世田谷の古道をゆく

六郷田無道(その2 池上~大岡山)

世田谷のマイナーな、でも意外に重要だったかもしれない古道「六郷田無道」をたどるシリーズの第2回。


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六郷田無道
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   池上~道々橋

 世田谷区の古道「六郷田無道」を大田区の六郷から西東京市の田無まで全区間たどってみようという試みの第2回。今回は大田区池上にある池上本門寺の門前からスタートです。
 六郷から本門寺前までは旧東京府道103号・池上川崎線でしたが、ここからは旧府道66号・駒沢池上線に入ります。

(本門寺の門前から画面左へ行くのが旧街道)

 江戸初期の文人・本阿弥光悦の文字を刻んだ扁額(複製)のかかる本門寺総門の前から台地の裾を左、つまり西側に回り込むように進むのが我々の進むべき道です。昔の街道の道幅のままで、台地の全域を占める本門寺の塔頭支院が連なる道でもあります。

 (本町稲荷神社と旧街道)

 周辺の3つの稲荷社を合祀して大正9年にこの地に移ってきたという本町稲荷神社の角から台地上へ登る坂は「車坂」で、江戸時代にはすでにあり、荷車が本門寺へ行くのに利用されたようです。その車坂を右に見送り、さらに覚源院、南之院と行くと、大坊本行寺への参道が右に分かれます。日蓮上人入滅の地である池上宗仲の邸宅跡に建てられた寺です。

(日蓮上人入滅の霊場にある大坊・本行寺)

 さて、さらに厳定院、西之院など寺院の並ぶ道を行くと、前方に第二京浜・国道1号線と都営地下鉄浅草線の車両基地の高架橋が見えてきますが、その直前で池上梅園の敷地に沿って右に曲がります。
 池上梅園(池上2-2-13)は本門寺丘陵の西側斜面を利用した大田区立の梅園で、敷地の北半分はかつて日本画家・伊東深水の自宅兼アトリエで「月白山荘」と呼ばれました。しかし、戦災で焼失。戦後は築地の料亭経営者・小倉氏の所有となり、南側に拡張され、別邸として利用されます。小倉氏の没後、庭園として残すことを条件に遺族より東京都に譲渡され、のち大田区に移管され、梅園として整備されました。今では梅の木が約370本にまで増え、開花時期には多くの花見客で賑わいます。

(花の季節の池上梅園)

 池上梅園の先で国道1号線(第二京浜)にぶつかり、浅草線の車両基地によって旧街道は分断されています。「本門寺入口」の信号で国道を渡り、国道を少し北へ進み、中古車販売店の先、「日東工器」の案内標示がある道が旧街道の続きです。ここから町名は大田区仲池上となり、相変わらず右手には台地が続き、その裾を行きます。この通りには幅の広い歩道があり、桜が植えられていますが、これは洗足池から流れ出た水(洗足流れ)の分水路の跡で、池上地域を潤した後、呑川に合流していました。

 
(この歩道が水路跡。大森十中グラウンドを左に見て、右折するのが旧街道)

 まもなく、大田区立大森第十中学校が左に見えてきますが、そこで旧街道は水路跡の道を離れ、右に曲がります。あくまでも台地の裾に沿って地形に忠実に進むのです。なぜそこまで台地の裾にこだわるのかといえば、このルートの西側には呑川が流れていて、台地から離れると、そこはもう水田や葦原や沼地の広がる低湿地帯だったためでしょう。そして、そこは呑川の氾濫によってしばしば冠水する土地でもありました。そのような場所を古道は避けて通るものです。

 地図①(明治39年)                   地図②(昭和20年)
 

 大森十中の西側には現在、立派なバス通り(十中通り)が旧街道にかわる幹線道路として存在しますが、その下水道工事の際、掘っても掘っても葦の根が腐った「ケト土」と呼ばれる土壌だったそうで、ここが昔は低湿地だった証拠といえます。
 とにかく、旧街道探索に戻ると、中学校の前で仲池上2丁目4番地と5番地の間を右に入ると、すぐ台地斜面にぶつかり、左に折れて道なりに北へ行くと、、まもなく左手に庚申堂があります(仲池上2-4-1。地図②のB地点))。まさにこのルートが旧街道だったことが確認できます。ただし、この庚申堂はもとは今の第二京浜のあたり(地図②のA地点)にあり、昭和12年に現在地に移されたもので、お堂は昭和37年の再建です。

