旅の終わり(広尾~東京) 1998年8月22日

 1998年の北海道自転車旅行もいよいよ終わり。広尾の十勝港から近海郵船フェリーに乗って東京へ帰ります。

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    広尾の夜明け

 北海道での最後の朝は4時10分に起床。テントを抜け出すと、すでに黎明の光が夜の闇を追いやりつつあった。昨夜パラついた雨もすっかり上がって、薄れゆくスミレ色の空に金星が輝いている。

 キャンプ場のある高台から海岸へ下りて、日の出を待つ。
 太平洋は波も静かで、上空は快晴。曙の色に染まった東の空の海に接するあたりにだけ濃い灰色の雲が立ち込めている。
 その光の領域が天空にもだんだん広がって、水平線の雲が燃え出すと、ついに赤い太陽が昇ってきた。また新しい一日が始まったのである。



 キャンプ場の南側の楽古川の河口周辺には朝早くからたくさんの釣り人が竿を立てている。夏の終わりから秋にかけて北海道の海岸ではどこでも見られる光景。言うまでもなく、鮭や鱒を狙う人々である。
 見物していると、ひとりが大きな鱒を釣り上げた。針からはずれた鱒はしばらく石ころの上に放置され、体をバタバタさせていたが、棒切れで頭を一撃されると動かなくなった。かわいそうだが、僕も先日、十勝川河口の大津で食べさせてもらったので、何も言えない。

 7時45分にはテントをたたんで出発。特に目的もないまま、なんとなく走り出す。
 東京行きのフェリーの出航時刻は17時で、2時間前には乗船手続きを済ますように言われているが、それまで時間はたっぷりある。キャンプ場周辺にはシーサイドパークの水族館のほか、海洋博物館などもあるが、いずれも開館は9時からである。

     楽古岳

 とりあえず、内陸へ伸びる道を見つけて、そちらへ自転車を走らせる。
 あたりには畑や牧草地が広がり、道端には黄色いオオハンゴン草がたくさん咲いている。空は真っ青で、白い雲がいくつも浮かんでいる。アスファルトの路面は白く輝き、僕と自転車の影が濃い。



 そして、前方にそびえる日高山脈。襟裳岬に近いあたりとは標高も違うし、山容もぐっと険しさが増している。なかでも目を引くのは、ここから見える範囲では最も高く、天を突くような三角形の峰。地図で調べると、楽古岳というらしい。標高は1,472メートル。信州・安曇野から眺める常念岳を思わせ、なかなかの秀峰である。
 道はその楽古岳に向かって奥へ奥へと伸びていた。途中には馬頭観音やお地蔵さんがあり、本州から入植した人々の開拓の歴史を偲ばせる。
 こんな道を気ままに走るのは実に気分がいい。しかし、こんなところでも奥で工事をやっているらしく、ダンプカーが頻繁に通る。猫が1匹、道路の真ん中で車に何度も轢かれたらしく、泥で汚れた肉片となって散乱し、さらにまた轢きつぶされていた。

 初めは立派な舗装道路だったのが、途中からは砂利混じりの土の道に変わった。もうダンプカーも通らない。
 だんだん山が迫り、農地は消え、左に寄り添う楽古川のせせらぎの音も高らかになった。



 右手の森からは湧き水が溢れ出し、砂利道が水浸しになっている。その水溜りには黒い羽の青い光沢が美しいミヤマカラスアゲハが群がっていた(下写真。

 

 道はやがて林道に変わり(つまり営林署の管轄になり)、勾配も急になるが、それ以上奥地へ分け入るのはやめて引き返す。



     広尾町海洋博物館

 往復で20キロほど走って街に戻り、10時40分に広尾町海洋博物館・海の館を訪れる。ここでは北方圏の野生動物や広尾町の漁業、世界のサケ、船と航海などに関する展示のほか、広尾町出身の第61代横綱・北勝海についての展示コーナー、さらに山岳画家・坂本直行氏の絵画展示室などあって、ざっと見るだけのつもりだったが、出てきた時には11時半になっていた。

     シーサイドパーク広尾・水族館

 次はシーサイドパーク広尾の水族館。世界各地の魚150種5,000尾のほか、ラッコやアザラシ、トド、アシカなどが飼育・展示され、子どもたちの人気を集めている。
 なかでも観客の笑いを誘っていたのは今年4月に生まれたばかりのゴマフアザラシの赤ちゃん。水槽の底でゴロリと転がって死んだように眠っている。それなのに時どきスーッと浮き上がっては顔を水面に出して息を継ぎ、また力なくスーッと沈んでゴロン。ずっと目を閉じたままで熟睡しているようなのに、ちゃんと自動的に浮上して呼吸してくるから可笑しくもあり、不思議でもあった。

