霧多布~根室・落石  1997年8月7日

 1997年8月の北海道自転車ツーリング。前日は釧路を出発して浜中町・霧多布岬まで走り、生まれて初めてのキャンプを経験。今日は霧多布湿原を通って、最果ての美しい風景の中、根室市をめざします。そして、夜にはまたまた人生で初めての経験をすることになりました。

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 北海道の東部・浜中町にある霧多布(きりたっぷ)岬キャンプ場にいる。
 テントの中で迎える初めての朝。早起きカラスの声で起こされる。まだ4時だが、道東の朝は早い。すでに闇は去りつつある。
 薄っぺらなマットに寝袋で、決して寝心地がいいわけではないのに、夜中に目が覚めることもなく、実によく眠った。
 灯台の霧笛が鳴っている。外は霧が立ちこめ、灯台の光も霞んで見える。気温は15度。8月なのに、東京では考えられない涼しさだ。
 乳白色の風景の中を真っ黒なカラスが飛び交い、各テントの前に放置されたゴミを漁っている。まだ誰も起きてこないから、わが物顔である。無論、奴らは僕のテントになど見向きもしない。何もないから…。



 もうひと眠りするうちに、外はすっかり明るくなった。いつしか霧も風で払われ、青空が広がっている。霧笛の音も止んだ。今日も引き続き天気はいいらしい。
 パンとお茶で簡単な朝食の後、霧で濡れたテントをしばらく乾かし、撤収も無事に済ませて、7時40分に出発。早起きしたわりには出発が遅くなってしまったが、まぁ、そんなに急ぐ必要はない。

 霧多布市街方面へ戻る途中を右へ折れると東海岸に面した展望台があり、広い駐車場やバス停、売店などが揃っている。灯台からはかなり離れているが、ここが霧多布岬観光の中心らしい。なるほど眺望は抜群で、灯台のある岬の先端からずっと連なる海蝕崖が一望できる。足元の急斜面には白や黄色の花が咲き、岩礁の透けて見える海面上をウミウやオオセグロカモメが飛び回っている。
 そういえば、ここからの眺めを何年か前のカレンダーの風景写真で見たことがある。忘れていた記憶が眼前の風景と劇的に一致して蘇ってきた。



 今はまだ売店も閉まっているし、僕のほかには誰もいないが、もうじき昨日の琵琶瀬展望台のような賑わいになるのだろう。
 そう思っていたら、さっそく浜中駅からの一番バスが到着し、リュックサックを背負った青年が1人降りてきた。折り返しには時間があるらしく運転手も降りてきたので、記念写真のシャッターを頼むと、背景や光線の具合を勘案してあちこち位置を変えながらベストポジションを探してくれた。
 運ちゃんによれば、夏の霧多布は霧で何も見えないことが多く、こんなに晴れているのは極めて珍しいとのこと。昨日の晴天がほぼ2週間ぶりだったという。僕は相当ツイているようだ。
 昨日は琵琶瀬展望台からの景色がとてもきれいだったと話すと、あそこもいつもなら飛行機の窓から雲海を見下ろすようなものだと言われた。この幸運は大切にしたいものである。

 8時20分に岬を出発。
 今日は根室まで行く予定で、海沿いにルートが通じているが、内陸の酪農地帯も少しは走ってみたい。ちょうど霧多布湿原を縦断して内陸部へ通じる「M・Gロード」というのがあるので、その道を選ぶ。



 「M・Gロード」とはMarshy Grassland Roadの略で、まさに湿原のド真ん中を貫く立派な道。両側に果てしない湿原を眺めながら3キロ余り続く。紫色のアヤメのような花が点々と咲いているのはノハナショウブという種類だとあとで知った。

 湿原の対岸の丘陵の裾に霧多布湿原センターという施設があり、ちょうど開館時刻の9時になったので立ち寄ってみる。
 2階の展望フロアの望遠鏡で湿原をつぶさに観察していると、遥か彼方の水辺につがいの丹頂鶴を発見。センターの人に話を聞くと、丹頂鶴は夏の間はペアごとに道東各地の湿原で子育てをし、冬場は釧路湿原の鶴居村にある給餌場に集結して群れで越冬するそうだ。