(仲池上2-4-1の庚申堂)

 そもそも庚申信仰は中国の道教に起源をもつ民間信仰で、「三尸(さんし)説」に基づいています。人の体内には三尸の虫という虫がいて、これが60日に1度巡ってくる庚申(かのえさる)の日の夜、人が眠っている間に体内から抜け出して、その人の悪事を天帝に報告に行き、天帝は悪事の大小に応じてその人の寿命を縮めると考えられていました。そのため、人々は「庚申講」を地域で組織し、庚申の日に集まり、三尸の虫が出ていかないように夜通し寝ずに過ごしたわけです。これを庚申待といい、たとえば、一定の回数の庚申待を続けた場合など、何らかの記念に資金を出し合って供養塔を建てたということです。庚申信仰は貴族を中心に行われていたのが形を変えながら室町時代頃から庶民にも広まり、庚申塔は江戸時代に入ると盛んに建てられるようになりました。塔には青面金剛と三猿を刻むのがよく見るパターンですが、天帝と同一視された「帝釈天」や、申(サル)との関連で「猿田彦神」が祀られたりもしました。また、「庚申」などの文字だけの場合も少なくありません。多くの庚申塔は村の辻など路傍に建てられ、道標を兼ねているものもよく見られます。

 さて、この仲池上の庚申供養塔は享保3(1718)年に建立されたもので、正面に「南無妙法蓮華経」の題目と「庚申」の文字が彫られ、それが日蓮宗と縁が深いことを物語っています。そして、左側面に「池上めくろ(目黒)道」、右側面には「せんそく(千束)ほりの内(堀ノ内)道」と刻まれています。堀ノ内とは今の杉並区堀ノ内にあり「堀ノ内祖師」として知られる日蓮宗の妙法寺であり、日蓮宗の人々が池上の本門寺参りへ、あるいは堀ノ内へ祖師参りと、この街道を行き交ったのでしょう。また、目黒への道とは、この庚申堂の旧所在地の第二京浜付近で北へ分かれ、池上地区と馬込地区の境を北上し、東急大井町線の荏原町駅前、中原街道の平塚橋を経て目黒方面へ行く道を指しているようです。

 庚申堂を過ぎて、さらに北へ行くと、「六郎坂」という坂道に突き当たり、ここで左折すると、水路沿いの道に戻ります。水路には六郎橋がかかっていました。この六郎とは江戸後期、池上村のために尽力した海老沢六郎左衛門のことで、その屋敷が坂に沿ってあったことから坂と橋の名称となりました(大田区『大田区の坂道』)。
 水路跡に沿った道を北上すると、まもなく右側の丘陵斜面に林昌寺が、その隣には子安八幡神社があります。
 林昌寺(仲池上1-14-17)はやはり日蓮宗寺院で、文亀3(1503)年、本門寺の僧が草庵を結んで閑居したのが始まりと伝えられ、実質的な創建は寛永7(1630)年といいます。その境内の墓地に庚申塔があります。塔に彫られた銘文によれば、これは延宝元(1673)年に建立されたものが、昭和20年5月24日の空襲で焼失し、昭和43年に再建され、ここに移されたものだそうです。元の所在地は大森区上池上町154番地とのことですが、それがどのあたりなのか、よくわかりません(地図②でこの地域の市街地が戦災で消えていることが分かります)。

 (林昌寺と再建された庚申塔)

 林昌寺の隣にある子安八幡神社は伝承によれば鎌倉時代の康元元(1256)年に領主・池上宗仲が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したもので、初めは池上本門寺境内に創建され、現在地に遷座したのは戦国時代の天正9(1581)年のことだそうです。台地上の社殿に通じる石段はかなり急で、ちょっと怖いぐらいです。

(子安八幡神社の石段。画面中央の鳥居の先が急階段)

