《世田谷の古道》

登戸道(北回りルート)

 世田谷から多摩川・登戸の渡しへ向かう古道「登戸道」の北回りルートをたどります。

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 現在、世田谷から登戸方面へ行くには世田谷通りを行くのが普通です。しかし、世田谷通りの元になった登戸道(津久井往還)は成城を過ぎると、世田谷通りのルートとは全く違うルートをたどって登戸の渡し場へ向かっていました。現在の世田谷通りに近い道筋が開通したのは明治30年代以降のことで、すでに100年以上が経過していますが、古道とは言えません。しかし、この新ルートの元になった古道が存在したことも確かで、たどってみると、なかなか味わい深い道でもあります。
 ところで、狛江市教育委員会編『狛江の古い道』(1992年)ではここでいう登戸道を「大山道」として紹介しています。世田谷区内で「大山道」といえば二子の渡しで多摩川を渡る矢倉沢往還(現在の国道246号線の前身)ですが、確かに狛江や世田谷でも西部地域の人が大山へ行くのなら、二子の渡しではなく、登戸の渡しで多摩川を渡り、丘陵地帯を越えて長津田付近で矢倉沢往還(大山街道)に出るのが近道だったと思われます。その『狛江の古い道』には、すでに我々がたどった喜多見、駒井経由の「大山道」(登戸道)とは別に「もう一つの大山道」が紹介されています。それが現在の成城以西の世田谷通りの元になったルートです。それをたどってみることにします。

地図①(昭和12年)


 昭和12年の地図①で、赤線で示したのが登戸道。橙色で示したのが、『狛江の古い道』でいう「もう一つの大山道」(和泉線)です。緑色が現行の世田谷通りで、現在の多摩水道橋へ通じる区間は未開通なので、点線で示しています。

 では、登戸道の南回りと北回りが分かれる喜多見・知行院(喜多見5‐19)前からスタートします。
 知行院の門前で登戸道を南へ見送って、西へ向かう道は一般には「筏道」として知られる古道です。奥多摩で伐りだした木材を筏にして多摩川を下り、六郷や羽田まで運んだ筏乗りたちが徒歩で帰った道筋だと言われます。また、武蔵国府のあった府中から武蔵国の海の玄関、品川湊へ通じる道として府中市や調布市、狛江市では「品川道」と呼ばれています。

 
(「いかだ道」の道標に従い、知行院前を西へ行く)

 道はやがて右に曲がり、すぐ左に曲がります。屋敷林に囲まれた旧家が多く、南側には慶元寺や氷川神社の森も見える旧街道らしい道です。

 
(右折して、すぐ左折)

 
(旧家の続く道と路傍の祠)

 やがて、喜多見不動堂(あとで訪ねます)方面の道(仮称・滝下橋通り)が右に分かれ、右後方から「中通り」(または「中道)と呼ばれる古道が合流する三角地帯に地蔵尊(1719年)と庚申塔(1692年)が並ぶお堂と念仏車があります(喜多見7‐7)。

(右へ行くのが仮称・滝下橋通り)

 念仏車とは石の柱にはめ込んだ六角形の車輪の各面に「南無阿弥陀仏」の6文字を刻し、念仏を唱えながら1回まわすと、経典を1巻読んだのと同じ功徳が得られるという素朴な民間信仰の所産です。この念仏車は喜多見村の女性たちが組織した「女念仏講」によって文政4(1821)年に建立されました。

  
(念仏車。「佛」「陀」の文字が見える。右写真は庚申塔と地蔵尊)


(筏道と中通りの合流点。間に念仏車などあり)

 ここで合流する「中通り」は東へ行くと、六郷用水・内田橋の南で登戸道と接続しているので、江戸方面からくる場合、ここまでは中通り経由のほうが近道となります。接続点の道標が「右り ふちう 八王寺(ママ)」となっていたのは、そこから中通りを右(西)へ行くと、筏道に繋がり、府中、八王子方面へ行けるという意味です。

 さて、念仏車を過ぎると、まもなく世田谷区喜多見(旧多摩郡喜多見村)から狛江市岩戸南(旧多摩郡岩戸村、明治22年に合併で北多摩郡狛江村大字岩戸)に入ります。そして、まもなく二の橋交差点で世田谷通りに合流します。

 (二の橋跡)