 9時40分に湿原センターを出発。
 相変わらず晴天で、陽射しも強くなってきたが、湿原の向こうに見えるはずの霧多布岬はいつしか霧に掻き消されて、すっかりその姿を隠していた。
 茶内へ向かって丘陵地帯を上る。林の中からジーという単調な持続音が聞こえてくる。どうやらセミの声らしいが、本州では聞かない声である。北海道のセミ事情については詳しくないが、勝手に「エゾゼミ」ということにしておこう(あとで調べたら、それは本当にエゾゼミというらしかった)。
 それからキリギリスの声も聞こえたし、オレンジ色の羽に斑点のある蝶もたくさん飛んでいる。大きなアブも多い。路上にもいろいろな虫がいて、避けきれずにタイヤで轢いてしまったりする。蛾やアブなら「まぁ、いいか」と思うが、蝶だと心が痛む。

(茶内の牧場)

 4キロほど上ると、林が途切れ、周囲に牧草地が広がった。うねうねと続くなだらかな稜線が美しく重なり合っている。波打ちながらまっすぐ伸びる農道が風景に奥行きと広がりを与え、サイロのある牧舎がアクセントをつける。こんな風景に出会うと北海道を旅する幸せを感じる。



 まもなく根室本線の茶内駅に出た。釧路から66.8キロ、根室からは68.6キロだから両駅のほぼ中間地点である。昔のままの駅舎が残っているが、無人駅で、旅の宿としても使えそうだな、と思う。自転車旅行だとこんなことばかり考えるようになる。

 
(茶内の踏切から釧路方面と根室方面を望む)

(茶内駅)

 茶内駅をあとにさらに北へ行くと国道44号線に出合い、これを根室方面へ向かう。
 かなり起伏の多い牧場地帯を4キロほど走ると、沿道に「茶内酪農展望台」というのがあった。広くて立派な駐車場が整備され、売店もあるが、観光客の姿はない。

(展望台からの眺め)

 とりあえず、展望塔に登ってどこまでも広がる緑野を見渡したが、とにかく暑い。売店でソフトクリームを売っていて、いい齢をした男がひとりでソフトクリームを食べている図というのは物悲しいものがあるな、と思いながらも、つい買ってしまう。たちまちクリームが溶けてポタポタと垂れてきた。

 さらに2キロ余り走ると浜中駅入口の信号。角の商店でスポーツドリンクとキャンディーを買い、ここで国道を離れて再び海岸方面へ南下する。
 舗装工事中の砂利道に自転車のタイヤの跡が何本も残っている。ほかにも仲間がいるんだな、と思いながら走る。

 (浜中駅)

 浜中駅に寄り道。鉄道で茶内から7キロ地点にあり、霧多布への玄関駅である。駅舎は瀟洒な建物で、駅員はいないものの、キオスクがあったので、「北海道新聞」(1997年8月7日付)を買い、昨日グアムで254人乗りの大韓航空機が墜落炎上したという事故を初めて知る。旅をしていると新聞もテレビも見なくなるから世の中のニュースがほとんど入ってこないが、これは恐らく精神衛生上は好ましいことなのだろう。

 今日の1面トップは北海道の今年のコメは7月の好天のお陰で豊作になりそうだという記事。実際、7月の北海道は高温続きだったらしく、同じ1面に「道内の今夏(6-8月)の気温は『平年並み』と予想されたが、7月の暑さから平均気温が平年より高い『暑夏』になる可能性が出てきた」と報じている。8月の予想も当初の「低温」から「平年並み」に修正されたらしい。
 釧路地方面にも「心弾む青空」と題して、昨日の琵琶瀬展望台のカラー写真を添えた次のような記事が載っている。

