《世田谷の古道を行く》

 六郷田無道 (その6 上連雀~田無)

 世田谷のマイナーすぎる、でも意外に重要だったかもしれない古道「六郷田無道」を全区間たどるシリーズの最終回

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    塚~大橋

 六郷田無道を六郷から田無までたどる旅もいよいよ最終回です。
 ここまで旧東京府道103号・池上川崎線~66号・駒沢池上線~59号・吉祥寺駒沢線~39号・国分寺四谷線(連雀通り)を経由して三鷹市上連雀の塚交差点までやってきました。
 六郷田無道を旧東京府道の路線として考えると、この塚交差点からは府道75号・田無調布線に入ることになります。現在の武蔵境通りです。しかし、調布市内から深大寺の西側を通ってここまで北上してきた武蔵境通りは塚の交差点以北では西にずれて続きます。明治22年に中央線の前身、甲武鉄道が開通した際に境駅(現・武蔵境駅)が設置され、それにともない旧道の西側に新しい道が整備されたためです。そのルートは塚交差点西側の大鷲神社前で連雀通りから分かれて富士見通り(三鷹市と武蔵野市の境界の道)に入り、武蔵野赤十字病院(武蔵野市境南町1‐26)の角から北に折れて、そのまま北上し、中央線を越えると、すぐ西に折れて武蔵境駅前に達し、そこから田無までまっすぐ北上する道筋です(地図①参照)。本ページで六郷田無道のルートの参考にした『世田谷の河川と用水』(世田谷区教育委員会、1977年)で示された道筋(上連雀~塚~中通~富士見橋~田無)もこれです。しかし、ここでは明治時代に開かれた道路よりももっと昔から存在する古道にこだわって、塚交差点からそのまま北上するルートを採用します。

地図①(大正中期)

(大正中期の地図でみる六郷田無道 塚~田無)

 ということで、塚交差点から北へ行きます。旧鎌倉街道と伝えられ、「深大寺道」「大師道」などと呼ばれた古道です。最近まで南行きの一方通行の旧道らしい道でしたが、現在は拡張工事が行われ、まことに味気ない道になっています。

(拡幅工事進行中)

 この道は三鷹市上連雀と武蔵野市境南町の境界となっています。境南町は中央線の北側の境、桜堤とともに旧多摩郡境村で、境村は明治22年に吉祥寺村、西窪村、関前村と合併して武蔵野村(明治26年まで神奈川県)となり、昭和3年に町制施行、昭和22年に武蔵野市となりました。
 まもなく、ほとんど水の流れていない仙川を渡り、近年、高架化されたJR中央線をくぐります。その直前の左側に庚申塔らしき石塔がありますが、探訪時は道路工事の影響で近づくことができませんでした。

 (中央線とその脇の庚申塔?)

 一方、すぐ東側には三鷹電車区があります。当初、旧街道に近い現・三鷹電車区付近(上連雀村)に駅を開設する話がありましたが、境村の有力者から土地の寄付があり、現在の武蔵境駅の位置に境停車場ができたそうです。用地提供の見返りに境停車場・田無間の新道が建設され、大正時代に府道に指定されたわけです。なお、三鷹駅の開設は昭和5年、吉祥寺駅も明治32年の開設であり、明治22年の開業時、新宿~立川間には中野、境、国分寺の3駅しかありませんでした(明治24年に荻窪駅設置)。