 子安八幡を過ぎると、前方に東海道新幹線と横須賀線・湘南新宿ラインのガードが見えてきます。ここに最初の鉄道が通ったのは昭和4年のことで、品川と鶴見を結ぶ貨物専用線(品鶴線)として開通しました。貨物列車のほか、軍用列車が通ったということです。のちに新幹線が並行して建設され、さらに在来線にも横須賀線や湘南新宿ラインの電車が走るようになって現在に至っています。
 我々が進むべき道は線路の直前を左折ですが、そのまま直進するのも古道で、線路の下をくぐり、猿坂を登り、先ほど第二京浜付近で分かれた目黒道と合流する道筋です。この道について、江戸後期の『新編武蔵風土記稿』(1830年完成)は当時の古老の話として、「古は奥州への海道(街道)にして、矢口村の方へ続きたりしと…」と記しています。

(新幹線をくぐって直進が平塚橋・目黒方面、車が出てきた地点を左折が世田谷方面)

 さて、旧府道66号・駒沢池上線は品鶴線の手前を左折すると、バス通りに出ますが、すぐ南側に道々橋(どうどうばしまたはどどばし)交番前(道々橋はこのあたりの旧村名)の信号があり、3本の道が合流しています。このうち南東方向から来るのが先ほど触れた十中通りで、新しい道です。一方、南西から来る道のルーツはかなり古く、久が原の台地を越えて鵜の木の光明寺、さらに新田神社、矢口の渡しへと通じています。『新編武蔵風土記稿』に「矢口村の方へ続き…」とあったのは、荏原町方面の道が矢口からの道と繋がっていたことを意味し、この道筋は一部新ルートに付け替えられ、旧府道104号・下大崎神奈川線となっていました(地図③④参照)。

   雪ヶ谷の長慶寺

 さて、さらに世田谷をめざして北上していきましょう。このあたりは鉄道建設で旧道が一部消え(地図④の点線部分)、若干ルートが変わっていますが、上池上停留所のあるバス通りを横切り、その西側で鉄道のガードをくぐります。ここから旧雪ヶ谷村で、現在の町名は大田区東雪谷です。なお、雪ヶ谷村は戦国時代にまで遡るという古い村で、呑川の両岸にまたがり、現在の町名では川をはさんで東雪谷と南雪谷になっています。
 その東雪谷5丁目に入ってすぐ庚申供養塔が2基並んでいます。そして、そこに北東側から暗渠水路が通じているのが分かります。洗足池から来る洗足流れの本流で、そのまま南西方向に流れて呑川に合流します。
 そして、この水路に沿って日蓮宗の長慶寺があります(東雪谷5-8-10)。この寺はもとは目黒区の碑文谷にあり、法華寺(いまの円融寺)の末寺でしたが、不受不施派(日蓮宗のうちで、中心経典である法華経を信仰しない者からは施しを受けず、逆に与えもしないという一派。政権とも妥協せず、禁圧の対象となった)に対する幕府の弾圧で元禄12(1699)年に法華寺が天台宗に改宗されると、長慶寺は池上本門寺の末寺となり、現在地に移ってきました。
 ちなみに、この時、法華寺にあった日蓮上人像が堀ノ内の妙法寺に移され、それが日蓮42歳の時の姿を彫ったものとの伝承から「厄除け祖師」として有名になり、18世紀以降、妙法寺への参詣が盛んになります。

 長慶寺には文政12(1829)年に建てられた題目塔を兼ねた道標があり、「北ほりの内ミち」「東いけかみ道」と刻まれています。長慶寺前が本門寺や妙法寺にお参りする参詣者の通り道になっていたのが分かります。この題目塔は現在、寺の墓地の無縁仏を集めた石塔群の中に無造作に置かれていて、貴重な歴史遺産だけにもう少しなんとかしてほしいものです。

 
(長慶寺の本堂と裏手の墓地にある道標、「北ほりの内ミち」の文字が読める)

 なお、現在、長慶寺の山門は東側を通るバス通り(荏原病院通り)に面していますが、昔は、いま我々がいる旧街道から参道が通じていました(地図③参照)。

 地図③(大正14年)


 地図④(昭和13年) 

(裾野道に「府六十六號駒澤池上線」の文字。耕地整理後で病院通りが開通)