「6日の釧路、根室地方は日本海にある高気圧の影響を受け、7月20日以来17日ぶりの晴天に恵まれた。各地の最高気温は、阿寒町と標津町で29.4度、別海町で29.2度、鶴居村で28.8度、根室で28.1度まで上がる夏日となった。釧路の最高気温は21.5度。この陽気に誘われ、浜中町の琵琶瀬展望台では朝から観光客でにぎわい、親子連れなどが放牧された道産馬とたわむれる姿が見られた」

 さすがに道東だから「暑さ」の基準が本州とは違うが、それでも根室の気温は平年より7度近く高い(釧路はほぼ平年並み)。しかし、記事の最後が少し気になる。

「釧路地方気象台によると、上空に寒気が入り込み、天気は7日から再び崩れ始め、釧路、根室地方は時折雷雨の降る曇り空が続くという」

 今のところはまだ天候に変化の兆しは見えないようだが…。

(牛横断注意)

 ホルスタインの絵入りの「牛横断注意」の標識が(傾いて)立つ牧場地帯や信州あたりの高原を思わせる雑木林の中を爽快な気分で走っていくと、まもなく道道142号線にぶつかり、北太平洋シーサイドラインに復帰。
 この近くに畑正憲さんのムツゴロウ動物王国があって、売店などもあるらしいが、素通り。

 まもなく前方に海が見えてきた。左手には木立の向こうに湿原が広がり、小さな沼も見える。

(海が見えてきた)

 右に左にカーブしながら海岸まで下ると、「幌戸」の標識。ローマ字でPorotoと添えてある。数軒の人家があるだけのごく小さな集落。海辺の砂利の広場は昆布干し場だろう。

(幌戸)

 左側の沼はポロト沼。緑濃い丘陵に取り巻かれた湿原の中のささやかな水面に薄青い空が映っている。
 そんな最果ての風景の中を続く灰色の大蛇のような道路は前方の岬にぶつかると、その斜面をくねくねと這い上がって丘の彼方に消えている。また上りか…。

(ポロト沼) 

 海と湿原をあとにして、きつくて長い坂をほぼ上りきったところで、再び左側の木々の合間に湿原の一部がちらりと見えた。そのただなかにゴマ粒ほどの白い点が2つ。アッと思って自転車を停め、双眼鏡を取り出して覗いてみると、湿原の奥でひっそりと暮らす2羽の丹頂鶴の姿がはっきりと確認できた。

(彼方の湿原に丹頂。この写真では分かりませんね)

 ツーリングのバイクが勢いよく走ってきて、あっという間に走り去る。あのスピードでは鶴の存在になど気がつくことはあるまい。
 振り向けば、遥か彼方からはチャリダーがエッチラオッチラ坂を上ってくる。涼しい顔で軽々と上ってこられると悔しいが、坂で悪戦苦闘している様子を目にすると、苦しいのは自分だけじゃないんだ、と安心する。

 ところで、やってきたのは女の子であった。真っ赤な顔をしてハンドルをふらつかせながら上ってきた彼女に丹頂鶴がいると教えてあげる。
「あそこの白いのですか。あっ、ホント…」
 貸してあげた双眼鏡を覗き込んで、たいして大きく見えるわけではないけれど、いたく感激した様子。
「でも、よく見つけましたねぇ」
 確かに鶴のいる場所は数百メートルも離れていて、自転車でゆっくり走っていても普通なら見過ごしてしまうに違いないが、生き物を見つけることに関してはかなり目敏いほうだという自負はある。要するに脇見ばかりしているわけだが。
 少し遅れて、連れの女の子が重い足取りで自転車を押して上ってきた。
「何が見えるんですかぁ」
「ツル!」
「えっ、どこどこ」
 彼女の足取りも急に軽くなリ、息を弾ませてやってきた。
「ほら、これ貸してもらっちゃった」
 先の女の子から双眼鏡を受け取って、後から来た子も熱心に覗き込んでいる。これだけ感激してくれると教えてあげた甲斐があったというものだ。
 彼女たちも今日は霧多布からで、これから尾岱沼まで行くという。まだまだ先は長い。
「じゃ、お先に。気をつけて…」
 坂の上でひと息ついているふたりと別れて一気に下ると、また海岸に出て、その先はまたまた長い長い上り。かなり消耗する。いくら水分を補給しても、すぐに汗となって流れ出てしまう。