 さて、中央線を越え、左側は武蔵野市境となります。右側は相変わらず三鷹市上連雀です。そして、左右両側から鉄道の廃線跡の遊歩道が近づいてきます。
 三鷹駅から来るのが堀合遊歩道で、旧国鉄武蔵野競技場線の跡です。もとは武蔵境から戦前~戦中の中島飛行機武蔵製作所への引き込み線がありました。零戦などを製造していたことから米軍の度重なる爆撃を受け、徹底的に破壊された工場跡に戦後の昭和26年にグリーンパーク球場が建設され、プロ野球・国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)や東京六大学の試合などが行われます。武蔵境からの引き込み線を再利用し、三鷹駅に線路を繋げて、試合開催時のみ観客輸送用の電車も運行されましたが、都心から遠いこともあり、わずか1シーズンで試合開催が打ち切られ、電車も運行休止、昭和34年に路線廃止となって、その跡が遊歩道になりました。武蔵野市内では「グリーンパーク遊歩道」と呼ばれ、武蔵野中央公園まで通じています。球場もわずか5年で解体されて住宅団地に生まれ変わり、現在は武蔵野市緑町パークタウンとなっています。

 一方、武蔵境駅方面から来る緑道は本村公園で、境浄水場(大正13年給水開始)の建設資材や濾過池で用いる砂の輸送に利用された引き込み線跡です(昭和40年代に廃止)。


(左へ行くのが古道。画面右の緑地が廃線跡の堀合遊歩道)

 古道探索に戻ると、まもなく拡幅された新道から左に旧道が分かれます(上写真)。住宅街の中の細道ですが、この道が武蔵野市境と三鷹市上連雀の境界です。そして、玉川上水に突き当たる直前に交差する堀合(ほりあわい)通りこそが品川用水の跡です。

 さて、玉川上水までやってきました。そこにかかる橋は大橋です。いかにも幹線道路を渡す橋にふさわしい名称で、実際、玉川上水の橋の中でも古い歴史を持っています。江戸初期の上水開通以前からこの道は存在したでしょうから当然です。この橋の南側に庚申塔と稲荷祠があったようなのですが、現在は見当たりません。

 
(玉川上水にかかる大橋。その向こうは境浄水場で、古道は分断されている)

 大橋の北側に「大橋の歴史について」という説明板があります(文中の保谷市と田無市は現在は合併して西東京市になっています)。

 この橋は、玉川上水ができた承応三年(1654)以降に現在の武蔵野市域内で最初に架けられた「新橋」「保谷橋」「大橋」の内の一つとされる。
 その後、明治三八年(1905)と大正九年(1920)に修繕されたのち、昭和七年(1932)現在のコンクリート橋に架け替えられた。
 大橋を通る大師道は、保谷市と田無市の境界を通る道と東伏見神社の横から千川上水を越えて武蔵野市に入る道が御門訴の碑付近で一つになり五日市街道を渡る道で、大正七年(1918)に境浄水場が出来るまで、西北は、田無を経て所沢・青梅に通じ、南は甲州街道の調布五宿に達し、開港後は横浜街道と称し、近郷近村の最大の便道であったとされる。また、深大寺(調布市)の元三大師堂へ行く道なので大師道とも呼ばれた。
 三鷹との境にあるので「境大橋」とも呼ばれ、「大橋」の名の由来は深大寺の「大」の字をとったとも、旧下連雀村の小字名「大橋」という地名からきたともいわれている(以下、略)。

 この道が開港後、「横浜街道」と称されたというのは、この地方で養蚕が盛んであり、生糸が日本の主力輸出品だったことと関係があるのでしょう。いま辿っている道沿いでも至るところに桑畑(と茶畑)が広がっていました。

 そのような重要街道だったはずの道は大橋の北側で境浄水場によって分断されています。村山貯水池(多摩湖)、山口貯水池(狭山湖)から送水された水を浄化して東京の水道水とするための浄化施設である境浄水場が給水を開始したのは大正13年のことですが、上の説明板によれば大正7年の段階ですでに工事により道が分断されていたようです。しかし、明治22年の武蔵境駅開設に伴い西側に武蔵境通りがつくられたため、当時はもうこの古道は幹線としての役割を完全に失っており、影響はなかったのでしょう。

 なお、大橋から玉川上水を上流へ450メートルほど行った武蔵野市立第六中学校の北側の地点に品川用水の取水口が残っています。世田谷区野沢で六郷田無道と出合って以来、寄り添ったり離れたりを繰り返してきた品川用水の始まりがここです。

