日本海航路*博多~直江津 1996年8月23日~24日

 対馬自転車旅行の終わりは博多から九越フェリーで新潟県の直江津に行き、列車に乗り継いで東京へ帰りました。

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    箱崎埠頭

 九越フェリーの発着する箱崎埠頭は博多の中心街から5キロほど離れた場所にある。
 午前中に下見に訪れた時は岸壁で家族連れが釣りを楽しんでいたが、夜になると灯りも少なく、寂しげで荒涼とした雰囲気になっているのは東京の有明埠頭と同じ。どうもフェリー乗り場というのはそういうものらしい。旅客より貨物輸送が中心だから仕方がないのだろう。

 夕暮れとともに賑やかさを増す中洲の屋台を見て歩き、本場の豚骨ラーメンを味わい、博多駅の名店街で土産物を買ったり、明日の朝食用のパンやお茶なども仕入れて、箱崎埠頭に着いたのは20時半頃だった。出航予定は22時45分である。

 岸壁に接岸しているのは19時に直江津から到着したばかりの「れいんぼうべる」。全長196メートル、総トン数13,600トンの船で、東京から乗ってきた「おーしゃんいーすと」よりも大きい。

 九越フェリーは北海道と本州各地を結ぶ東日本フェリーの系列会社らしく、白地に赤・橙・黄の三色ラインと青いイルカのシンボルマークの船体デザインもほぼ共通である。
 ターミナルビルではすでに乗船手続きが始まっており、待合室には家族連れなど船に乗る人々が大勢待っていた。周辺があまりに寂しい場所なので、なんだかホッとする。
 直江津までの2等運賃は11,050円、これに自転車の航送料金が3,340円。乗船手続きが済んでも、乗船までにはずいぶん待たされた。あくまで貨物の積み込みが先で、人間は後回しのようである。
 待合室のテレビでは東京の情報番組が下町の特集をしている。ほぼ毎週見ている番組だが、九州にいると、画面の向こうで語られていることがひどく遠い世界のことのように思われた。

 駐車場には大型トラックや乗用車、バイクがそれぞれ列を作って待っている。その中で目を引くのが牛乳配達バイクに跨ったツーリスト。後部の牛乳ビンを入れる箱に荷物を積んでいる。これぞ笑えるダンディズム。なかなかカッコいい。
 自転車は僕のほかにもう1台。キャンプ道具を一式積んだマウンテンバイクで、傍らに青年が膝を抱えて座り込んでいる。声をかけてみると、熊本から来たといい、フェリーを乗り継いで北海道へ行くのだそうだ。熊本からここまでおよそ120キロだったとのこと。僕も今日は112.5キロも走ってしまい、今回の旅での通算走行距離は527.4キロになった。

     乗船~「れいんぼうべる」の船内、そして出航

 さて、いよいよ乗船。巨大な格納庫のような車両甲板から客室まではエスカレーターが設置され、船内もデラックス。さすがに今年の4月9日に就航したばかりの新造船。埠頭の係員も「今が乗り時だよ」と言っていた。最初は豪華に造られても、だんだん合理化され、設備が簡素になってしまうことが多いらしい。