 反対側からも自転車の女の子が上ってきた。続いてもう1人。さらにまた1人。後ろの子ほど疲れの色が濃く、ペースもゆっくり。最後に大きく遅れた子が疲れ切った様子で自転車を押して上ってくる。なんでこんなに辛い思いをしなくちゃいけないの、という表情である。女ばかりの自転車4人旅か。大変だなぁ、と思う。

 道は海辺へ下りたかと思えば、また上って丘を越えるという繰り返しで、どこまでも続いていた。
 丘陵に分け入れば、笹や蕗の目立つ草地や森林で、きっと野生の獣たちが潜んでいるに違いないと思わせる。
 あたりを見回しながら、ゆっくり走っていると、樹林の奥に何かいる。エゾシカかと思ったら、放牧の馬たちが陽射しを避けて木陰で休んでいるのだった。

(恵茶人の昆布干し場と沼)

 低地へ下れば、淡い緑の絨毯のような湿原や牧草地が広がり、その中に空を映す鏡のような沼が点在し、水辺でも牛や馬がのんびりと草を食んでいる。

(牛が放牧された沼地)

 そして、太平洋。今は真夏のはずなのに北の果ての浜辺には人の姿もない。自転車を止めて、波打ち際を歩いてみた。

(真夏なのに寂しい海辺)

 次から次へと広がる風景のすべてがあまりに美しくて、それが却って寂しさを感じさせる。貰人とか恵茶人とか地名の読み方も定かではなくなってきた(ちなみにモウライト、エサシトと読むようです)。



 浜中から20キロ近く走ったろうか。道はやがて海辺を離れて、波打つ台地の上を内陸へと向かう。まもなく浜中町から根室市に入ったが、根室の市街まではまだ40キロ近くある。
 いつのまにか雲行きが怪しくなってきた。日が翳り、遠くで雷鳴が聞こえる。新聞の予報通りになってきた。

(浜中町と根室市の境界付近)

 道なりに北へ4キロほど走ると、根室本線の初田牛(はったうし)駅に突き当たる。駅のほかには何もない。もちろん、無人駅で、ホームにも線路脇にも夏草が生い茂り、小さな草花がたくさん咲いている。
 ついに雨がポツポツと落ちてきたので、後ろに積んだテントや寝袋などをビニール袋でくるんだり、バッグにカバーをかけたり、と雨対策を講じてから初田牛を出発。

(何もない無人駅・初田牛)

 次の別当賀(べっとが)駅までの8キロ余りはほぼ根室本線と並行して走る。
 木立や荒れ地の向こうに線路が見え隠れし、海側には「防霧保安林」という標識がある針葉樹林が続く。
 この辺は列車で何度も通ったことがあって、いかにも日本の果てを実感させる車窓風景に深く感動したものだが、今日はその風景の中を自転車で風を切って走っている。まさかこんな日が来るとは! なんて素敵な現実だろうか、と思う。

 雨がしだいに強くなってきた。先ほどまでの好天が嘘のようだ。ただ、青空ものぞいているから、通り雨だろう。少しぐらい濡れても、どうってことはないが、とりあえず別当賀まで走って駅で雨宿りしようと思っていたら、まもなく雨は上がり、薄陽が射してきた。

(別当賀駅)

 別当賀に着いた。貨車の廃物利用の待合室がある無人駅で、誰もいない。
 厚岸以来ずっと内陸部を辿ってきた根室本線のレールは別当賀と次の落石の間で太平洋が打ち寄せる海食崖の上に出る。いわゆる絶景区間なのだが、一方の道路は線路を右に見送って牧草地や森林の中を行く。
 周囲はしだいに鬱蒼としてきて、いつエゾシカが出没してもおかしくない雰囲気なのだが、なかなか出会うことはできない。
 深い森に覆われたオンネベツ川の谷を下って上って、別当賀から10キロ近く走ったところで再び根室本線と再会して踏切を渡り、T字路に突き当たる。これを左へ行けば根室方面、右へ行くと落石岬である。迷わず右折。