 筏道はここで六郷用水を渡って、左岸を進んでいました。江戸後期の『新編武蔵風土記稿』(1830年)によれば、二の橋は「板ヲモテ作レリ」といい、「長サ五間幅五尺」でした。長さ約9メートル、幅1.5メートルほどということになります。また、この橋は付近の寺の名をとって慶岸寺橋とも呼ばれていたようです。

 さて、成城から二の橋までの世田谷通りは明治30年以降にできた道ですが、それなりに見どころもあるので、ちょっとたどってみましょう。野田の坂を下った世田谷通りから旧喜多見村の中心部へ向かって古道が左折する地点を過ぎて、世田谷通りをそのまま進むと、大きな交差点があります。左へ行くのは二子玉川方面の多摩堤通り、右へ上っていく坂は成城通りで、「病院坂」と呼ばれていました。ただ、どんな病院があったのかは諸説あって、はっきりしないようです。

(成城3丁目の世田谷通り旧道)

 この交差点を過ぎると、世田谷通りの旧道が右に分かれます。明治30年代に開通したのはこの旧道です。この道は狛江や多摩川の対岸の村々から東京中心部への最短ルートとなり、野菜や果物、多摩川の鮎などの産物を渋谷や青山、赤坂方面へ荷車で運び、都会で汲み取った下肥を積んで帰るのに利用されました。早朝に出発し、夕方帰宅するのが普通でしたが、狛江あたりでは一日二往復した強者がいたという話もあります。
 最短ルートなのにここにずっと道がなかったのは、そこが川の流れる低湿地帯だったからです。この区間でも旧道は極力低地を避けて崖線の裾野を行きますが、現在の世田谷通りは低湿地の真ん中という昔の道づくりではありえないルートを通っています。

 とにかく、旧道を行くと、すぐ右側に国分寺崖線の「成城3丁目緑地」があります。かつてこの地は喜多見御料地で、のちに林野庁の宿舎があったところです。サワガニも生息する豊かな湧水があり、東京都内とは思えないような景観が残されています。

  
(成城3丁目緑地)

 緑地の湧水が流れるせせらぎに沿って旧道を行くと、崖線上へと上る急坂があります。これがお茶屋坂。昔の喜多見の領主・喜多見氏(江戸氏の後裔)の茶室へ通じていたという伝承がある坂です。昔からこの場所に坂があったのかどうかは不明ですが、台地上に茶室があったとすれば、眼下に寺社の森が点在する喜多見の田園風景が広がり、その向こうに多摩川が流れ、彼方には大山をはじめとする丹沢山系や奥多摩・秩父の山並みを望み、その上に富士山が聳えるという絶景の地にあったことになります。また、崖下の豊富な湧水は良質なお茶の水でもあったのでしょう。

  
(お茶屋坂と成城の台地上からの夕景。左端の山が大山。喜多見駅と夕富士)

 旧道は野川に架かる中之橋の手前で世田谷通り(新道)に合流し、野川を渡って二の橋交差点へ向かいます。
 その前に野川沿いを上流側へ行って、小田急線の高架の北側にある喜多見不動滝不動堂(成城4‐2)も見ておきましょう。
 不動の滝は国分寺崖線の湧水が滝となって落ちているもので、かつては水行の場にもなっていたそうです。脇の石段を上ると、崖の中腹に不動堂があります。創建は明治9年で、本尊の不動明王は多摩川の氾濫で喜多見の河原に流れ着いたものを地元の人々が成田山新勝寺で入魂のうえ、喜多見・慶元寺の境外仏堂として、ここにお堂を建てて安置したものだといいます。境内には岩屋不動、玉姫稲荷、蚕蔭大神を祀った祠が並んでいます。

 
(喜多見不動尊の滝と不動堂)

 明治・大正期の文豪・大町桂月(1869‐1925)は老若男女に歩くことの大切さを説き、自ら東京近郊を歩いて旅した記録をまとめた『東京遊行記』(明治39年)で、喜多見の不動堂を訪れています。

(下祖師ヶ谷村の観音堂より)十四五町ゆきて臺地を下れば、崖より小瀑滴る。側に菓子など賣る家あり。夏は來り浴するに足るべし。されど等々力の瀧よりも地僻にして、甲州線の吉祥寺驛、もしくは境驛よりするも、二里に餘るを以て、都人の來り遊ぶもの稀也。石段を上れば不動堂あり。眼下はひろからねど、少しの見はらしはあり。夏は涼しかるべし。ここは砧村に属す。小字は喜多見也」