(玉川上水北岸からみた品川用水取水口)

    
大師通り

 さて、田無への古道探索は境浄水場で分断されたので、浄水場の東側を迂回して北側へ回り込むと、続きがあります。第五中学校の西側を北へ行く道で、「大師通り」と呼ばれています。
 大橋の説明板にもあった通り、大師とは深大寺の元三大師堂への参詣道であることを意味します。元三大師とは平安時代の天台宗の高僧である慈恵大師・良源のことで、永観3(985)年の正月3日に亡くなったので元三大師と呼ばれ、厄除けの信仰を集めました。その元三大師を祀るお堂が深大寺にあり、現在に至るまで多くの参詣者を集めているわけです。
 調布市教育委員会『調布の古道・坂道・水路・橋』によると、深大寺・元三大師の信仰者が多かった地域として、田無・保谷地区、さらにその先の引又(志木市)、久米川(東村山市)、所沢などを挙げていて、これらの地域からの参詣者がこの大師道を南下し、塚から野崎、深大寺へと向かったと述べています。

(大師通り)

 その大師道を深大寺とは逆方向へ北上していきます。
 玉川上水から北は武蔵野市関前で、旧多摩郡関前村です。旧豊島郡関村(いまの練馬区南西部)の出身者が入植、開墾したことから、関の前という意味で関前の地名がつきました。

    五日市街道

 市民の森公園などを経て、まもなく五日市街道(旧東京府道4号・東京五日市線)にぶつかります。五日市街道は徳川家康が江戸に入った後、五日市や檜原から木材や炭を運ぶために整備された街道です。
 その交差点角に「御門訴事件」の記念碑があります。

 
(五日市街道にぶつかると、正面に御門訴事件の記念碑)

 御門訴事件とは、明治3年、当時この地域が属した品川県が前年に布達した社倉制度(凶作、飢饉に備えて、すべての農民から米を供出させ、備蓄する制度)に反対する旧関前村を含む12ヵ村の農民が日本橋浜町にあった品川県庁に直訴(御門訴)した事件で、代表者が逮捕され、厳しい拷問などにより、死者まで出た事件です。この地方はもともと生産力が低く、富裕農民だけでなく、貧しい農民をも含む全農民を対象にしたこの制度は受け入れがたいものだったのです。
 非業の死を遂げた者の中に関前新田名主・忠左衛門(井口氏)もいたため、この場所に慰霊碑が明治27年に建てられました。

 ここから五日市街道を西へ行くと、すぐに武蔵野大学前の交差点に出ます。
 五日市街道は小平市から武蔵野・西東京市境の境橋まで玉川上水に沿って東進し、境橋からはそこで玉川上水から分水した千川上水に沿って武蔵野大学前までやってきます。千川上水はそのまま北東方向に流れて神田川水系と石神井川水系の分水界の尾根を練馬区、板橋区方面へ行き、五日市街道はここで南東方向に折れて、吉祥寺を経て杉並区内へ行きます。

(千川上水)

 我々のたどる旧街道はその五日市街道からここで分かれ、千川上水を渡って武蔵野大学の東側を北上します。
 千川上水を渡る地点には石橋供養塔庚申塔が立っています。
 石橋供養塔は五日市街道と千川用水が交わるこの地に古くからあった橋(井口橋)が天保12(1841)年に石橋に架け替えられたことを記念して建立されたもので、悪霊の侵入を防ぎ、石橋に宿る神(霊魂)を供養する意味がありました。そのかたわらの庚申塔はその前年の建立です。

(右・石橋供養塔と左・庚申塔)