   雪ヶ谷台地の裾野道

 さて、長慶寺の南西にある2基の庚申塔に戻りましょう。左が正徳2(1712)年の建立で、右が享保7(1722)年のものです。このうち右側の庚申塔が道標を兼ねていて、「右瀬田ヶ谷村道」「左九品仏(くほんぶつ)道」と刻まれています。瀬田ヶ谷は世田谷で、九品仏は世田谷区奥沢にある九品仏・浄真寺への参詣ルートを意味します。そして、この右・左というのは庚申塔に向かって左(西)に行ってすぐに分かれる二筋の道です。つまり、この道標を兼ねた庚申塔は昔はこの分岐点にあったのでしょう。
 右の瀬田ヶ谷道は雪ヶ谷台地の尾根を行く道で、左の九品仏道は台地の裾野を行く道です。古いのは尾根道でしょう。そして、世田谷をめざす我々は当然、右の尾根道を行くと思ってしまいますが、実は旧府道66号・駒沢池上線は左の裾野を行く道なのです(地図④参照)。しかし、尾根道も無視できないので、ここは両方の道をたどって、東急大井町線・目黒線の大岡山駅まで行きます。どちらのルートも江戸時代以前からの古道が元になっていることは確かですが、近代以降に耕地整理などに伴い道路が引き直されており、古道そのものは消えてしまっています(耕地整理以前のルートは地図⑤を参照)。


(東雪谷5-9の庚申塔。後ろの駐車場の背後の崖上が長慶寺墓地)

 
(右の庚申塔にある「右瀬田ヶ谷道」の文字)

 では、まずは旧府道66号線のルートを尊重して裾野道から。
 台地へ登っていく尾根道と分かれ、裾野道は呑川と並行して雪ヶ谷台地の下をたどります。右へ折れる道はすべて台地上への上り坂ばかりです。急坂が多く、階段になっている道もあります。そして、道はやがて希望ヶ丘商店街となって、東急池上線の石川台駅の西側で高架線路をくぐります。本来は丘裾の微高地を通っていたと思いますが、耕地整理で道を造り直した結果、完全に呑川の低地を行く区間もあります。

(前方に池上線ガードが見える。画面の右方に八幡神社、左には呑川)

 池上線の手前の右手、台地斜面にあるのが雪ヶ谷八幡神社(東雪谷2-25-1)です。戦国時代に関東一円を支配した小田原北条氏の第3代・氏康の家臣で、太田道灌の子孫でもある太田新六郎康資が永禄年間(1558-69)に創建したと伝えられる古社で、雪ヶ谷村の鎮守でした。現在、境内には村内各所にあった庚申塔7基が集められ、その中に道標を兼ねたものが1基あります。明和7(1770)年のもので、「是より右につたみち(新田道)「是より左池上道」と刻まれています。ということは、昔は村の南端の現在は新幹線が通っているあたりに存在したものと思われます。

 
(雪ヶ谷八幡神社と明和7年の庚申塔)

 さて、道は池上線のガードをくぐると、まもなく中原街道にぶつかります。

(旧街道は中原街道を渡って直進)

 中原街道は江戸城の虎之門を起点に五反田、中延、洗足池を経て、丸子の渡しで多摩川を越え、江戸からほぼ最短距離で平塚の中原へ通じ、東海道に接続する道で、江戸時代以降は東海道の脇街道として利用されましたが、中世以前から存在した道で、古代の東海道の一部だったともいわれる大変古い道筋です。
 その中原街道を突っ切ると、細い道が住宅街の中へ入っていき、ここから上り坂です。この道について、東京近辺の古道探索者の必携書といえる芳賀善次郎著『旧鎌倉街道探索の旅・中道編』(さきたま出版会、昭和56年)では次のように書かれています。

 (中原街道が)川(=呑川)を越えると、すぐ西側橋のたもとに、日蓮の題目塔を兼ねた石橋供養塔がある。そこから左側三本めの横道は、目黒区柿ノ木坂で(鎌倉街道)中道本道から分かれてくる室町時代の旧街道と思われる。その道を行くと、東京工業大学で消えるが、大田・目黒両区の区境、環七通り、柿ノ木坂と通じている。南へは、呑川東岸から矢口の渡しに行く。