 落石岬は根室市の南西端から太平洋に突き出た半島状の岬で、いまだ俗化されていない穴場的な美しいところであるという。過去の北海道旅行では訪ねる機会がなかったので、今回はぜひ行ってみようと決めていた。時刻は14時半を過ぎたところ。

 まもなく高台の下に落石漁港が広がり、その向こうに台地状の岬が見えてきた。しかし、いつのまにか海上には霧が発生し、急速に岬を包み込もうとしている。
 あれでは行っても何も見えないかもしれない。
 そう思いつつも急坂を下って漁港前を過ぎ、岬への急坂を上りきったところにゲートがある。その先は車両進入禁止。ここから岬の先端まで1キロ余り歩かなくてはならないようだ。サカイツツジの自生地として国の天然記念物に指定されているせいだろう。説明板によれば、サカイツツジはサハリンの北緯50度付近、つまり戦前の日露国境付近に咲いていたことからの命名で、日本ではこの落石岬にだけ自生しているという。

 ゲートの前に自転車を残して草原の中を歩き出すと、まもなく左手に旧落石無線局の廃墟がある。戦前にはドイツの飛行船ツェッペリン号やあのリンドバーグとも交信した栄光の歴史をもつそうだ。
 
 落石岬というのは基本的に霧多布岬などと同じような草原台地なのだろうと想像していたが、そうではないらしいことはすぐに分かった。
 無線局の廃墟前から木道が整備され、やがて両側がアカエゾマツの林になり、地面にはミズバショウが大きな葉を広げている。極めて微妙な生態系の上に成り立った美しい原生林だが、ミズバショウの葉陰にはジュースの空き缶が2つ3つ転がっている。困った奴がいるものだ。こんなところまで一体何のためにやってきたのだろうか。
 林を抜けると、今度は松の木が散在する不思議な湿原が広がる。立ち枯れた木も目につく。湿原といっても、釧路湿原や霧多布湿原とは印象がずいぶん違って、むしろ尾瀬や日光の戦場ヶ原あたりを思わせる。ここが海のそばであることを忘れさせる光景だ。実際、寒冷な気候のせいで、ここには高山植物も数多く自生しているという。落石岬はまさに秘境というに相応しい岬なのであった。

 
(落石岬の湿原)

 湿原を取り巻くアカエゾマツ林を再び突っ切ると、霧が深くなってきた。くすんだ緑の上を這うように霧が押し寄せ、木道も前方で掻き消されている。「根室十景・落石岬」の立て札が現われたが、何も見えない。わずかに霧笛のくぐもった音色だけが曖昧模糊とした空間に響いている。

(霧の落石岬)  

 赤と白に塗り分けられた落石岬灯台は霧の中から不意に現われた。視界は50メートルにも満たず、間近に迫るまで気がつかなかった。ここまで来る間に数人のライダーやチャリダー(歩いていても服装で見分けられる)と狭い木道の上ですれ違ったが、灯台周辺には人の気配はない。

(落石岬灯台)

 岬の突端にいるはずなのに風景は真っ白で、海すら見えず、ただ波のざわめきだけが聞こえる。すっかり輪郭を失った大地のはずれまで歩を進めて、恐る恐る下を覗くと、ミルク色の霧の底で白波が渦巻いているのが微かに分かった。



 幻想的な霧に包まれて、岬の全貌までは分からなかったが、素晴らしいところで、わざわざやってきて本当によかった。しかし、晴れていたら、風景の印象はまったく違ったものになるのだろう。そんなことを考えながら、木道を引き返す。