 また、武蔵野大学前の五日市街道と鈴木街道の分岐点に天明4(1784)年建立の道標を兼ねた庚申塔があります(西東京市新町1-2)。「東 江戸道」が五日市街道東方向、西方向は「右 小川 村山道」が鈴木街道、「左 ふちう(府中) すな川 八王子」が五日市街道です。そして、「北 たなし きよと 川ごえ ところさハ道」が我々の進む道です。ちなみに「きよと」)(清戸)は現在の清瀬市です。

(五日市街道と鈴木街道の分岐点に立つ庚申塔。下の絵にも同じものが見える)

 ところで、明治前期に参謀本部陸軍測量部が作成した迅速測図(明治前期2万分1フランス式彩色地図)は現代においても貴重な資料ですが、そのうちの「神奈川縣武蔵国北多摩郡田無街及西窪村」(明治13年測量には地図の枠外に二つの風景スケッチが添えられており、これが六郷田無道探訪者にとっても大変貴重なものなのです。
 そのひとつが「関前村五路集合點」。つまり、いまわれわれがいる地点のスケッチです。



 画面左から橋を渡って画面奥へ向かうのが五日市街道、右奥へ分かれるのが鈴木街道で、その分岐点に天明4年の庚申塔兼道標が見えます。井口橋のたもとの庚申塔(天保11年)も画面左の松の木の根元に描かれています。橋のそばにも柱状のものが二本立っていますが、これが何なのかは分かりません。石橋供養塔ではなさそうですが。そして、我々がこれから進むのは画面右手前へ行く道です。なお、図名にある(A)は下の地図②の中にスケッチの場所を示すために書き込まれています。

地図②明治13年「神奈川縣武蔵國北多摩郡田無街及西窪村」(部分)



    深大寺街道

 さて、千川上水を渡ると、武蔵野市から西東京市に入ります。西東京市は平成13年に田無市と保谷市が合併して成立した市ですが、このあたりは旧保谷市の市域です。保谷の地は昔の下保谷村、上保谷村、上保谷新田村からなり、古来、新座(新倉)郡に属していました。新座郡は奈良時代に大和政権が新羅系渡来人(僧32人、尼2人、男19人、女21人)を移住させ、開墾させたのが始まりで、当初は新羅郡といったようです。ただ、保谷のあたりは古代から中世にかけてほとんど無人の原野だったようで、人々が定住し村落が形成されたのは戦国期以降と思われます。
 新座郡は明治維新後、品川県に属しましたが、その後、明治5年に入間県、翌年には熊谷県、そして、明治9年から埼玉県に属します。明治22年に下保谷上保谷上保谷新田の3ヵ村が合併して保谷村が成立し、埼玉県新座郡保谷村となります。その後、明治29年に新座郡が北足立郡に編入され、明治40年に保谷村が東京府に移管され、北多摩郡保谷村となっています。昭和15年に保谷町、昭和42年に保谷市となり、平成13年に西隣の田無市と合併したわけです。

(深大寺街道)

 「深大寺街道」の名称がある道を北へ行きます。右手は西東京市柳沢4丁目、左手は新町1丁目で、どちらも昔の上保谷新田村にあたります。千川上水の開通後、それまで原野だった土地を北隣の上保谷村の農民が開発した新田村です。
 左側に続く武蔵野大学キャンパスの北東端まで来ると、そこで交わる道もそれなりに古道のようで、角に修復された庚申塔(尊像が風化していて、馬頭観音説もあり)が立ち、これも道標を兼ねています(向台町1-10、地図②参照)。安永7(1778)年の建立で、東は「江戸道」、西は「府中道」で、南は大寺道」ですから深大寺道でしょう。北だけが欠損により判読不能です。

(武蔵野大学北東角の庚申塔?)