 指定された8人部屋に荷物を置くと、さっそく船内探検。ホテルの一室を思わせる特等室や1等室は覗くことができないのでパンフレットの室内イラスト(写真じゃないのは船の完成前に作成されたせいだろう)から想像するほかないが、パブリックスペースとしてもアスレチックルームやゲームコーナー、レストランにカフェテラス、マリンシアター、カラオケルーム、サニーガーデン、展示室、売店などが揃って、かなりの充実ぶり。トイレや洗面所も新しくて清潔である。
 風呂はもちろん展望風呂。しかも、サウナやジャグジーもついて広々としている。最高の極楽気分でゆったりお湯につかっていると、いつの間にか船は岸壁を離れ、方向転換を始めていた。窓の外を博多港のオレンジ色の常夜灯がゆっくりと流れていくのを眺めながら、これで九州ともお別れだな、と思う。しかし、今は旅の終わりの寂しさよりも展望大浴場のシアワセ気分の方が勝っている。幼い兄弟がはしゃいでいるのもうるさく感じない。その気持ちもよく分かる。
 ところが、この兄弟、風呂から出ても船内を走り回り、挙句の果てに弟の方が転んで額を切ってしまったらしい。エントランスホールのソファで風呂上がりのビールを飲んでいると、男の子はオデコから血を流して泣きながら医務室かどこかへ連れて行かれたのだった。
「あんなのは親が悪いよな」
 そばでタバコを吸っていた緑色のポロシャツ姿の50代半ばくらいのおじさんが言い、それをきっかけにこの人とは航海の間、よく話をするようになった。北海道から九州まで全国各地を走り回る長距離トラックの運転手で、ドライバー室(フェリーには一般船室とは別にトラックドライバー専用室がある)では運ちゃん連中が酒盛りをしていて騒がしいので避難してきたそうだ。

 さて、22時45分に博多・箱崎埠頭を出港した「れいんぼうべる」の航海スケジュールはエントランスホールの航路案内図によると、次のようになっている。

 玄界島23時42分、大島0時19分、角島1時37分、日御崎6時04分、経ヶ崎10時14分、猿山岬15時14分、禄剛岬16時33分、直江津19時00分。

 直江津まで901キロの遥かな航海はまだ始まったばかりである。

     船上の夜明け~山陰沖を行く

 船上で迎えた翌朝は明け方に目が覚めた。そっと部屋を抜け出して甲板に出てみると、まともに立っていられないぐらい風が強い。
 ようやく闇が消えつつある大空は水に青い絵の具を薄く溶いて、そこに薄墨を流したような色をしている。濃い灰色の雲が棚引き、東の水平線近くだけが仄かに赤い。

(山陰沖の夜明け)

 多くの人々がまだ夢の世界にいる間も「れいんぼうべる」はまだ光の届かない黒々とした海に白い航跡を描きながら、25ノットの速度で黙々と進み続けている。もう九州は遥かな闇の彼方に遠ざかり、今は島根県の沖合のはず。
 右舷に遠く灯台の光がいくつか明滅している。あれは一体どこの町だろう。気が遠くなるような暗黒の世界がこの船の真下に広がっていることを思うと、蒼黒いシルエットを描いて続く陸地の灯台にふと奇妙な懐かしさみたいなものが込み上げてくる。

 6時頃、島根半島西端の日御崎の沖を通過。灯台がどういう仕組みなのか赤と白の光を交互に発している。彼方には三瓶山や大山の山影も望まれる。

 すっかり空が明るくなった頃、隠岐の島影が左舷にくっきりと見えてきた。隠岐にもいつか行ってみたいと思っている。もちろん、相棒の自転車を連れて…。

 朝食は昨日博多で買っておいたパンとお茶で済ます。レストランものぞいてみたが、朝食メニューは和・洋の定食だけで、ともに1,000円。かなり高めで、あらかじめパンを買っておいたのは正解だった。まぁ、ペットボトルのお茶を片手にパンを齧っていると、そこはかとなく貧乏くささが漂う感は否めないわけだが…。

 陽が高くなるにつれて日本海の青みが増してきた。キラキラきらめくというより、光も吸い込んでしまうような深いブルーである。
 波間に飛び散るトビウオの群れが多いのは太平洋航路と同じだが、こちらはやや波が高い。揺れはさほど感じないが、風があまりに強くて、甲板に出てくる人もほとんどいない。



 船内の過ごし方も人それぞれ。部屋で碁盤を囲むおじさんたち。ゲームセンターに入り浸る子どもたち。母親の横で算数のドリルをやらされている小学生。ひたすら寝ている学生風。サロンで読書をする人。エントランスホールのソファに座ってテレビを見たり、談笑したりする人。昨日ケガをした男の子は頭を包帯でぐるぐる巻きにして、まだ懲りずに走り回っている。僕はといえば、朝からまた風呂に入ったり、サンルームのデッキチェアで空と海を眺めたり、アスレチックルームのエアロバイクを試して、やっぱり本物の自転車の方がいいな、と改めて思ったり、売店で博多や新潟の名産品や船の記念品などを物色したり、テレビを見たり…、と退屈しているんだか、していないんだか、自分でもよく分からない状態である。



