厳 原     1996年8月21日

 対馬に来て3日目。この日は雨の中、大船越をあとに対馬の都ともいうべき厳原周辺を自転車と徒歩で散策しました。

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    大雨の中を厳原へ

 対馬・美津島町大船越の民宿で迎える2度目の朝。激しく屋根を叩く雨音で目が覚めた。土砂降りである。朝食時のニュースでは「対馬地方に大雨洪水警報」と伝えている。困った。宿のおじさんに、どうするのか、と問われても、「どうしましょうねぇ」と苦笑するしかない。ここにもう一泊しようか、とも考えた。なぜかこの土地に愛着を覚えて、去りがたい感情が湧くのも確かである。
 それでも、8時頃にはやや小降りになったので、今のうちに厳原まで突っ走ろう、という気になり、2泊分の宿代(13,000円)を支払い、靴はビーチサンダルに履き替え、おじさんに見送られて、雨の中、8時10分に出発。厳原まで15キロ程度。1時間もあれば着くだろう。
 ところが、走り出してまもなく、また雨足が強まってきた。もうズブ濡れ覚悟で行ってしまえ、ということで、雨に煙り、鈍色に沈む海を時折左に見ながら、山また山の険しい地形をトンネルと切通しで貫く国道をひた走る。開き直ってしまえば、とりあえず、暑くはないので、カンカン照りより楽ではあるようだ。



     厳原と気象通報

 ついに厳原の市街に入った。行政上は「市」ではなく「町」に過ぎないが、古くから対馬の国府が置かれた政治・経済・文化の中心であり、今でも対馬随一の都会である。沿道には重厚な石積みの塀が連なり、それがこの城下町に独特の風格を与えている。(注*現在は厳原町を含む対馬6町が合併し、対馬市となっています。)

 これが厳原か…。ある種の感慨が湧く。この町の名を初めて耳にしたのは、大学生になった頃、NHKラジオの「気象通報」でのことである。

 「気象通報」は一般向けの天気予報と異なり、1日3回、日本列島および周辺各国の主要地点の風向、風力、気圧、天気、気温などの気象データをアナウンサーが淡々と読み上げていくだけの番組だが、これがなかなかイメージトリップ向きなのである。ちょうど列車の時刻表の数字を眺めて旅の気分に浸るのにも似て、気象データの羅列から遠い見知らぬ土地の空や海の様子、光と風の色が見えてくるような気がするのだ。
 しかも、日本国内の気象観測地点には南は石垣島や南大東島、父島から北は根室、稚内まで離島や最果ての土地が多く含まれ、なおさら旅情を誘われるわけである。また、香港、台湾、中国、韓国の主要都市の気象はもちろん、千島列島やサハリン、シベリアの天気まで教えてくれるのも嬉しい。「ハバロフスクでは氷点下35度、地吹雪」などと言われると、それだけで酷寒のシベリアの情景が目に浮かぶではないか。
 さて、そんな気象通報を聞いていて、とりわけ馴染みのない地名が厳原であった。
「イズハラでは北北西の風、風力3、曇り、1,018ミリバール、15度」(ミリバールは当時の気圧の単位)
 などというのを聞いても、そんな地名は知らない。知らないから、余計に気になった。それで地図帳で調べて、どうやら「イズハラ」とは対馬にある「厳原」のことらしいと分かって、日本海の荒波に晒された薄暗い町並みを勝手に想像してみたものである。それ以来、具体的な知識は全くないまま、厳原という地名だけが僕の頭の片隅にささやかな場所を占めることになったのであった。ちなみに「イズハラ」が実は「イヅハラ」であるのは最近知ったことである。

     厳原に到着

 その厳原についにやってきた。しかし、濡れ鼠になって、俯き加減にペダルをこぎ続ける身としては、のんびり町並みを眺めている余裕はない。ということで、まずは厳原港のフェリーターミナルに逃げ込んだ。やれやれ、ひどいことになった。すっかりズブ濡れだが、ターミナルの玄関先で頭や顔や手足などをタオルで拭いていると、こんなこともサイクリングには付き物なのだろうと思えてくる。
 とにかく、自転車はターミナルの屋根付きの駐輪場に残し、傘をさして厳原の街に出る。たまには自転車を降りて、そぞろ歩きというのも悪くない。

