれたわけだから。たかがタイヤとはいえ捨てていくのは心苦しいが、仕方がない。
 それから、さっきのスポーツ用品店で例の格安の寝袋を購入して、荷台にくくりつけ、いよいよ浜小清水をめざして斜里駅前をスタート。

 国道244号線は交通量が多いものの、周囲には見渡すかぎりの広大な畑が広がり、斜里から歩いたあの日の記憶が鮮明に蘇ってくる。やがて斜里町から小清水町に入った。空はまたまた曇ってしまい、斜里岳は青い裾野しか見せてくれないけれど、小清水へまた帰ってきたかと思うと、本当に嬉しい。

     止別

 国道を10キロほど走ると小清水町止別(やんべつ)の交差点。ホクレンのガソリンスタンドとセブンイレブンがあって、ライダーたちがたむろしている。ホクレンのスタンドでは給油したライダーに黄色い三角形の小旗を配っていて、北海道を旅するライダーたちは大抵その旗をはためかせて走っている。

 その交差点を右折すると1キロほどで止別駅。今は無人化されたものの、昔ながらの木造駅舎は外観はそのままで内部がラーメン屋になって健在だ。根室本線では軒並み古い駅舎が撤去されて貨車利用の待合室に置き換えられてしまったのに比べれば、止別駅の駅舎はこうして生き長らえることができた分、幸せなのだろう。

 止別から浜小清水までは線路沿いに未舗装の道がつけられていて、何度か歩いたことがあるので、今日もその道を選ぶ。ところが、かつては原野を細々と辿っていたはずの野道が、いつのまにか立派に舗装され、2車線の町道「オホーツク海岸道路」に変身していた。やはり時は流れたのだと痛感する。


(止別~浜小清水間を行く列車。遠くに知床連山から続く海別岳と独立峰・斜里岳。左側は流氷のオホーツク。1983年3月29日)


 もうひとつ。この道で記憶に残っているのはヤンベツ川のほとりの農家の廃屋。

「川辺にすでに住む人のいない農家とサイロがすっかり朽ち果てていた。昔はどんな人たちが暮らしていたのだろうと思いながら、その廃屋のそばに架かる木橋を渡った。この橋にしても、もう滅多に渡る人もいないのだろう。欄干に止まっていたカラスが2羽、3羽と驚いて舞い上がった」(昭和58年3月29日)

「廃屋は今も立っていた。サイロはすでに屋根が破れ、哀れな姿を晒している。2年の間に一層荒んだようで、過酷な時間の経過を物語っていた」(昭和60年3月4日)

 あれからさらに年月は流れ…。
 今はもうその農家の廃屋も姿を消し、跡地は夏草に埋もれ、ただ屋根を失ったレンガ造りのサイロだけが草原の中にぽつねんとオブジェのように佇んでいた。




     浜小清水駅

 線路沿いの道が内陸部を迂回してきた国道と再び出合うと、浜小清水駅前である。この土地を訪れるたびに乗り降りした駅だから、たくさんの思い出の断片が美しい結晶となって記憶の底から浮かび上がってくる。
 待合室の大きなストーブがいつも赤々と燃えていた、というのが思い出の中のこの駅の印象。列車から降り立った吹雪の午後も、氷点下15度にまで下がった旅立ちの朝も、いつもストーブのまわりには暖を求める地元の人々や旅人たちが集まっていた。
 その浜小清水駅も今は駅員が去り、その代わりに駅舎は化粧直しされて、「喫茶&食事汽車ポッポ」の看板が出ていた。駅前にクルマが何台も駐車しているから、レストランは繁盛しているようだ。明日にでも寄ってみようかと思う。

 
(浜小清水駅。右写真は流氷の季節の同駅を海岸砂丘から望む。1983年3月29日撮影)


     小清水ユースホステル

 さて、昨夜のうちに電話で予約しておいた小清水ユースホステルまでの1.7キロはすっかり歩きなれた道である。その道を今日は自転車で走る。駅前から国道を網走方面へ向かって、浦士別入口の標識に従って左折。涛沸湖を右に見ながら行けば、湖畔にこれも記憶のままの赤い屋根の白い2階建ての建物が見えてくる。



 外観はほとんど変わらないが、名前はオホーツク小清水ユースホステルへと改められ、ペアレント(管理人)も替わっていた。受付で顔を見てすぐに分かったが、かつてはサロマ湖畔ユースホステルのペアレントだったカワバタさんである。いくらか髪に白いものが交じっているものの、若々しくて、明朗快活を絵に描いたような人である。

 僕は過去にここで9泊もしているのだが、かつて毎年のように通っていた当時のペアレントのキクチさんは小清水の自然と静かに語り合うような文学青年っぽい雰囲気を残した人で、夜のお茶の時間にはキクチさんがこの土地の自然にまつわる話をいろいろと聞かせてくれた後、最後に一遍の童話が朗読されるというのが恒例だった。この宿に初めて泊まったのは、あのドラマ『北の国から』の最初のシリーズの最終回の日で、しんしんと雪の降る晩に消灯時間を1時間遅らせて、食堂でみんなで見たのも印象に残っている。また、この町の獣医でキタキツネ研究家、動物写真家としても知られる竹田津実さんを招いて、キタキツネの映画会が催されたこともあった。
 キクチさんが自然と静かに語り合うタイプだとすれば、一方のカワバタさんは、みんなで一緒に自然の中で思いきり遊ぼうよ、というのが基本姿勢の人である。ヴァレンタインデーとホワイトデーの氷上運動会も舞台をサロマ湖から涛沸湖に移して相変わらずやっているようだし、季節ごとのイベントも盛りだくさん。このユースも昔はどちらかといえば静かで地味な宿だったけれど、ずいぶん様変わりしたものである。
 いずれにしても、このところテント生活が続いていたから、久しぶりにベッドの上で快適な夜が過ごせそうだ。特にここ二晩は寝袋ナシだったし。その代わり、最近は宿代にほとんどお金がかからなかったから、2食付きで4,515円というのが妙に高く感じられたりもする(笑)。

 夕食は食堂に集まって全員で。これがユースホステルの楽しみのひとつである。今夜の宿泊者は50名ほど。列車やバイク、クルマ、自転車…。それぞれのスタイルで北海道を旅する仲間たちで食事を共にするひとときはいつも楽しい。
 そして、夕食後はみんなでカードゲームのUNO(懐かしい!)で盛り上がる。
 本日の走行距離は43.3キロ。明日もここに連泊するつもり。


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