 船は鳥取沖から針路を北東に変え、一直線に能登半島をめざす。陸影がどんどん遠ざかり、いつしか見えなくなった。見渡すかぎりの大海原。テレビの画像も乱れてきた。今まで受信していた電波と別の地方の電波との境界にさしかかったようである。
 レストランの昼食営業開始は12時から。朝食は高いと思ったが、昼食はそれほどでもない。700円の皿うどんを食べる。

     ブリッジ見学会

 ところで、この船のサービスで嬉しかったのはブリッジ見学会があったこと。希望者は12時50分にインフォメーション前に集合し、係員に見学上の注意事項を聞かされた後、ブリッジへ。最新の航行システム、レーダースクリーンの見方などの説明を受ける。なかでも興味が尽きないのは海図。地図を見るのが好きなので、じっくり見入ってしまった。ちなみに船は現在、金沢市付近の沖合を航行中だそうだ。まだ陸地は見えない。

(前方監視を続ける一等航海士)

 そうやって我々がブリッジ内をウロウロしている間も白い制服姿の1等航海士は微動だにせず双眼鏡で前方を注視している。船は急には止まれないから、事故を未然に防ぐには前方のわずかな異常も見落とすことは許されない。夜間もブリッジでは電灯をつけず黒い幕でまわりを囲って完全に真っ暗にした状態で海上の監視を続けるという。
 海が穏やかだとこの海域でも鯨が出没するらしいが、今日は2メートルほど波があり、この時季にしてはシケているとのこと。

 そういえば、8月14日に九州を直撃した台風12号はその後、中国地方を縦断して日本海へ抜けたが、その日、直江津から博多へ向かうはずだったこの船は乗客の予約をすべてキャンセルして博多へ回航。まともに行けば台風に巻き込まれるため、大きく北へ迂回して、台風を避けたのだそうだ。
 この船の乗組員には外国航路経験者が多いらしく、大荒れに荒れる厳冬の北米航路の話など聞かせてもらった。きっとそうした経験が今後屈指の荒海である真冬の日本海航路でモノを言うのだろう。あまり冬の日本海を船で旅したいとは思わないけれど。

(ブリッジから後方の眺め)

 見学時間は1時間ほど。熊本の彼と記念写真を撮り合ったりするうちに彼方に陸地が見えてきた。能登半島だ。そろそろこの航海も終盤だな、と寂しくなるが、実際にはまだ5時間も残っている。

     能登半島沖から直江津へ

 ようやく輪島市西方の猿山岬を通過したのが15時過ぎ。これから1時間ばかりは荒々しい断崖絶壁が続く能登の北岸に沿って航行する。

(能登半島沖をゆく)

 マリンシアターでは映画『ダイハード3』が上映されているが、満員だったので諦め、エントランスホールのソファで、昨夜の緑シャツの運ちゃんから全国各地のいろいろな見聞を聞かせてもらううちに、船は能登半島突端の禄剛岬を回った。あとは直江津に向けてまっすぐ進むばかりだ。時計の針も16時半を回っている。

 左舷に佐渡の島影が見えてきた。
 いつしか空一面に雲が広がり、すでに西の空に接するあたりは薄紅色に染まっている。夜がひたひたと忍び寄ってきた。

(佐渡島)