     長崎県立対馬歴史民俗資料館

 最初に訪れたのは長崎県立対馬歴史民俗資料館。ここには対馬藩主・宗家の貴重な古文書類や鎖国時代に朝鮮から対馬を経て江戸まで往復した朝鮮通信使の行列の様子を描いた「朝鮮国信使絵巻」などが展示されている。
 対馬と朝鮮の交流の歴史は古く、今でも対馬の公共物の表示などはハングル文字が併記されているが、そうした交流史を象徴するような文書として15世紀の「朝鮮国告身」がある。「告身(こくしん)」とは朝鮮国の任官状である。中世には対馬の海賊(いわゆる倭寇)が朝鮮半島沿岸を繰り返し襲撃したのに対し、朝鮮国はその背景に対馬の食糧難があると考え、倭寇対策として対馬の人間に名目的な朝鮮国の官職を授与した上で米などを与えて懐柔しようとしたらしい。その辞令である「告身」がガラスケースの中に展示され、ひとり旅の女の子が熱心に見入っている。史学科か何かの学生だろうか。僕の方はざっと眺めただけで終わりにした。

     厳原町立郷土史料館とキタタキ

 続いて、同じ敷地内の厳原町立郷土史料館を見学。こちらには考古学的資料や宗家の什器類などのほか、ツシマヤマネコ、ツシマテン、チョウセンイタチ、ツシマジカなどの剥製が展示されている。
 なかでも目を引いたのはキタタキの剥製標本。大型のキツツキで、朝鮮半島から対馬にかけて分布していたそうだが、もはや生息が確認されておらず、絶滅したものと見られている。
 ここにある標本は明治35年に対馬北部の御嶽で採取されたもので、かつて対馬にキタタキがいたことを示す唯一の証拠だという。人間に発見されなくていいから、今もこの島のどこかで生きていてほしいと思う。

     万松院

 その後、金石城址を見て、万松院を訪れる。宗家20代・義成が父・義智の菩提のため1615年に創建し、以来、歴代藩主の墓所となった古刹である。

(万松院)

 ぬかるみに足を取られながら境内を抜け、両側に石灯籠の並ぶ石段を登っていくと、鬱蒼とした杉木立に囲まれて、歴代藩主と正室の堂々たる墓がずらりと並んでいる。
 墓石に刻まれた名をひとつひとつ読み取りながら、遠い時代の権力者たちの生涯などあれこれ想像してみるのも悪くないが、雨に濡れた墓地というのは、あまり居心地のいいものではない。人の気配はなく、ただ霊気だけが身近に感じられるばかり。ふと、幽玄な笛の音が聞こえるような気がして、耳を澄ますと、山中に取り付けられたスピーカーから案内テープが流れているのだった。


     カブトムシ

 お昼を過ぎて、雨が上がった。少し青空も見えてきた。
 町なかに戻って、対馬交通のバスターミナルに立ち寄る。薄暗い待合所で数人がバスを待っている。ここから比多勝や対馬空港のほか最南端の豆酘(つつ)、元寇の古戦場で知られる西海岸の小茂田や石屋根の残る椎根へ行くバスも出ている。自転車を残したまま、バスに揺られてどこかへ行ってみようかとも思ったが、天気が回復してくると、また自転車で走りたくなってきた。

 フェリーターミナルに戻る途中、路上にカブトムシのメスがうずくまっているのを発見。思わず拾い上げた。カブトムシを捕まえたのはずいぶん久しぶりのことだ。ずっと連れ歩くわけにも行かないから、植え込みの中に逃がしてやったが、がっしりと指にしがみつくその力強さは長らく忘れていたものだった。

     お船江

 午後は自転車に乗って、今度は厳原港の南側の久田にある史跡「お船江」に行ってみた。
 ここは対馬藩の御用船の船着場だったところで、1663年に築造されたもの。森に囲まれた小さな入江に石積みの突堤がほぼ原形のまま残っている。

(お船江)