 当時の最寄り駅は吉祥寺駅または武蔵境駅なのでした。玉川電気鉄道(玉電)が開通して、さらに近い玉川駅(現・二子玉川駅)ができるのは、この翌年、明治40年のことで、この地域の人々は二子玉川か三軒茶屋まで歩いて電車に乗るようになります。玉電の支線・砧線が玉川~砧(のちに砧本村と改称)間に開通するのは大正13年。そして、小田急線の開業で成城学園前や喜多見に駅ができるのは昭和2年。移動は徒歩が当たり前の時代から人の流れのルートがどんどん変わっていきました。

 ところで、小田急線の高架のすぐ下手の上野田橋の袂に道標を兼ねた石橋供養塔があります。文化8(1811)年のもので、「北高井戸道」「南のぼりとみち」「東二子道」となっています。高井戸道は不動の滝前から崖線を曲がりくねって上る不動坂を経て北へ行くと滝坂道や甲州街道へ通じることを意味しています。逆方向はここで道が二つに分かれて、左の道は滝下橋通り(仮称)で、筏道の念仏車の辻へ通じているので、その先が二子道ということでしょう。右へ行けば二の橋へ出て、登戸方面です。

(上野田橋の石橋供養塔)

 さて、我々は中之橋に戻って世田谷通りを行きましょう。
 ちなみに中之橋で渡る川は昭和40年代初めまでは今は野川の支流となっている入間川でした。かつては狛江市内を曲がりくねりながら流れ、たびたび氾濫していた野川の流路を変更して入間川の下流部に接続し、河道を拡幅のうえ直線化したのが現在の野川です。それ以前の入間川は中之橋のすぐ下流で六郷用水に取り込まれていました。

(中之橋からみた野川)

(念仏車の辻へ行く仮称・滝下橋通り)

 中之橋をあとに世田谷通りを行くと、すぐ左手に「にごりや酒店」のある信号で上野田橋から来た、ケヤキ並木のある滝下橋通り(上写真)と交差し、まもなく左から滝下橋緑道が寄り添ってきます。これが六郷用水の跡です。狛江方面から流れてきた用水はこの少し下流で、野川(かつての入間川)に合流しています。緑道には六郷用水の解説板や滝下橋の親柱なども保存されています。

 
(世田谷通りから分かれる六郷用水跡の滝下橋緑道と「瀧下橋」の親柱)

 
(かつての六郷用水と入間川の合流点と現在の六郷用水と野川の合流点)

地図②(明治39年)

緑線が明治30年代開通の世田谷通り旧道。現在はもっと南側の低地を通っている)

 さて、再び二の橋交差点です。ここで筏道は六郷用水を渡り、そこに明治30年代に開通した世田谷通りが接続する形でした(地図②)。交差点から北に入る二の橋商店街が先ほどの上野田橋、不動坂方面へ通じる道ですが、その道に入ってすぐ榮氷山道安院慶岸寺(浄土宗)があります(岩戸北4‐15)。喜多見・慶元寺の末寺で、慶長17(1612)年の創建といいます。

 
(慶岸寺と門前の庚申塔)

 慶岸寺の門前には古い庚申塔(年代不明)があり、境内には「塩地蔵」と呼ばれる地蔵尊があります。安産や子育てなどにご利益があるといい、お礼に塩を奉納する習慣がありました。長年、塩分にさらされていたせいなのか、とろけたようなお地蔵様です。両脇の残骸のようなものは・・・?

 
(塩地蔵。枡の中に塩が盛ってある。右写真は左・庚申塔と右・念仏供養塔)

 また塩地蔵の斜向かいには2体の石仏があります。左側は地蔵菩薩を主尊とした庚申塔で、右側は聖観音菩薩を主尊とした念仏供養塔です。いずれも寛文2(1662)年の建立で、庚申塔は多摩地方に現存する最古の庚申塔だそうです。

 では、慶岸寺をあとに世田谷通りを西へ進みましょう。通りの左(南)側の緑地帯のある歩道は六郷用水跡です。『新編武蔵風土記稿』によれば、この付近で「堀幅三間余」だったということです(1間=約1.8m)。

 

(昭和47年の六郷用水と世田谷通り。一の橋付近から東を見る)

