釧路阿寒自転車道を走る 1998年8月4日

 東京から30時間以上の航海を経て、近海郵船フェリー「ブルーゼファー」は朝7時半に釧路西港に入港した。愛車とともに下船して、これからはあまり頼りにならない自分の体力だけを頼りに広い広い北海道の大地を走ることになる。今年はどんな旅になることやら…。

 
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 朝7時半に釧路西港に接岸した近海郵船フェリー「ブルーゼファー」から自転車と一緒に北海道の大地に降り立った時にはシャワーのような雨だったが、いざ走り出そうという時にはほとんど止んでいた。



 8時過ぎにフェリーターミナルをあとにして、まずは東へ4キロほどの釧路駅をめざす。
 途中で何度か自転車旅行者とすれ違い、そのたびに手をあげて挨拶を交わす。北海道ではバイクや自転車で旅する者同士の間でこのような習慣が定着していて、僕も去年の旅ですっかり身についてしまった。

 15分で釧路駅前に着き、まずは朝食。和商市場で美味しいものを探すというのが観光客のお決まりのパターンだが、僕は街なかにある定食屋へ顔を出す。昨年も旅の最初と最後に食事をしたお店である。
「こんにちは…」
 1年ぶりだし、たぶん覚えていないだろうと思いながら店に入る。
「あらァ」
 おばちゃんの顔に笑みが浮かぶ。
「また釧路に来たの」
「さっきフェリーで着いたばかりです」
 若いサラリーマン風の先客がいたが、まもなく客は僕だけになった。
「覚えてますか?」
「覚えてるわよ」
 僕が戸を開けて顔を覗かせた途端にすぐわかったという。なぜだか印象に残っているらしい。
 昨年と同じサンマのピリカラ煮定食を注文。添えられたナスの煮付けなど、いかにも家庭的な味が嬉しい。
「ちょっと待ってて。いま筋子を切ってあげるから」
 これまたとても嬉しい。なんだか親戚の家にでも遊びに来たような感じである。

 今年も釧路はこんなうすら寒くて、雨がしとしと降るような天気が続いているそうだ。
「せめて毎日22度くらいにはなってくれるといいんだけど…」
 おばちゃんは「ずっと風邪が抜けない」といって、時々、厨房の隅で咳き込んでいる。
 釧路の人たちは、日中はギラギラと強い陽射しが照りつけ、夜は熱帯夜という本州以南では当たり前の暑い夏を知らないのだ。そもそも道東地方へやってきて、「光あふれ、緑輝く、爽やかな夏の北海道」なんて期待する方が間違っているのかもしれない。
 最近は釧路にもカニなどの海産物を売りに来るロシア人が増えたそうで、せめて簡単な会話ができれば商売に役立つかとロシア語を勉強しようと思っている、などという話を聞きながら、美味しい朝食を終えると、デザートにスイカまで切ってくれた。
 二人してスイカを食べていると、お店の手伝いの女性がやってきた。
「この人、私の去年の夏の恋人なのよ」
 僕のことをそんな風に紹介している。母親ほどの年齢の女性からそんなことを言われても、素直に喜んでいいのかどうか分からないが、ありがたいことではある。ちなみにおばちゃんは若い頃はかなりの美人だったと思われ、今日もずいぶんお洒落な格好をしている。

 さて、おばちゃんに見送られて店を出て、9時35分に釧路駅前をスタート。雲は低いものの、雨はすっかり上がったようだ。
 今年もまずは釧路阿寒自転車道をウォーミングアップのつもりで走ってみよう。釧路市動物園のあのオランウータンにももう一度会いたい。
 釧路市街の西方を流れる釧路川を渡って、この川に西から流入する仁々志別(ニニシベツ)川に出合うと、まもなく釧路と阿寒町を結ぶサイクリング道の入口が見つかる。昭和45年に廃止された雄別鉄道の線路跡を利用した25キロ余りの道で、正式には「道道835号・釧路阿寒自転車道線」といい、釧路湿原の南縁を西北西方向へほぼまっすぐに伸びている。



 自転車道を走り始めたのは9時55分。最初のうちは湿原を造成した新しい住宅地を見ながら走るが、次第に原野が広がってくる。
 去年は釧路名物の深い霧に包まれ、それが却って果てしない湿原の夢幻的なイメージを演出していたのだが、今日はまったく霧が出ておらず、幻想とは無縁の荒涼とした風景である。