 シーサイドパーク広尾水族館は2005年11月で閉館。

     広尾はサンタランド

 レストハウスの食堂で昼食の後、またあてもないまま、街なかを走る。
 これまで触れなかったが、町の観光パンフレットによれば、広尾町は「昭和59年にサンタのふるさとノルウェーから日本で初めてサンタランドとして認定された」のだそうだ。なぜ広尾がサンタランドなのかよく分からないが、とにかく、そんなことになっている。それでサンタクロースグッズの売店もあるし、国道の街路樹にもモミの木が植えられていたり、サンタクロースやクリスマスツリーをデザインしたマークを街のあちこちで見かけたりする。クリスマスシーズンには街中がイルミネーションで彩られ、「その美しさはおとぎ話のようです」とのこと。
 街の背後に広がる小高い山の上にある大丸山森林公園が「サンタランド」の中心地に指定されているそうだが、急坂を上るのも面倒だし、まぁ、どうでもいいので、行くのはやめる。

     広尾駅跡

 で、やってきたのは旧国鉄広尾線(帯広~広尾)の広尾駅跡である。
 現在は駅舎がそのままバスターミナルになっていて、内部には在りし日の広尾線の写真や様々な遺品が展示されている。また、駅の敷地は鉄道記念公園として整備され、腕木信号機、SLの動輪、レールなどが保存されていた。



 広尾線が廃止されたのは昭和62年2月1日。僕は一度も乗ることはなかったが、途中には愛国幸福という名前の駅があり、「愛の国から幸福へ」などという切符が大いに売れ、一大ブームを巻き起こしたものだった。今でもこれらの駅は保存され、観光客が訪れているようだ。広尾駅でも十勝バスが「愛国から幸福ゆき」の記念切符を220円で販売していて、僕も窓口でつい買ってしまった。
 事務室のテレビでは甲子園の高校野球をやっている。今日は決勝戦。豪腕・松坂大輔投手を擁する横浜高校京都成章高校の対戦である。まだ0対0のようだ。

     広尾で聞いたいくつかの話

 さて、フェリーターミナルへ行く前に土産を買うために海産物を扱う店に立ち寄った。そこのおばちゃんがよく喋る人で、いろいろと面白い話を聞くことができた。その一部を書き留めておく。

  1. 十勝港の長い防波堤を建設したせいで潮流が変わり、黄金道路に高波が押し寄せるようになり、新しいトンネルの建設が必要になったらしい。
  2. 黄金道路は工事区間が多く、しかも最近、広尾の北方の豊似から日高山脈を貫いて日高の浦河へ抜ける国道236号「天馬街道」が全線開通したため、観光バスが広尾を避けて通るようになり、広尾の人々は観光客が減って困っているという。
  3. コンブ、カニ、アキアジ(鮭)の漁業権は別個で、1人1つしか買えない。だから、例えば、カニの漁師はカニの漁期が終われば、ほかの時期は「乗り子」として他人の船に乗ることになる。
  4. カニは北海道でも場所によって漁期が異なり、広尾のカニ漁は11月からだそうだ。
  5. 鮭は生まれた川の水の匂いを覚えているらしい。人間の子どもは家を出て、なかなか帰ってこないけれど、鮭はちゃんと生まれ故郷に戻ってくる。「人間よりエライよねぇ」と、おばちゃんは言っていた(母親としての実感か)。
  6. 「時しらず」の鮭は身がきれいに剥がれるのが特徴で、とても美味である。
  7. 毎年、秋になると、どこかの社長が鮭釣りという口実でやってきて、釣りは部下に任せ、自分は愛人と遊んでいる。それで釣れた鮭を自分が釣ったと称して友人知人に送っているらしい(こんなのはどうでもいいことだが、一般的におばちゃんはこういう話題が好きである)。

 結局、毛ガニ3匹と昆布を東京へ発送し、セイコーマートで船内用の食料や飲料の買い物を済ませ、いよいよ港へ向かう。

     十勝港フェリーターミナル

 十勝港は海岸段丘の下に造成された大規模な港湾で、殺風景なところである。その一角にある黄色の可愛らしい建物が十勝港フェリーターミナル。
 すでに乗客たちがクルマやバイクで集まり、名簿を手にした女性職員が予約の確認をしている。十勝から東京までは2等運賃が13,100円。自転車の航送料金が1,870円。僕も確認を受け、乗船名簿に記入して、窓口で料金を払い、乗船券を受け取れば、あとは船を待つばかりだ。

 甲子園の決勝戦はどうなったかと待合室のテレビをみるとすでに閉会式をやっている。横浜高校が京都成章高校を3対0で破って、春夏連覇を達成したらしい。しかも、松坂投手はノーヒットノーランだったというからすごい。彼の今後の進路にマスコミの注目が集まることになるのだろう(もちろん、その後のことは皆さん、ご存知の通りです)。