 この記述に従えば、東雪谷の庚申塔から我々が来た裾野道、そして、これから進む道は室町時代にできた道ということになります。とにかく、行ってみましょう。
 あ、その前に中原街道が呑川を越える石川橋のたもとにある石橋供養塔を見ておきましょう。石橋供養塔とは、石橋にも霊魂が宿っていると考えられた昔、つねに人々や牛馬その他に踏まれながら川の両岸の交通を支えている橋の供養を行い、安全を願ったものです。安永3(1774)年、雪ヶ谷村の有志6名が本願主となって建立された、この供養塔は正面に「南無妙法蓮華経」の題目を刻んだ日蓮宗の色彩が濃いもので、それは雪ヶ谷村の寺がいずれも日蓮宗で、ほとんど全村民が檀家だったことによります。
 
 さて、ルートに戻ります。
 中原街道を越えると、大田区東雪谷から大田区石川町に入ります。昔の石川村で、明治22年の合併で道々橋村、雪ヶ谷村などと一緒に池上村(大正15年、町制施行)に組み込まれています。
 ゆるやかに坂を登っていくと、右手は東京工業大学大岡山キャンパス石川台地区となります。それまで蔵前にあった東京工大(当時は東京高等工業学校、昭和4年に大学昇格)が関東大震災での被災を契機に大岡山に移転してきたのは大正13年のことです。

(世田谷は直進、九品仏は左折。右奥が東工大)

 ところで、いま辿っているのは、先ほど雪谷の庚申塔兼道標に「九品仏道」とあった道筋です。九品仏へは、恐らく大学キャンパスの南西端の四つ角(小緑地あり)を左折です(上写真)。この道を西へ行くと、まもなく北に折れ、「稲荷坂」という急坂を下ってきたもうひとつの九品仏道(後で触れます)と合流し、西へ向かい、島畑橋で呑川を渡り、世田谷区奥沢に入って、大音寺(浄土宗、奥沢1-18-3)の前を通って北へ行き、東急目黒線の奥沢駅、奥沢神社を経て西方の九品仏・浄真寺へ向かったものと思われます。

 九品仏は世田谷区を代表する名刹で、よい寺ですが、今回は北へ行きましょう。
 東工大に沿って坂を登り、石川町1丁目2番地と5番地の間を左に行く道も九品仏道です。これが稲荷坂を下って、先ほどの九品仏道と合流するわけです。この地点から右側は大学敷地によって分断されていますが、キャンパスの東側に続きがあり、南千束3-29で中原街道に合流し、そこに「従是九品仏道」と彫られた庚申塚があります。江戸や品川方面から中原街道を通ってきた参詣者はこの庚申塚から九品仏道に入ったわけです。

 さて、さらに北へ行くと、道はやがて大学の敷地(大岡山南地区)によって行く手を阻まれますが、そこにある門からキャンパス内に入ると、北へ伸びるイチョウ並木があり、これが古道の道筋とほぼ重なっているようです。その証拠に並木道が途中から大田区(北千束)と目黒区(大岡山)の区境となるのです。このような境界線が古道と重なる例は随所で見られます。

 
(旧街道は大学構内に取り込まれ、その名残がイチョウ並木となっている)

 とにかく、イチョウ並木を抜けて、大学正門を出ると、そこは大岡山駅前です。
 なお、イチョウ並木南端の門から西へ下る坂は「神明坂」といい、石川村の鎮守、神明社があったことに由来します。現在の石川神社で、坂の途中から参道があります。坂の下はいうまでもなく呑川の谷です。

(旧石川村の鎮守・石川神社)

 さて、もう一度、東雪谷・長慶寺下の庚申塔に戻って、今度は尾根道をたどってみましょう。

   雪ヶ谷台地の尾根道

 裾野道から分かれて、台地上へ向かって登るのが「花抜坂」で、日蓮が洗足池から池上へと向かう途中、野花が美しく咲き乱れるこのあたりで、思わず花を手折ったことから花抜き(または花の木)の地名が生まれたという伝説にちなむ坂名です。まぁ、あくまでも伝説ですが、この道が鎌倉時代から存在したことは考えられます。
 昔は曲がりくねった坂で、両側が高い崖になっていて、坂下は竹藪だったといいますが、現在は直線化され、住宅が並んでいます。坂を登った右側が大田区立池雪(ちせつ)小学校で、創立は明治11年という古い学校です。もとは坂下にあり、明治37年に現在地に移りました。
 そして、坂を登りきって振り返ると、彼方に本門寺の本堂と五重塔が望まれます。北からこの道をたどってきた昔の参詣者にとっては感動的な眺めだったに違いありません。今は住宅街に埋め尽くされていますが、昔は眼下に呑川の流れと田園風景が広がり、その向こうに緑の丘陵が連なり、その上に大伽藍が立ち並んでいたわけです。日蓮上人を慕う信者はどんな思いでこの風景を眺めたことでしょう。この場所に花抜き伝説が生まれたのも分かる気がします。ただ、当時は相当な難所だったことも確かでしょうが…。