 まもなく一の橋交差点です。ここで古道は再び橋を渡って六郷用水の右岸に移り、西へ向かっていました(地図②参照)。ただし、昭和2年に世田谷通りが整備されると、左岸側を直進し、新たに架けられた新一の橋で六郷用水を渡るように改められています。
 一の橋交差点には文政6(1823)年建立の弘法大師像を刻んだ石橋供養塔があり、道標を兼ねています。東は「六郷/江戸道」、西は「登戸/府中道」で、このルートが筏道(品川道)と登戸道の共有区間であることを意味します。南が「家村道」というのは村内の道というぐらいの意味でしょうか。北は「ほりの内/高井戸道」です。交差点の北側に交番があり、その向かって右側の道を行くと、二の橋からの道と合わさり、不動坂から滝坂道、甲州街道へと通じていますから、高井戸、そして江戸後期に祖師参りが盛んになった日蓮宗・妙法寺(杉並区堀ノ内)へ行けるわけです(地図②参照)。

(一の橋の石橋供養塔)

 さて、一の橋交差点を過ぎて、次の角を南へ入るとすぐに狛江古墳群のひとつ、土屋塚古墳があります(岩戸南1‐5)。5世紀中頃に築造された円墳です。
 喜多見とともに狛江も市内全域にわたって多数の古墳が存在し、古くから人が住んでいた地域です。我々がたどっている道の中にはそうした時代から受け継がれているものもあるのかもしれません。

(土屋塚古墳)

 新一の橋交差点で世田谷通りから右へ分かれていく「いちょう通り」が六郷用水跡です。そして、ここから500メートルほど上流で、昭和44年まで改修前の野川が合流していました(地図②参照)。

(新一の橋交差点)

 新一の橋交差点を過ぎると、道は南西に向かい、よく注意していると、二つの暗渠と相次いで交差します。いずれも六郷用水の分水路で、それぞれに神田橋境橋が架かっていました。

 
(神田橋跡と境橋跡の暗渠水路)

 境橋は岩戸南(旧岩戸村)と東和泉(旧和泉村)の境界です。そして、この付近を江戸初期に六郷用水に取り込まれる形で分断される前の野川が流れていました。昭和44年に改修で流路変更される以前の野川はたびたび氾濫し、あふれた水はこの旧河道に押し寄せ、橋の前後では床上浸水も珍しくなかったそうです。特に遊水地としての機能を持っていた田んぼが都市化で消えるにつれて、大雨の時に一気に野川が増水、氾濫するようになり、洪水は年中行事となっていました。

 まもなく狛江三叉路の交差点です。現在は直進する世田谷通りから調布市国領へ行く狛江通りが北へ分かれる分岐点ですが、昔は登戸道と筏道(品川道)の分岐点でした(地図②参照)。古くはこの付近に二つの古墳があり、「弐ツ塚」と呼ばれていたそうですが、古墳はいずれも崩されてしまったようです。
 この三叉路付近に「南無妙法蓮華経」の文字を刻んだ題目塔が地元や近隣の村の日蓮宗信者によって明治9(1876)年に建立され、今も交差点北側の私有地内にあります。

 
(狛江三叉路と題目塔)

 そして、明治33(1900)年にはこの弐ツ塚の辻に旭貯金銀行狛江支店(本店・赤坂)が開設されます。そして、その頃からこの辻沿いに飲食店や劇場、さまざまな商店が並ぶようになり、銀行は大正初期に倒産して消えてしまいますが、昭和初期にかけて「銀行町」と呼ばれる狛江随一の盛り場に発展します。女性が給仕をする料理屋やカフェなどもあって、地元だけでなく、遠方から遊びに来る人もいたようです。

(狛江銀座バス停)

 昭和2年に小田急線が開通すると、街の中心が駅周辺に移り、銀行町の賑わいは徐々に失われますが、戦後は「狛江銀座」と呼ばれるようになり、その名称は今も地元商店会やバス停に残り、銀行町時代から続く店も何軒かはあります。

 
(左=狛江通りから分かれる品川道。右=世田谷通りから分かれる登戸道)

 さて、狛江三叉路から先、登戸方面へ現行の直進路が通ったのは昭和2年のことで、それ以前の旧道はここから南へ入る細道でした(上写真・右)。その道を行きます。
 まもなく、左手から水路跡の緑道が寄り添ってきます。野川の旧河道を流れる岩戸用水の跡です。

(登戸道と岩戸用水跡)

