浜頓別サイクリング                      8月8日


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 浜頓別・クッチャロ湖畔のキャンプ場の朝。気味の悪い物音で起こされた。目を開けて、ギョッとした。
 僕のテントは天井部分がメッシュになっていて、外側に雨よけのフライシートをかぶせた二重構造になっている。その天井のメッシュとフライシートの隙間にびっしりと薄茶色の蚊が群がっているのだ。僕の眠りを妨げたのは夥しい数の蚊の羽音なのだった。
 昨夜も外出から帰ると、蚊の大群が凄まじい勢いで襲来し、慌ててテントに逃げ込んだのだが、まるで僕だけが蚊に集中的に狙われているかのようである。それとも、ほかのテントも同じ状況なのだろうか。
 メッシュを内側から指先ではじくと、茶色の大群は唸りを上げて暴れ回る。これでは外に出られないが、いつまでもテントの中でじっとしているわけにもいかないから、出入り口のファスナーをそっと開けて、わずかな隙から忍び出て、フライシートをめくり上げ、バタバタとはたいて、なんとか追い払うことができた。見上げた空は今日も青い。

 まずはキャンプ場のコインランドリーで洗濯。それから一昨日パンクしたタイヤチューブの穴をふさいでおく。
 そこで昨日浜頓別の手前で追い抜いたマウンテンバイクのおじいさんに会った。なんと80歳。大阪から来て、北海道を一周中だそうだが、とても80歳には見えない元気なジイサンである。
 そのおじいさんを見送り、洗濯物をテントと近くの木の間に張ったロープに干して、僕も9時半に出発。今日は身軽なスタイルなので、自転車も軽い。

     ベニヤ原生花園

 まずは浜頓別の海岸に広がるベニヤ原生花園を訪れる。



 まったく波がなく静止画のようなオホーツク海を眺めた後、沼や湿地の点在する草原の散策路を歩く。
 すでに盛りは過ぎたとはいえ、まだいろいろな花が咲いている。なかでもエゾカワラナデシコの大群落はみごとで、草原がそこだけピンクに染まっている。その周囲には濃い橙色のコウリンタンポポや黄色いタンポポモドキといった帰化植物も進出している。ほかに長い花穂をつけたクガイ草やツリガネニンジン、タチギボウシといった紫色の花、黄色いトウゲブキ、白いノコギリ草などが目につく。また、エゾニュウなどの巨大なセリ科植物も花は終わっているが存在感はある。ハマナスも花の盛りは過ぎたものの、実が赤く色づき、ひとつ齧ってみたら、甘酸っぱい味がした。

 


(ベニヤ原生花園の展望塔からクッチャロ湖方面を眺める)


     クロバーの丘

 ベニヤ原生花園をあとにして、次は昨日走ってきた国道を再び猿払方面へ走る。めざすのは「クロバーの丘」。
 よつ葉乳業の工場前を過ぎ、大規模な牧場が広がる中を走って、浜頓別から9キロの地点を左折。ここに案内板があって、クロバーの丘まで7キロとある。昨日はさすがに往復14キロの寄り道をする気にはなれなかった。
 クッチャロ湖の北側の林や湿地の中を抜けて、牧歌的な風景を眺めつつ5キロほど道なりに走り、そこから丘陵地帯に分け入る。
 やたらにブヨが多い。いつのまにか腕やふくらはぎに止まって、チクッと刺すのが腹立たしい。牧場の牛たちもしきりに尻尾を振って虫を追い払っている。
 通る車もまったくない細道を上っていくと、なだらかな曲線を描く美しい丘が幾重にも重なり合うなかに「クロバーの丘」があった。



 「幸福の鐘」というのがある牧草の丘(クローバーが多いわけではないようだ)に立つと、雄大にうねる牧草地の彼方にクッチャロ湖が青い水をたたえ、その向こうにはオホーツクの水平線が続いている。深緑の針葉樹林や白樺の林、赤い屋根の農家などの点景も含めて絵画のように美しい眺めで、ほかに誰もいないから、風景を独り占めしているような気分になれる。わざわざやってきた甲斐があった。

 

 水飲み場があったので、ぬるくなったボトルの水を詰め替えて、さらに丘の道を奥地へ向かったが、7月末の豪雨で道路が陥没して通行止めになっていたので、引き返す。

     天北線廃線跡

 国道へ戻る途中に小さな道が道路を横切っている。それが何かはすぐに分かった。かつてこの土地を走っていた天北線の廃線跡が舗装され、サイクリングロードになっているのだ。
 天北線は宗谷本線の音威子府から分岐してオホーツク海側を回って稚内へ至る150キロほどのローカル線で、平成元年4月末に廃止された。何度も乗ったので、とても懐かしい。廃止から10年。線路跡はすでに自然に回帰したかと思っていたが、浜頓別~猿払間の21.2キロが自転車道として整備されていたのだった。これはもう走るしかない。

 というわけで、自転車道を北へ向かってペダルを踏む。ちなみに走り出した地点は安別という土地で、かつて停留所(仮乗降場)があった場所だと思うが、ホームは残っていなかった。ただ、そこにあった休憩用の小屋はかつての駅舎かもしれない。
 とにかく、まるで列車運転士になった気分で、まっすぐに伸びる線路の跡を坦々と走っていくと、再び小さな交差点があり、そこに板張りの短いホームが残っていた。朽ちたホームを破って熊笹が茂っている。駅名板は枠だけが残っていて、それだけでは何駅だったか分からないが、恐らく飛行場前という駅の跡だと思われる。そういう名前の駅があったことは記憶にある。でも、周辺には飛行場どころか全く何もない。なぜここが「飛行場前」だったのか、僕にとってはずっと謎のままである。