 
(急勾配の花抜坂。そして、坂上から振り返ると…)

 さて、この道はこの先、住宅街の中を坦々と進みます。台地の縁を行くので、左に折れる道は呑川の低地へ向かって急激に下る坂道ばかりです。このうち、雪谷八幡神社の前を通って裾野道に下るのが「宮前坂」で、その先には呑川にかかる宮前橋があります。

 ところで、この尾根道の東側に並行して現在の幹線道路である荏原病院通りが通っています。長慶寺の門前から池雪小学校の東側を通って中原街道まで通じる2車線道路で、バスが走っています。このルートのちょうど真ん中に荏原病院があります(東雪谷4-5-10)。昔は伝染病の専門病院で、明治31年に隔離病舎として世田谷村(いまの世田谷区宮坂)に開設されたのが始まりで、昭和9年に地元の大反対を押し切って、同じ荏原郡の雪谷の地に移転してきました。荏原病院通りが整備されたのもその頃です。
 大正以降の新しい道である荏原病院通りは古道とは呼べないように思えますが、実はそうとも言い切れません。
 大正から昭和初期にかけて雪谷地区では耕地整理が行われ、地域を通っていた昔の道が直線的に引き直されたのです。その結果、花抜坂を登って曲がりくねりながら中原街道へと通じていた古道は現行ルートより東寄りを通っていた区間では荏原病院通りに組み込まれたようです。つまり、かつての1本の古道が花抜坂から通じる住宅街の道と、その東側に並行する荏原病院通りの2本の道を生み出したと考えたほうがよさそうです。しかも、この区間の大部分は病院通りに近い道筋を辿っていました。実際、この地域の歴史遺産はすべて荏原病院通り沿いに見られます。2か所に庚申堂があるのです。

 荏原病院前の庚申堂(東雪谷3-4-4)にある2基の庚申供養塔は享保5(1720)年のものと年代不詳のものですが、いずれも戦災で上部が失われています(この付近から大岡山にかけて昭和20年5月の空襲でまさに火の海になったという話が伝わっています)。
 また、その北方、東雪谷3-8-4にある庚申堂には天和3(1683)年建立の釈迦如来を彫った題目供養塔と、「北向庚申」の俗称をもつ享保14(1729)年の庚申供養塔が並んでいます。

 
(荏原病院通りには2か所の庚申堂がある。左写真の庚申塔はいずれも戦災で上部が欠けている)

 さて、住宅街の尾根道も荏原病院通りもやがて東急池上線の線路と出合います。
 池上線は大正11年に蒲田~池上間で開業した後、翌年に雪ヶ谷(現在の雪が谷大塚駅より少し五反田寄りにあった駅)まで延長されます。そして、昭和2年に雪ヶ谷から桐ケ谷(戦災により廃止)、さらに大崎広小路まで開業し、五反田まで繋がったのは昭和3年のことです。いま我々がいる地点は昭和2年に開通したわけですが、雪ヶ谷の台地を深い切通しで通り抜けています。つまり2本の道は線路の上を橋で越えているわけです。
 尾根道が通るのは八幡橋という木橋でしたが、老朽化が激しく、昭和32年にコンクリート橋に架け替えられ、名前も永久橋に改められました。一方、荏原病院通りの橋はアーチ形の鉄橋で、この地域の地名(荏原郡池上町大字雪ヶ谷字笹丸)をとって笹丸橋と命名されました。現存する大田区最古の道路橋(昭和2年架橋)だそうです。いまは切通しに沿って桜が植えられ、花見の名所となっています。

 
(池上線をまたぐ赤いアーチの笹丸橋とその向こうに永久橋。右写真は永久橋のたもとから石川台駅を見下ろす)