 緩やかに下りつつ右に左にカーブしながら道なりに進むと、また川跡を横切ります。ここには2本の水路が並行して流れており、二つの川を渡るので二つ橋、あるいは眼鏡橋とも呼ばれました。

 
(二つ橋跡の上流側と下流側)

 手前の水路は揚辻稲荷(この土地の旧家にちなみ谷田部稲荷ともいう。東和泉1‐26)の湧水池(1960年代に涸渇)からくる流れで、岩戸用水に合流していました。谷田部家は茨城県の谷田部(現つくば市)の出で、戦国時代に甲州・武田氏に仕え、川中島で父を失った二人の息子が武田家を離れて流浪の果てに狛江にたどり着き、定住したといいます。狛江三叉路の題目塔が現存するのも谷田部一族の私有地内です。

 
(揚辻稲荷と湧水池の跡)

 もうひとつの水路は狛江駅北口の古刹、雲松山泉龍寺弁財天池からくる流れで、清水川と呼ばれます。和泉の地名もこの池に由来するといい、奈良・東大寺の開山、良弁僧正(相模国出身?)がこの地を訪れ、雨乞いをしたところ、霊泉が湧き出たという伝説があります。泉龍寺も良弁により華厳宗・法相宗を兼ねる寺として創建されたと伝えられ、寺はのちに天台宗に改宗し、戦国期には一時衰微しますが、曹洞宗の道場として再興されます。江戸幕府から御朱印地20石を寄進された大寺院で、明治になって寺域は縮小しますが、それでも大きなお寺です。明治22年の合併により狛江村が成立すると、境内に村役場が置かれました。

 
(泉龍寺と弁財天池。豊富な湧水があったが、現在は地下水のくみ上げ)

 また、泉龍寺には延命子安地蔵尊が祀られ、このお地蔵様は毎月25日に寺を出発し、多摩から江戸まで広い範囲の信者の家を一夜ずつ巡行して、翌月23日に寺に帰るという慣習が江戸時代から昭和の戦中まで続けられました。小さな車に乗せられたお地蔵さんが登戸道を江戸方面へ運ばれていく、そんな光景も見られたことでしょう。
 揚辻稲荷からの流れは岩戸川緑道となって東へ向かい、泉龍寺からの清水川の跡はここから「二中通り」として南へ向かいます。

 さて、2本の川を渡ると、正面に見える私有地内の小高い木立が清水塚1号古墳です(下写真中央)。近くに2・3号墳もあったといいますが、現存しません。

(二つ橋跡と清水塚1号墳)

 古道は清水塚1号古墳を左に見て、右にカーブしながら緩やかに上っていきます。右手には農地が広がります。この道は右側が狛江市東和泉(旧多摩郡和泉村)で、左側が猪方(いのがた、旧多摩郡猪方村)という昔の村境の道です。そして、この先、多摩川の土手に出るまでずっと東和泉と猪方の境界を行くことになります。
 まもなく、三叉路があり、文政9(1826)年の庚申塔があります(地図③のA地点、猪方1‐5)。道標を兼ねていて、「東江戸青山道、西大山道、南野みち」となっています。登戸道は西、つまりここを右です。

 (庚申塔のある三叉路)

地図③(昭和28年)


 古道は庚申塔から二つ目の角を左折するのですが、最初にこの道を探索した時はそのまま道なりに進んでしまい、再び世田谷通りに出たところで道を間違えたことに気づきました。その合流点(地図③のB地点)に小さな神社があります。文化年間(1804‐18)に創建された十幹森稲荷神社といい、かつては古墳の上に祀られていたといいます。明治時代に多摩川の洪水で堤防が決壊したため、墳丘を崩して、その土を土手の補強に用い、神社は他所の借地へ移転しますが、その後、氏子の方々の尽力で旧地に戻され、現在に至ったということです(その後、世田谷通りの拡幅で、社地が半分に削られています)。

(十幹森稲荷神社)

 さて、正しいルートに戻って、A地点の庚申塔から二つ目の角を左折すると谷津田酒店の角で2車線の水道道路に出ます。東京の水需要の増加に対応すべく、神奈川県から相模川水系の水を引くための水道管が敷設され、現・世田谷通りの多摩水道橋(昭和28年完成)で都内に入り、この水道道路の下を通って喜多見、宇奈根方面へ通じています(地図③には二重の点線で表現されています)。その上に敷かれた道路なので、荒玉水道道路と同様に通行車両の重量制限があるようです。

(水道道路から斜めに入る古道)