 プラットホームが残り、ジャングルジムや滑り台のある遊園地が整備された、でも誰もいない鶴野休憩所を通過して、かつて雄別鉄道と立体交差していた鶴居村村営軌道のコンクリートの橋台が残る地点を過ぎ、快調に走る。

(鶴居村村営軌道の橋台の残骸)

 やがて、見覚えのある牧場が見えてきた。
 ここではミルク色の濃霧に霞む姿のよい樹木の孤影、そのそばに静かに佇む馬の親子…。そんな夢みるように美しい光景が心に残っている。

(1997年は深い霧の中だった)

 ところが、霧のヴェールをすべて引き剥がした今日はまるで印象が違っていた。草原が果てしなく広がっていると思ったのに、背後には丘陵が迫り、しかも土砂の採取場になっていて、山肌の一部が削り取られている。また、牧場にポツンと孤独に立っているように見えた木も、実際には似たような木がそこかしこに生えていて、要するに、去年は一番手前の木のほかは濃霧のせいで存在が掻き消されていただけという事実も判明した。飼われている馬も去年は一頭の鼻面を撫でてやると、ほかの馬たちも寄ってきたのに、今日はみんなよそよそしい感じである。まぁ、旅先の印象なんて訪れるたびに変わるのが当然であって、毎度同じでは面白くない。が、それにしても、こんなに違うとは思わなかった。

 


 さて、原野や牧草地の中を坦々と15キロ近く走って、11時に釧路市動物園に着いた。前回もかなり時間をかけて見物したから素通りしてもいいのだが、あの雄のオランウータンにまた会いたい。去年は何かを悟ったような眼差しに聖者の風格を感じたのだけれど、一度きりの印象なんてアテにならない、というのはさっき痛感したばかりである。彼も改めて会ってみれば、ただのオランウータンに過ぎないかもしれない。その辺を確かめたくて、また立ち寄ってみる。

 といっても、もとより動物園は好きなので、一度入園してしまえば、また最初から最後までじっくり見てしまった。アフリカゾウ、キリン、シマウマ、ダチョウ、ライオン、サル山といった動物園の定番から、アザラシ、ビーバー、トナカイ、ヘラジカ、ヒグマ牧場、ハクチョウ池、オオワシやオジロワシ、ハクトウワシなどの猛禽類、さらに自然界では大変貴重になってしまったシマフクロウ(入園券の写真)など、意外に充実した動物園なのである。

 雨上がりのせいか、閑散とした印象だが、それでも地元の家族連れがそれなりに訪れている。さすがに自転車旅行者らしいのはほかにいない。
 裏手の湿原に設けられた非公開の丹頂鶴の保護増殖センターでは親鳥のあとをついて歩く茶色い幼鳥の姿も垣間見ることができたし、湿原散策路では林の中からエゾセンニュウの声も聞こえてきた。これはウグイスのような澄んだ声で「トッピンカケタカ」と鳴くので覚えやすい。姿は見えないけれど、北海道を走っていると、声はしばしば耳にする小鳥である。

 さて、類人猿舎へやってきた。ここにはゴリラ、チンパンジー、オランウータン、シロテナガザルが飼育されている。そして、前回と同じようにオランウータンは母子が屋内のガラス張りの部屋に、そして、例の雄は屋外の檻の中にいた。
 赤茶色の長毛に全身を覆われた彼は長い両手で金網にぶら下がって、じっとこちらを見つめていた。幅の広いグレイの顔に小さな瞳。何を考えているのか分からないけれど、やはり、只者ではないな、と思う。
 昨秋死亡した東京・上野動物園の老ゴリラ・ブルブルも威厳があったが、このオランウータンにも人の心を動かす何かがある。名前は何というのだろう。隣の檻の雄ゴリラ(あまり大物感はない)には「ムサシ」という名札が掲示されているのに、オランウータンの名札は見当たらない。その代わり、説明板にこんなことが書いてあったので、遠足の小学生みたいにノートに書き写してきた。

「目が時々動く以外、これといった感情表現は見られませんが、何も感じていないなんて思わないでください。深い森の中で単独生活をしているのでコミュニケーションを発達させる必要がなかったのです。でも、何も考えていないような顔をしながら、実によく人の動きを見ていて、やりたいことはやる、そんなしたたかさを持っています」