 それにしても、石川台駅の西側で裾野道はガード下をくぐるのに、駅の東側の尾根道は線路の遥か上を通るわけですから、台地の高低差の大きさが分かります。
 さて、2本の道はいずれも池上線を越えると坂を下り、中原街道にぶつかります。昔の中原街道は呑川低地から台地へと急坂を登っていて難所となっていましたが、大正時代に切通しを開削することで勾配を緩和しました(大正12年完成。「中原街道改修記念碑」が洗足池畔にあり)。この改修の結果、中原街道と交差する道もいったん台地を下ることになったのでしょう。

 地図⑤(明治39年)


 地図⑥(昭和13年)


   洗足池

 せっかくですから、洗足池にも寄っていきましょう。

 
(洗足池と弁天島)

 中原街道を都心方面に向かうと、まもなく北側に広々とした水面が広がります。それが洗足池。周辺の湧水を集め、流れをせき止めた灌漑用の溜池で、古くは千束池、あるいは千束の大池などと呼ばれました。池畔に鎮座する千束八幡神社は平安時代の貞観2(860)年の創建と伝えられ、奥州征伐に向かう源義家が戦勝祈願したとか、平家打倒の兵を挙げた源頼朝の軍勢が安房から鎌倉へ向かう途中に陣を張り、そこに現れた野馬が後に宇治川の先陣争いで有名になった名馬「池月」だったなどの伝説があり、また勝海舟がその風光を愛し別邸を建てた土地としても知られています(勝夫妻の墓あり)。

 
(千束八幡神社と妙福寺の日蓮上人像))

 ところで、「洗足池」が日蓮上人が池上に向かう途中に立ち寄り、池畔の松に袈裟を掛けて休息し、池の水で足を洗ったという伝説に基づく名称であることは有名です。実際、池の東側にある御松庵・妙福寺(日蓮宗)には「袈裟掛けの松」(現在は3代目)が実在し、幕末に安藤広重も描いています(右画像)。しかし、実際に日蓮が洗足池に立ち寄った記録があるわけではなく、それどころか日蓮がどのような経路で池上に来たかも確かな記録は残っていないようです。
 大田区の『史誌』40号(小特集「久が原・雪谷・千束」、1994年)に掲載された座談会の中で地元の郷土史家・岸田政光氏(明治45年生まれ)が、洗足池と日蓮にまつわる伝説は幕末、堀ノ内・妙法寺の住職が池の畔に御松庵を建てて隠居した頃に生まれたものと述べています。古くからある千束という地名の読みから着想を得て日蓮が足を洗った「洗足」伝説が生まれたということでしょうか。
 実際、「洗足池」の表記が一般化したのは、大正時代、乗客不足に悩む目黒蒲田電鉄(のちの東急電鉄)が都会の行楽客を呼び込もうと日蓮伝説をPRに利用したのがきっかけだったといいます。
 伝説の真偽はともかく、洗足(千束)池が江戸時代から景勝地として知られ、今でも散策の好適地であることは間違いありません。

 古道探索者としてもう一つ、洗足池畔で見ておきたいのは、妙福寺(南千束2-2-7)境内にある馬頭観音供養塔です(下写真)。天保11(1840)年に建立されたものですが、これが道標を兼ねていて、正面に「北 堀之内 碑文谷 道」、左側面に「東 江戸中延」、背面に「池上 大師 道」、右側面に「丸子稲毛」と刻まれているのです。これは我々が辿っている旧街道と中原街道の交差点に北向きに立っていたものを移してきたのでしょう。東へ行けば江戸・中延というのは中原街道。その反対方向、神奈川方面が丸子、稲毛です。そして、池上・大師は言うまでもなく、これまで我々が辿ってきた道で、池上本門寺、そして(六郷経由で)川崎大師へ行けるという意味です。そして、もちろん、北の堀之内、碑文谷が我々の進む方向となります。

(妙福寺境内にある道標を兼ねた馬頭観音)