 道の左側は西東京市向台町1丁目で旧田無市の領域です。
 田無は昔の多摩郡田無村で、明治5年から26年まで神奈川県に属し、その間の明治12年に田無町となっています。市制施行は昭和42年です。江戸時代の田無村が周辺地域と一切合併することなく、そのまま田無町、さらに田無市になったわけで、このような例は珍しいことです。そして、平成13年に保谷市と合併し、西東京市となって現在に至ります。

 旧田無市と旧保谷市の境界を北上すると、今度は右手に文政元(1818)年の「馬頭観世音」塔があります(柳沢4-1-19、地図②参照)。やはり道標を兼ねていて、下部に「右 深大寺道」「左 柳澤 所澤道」と彫られています。これは上保谷村新田名主平井嘉右衛門という人物が西国三十三カ所、坂東三十三カ所、秩父三十四カ所の合わせて百カ所の観音霊場の巡礼を達成した記念に建立したものです。我々がこれまでに通ってきた地域一帯から秩父の霊場巡りに向かう巡礼者にとって、六郷田無道は田無、所沢を経て秩父へ通じるまさに巡礼のための道でもあったはずで、草深い田舎道を旅する往時の人々にとっては、このような道標が大いに役立ったことでしょう。なお、この石塔では上保谷村が多摩郡となっていますが、これは新座郡の誤りで、恐らく石工の勘違いでしょう。とはいえ、道の向かい側の旧田無村は多摩郡であり、ここが郡境であるということは、それだけ歴史の古い道だということです。明治時代には一時的に神奈川・埼玉県境だったこともあり、神奈川から東京へ行くのに埼玉を通るという時代があったわけです。

(馬頭観世音塔)

 さて、その馬頭観世音塔を過ぎると、道は下り坂になります。この先は石神井川の谷です。
 その途中、斜めに横切る道があり、その角に地蔵堂があります(南町1-9、地図②参照)。光背が焙烙の形に似ていることから「ほうろく地蔵」と呼ばれ、親しまれています。

 (ほうろく地蔵尊)

 田無へはここで左折するのが近道ですが、そのまま深大寺街道を直進します。
 まもなく、石神井川境橋で渡ります。昔から郡境、村境、市境の道なので、境橋なのでしょう。三面をコンクリートで固められ、水量もわずかな石神井川は、昔からこの付近では川幅も狭く、水深も浅い川だったようです。ただ、田んぼがないから田無という説もある田無において、この川の周辺ではわずかながら水田も作られたようではあります。

 (石神井川を渡る境橋)

 その石神井川を渡ると、いよいよ青梅街道にぶつかります。江戸初期、江戸城築城のため、成木(いまの青梅市北部)の石灰(漆喰の原料)を輸送する目的で整備された街道で、江戸と青梅の中間にあたる田無はその宿場町として発展し、栄えたのです。

(青梅街道に出合う。深大寺街道はその先の坂を上る)

 我々はここで青梅街道に入り、田無へ向かうわけですが、深大寺街道はそのまま青梅街道を突っ切り、西武新宿線の踏切を渡って、さらに北へ伸びています。その先は旧上保谷村の中心集落であった榎ノ木、上宿(いまの泉町、住吉町あたり)で、ここで古道の「横山道」とぶつかります。上宿付近は局地的に地下水位が浅い地下水堆が存在し、水の便が悪いこの地域ではオアシスのような存在だったようです。いまも水路跡の暗渠が残り、荒川水系の白子川に通じています。一帯には如意輪寺宝樹院宝晃院東禅寺といった寺院や上保谷の鎮守で湧水の守護神を祀る尉殿神社などが集中するなど、古くから集落があったことをうかがわせ、実際に鎌倉末期の板碑も発掘されています。如意輪寺付近には的場ヶ池(マツバ池)という湧水池も存在したそうです。
 その上宿に隣接する旧田無市の谷戸地区(いまの谷戸町)も同様に貴重な水源があり、田無村の発祥の地とされます。それが青梅街道整備に伴い、宿駅の必要から街道沿いに村の中心が移ったということのようです。