 松林を抜けて中央部の湿原に出ると、霧がだいぶ薄くなって、視界が回復してきた。そして、ついにエゾシカの姿を発見。100メートル以上は離れているだろうか。4頭いて、うち2頭は子ジカ。あとの2頭は母親のようで、こちらの様子を窺っている。これまでにも列車の窓からならエゾシカは何度も目撃したが、こうして同じ空気を共有するのは初めて。野生動物と自然界で対峙する時には独特の緊張感が漂うものである。
 白い尻尾を見せて跳ねるように霧の彼方に遠ざかっていくシカを見送り、無線局跡付近まで戻ると、なだらかにうねる草原にまたシカがいた。今度は立派な角があるからオスだろう。かなり草丈が高いので見えにくいが、3頭は確認できた。

 さて、電線でさえずる野鳥の聞き慣れない歌声に耳を傾けながら愛車のもとに戻ると、明らかに異変が起きていた。
 自転車が倒れ、閉まっていたはずのフロントバッグのファスナーが開き、中にあったキャンディーの袋が空になってそばに落ちている。先ほど浜中で買ったばかりのもので、個別包装されていたのだが、キャンディーはひとつも残っておらず、空袋だけが周囲に散乱しているのだ。まさかカラス?
 頭上の電線にカラスがいて、「オレたちは知らねえよ」とでも言いたげに、とぼけた声でカアと鳴く。もし犯人が人間ならキャンディーだけを食い散らかして逃げるようなことはしないだろう。ほかに無くなっているものもないようだ。しかし、カラスどもの仕業だとしたら、彼らはフロントバッグからキャンディーを見つけ出し、内袋をいちいち破って中身だけ食べたというのだろうか。いくらなんでもそこまでするか?
 散らかったゴミを拾い集めながら、真実を知っているに違いないカラスをもう一度見上げると、こちらを嘲笑うかのように、またカアと鳴いた。

 悔しいというよりも、どうも腑に落ちない気分で、とにかく岬をあとにする。再び雨が落ちてきて、たちまち本降りになった。時刻は16時。
 今日は根室郊外にある市営キャンプ場に泊まるつもりだが、あと15キロほどありそうだ。雨の中でテントの設営をしたり買い物や食事に出かけることを考えると面倒になってきた。今日は宿に泊まろうか。さっき落石の漁港を見下ろす高台に民宿があったから、とりあえずそこを訪ねてみよう。
 強い雨の中、俯き加減で坂を上っていくと、「民宿カジカの宿」の看板が見えてきた。わりと新しい建物で、駐車場にはバイクが並んでいる。

 玄関口で声をかけると、色白の若奥さん風の女性が出てきた。
「あの、今日、部屋は空いていますか?」
「ちょっと待って下さい」
 彼女は奥へ戻って誰かに尋ねている様子。予約なしの飛び込みだし、こうして待っている間というのは、なんとなく肩身の狭い気分である。
「じゃあ、どうぞ」
 やれやれ、よかった。助かった。
「自転車ですか。濡れない場所はそこの軒下ぐらいしかないんですけど…」
 服装でこちらの素性はすっかり見抜かれているのだった。本日の走行距離は80.3キロ。通算では293.3キロになった。

 「カジカの宿」は若い夫婦がやっているアットホームな宿だった。部屋は男女別相部屋で、ユースホステルの雰囲気にも似ている。しかし、宿泊客の年齢層は比較的高く、ほとんどが30代以上。札幌からの老夫婦や旭川のタクシー運転手のおじさんもいた。みんなバイクかクルマで、自転車は僕だけである。

 夕食は18時半から食堂で。今日は途中に食事をするような店がまったくなくて、昼食抜きになってしまったから、もう腹ペコである。テーブルには花咲ガニ、北海シマエビなど海の幸が賑やかに並び、僕のようなビンボー旅行者にとっては嬉しくなるようなご馳走だった。



 夕食後は自家製の果実酒など飲みながら談笑していたら、星空がきれいだというので、みんなで外へ出てみた。
 雨が降っているとばかり思っていたのに、いつのまにか晴れていて、見上げていると、目が慣れるにつれて星の数が増えてきた。
 星を観るのが楽しみで旅をしているという夫婦がもっと暗くて星空観察に向いた場所へクルマで行ってみるというので、便乗させてもらった。
 星空といえば、かつて長野県の上高地に近い中の湯温泉に泊まった時、ひとり夜道を歩きながら見上げた空が忘れられない。まるで天空のすべてをぎっしり埋め尽くすかのような、気味が悪いほどの星の数であった。あんな空をもう一度観てみたいと思う。