 ここで水道道路を斜めに横切る東西の道を西へ向かいます。300メートルほど行くと、信号のある交差点に出ます(地図③のC地点)。ここへ北からくるのは昭和2年に開通したかつての世田谷通りです。現在は多摩水道橋へ直結する新道があるので、世田谷通りの旧道ということになります。そして、我々が通ってきた道はさらに古い旧々道というわけです。ここで直進する道は狛江市では「鎌倉道」と呼ばれ、六郷用水の田中橋を経て北上し、滝坂道や甲州街道、さらに北へ通じる古道です。逆方向はここから登戸の渡しを経て鎌倉へ通じるという意味で「鎌倉道」なのでしょう。

(直進は鎌倉道、左折が登戸道)

 その鎌倉道に沿うように六郷用水の分水路である猪方用水が流れており、ここで南へ折れて、猪方地区を灌漑していました。そして、ここに江東橋という橋が架かっており、その石橋供養塔が交差点の北西角にあります(C地点)。聖徳太子像を刻む「太子講石橋供養塔」で、文化3(1806)年の建立です。

(太子講石橋供養塔)

 登戸道はここで左折して一時は世田谷通りでもあったので2車線となって南へ向かいます。道の左側の歩道が猪方用水の跡です(下写真)。

(猪方用水跡に沿って南下する登戸道)

(屋敷林に沿って東へ行く用水跡)

 まもなく屋敷林のある敷地の角で用水跡は左(東)へ曲がります(地図④参照)。その地点で右(西)に入る道は天台宗の熊野山観音院玉泉寺への参道です。太古は大輪寺といい、多摩川の対岸に634年に創建されたとの伝承をもつ古刹で、多摩川の氾濫でたびたび甚大な被害に遭い、荒廃していたのを永生元(1504)年に再興したといいます。

(玉泉寺)

 その玉泉寺への参道を過ぎ、和泉多摩川駅へ続く商店街を右に見送ると、まもなく左から喜多見・駒井経由の登戸道が合流し、多摩川の土手に出て、小田急の鉄橋をくぐれば登戸道のゴール地点である登戸の渡船場です。

(多摩川の土手に出れば渡船場はすぐ)



 これで北回りの登戸道も探索終了となりますが、明治14年の地図④をみると、A地点の庚申塔を過ぎて南西方向へ続く登戸道(赤線)からほぼ等間隔で南へ下る道が何本かあります。玉泉寺の参道入口で猪方用水とともに東へ折れて、すぐ南下する道もその一つです。これらの道は登戸の渡しの位置の変遷によって、ある時期の登戸道であったと思われるので、これらも順にたどってみましょう。

地図④(明治14年)


 まずはA地点の庚申塔で左折して「南野みち」を行くと、突き当り(D地点=猪方1‐4)に地蔵尊があります。今は民家の塀の中に取り込まれたようになっていますが、「辻の地蔵」として古くからこの場所にあるようです。ここで突き当たる東西の道も古い道なのでしょう。

(D地点の地蔵尊)

 そのD地点から西へ行くと、F地点=猪方1‐3に稲荷社があります。地元で「山本稲荷」と呼ばれ、もとは円墳(猪方稲荷塚古墳)の上にあったそうですが、昭和の初めに崩されてしまったそうです。今でも敷地が周囲よりわずかに高いのがその名残でしょうか。

(山本稲荷)

 この稲荷社のすぐ南側を通っている水道道路を突っ切って南下すると、猪方2‐2の南西角(G地点)に小さなお堂があり、享和元(1801)年の庚申塔があります。傍らの石は西国三十三か所・坂東三十三か所・秩父三十四か所の観音霊場巡礼を達成した記念の百番巡礼供養塔(年不詳)だそうです。道標を兼ねていて「東江戸道、南のぼりと道」と彫られています。この道もある時期には登戸道だった証拠といえそうです。実際、このまま南下すれば多摩川の土手に出ます。江戸道が北ではなく東になっているのは、ここから東へ行って、すぐ北へ行きD地点に出る道筋でしょうか。確かにそのほうが距離は短いですね。

(G地点の庚申塔。傍らに巡礼供養塔)

 ちなみに、ここから東へ行くと、立川段丘と多摩川低地の段差である府中崖線の縁に白幡菅原神社があります(E地点、猪方2‐4)。

(府中崖線上に鎮座する白幡菅原神社)