 さて、あとは青梅街道を西へ行けば、すぐに田無の中心部にたどりつきますが、その前に深大寺街道の続きを北上し、歩行者・自転車専用の踏切で西武新宿線(昭和2年開通)を越えた地点で交わる富士街道の角に立つ六角地蔵石幢(保谷町4-7、地図②参照)を見ておきましょう。寛政7(1795)年に、「つや」という女性と「光山童子」の菩提を供養するために建立されたもので、正六角柱の石塔の各面に地蔵菩薩立像が浮彫にされています。また、この塔も道標を兼ねており、西は「大山道」、東は「ねりま道」、南は「志んたい寺道」(深大寺道)と彫られ、北だけが判読不能です。
 西が大山道というのは、田無から府中へ出て、旧鎌倉街道上道を通って町田へ出るルートでしょうか。富士街道は板橋・練馬方面からの大山参詣道で、「ふじ大山道」と呼ばれたのが、富士街道になったようです。

(六角地蔵石幢。踏切の細道が深大寺街道)

 ここから富士街道を西へ行っても、すぐに青梅街道に合流しますが、先ほどの地点から、改めて青梅街道を西へ行きます。

(左・青梅街道と旧市境の道)


   田無

 青梅街道が西武新宿線のガードをくぐる地点の手前北側に赤い鳥居と祠の残骸があり、ここで北へ入る細道がかつての保谷・田無市境です。この市境の道はすぐに富士街道にぶつかりますが、そこから北では境界線が道路と一致していません。つまり、今は何もないところを境界線が通っているわけです。ここが多摩郡と新座郡の境でもあったことを思えば、何もないところに境界線が引かれたのは不自然に思えます。遠い昔にはそこに街道が存在し、その後、廃れて消滅したのかもしれません。


(旧市境は富士街道の北では正面の赤茶色の瓦屋根の家とその左隣の二階家の間を通っていた。今は西東京市保谷町と田無町の境)

 さて、青梅街道は西東京市柳沢から西東京市田無町(旧田無市本町)に入り、西武線のガードをくぐったところで、富士街道が合流します。その合流点(田無町1-12)には「弘法大師」と刻まれた石塔がお堂におさまっています。嘉永7(1854)年に建立されたもので、「東高野山道是より廿四丁」という道標にもなっています。東高野山とは練馬区高野台にある東高野山長命寺のことで、18世紀半ばに成立した御府内八十八カ所霊場の第十七番札所になっていることから、富士街道がその巡礼道であることを示しています。また、台石に「練馬江三里、府中江二里半、所澤江三里、青梅江七里」とも彫られています。

(「弘法大師」供養塔)

 次は青梅街道の下り線側歩道に享保8(1723)年建立の立派な「柳沢庚申塔」が立っています(田無町2-22-8先)。もとはこの先の青梅街道と所沢街道の追分にあり、「是より右り はんのふ(飯能)道」「是より左り あふめ(青梅)道」となっています。柳沢といえば、旧保谷市の町名ですが、なぜか田無市側にも柳沢という地名が残っており、田無宿のことを柳沢宿とも呼んだり、今も小学校や公園、通りの名に柳沢が残っています。

 
(柳沢庚申塔と青梅・所沢街道の追分)

 そして、先ほど紹介したフランス式彩色地図に添えられた二つのスケッチのうち、もうひとつが「自田無町至秩父青梅岐路」、つまりこの柳沢の追分の風景画です。


 まさに柳沢庚申塔が描かれています。その左にも小さな庚申塔があり、これは現在、この先にある総持寺の墓地に移されています。なお、図名の(B)は地図②のB地点であることを示しています。

 とにかく、その所沢街道との追分から、いかにも旧街道らしい道幅になって、青梅街道は田無の中心部に入っていきます。まもなく、右手に田無神社があります(田無町3-7-4)。

 
(田無神社。境内に田無用水の跡が残る)