 さて、待つうちに防波堤の向こうにまず薄茶色の排煙が見え、やがて釧路からの近海郵船フェリー「ブルーゼファー」が白い船体を現わした。船がゆっくりと入港して着岸するまでの一部始終を眺めるのはなかなかいいものである。北海道ともこれでお別れかと思うと、少し寂しいが、東京まで27時間40分にも及ぶ長い長い船旅に思いを馳せれば、むしろ早く船に乗りたいという気持ちの方が強い。



 接岸作業が完了したのは15時45分。自転車の乗船は16時からだった。といっても、自転車は2人だけ。もうひとりは外国人の青年である(下船時に聞いたら、東京在住のスイス人だそうで、走ったコースも僕とほぼ同じのようだった)。

     旅の終わり

 乗船券で指定された部屋はカーペット敷きのツーリストルーム。予約の時点では寝台を希望したが、すでに満席で、2等は大部屋しか残っていなかった。こちらも満員なのかと思いきや、僕の区画は定員10名のところに4人しかいない。中年の夫婦とライダーらしき兄さんと僕。これならベッドより広い空間を占有できるので、ありがたい。

 まずは展望風呂で汗を流し、それから甲板に出てみた。出航予定は17時である。
 船上からは広尾の町並みやシーサイドパークの観覧車やけさ日の出を眺めた海岸などがすべて見渡せる。すぐそこにあるのに、もう手が届かない。その隔たりは絶対である。ひとつの旅が終わったのだ。

 先刻、乗客の予約確認をしていた女性職員が船の出航を待たずにクルマに乗り込み、家路につくのが見えた。売店の女の子もすでに店を閉めて、ゴミの片付けなどをしている。こちらの感傷的な気分とは裏腹に彼女たちにとってはこの船出も日々繰り返される平凡な日常の光景に過ぎないのだ。

 出航時刻になった。船体を岸壁に繋ぎとめていた太いロープを地上作業員たちが解いて無造作に放り出すと、彼らはもう船を振り返ることもなく引き上げていく。



 わずかに一組の親子だけが岸壁で親戚か誰かにしきりに手を振って見送るなか、ゆっくりと岸壁を離れた「ブルーゼファー」は巨大な船体の向きを変え、防波堤の間をすり抜けて、広い広い太平洋へと出ていく。そのあとをカモメの群れがついてくる。子どもたちがえびせんを投げているのだ。カモメにえびせん…。あの子たちも知床の観光船に乗ったのだろうか。

 少しずつ遠ざかる広尾の街の背後に重畳とそびえる日高山脈は手前の山ほど濃い陰影を帯び、後方の高い峰々は逆光に霞んでいる。あの楽古岳はもう光の彼方に消え入りそうだ。その神々しさに、また来年も北海道に来たいと強く思う。



 船は北海道の大地に未練を残すかのように陸地からあまり離れずに航行する。
 日没が近づき、日高の山並みも黒々としたシルエットになった。あの険しい山塊の下をいくつものトンネルやシェルターをくぐりながら走ったのは、つい昨日のことだ。
 北海道の姿が見えなくなるまで見ていたい。そんな思いで甲板に佇んでいると、海面にイルカが姿を見せた。



 今朝、東の水平線に昇った太陽が日高山脈の彼方に沈んでいった。船内掲示によれば、今日の日の入りは18時21分。そして、明日の4時55分にはまた太陽が昇ってくる。一日が終わっても、旅が終わっても、また明日がある。べつにどうってことはない。

 船が襟裳岬の沖を通過したのはレストランの窓から眺めた。わずかに茜色の残る空に残照の海。北海道の影が途切れる末端で灯台が光を放っている。閃光と閃光の間隔を心の中で数える。ちょうど15秒。灯台の周知板にあった通り、「単閃白光、毎15秒に1閃光」であった。


 旅が終わる日の朝はやはり4時に目が覚めた。早寝早起きの“キャンプ時間”にすっかり身体が馴染んで明日からの時差ボケ(?)が心配である。
 日の出が見えるかと思ったが、小雨が降っている。
 現在、岩手県南部から宮城県沖あたりを航行中。気象庁が東北・北陸地方の梅雨明け発表を断念したというニュースは旅の間に聞いた。いまだにこの付近には雨雲の帯がかかっているようだ。
 天気がすっきりしないまま、空が明るくなり、甲板の手すりにもたれて海を眺めていたら、肩に七星テントウムシがとまった。一体どこから来たのだろう。
 手のひらにのせると、指先から不意に飛び立って、高く舞い上がり、そのまま海の彼方に消えた。


                               北海道自転車紀行1998年夏   



(長い航海の果てに東京湾に入ったブルーゼファー)


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