 あとで調べたら、この雄のオランウータンの名前は「タンゴ」。1980年8月4日、英国のトワイクロス動物園生まれ。ということで、この日が18歳の誕生日でした。1983年に長野県の茶臼山動物園に来園し、1990年に釧路市動物園に移動。雌のロリーとの間に6頭の子どもをもうけ(うち1頭は死産、1頭は生後すぐ死亡)、釧路市民に愛されましたが、残念ながら2014年9月24日に世を去りました。34歳でした。

 2013年のタンゴの動画がありました。こちら

 
また、この時、「タンゴ」の隣にいたゴリラの「ムサシ」は2000年に東京・上野動物園に移動しましたが、2016年7月25日に36歳で死亡しました。

 
動物園でもうひとつ。シロクマ(ホッキョクグマ)の一家である。去年は広い運動場に母グマ(コロ)と子グマ(クルミ♀。1996.12.26生)がいて、子グマにとって危険な父グマ(タロ)は隣の狭苦しい檻に隔離されていた。あのシロクマ親子はどうなっただろうか、と思っていたら、運動場にいるのは両親で、今度はあの子グマのクルミが隣の小さな檻に閉じ込められていた。運動場では夫が妻に迫ろうとして、妻は逃げ回っている。クマの世界でも家庭内の人間関係ならぬ熊間関係はいろいろ大変なようだ(右の写真は1997年に撮影。当時、クルミは生後8ヶ月)。

(1997年撮影。クルミと母親のコロ)

 その後、立派に成長した「クルミ」は、「お婿さん」として札幌・円山動物園からやってきた「ツヨシ」が実は雌だった、なんてこともありましたが、嫁入り先の秋田・男鹿水族館で赤ちゃんを産み、その子「ミルク」♀が今、釧路の人気者になっています。

   釧路市動物園のホームページはこちら

 さて、昨年は動物園見物をしている間に自転車に積んでいた荷物をカラスにつつかれるという災難にあったのだが、今日は無事だった。
 再びサイクリング道路を走り出す。牛や馬のいる牧場が広がる風景を左右に眺めながらペダルを踏んでいると、仁々志別川にかわって阿寒川が左に寄り添ってくる。

 

 前回折り返した桜田休憩所を過ぎ、草原を突っ切り、雑木林を抜け、ひたすら走っていくと、スキー場やゴルフ練習場などが現われ、終点の阿寒町の役場のある中心集落に着いた。阿寒町といっても非常に広大で、町内で最も有名な観光地である阿寒湖へはここからさらに国道を北へ40キロほど行かねばならない。
 というわけで、阿寒町まで来たところで、何をするわけでもないが、唯一目に留まったのは、自転車道の終点近くにひっそりと立つ「雄別鉄道記念碑」。その碑文にはこんな風に書いてある。

「雄別鉄道は千石不斧の森林を切り開き大正十二年一月、釧路、阿寒、雄別炭山を結んで開業、爾来陽光に映える秀峰阿寒の双岳を望み、石炭を中心とする産業に寄与し、また住民の足としても親しまれ走り続けること半世紀、地域文化の高揚、経済の発展にその使命を果したのであります。しかし、石炭が石油にその座を譲るエネルギー革命には抗しきれず、昭和四十五年四月十五日雄別炭鉱と運命を共にその雄姿をこの地から消したのであります。(以下、略)

 いま走ってきた道を1970年まで走っていたという小さな列車の姿を想像してみると、目の前の記念碑がまるで汽車のお墓のように思えてきた。

 国道沿いのセブンイレブンで買い物をした後、13時半に阿寒をあとに来た道を引き返す。今日は釧路に泊まって、明日から根室方面へ向かおうと思う。
 10キロほど戻ると、丹頂鶴の甲高い声が聞こえてきた。見ると、右手の牧草地に1羽の丹頂鶴がいた(わかりにくいですが、右写真の真ん中の白い点が鶴)。今回の旅で出会った最初の野生の丹頂鶴である。去年もあちこちで、ずいぶん見たから、今年もまたたくさんの鶴に会えることだろう。