 もともとこの地(天神森)にあった天満宮(祭神は菅原道真)と和泉村の玉泉寺に隣接して鎮座していて猪方村にも氏子がいた白幡大明神(祭神は源頼朝)が明治初期に合わせて祀られ、猪方村の総鎮守となったものです。祭神は道真、頼朝のほかに徳川光圀と井伊直弼が合祀されています。なぜ水戸の黄門様を祀ったのかは不明ですが、井伊直弼については、狛江は江戸時代には世田谷領に属し、彦根藩井伊家の領地だったので、桜田門外の変で不慮の死を遂げた旧領主の直弼を祀ったということでしょうか。

 G地点の庚申塔から南へ行くと、少しルートから外れますが、猪方2‐11に地元で「玉本稲荷」と呼ばれる祠があります(H地点)。

(玉本稲荷)

 再び登戸道に戻って、水道道路と斜めに交差してすぐ南へ折れる道にも興味深い歴史遺産があります。
 猪方3‐7のI地点には地蔵尊があり(昭和48年再建)、傍らに保存されている寛政9(1797)年に造られた台石に「南大山道」と彫られています。「北〇〇道」は判読不能ですが、このルートも大山道=登戸道とみなされていたことが分かります。狛江市文化財調査報告書第2集『狛江市の古墳(I)』(1979年)によれば、この場所にも古墳(地蔵塚古墳)がありましたが、大正時代に削平されてしまったそうです。

 
(地蔵尊と古い台石)

 またこの地蔵尊の後方の畑の中には前原塚古墳があります(J地点)。

 
(前原塚古墳と馬頭観音)

 地蔵尊から南へ行くとすぐ四つ角(K地点、猪方3‐13)に寛政6(1794)年に建立された三面六臂の馬頭観音があります。

 その南方には下り坂の途中に稲荷社(L地点、猪方3‐17)があります。地元では「立榊稲荷」と呼ばれ、その下には猪方用水の水路跡が残っています。この稲荷社も府中崖線の縁に立地しています。

(猪方3‐17の稲荷社)

 もう1本西側にも似たような道があり、M地点(猪方3‐4)に稲荷社があります。地元で「椿森稲荷」と呼ばれ、神仏習合時代の名残で玉泉寺の住職が神前読経する習慣が残っているそうです。明治初期の神仏分離で白幡大明神を手放した玉泉寺ですが、やはり同寺の管理下にあったこの小さな稲荷社との関係は維持されているということです。

(猪方3‐4の椿森稲荷)

 これは余談ですが、昭和28年の地図③をみると、多摩川沿いに大きな池がいくつも見られます。これは砂利を採取した跡に地下水や雨水が溜まってできたものです。多摩川の砂利は非常に良質で、土木建築材料として江戸時代から利用が始まり、江戸が東京となり発展する過程で大量に採取され、流域各地に巨大な砂利穴が出現したのです。玉川電気鉄道の建設も多摩川の砂利の輸送が主要な目的でした。対岸を走る南武線も多摩川の砂利輸送を目的に昭和2年に開業した南武鉄道が前身で、地図③には宿河原駅から多摩川の河原に伸びる引き込み線が描かれています。京王線の調布~多摩川原(現・京王多摩川)間や西武多摩川線、旧国鉄下河原線(廃止)なども当初は多摩川の砂利輸送を目的に建設された鉄道です。
 しかし、砂利の採取は堤防の弱体化、水質汚濁、川床の掘り下げによる水位の低下で農業用水の取水難などの弊害も生み、次第に規制されるようになり、昭和40年までに多摩川では全面禁止となります。狛江市内では昭和30年代後半から砂利穴の埋め立てが始まり、現在はすっかり宅地化されています。

 また、地図③にある砂利穴で注目すべきは多摩水道橋の上流側にある池で、「天然クラゲ発生地」の文字が見えます。ここで昭和21年8月に淡水性のクラゲが発見されたのです。直径約15ミリのソエルビーという種類で、中国大陸や北米ミシシッピ川流域に生息するそうです。それがなぜ突然、狛江で発生したのかは謎でしたが、毎年発生したため、昭和26年にこの池は国の天然記念物に指定されます。ところが3年後にはクラゲは姿を消してしまい、昭和44年に指定解除。池は47年に埋め立てられ、今は都立狛江高校の敷地となっています。というわけで、昭和28年の地図ならではの「天然クラゲ発生地」の表記です。


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