 ところで、僕が天北線を利用したのはすべて雪と氷の季節で、車窓風景といっても、広漠とした雪景色ばかりが浮かんでくるが、こうして自転車で走ってみると、牧草地や湿原、原野、針葉樹や白樺の林、小さな沼などが次々と現われ、最果ての美しさに満ちている。



 しかし、かつては札幌からの急行列車も走っていた線路が今はこんな風になってしまったのかと思うと、時代の流れに粛然とさせられる。あの日、猛然と雪煙を立ててこの道を走っていた列車はもう二度と帰ってこないのだ。

 次に現われたのは浅茅野駅跡。ホームはすっかり夏草に埋もれ、ほとんど見えないが、手前に「76 1/2」と書かれた標識が立っていた。これは天北線の起点・音威子府からの距離が76.5キロであることを示す距離標である。積雪で埋もれないように長い支柱の先についている。距離票だけは今も随所に残っていた。

     カムイト沼

 林を抜け、湿原を横切り、猿払川の鉄橋を渡り、やがてまた舗装道路と交差する。ここを左折するとカムイト沼というのがあるらしい。
 浜頓別から猿払にかけてはクッチャロ湖のほかにもモケウニ沼、瓢箪沼、ポロ沼、猿骨沼など数多くの湖沼が散在しているが、なかでもカムイト沼には最も心を惹かれる。僕のわずかなアイヌ語の知識でいえば、「カムイ・ト」は神の湖の意味である。

 ゆるやかにカーブする林間の道を行くと、木立の向こうに午後の光にキラキラ輝く湖面が見えてきた。
 北オホーツク道立自然公園に指定されたカムイト沼は美しい針葉樹林に囲まれた静かな湖で、ここにも人の姿は全くなかった。湖岸の一部に木道があるほかは、原始のままの姿で「神の湖」という先入観のせいもあって、神秘的な感じがする。
 ただ、湖面を間近にのぞくと、水が不気味に赤みを帯びている。これはクッチャロ湖もそうだし、猿払川の水もそうだった。この地方の泥炭層の土壌と何か関係があるのだろうか。

 

     再び天北線跡を行く

 天北線の線路跡に戻り、さらに北へ進む。
 距離標の数字が82.5を過ぎると、少し両側の土地が広がって、そこで自転車道は終わっていた。そこが猿払駅の跡地である。駅舎もホームも何も残っておらず、線路跡はその先から拡幅され、一般道に姿を変えている。猿払村の役場は鬼志別にあるので、このあたりには人家が数軒あるだけ。べつにこの土地に用事があるわけではないから、すぐに引き返す。

 昨日に続いて今日も猿払の森の奥から響くコマドリの声を聞き、とても豊かな気分になって走る。ウグイスも至るところで鳴いているし、キジバトの声もする。
 それにしても、このサイクリングロードでまだ1台の自転車にも会っていない。というより、人っ子ひとり見かけない。僕もそうだったけれど、国道を走る自転車旅行者はみんなこの自転車道の存在自体に気づくこともないのだろう。この道を走れただけでも、浜頓別に連泊してよかった。

 さて、安別まで戻って、浜頓別までラストスパート。あと8キロの地点で、右の視界がパッと開けて、線路跡はクッチャロ湖畔に出た。この自転車道のハイライト区間だろう。遠い日に列車の窓から白い氷原と化した湖を眺めたのを思い出した。

(クッチャロ湖畔を行く)

(山軽駅跡)

 ホームや駅名標や待合小屋が残る山軽駅の廃墟を過ぎて、浜頓別まであと数キロの地点で、思わぬ文字が目に飛び込んできた。
「注意・熊出没」
 浜頓別町が立てた看板で、明らかににわか作りだから真実味がある。最近出たのだろうか。あたりは湖畔の森林地帯で、人気もない。こんな場所でヒグマに出くわしたら、かなわない。微かな物音も聞き逃すまいと全身を耳にして走る。

(熊出没注意)


 猿払から21.2キロ。浜頓別駅まであと300メートルの地点で自転車道は終わっていた。
 天北線では最も大きかった浜頓別駅の跡地は整地され、公園やバスターミナルなどになっている。バスターミナル内には天北線の写真や資料を展示するコーナーが設けられ、地域の発展に貢献した鉄道の功績を称えていた。

(ありし日の浜頓別駅 1982.3)


     浜頓別・夕景

 クッチャロ湖畔に近い北オホーツク荘の温泉で一日の汗を流し、街で買い物をして、キャンプ場に戻ると、湖の彼方に太陽が沈む頃合であった。



 夕陽の美しさは夕雲の美しさである。快晴ではダメで、適度に雲がないと、夕陽の美しさも引き立たない。今日はいい按配に雲が出て、夕焼け日和である。西の空に低くかかる雲は金色に燃え上がり、最後まで白さを残していた高い空の巻雲もいつしか残照でほんのりとピンクに染まり、やがて青い夜が厳かに舞い降りてきた。
 今日の走行距離は81.0キロ。明日はオホーツクに沿って南へ向かう。


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