   中原街道~大岡山駅前

 さて、ルートに戻りますが、その前に見ておくべきものがあります。
 洗足池から中原街道を西へ戻る途中、南千束3-29に庚申塚があります(下写真)。先ほども触れた九品仏道の分岐点です。
 品川の浄土宗を信仰する御忌講中の人々が建立した庚申塔で、延宝6(1678)年に建立したのを文化11(1814)年に再建したと記されています。正面には「庚申塚」の文字を刻み、側面に「従是九品仏道」と彫られています。かつては道の向い側の3-30にあったのが移されました。この道は中原街道から北へ分かれ、すぐ西に折れて、今は東工大の敷地で分断されていますが、稲荷坂を下って九品仏へ向かったのです。

(庚申塚と九品仏道

 では、世田谷へ向かって「六郷田無道」の旅を続けましょう。
 中原街道までやってきた2本の尾根道。花抜坂に直結した道は中原街道を越えて、そのまま北へ繋がり、スムーズに大岡山駅前まで行けます。この道、中原街道以北には「府道102号・目黒池上線」の名前があります。
 一方、荏原病院通りは中原街道で突き当たりになっています。正面は大田区立洗足池小学校で、かつては校地を斜めに貫く道があり、もう一方の道に合流していた時代もあったようですが、現在は存在しません。洗足池小学校の北側に出穂山地蔵堂があり(南千束3-28-3)、子育地蔵尊や庚申塔などがあるのは、この消えた道沿いにあったものでしょうか。出穂山はこの付近の古い地名です。

(出穂山子育地蔵堂)

 とりあえず、ここからは花抜坂からまっすぐ来た道の続き、府道102号線をたどっていきます。
 再び坂をゆるやかに登っていくと、やがて左手は東工大のキャンパスとなります。この大学敷地の石川台地区は2本の古道にはさまれた形になっているわけです。
 とにかく、ここから大学の敷地内を柵越しに覗きながら行きましょう。すると、赤い鳥居のある小さな祠が見えてきます。道路を背にしていますが、出穂山稲荷神社です。そして、よく見ると、道路側から見て祠の左側に小さな庚申塔があるのが分かります。大田区『史誌』第12号(1979年)所収の奥原滋「大田区の道しるべ」によると、この庚申塔は享保10(1725)年建立で、道標を兼ねていますが、下部が欠損しており、右側面に「これより」、左側面には「これよりお」の文字しか残っていないということです。奥原氏は「『これよりお』とあるから奥沢道ではないかと思われるが確認はできない」と書いています。奥沢道だとすれば、九品仏道のことですから納得できます。なぜなら、まさにこの稲荷社のある地点に東から突き当たる道こそが先ほど中原街道から庚申塚で分かれた九品仏道だからです。九品仏道はここで東工大によって分断され、校地の西側に稲荷坂に通じる道が続いているわけです。

 
(東工大の敷地内にある出穂山稲荷と庚申塔。「これより」の文字が読める)

 そして、ここでもうひとつ見逃せないのは、この九品仏道を東へ少し入った民家の前にも道標を兼ねた石塔があることです(南千束3-27-10、下写真)。これは西国三十三カ所、坂東三十三カ所、秩父三十四カ所の観音霊場巡礼を達成した記念に建立された百番巡礼供養塔で、天明2(1782)年のものです。この供養塔が道標を兼ねていて、右側面に「右いけかみミち 左めくろみち」、左側面に「くほんふつみち 志な加わ(品川)ミち」と彫られているのです。まさに、我々が辿っている道と九品仏道の交点を意味するものでしょう。こういう道標を見つけるのは古道探索の大きな喜びです。

(道標を兼ねた百番巡礼供養塔)

 出穂山稲荷神社を過ぎて、さらに北へ行くと、まもなく道は大岡山南口商店街となります。そして、道の左側にまた小さな社があります。これが赤松稲荷神社で、赤松の大木があったことにちなむ名前です。この神社の左側に明治11年に馬込小学校の分校が設立され、翌年、赤松小学校として独立、その後、大正8年に大井町線北千束駅そばに移転しています。

(赤松稲荷神社)

 さて、東急大井町線・目黒線の大岡山駅前までやってきました。雪ヶ谷の台地の裾野と尾根を通る2本の古道はここで再び出合い、そして、またそれぞれの道を行きますが、この先はページを改めることにします。


  昭和6年の地図でみる六郷田無道(池上~大岡山)

赤線が六郷田無道。緑線は本文中に登場するその他の古道)


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