 結局、5人が乗り込んだクルマは完全な暗闇を求めて昼間僕が走ってきた道を別当賀方面へ向かった。夜はエゾシカが頻繁に出没するから注意するように言われたので、前方に目を凝らす。周囲は鬱蒼とした森林で、人家も街灯もないし、対向車も来ない。まったくの闇であるが、時々、ヘッドライトが照らし出す中を霧が過ぎていく。たちまち星も隠れてしまうが、霧は一様に立ち込めているわけではなく、少し走るとまた晴れてくる。
 だいぶ走って、霧も晴れたので、道路脇にクルマを止めて外へ出た。
「わぁ、すごい!」
 誰かが歓声をあげる。まさに空一面に無数の星が瞬いている。天の川もはっきり見える。晩秋の上高地のあの星空ほどではないにしても、湿度の高い夏としては最高級の星空だろう。
「あ、流れ星!」
 また誰かが叫ぶ。僕は見損なった。まだ流れ星というものを見たことがない。そういうと驚かれた。
「キャンプしているのに見たことがないの?」
「はぁ…」
 なにしろこれまでの人生でキャンプをしたのはまだ昨日の晩だけなのだが、そのことは黙っている。
「あ、また流れ星!」
 また見逃した。もう1人、流れ星を見たことのない女性がいて、彼女も悔しがっている。しかし、暗いところなら、空をずっと見上げていれば、星は案外たくさん流れるそうだ。
「あ、流れた!」
 これは僕の声。星が直線的にスッと流れるのを確かにこの目で見た。なるほど、あれが流れ星というものか。想像していたよりも流れる距離が短くて、あれでは願いごとをする暇などないだろうが、とにかく初めてなので素直に感動した。嬉しい。これで流れ星をまだ見ていないのは1人になった。ますます悔しがっている。
 彼女以外の人は次々と流れ星を発見し、僕も2つ目を見つけた。それはいいとして、かなり冷えてきた。ほかの人は上着を持っているのに、僕は半袖のTシャツ1枚である。そろそろ帰りたいところだが、若干1名まだ満足していないのがいる。早く見つけてくれ。

「あ、流れた、流れた!」
 最後まで取り残されていた彼女がついに感激の叫び声をあげる。めでたし、めでたし。
 結局、僕が目撃したのは2つだけだったが、全部で10個近く流れたろうか。こんなにたくさんの星が流れるものだとは知らなかった。これからはキャンプ場でも毎晩星空を見上げてみることにしよう。

 美しい星空と流れ星にみんなが満足して、宿へ引き返す。
 まもなく、運転手の彼(スターウォッチング夫婦のダンナ)が「あっ」と声を出す。
「なんだ、子ギツネか…」
 一瞬のことで、助手席の僕は気がつかなかった。しかし、みんなの口ぶりではキツネはもうあまり珍しくないらしい。僕は今回はまだ会っていないし、過去の北海道旅行でもエゾシカは相当な数を見ているのに、キタキツネは今は亡き湧網線の車窓からと釧路湿原付近を散策中の2度しか目撃していないのだが。
「あっ」
 今度は僕が最初に気がついた。道路を横切るキツネの姿がライトに浮かび上がる。みんなは「またキツネか」と思っているようだが、僕としては今回の旅で目にした最初のキツネである。単純に嬉しい。
「あ、シカ」
 これも僕。道端にいたメスジカが1頭、森の中に逃げ込んでいった。しかし、一瞬のことで、ほかの人は見逃したようだ。。
 それにしても、夜の動物たちがこれほど活発に動き回っているとは知らなかった。交通事故が多発するというのも頷ける。時刻はいつしか12時近い。
 明日はいよいよ最東端のノサップ岬へ向かう予定である。


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