 とはいえ、今は生い茂る緑の影が水面に揺らめくばかり。古い石垣は蟹たちの絶好の隠れ家となり、草むした突堤の上にはシラサギ(コサギ)とクロサギとアオサギが絵に描いたように3羽仲良く並んでいた。いかなる人工もいずれは自然に回帰し、栄華の夢も草露のように儚く消えていくようである。

 赤とんぼが秋を告げるお船江をあとにさらに南へ向かうと、たちまち急激な坂道になる。対馬は南端部が最も険しく、地図を見ても、この先に「嗚呼難儀坂」という物凄い名前の峠道が待っている。その先に明確な目的地があるなら、あえて上りもするが、あては何もない。やめよう。引き返そう。途中に対馬牛の飼育場があったので、ちょっと眺めただけで、厳原に戻った。

(対馬牛)

(厳原港と立亀岩)


     城下町・厳原

 さて、厳原は随所に城下町の面影を残す歴史の町である。もちろん、ここも現代のニッポンであるから美観を損ねる建物はたくさんある。むしろ、歴史的景観は断片的に残存しているに過ぎないが、それでも気の向くままに走れば、古い寺院や神社、石垣に囲まれた武家屋敷にあちこちで出会うことができる。



 そうした古い町並みを夾竹桃やノウゼンカズラが彩り、町なかを流れる厳原本川の川べりには柳が植えられて、風趣を醸している。恐らく、雨上がりの空気感がしっとりとした情緒を引き立てているせいもあろうが、なかなか味わい深い町である。

     対馬の少女たち

 そんな町の中を闊歩する女子高校生たち。こんなところでも彼女たちの足元には今流行のルーズソックス(1996年のことです!)が目につく。外見的には東京の高校生と変わるところがない。情報メディアが発達して情報伝達における中心と周辺の地理的な隔たりが無意味なものになりつつある現代では都会の少女も田舎の少女もほとんど同質の情報空間で呼吸しているといっていい。東京で流行しているものは全国津々浦々で同時に流行しているのだ。日常的に華やかな大都会の最新情報をシャワーのように浴び続けながら、一方では情報の発信地から遠く離れた辺境の島に住んでいるという現実。少女たちにとっては、かなりのもどかしさと疎外感があるのではないか。アタマでは都会を身近に感じながら、カラダは離島に繋がれているという、この脳と身体の分裂状態から脱するために、多くの若者が島を離れ、都会へ出ていくことになるのだろう。厳原町の人口も対馬全体の人口も減少する一方である。

     甲子園の決勝戦を聴きながら再び美津島町へ

 厳原の城下をひと通り走り回った後、再び国道382号線を北上する。
 今日は甲子園の高校野球の決勝戦であることを思い出して、イヤホンでラジオを聴きながら走る。松山商業と熊本工業の対戦。どちらが勝ってもいいのだが、九州を旅しているから、なんとなく熊本を応援してしまう。しかし、試合は松山が3対2と1点リードのまま9回ウラ2死。そこでトンネルに入ったため、ラジオが聞こえなくなり、トンネルを抜けると、何やらアナウンサーが興奮気味に喋っている。試合終了かと思ったら、なんと熊工の選手が土壇場で劇的な同点ホームランを打ったのだった。決勝に相応しい好ゲームはそのまま延長戦に突入。
 勢いづいた熊本は10回ウラにも1死満塁とサヨナラ勝ちのチャンスを迎え、次の打者の打球はライトへのフライ。三塁走者がホームインで熊本優勝かと思いきや、外野手からの好返球でホーム寸前でタッチアウト。あっというまにスリーアウトチェンジである。
 結局、これが試合の流れを変え、11回表に松山商業が一挙に3得点。そのまま6対3で押し切った。

 さて、この日は46.3キロ走って、鶏知(けち)の空港近くのビジネスホテルに投宿。コインランドリー併設なのがありがたい。それに例のPAL21がちょうど斜向かいなのも夕食の調達に好都合。夕方からまた降り出した雨の中、弁当などいろいろ買ってきた。昨日までの民宿に比べて侘しいが、これもまた楽しいものである。
 明日は浅茅湾の渡海船に乗る予定。晴れてくれるといいけれど。



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