 鎌倉時代創建と伝えられる田無神社はもとは尉殿大権現といい、田無の北方、谷戸の宮山に鎮座していた神社です。その後、江戸時代に村の中心が青梅街道沿いに移ったことで、現在地に遷座し、明治になって周辺の神々も合祀して田無神社と改称されました。江戸時代の名工・嶋村俊表による見事な彫刻を施された本殿など見どころも多く、ぜひ参拝したい神社です。
 境内には田無用水の跡が残っていますが、これは飲料水にも事欠き、朝に夕に谷戸から水を運ばねばならなかった田無の住民の苦難を解消すべく玉川上水から引いた用水路で、元禄9(1696)年に完成したものです。

 田無神社をあとに、青梅街道を西へ行くと、すぐに今度は田無山総持寺(真言宗智山派)です(田無町3-8-12)。
 江戸初期に石神井村三宝寺の末寺・西光寺として創建されたのが始まりと伝えられ、その後、現在地に移転。明治8年に近隣の観音寺密蔵院と合併して総持寺と改称しています。境内北側の墓地には3基の庚申塔がありますが、そのうちの1基が柳沢庚申塔と並んで追分に立っていたものだということです。
 また、門前を横切る「やすらぎの道」は田無用水の跡です。

(総持寺)

 とにかく、田無の中心部までやってきました。田無宿は青梅街道が参勤交代のルートではなかったことから本陣なども置かれず、幕府公認の正式な宿場ではなかったようですが、江戸時代を通じて多くの街道が交わる交通の要衝として繁栄しました。幕末の安政5(1858)年からは毎月一と六の日に定期市も開かれ、大いに賑わったようです。ここまでたどってきた六郷田無道も明治以降、三鷹あたりまでは世田谷のボロ市へ行く道として認識されていたようですが、三鷹以北の人々にとっては田無の市に買い物に行く道として認識されていたのでしょう。



 その田無が発展から取り残されるきっかけになったのは鉄道の開通です。今のJR中央線の前身、甲武鉄道が明治22年4月に新宿~立川間で開通した時、当初は人口の多い甲州街道沿いまたは青梅街道沿い(田無経由)のルート案がありましたが、地元の反対(宿場の客が減るとか、汽車の煙で桑の葉が枯れるとか…)で実現せず、沿線住民がほとんどおらず、したがって反対もなかった現行ルートでの開業となったそうです(8月には八王子まで延伸)。当時、新宿と立川間には中野、境、国分寺の3駅が置かれ、所要時間は1時間でした。旅客列車の運行は1日4往復でしたが、むしろ、奥多摩や甲州からの石灰石や木材などの輸送が鉄道建設の主目的でしたから、物資の輸送における青梅街道の重要性の低下は避けられませんでした。
 さらに、明治27~28年にかけて川越鉄道(現・西武国分寺線)が甲武鉄道の国分寺から東村山、所沢を経て川越に通じる鉄道を開通させたことで、田無宿の役目は完全に終わったといえるでしょう。田無の定期市もこのころから寂れていったようです。その川越鉄道の後身・西武鉄道が東村山から高田馬場まで田無経由の鉄道(現・西武新宿線)を開通させたのが、昭和2年になってからです。

(田無町交差点。南からくるのが武蔵境通り)

 田無宿の歴史は終焉を迎えましたが、地図を見れば分かる通り、多くの街道が四方八方から集まる田無が交通の要衝であることは現在も変わりません。
 というわけで、道は田無を通り過ぎて、どこまでも続きますが、「六郷田無道」の旅はここで終わることにします。大田区の六郷から途轍もなく長い旅だったように感じられます。六郷から田無まで、何度かに分けて、実際に歩き、あれこれ調べ、ようやくこの探索レポートも完結に至ったわけですが、六郷田無道などというマイナーすぎる道に関心を持つ人が果たしているのかどうか、大いに疑問ではあります。そう考えると、ちょっぴり徒労感が・・・。まぁ、単なる物好きの自己満足的所産としか言いようがないですね。 (完)


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