 動物園近くの草原ではノビタキを見かけた。頭と背中が黒くて、胸はオレンジ色の小鳥。自転車を停めて、図鑑を参照しつつ、双眼鏡で姿を追う。あのぐらい特徴がはっきりしていると、素人にも判別しやすくて助かる。

 その後も小型のキツツキであるコゲラ(これは東京でもよく見かける)がいたし、遠くへ飛び去るのをちらっと目撃しただけで確証はないけれど、背中が栗色で腹部は鮮やかな黄色のシマアオジ(これは北海道ならではの鳥)らしき小鳥もいた。バードウォッチングが目的というつもりはないのに、あちこちで自転車を停めては双眼鏡を覗くことになった。

 北斗という土地まで来ると鶴居村へ通じる道道53号線と交差する。これを北へ3キロほど行けば、釧路市湿原展望台がある。
 きつい坂道を上っていくと、丘陵の頂上に茶色のドーム型の展望台があった。入館料360円を払って館内に入ると、釧路湿原の生い立ちから地質、動植物、遺跡などに関する資料や四季折々の湿原風景の写真が展示されており、3階がガラス張りの展望室、屋上が展望バルコニーとなっている。
 ちなみに建物の外観は「谷地坊主」の形を模したものだという。谷地坊主とはスゲの群生株が土の凍結で隆起し、さらに雪解け水で根元を洗われてドーム状になったもので、釧路湿原のあちこちに見られるそうだ。
 屋上に登って釧路湿原を望む。さながら岬の灯台から青海原を眺めるような具合である。それもそのはず、このあたりは遥か遠い昔には内陸深くにまで海が入り込んでいて、その後、海面が後退した跡に湿原が形成されたのである。丘陵に取り巻かれた湿原はまさしく草色の海であり、そこにハンノキなどの樹林が濃緑の波模様を描いている。
 そんな汚れを知らない大自然を前にすると、気持ちが静かになるが、海側に目を転ずると、湿原と太平洋の接するあたりには人工の建造物が帯状に点在している。釧路駅周辺のビル群や白煙を上げる製紙工場、けさフェリーで着いた釧路西港などが見渡せるし、釧路空港に着陸する飛行機も見える。都市のせせこましさに比べて湿原の空間的な広がりは圧倒的であるが、あまりにも繊細で壊れやすい湿原が南縁からじわじわと広がる破壊の影に怯えているようにも感じられた。

 釧路駅には17時半に着いた。今夜は昨年と同様に駅の「ツーリングトレイン」に泊まる。使い古しの客車を利用した簡易宿泊所である。
 旧貨物ホームに横付けされた3両の旧式客車の内部は座席をすべて取り払い、板張りの床に畳を敷き詰めただけで、布団も枕もない。持参の寝袋で寝るのである。トイレや洗面所は駅の職員用を利用。これで1泊600円。有料の宿泊施設としては最も粗末なものの1つかもしれない。こんなところに泊まるなんてあまりに惨めでプライドが許さないという人もいるに違いないが、僕はキャンプ生活を続けるうちにすっかり平気になってしまった。もとより、デラックスなホテルや旅館でグルメ三昧の豪華旅行には関心がないし、人々のそういう贅沢志向が各地に必要以上に立派なリゾートホテルや巨大旅館を林立させて、せっかくの自然景観を台無しにする結果を招いたのだとも思っているが、それにしても、こちらは極端すぎるほどのビンボー臭さではある。
 まぁ、とにかく、2号車3番という番号のついた畳1枚が今宵の寝床である。1号車にはどこかの大学のサイクリング部らしき一団がいて、女子も交じっているが、2号車は僕のほかは数人のライダーがいるばかり。すべて男。こういう境遇だとすぐに打ち解ける(右写真は1997年撮影)。

 街なかにいくつかある電光式の気温計が18度ないし19度を表示する夕暮れの街を走り回って、書店や100円ショップなどに立ち寄ってから駅前の「海皇」というとんこつラーメン屋で夕食。なかなか美味い店である。おまけにアイスキャンディーをもらう。
 それから同宿のライダーに教えてもらった銭湯「福寿湯」へ。駅から700メートルほどのところにあって、料金は360円。さっぱりして出てきたら、雨が降り出していた。
 本日の走行距離は87.0キロ。明日は根室方面へ走る予定。


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