 またひとつの旅が終わっていく。もはや美しい対馬の海も険しい山道も遥か時空の彼方に遠ざかり、記憶は思い出へと結晶していく。天神や中洲の雑踏も博多湾の夜景も山陰沖の夜明けも…すべては過去へ過去へとどんどん押し流されていく。
 ましてや、東京から九州へと34時間もかけて太平洋航路を辿ったことなど、それがただ単に遠い過去の出来事になったというより、あの時と現在との時間の連続性が断ち切れてしまい、どんなに過去へ時間を遡っても、もうあの時点には決してたどり着くことができないかのような不思議な感覚に陥ってしまう。恐らく、旅の初めの頃にはまだそれまでの日常的な時間の流れに乗っていた自分が、旅の非日常的な時空をくぐり抜けるうちに、いつしかそれまでとは全く別の時間軸へと転移してしまったせいだろう。これも旅という日常からの逸脱行為がもたらす心理的作用の結果である。

(直江津が近づいてきた)

 次第に色彩を失っていく陸地のシルエットに次々と灯りがともり、とりわけ光の密度が濃いあたりが直江津らしいと見当がつくようになる頃、船内でもそろそろ下船の支度が始まった。
 「れいんぼうべる」は速度を落として少しずつ陸地へ近づいていく。

(直江津港防波堤の赤色灯台)

 薄闇の中で直江津の港湾施設の輪郭が徐々に明確さを増し、岸壁にはこの船に似た大型フェリーの姿もはっきりしてきた。直江津と北海道を結ぶ東日本フェリーの船であろう。
 防波堤の先端でひっそりと光を放つ赤色灯台の孤独な存在感が旅の終わりのしんみりとした気分を引き立ててくれた。

(直江津港に入港。北海道からのフェリーが見える)


     直江津入港

 まもなく直江津港に入港。航海中は閉鎖されていたエスカレーターが動き出し、車両デッキへ下りる。丁寧に固定された自転車を解放してやり、緑シャツの運ちゃんのトラックまで行って別れの挨拶をして、接岸作業の完了を待って下船。時刻は確かめなかったが、定刻の19時を少し過ぎていたようである。

 隣のフェリーも北海道の岩内から18時間の航海を経て1時間ほど前に到着したばかり。まだ荷降ろし作業が続いている。平日ならどちらの船も深夜にまた折り返し出航するので、互いにすぐ乗り継げるのだが、日曜日の今日は両船ともこのまま直江津港に停泊し、出航は明晩である。熊本の自転車青年も今夜は直江津に泊まり、明日は新潟市まで走って、夜の小樽行きフェリーに乗るとのこと。辺鄙な岩内なんかに着くよりは小樽に着く方が便利には違いない。

 20時間も世話になった「れいんぼうべる」の巨大な船体を最後にもう一度振り返り、直江津の市街をめざして走り出す。駅までタクシーで約10分の距離だそうだ。
 これまでサイクリングはずっと独りだったが、今は同行者がいる。わずかな時間ではあるが、ひとのペースに合わせて走るのは新鮮な経験でもある。
 4キロほどで直江津駅に到着。信越本線と北陸本線の合流する主要駅で、今年4月の小旅行の際に通ったばかりである。
 今宵の宿を昔ながらの駅前旅館に決めた熊本の彼と一緒に夕食をとろうと思うが、地方都市の夜は早い。辛うじて開いていた近くの喫茶店に入ると、隣のテーブルで食事をしていたのは例の包帯坊やの一家だった。

     旅の終わり~はじめての輪行

「じゃあ、気をつけて…」
 宿に戻る熊本の彼とも別れ、旅の終わりはまた独りになった。あとは東京まで夜行列車に身を委ねるばかりだが、相棒の自転車はそうは行かない。分解して袋詰めしなければ列車に乗せられない。いわゆる輪行。これが初めての経験となる。
 さっそく駅前で作業に取り掛かる。といっても、基本的には前後輪を外して、フレームを挟んで束ね、袋に入れるだけだが、なにしろ初めてなので、こっそり説明書を見ながら、あれこれ手間取った。しかし、上野行きの急行「能登」(当時は長野経由)の発車時刻は日付が変わった0時53分。時間はうんざりするほどたっぷりある。

 自転車の袋詰め作業も無事終了し、上野までの乗車券と急行券のほかに自転車分の切符(当時はたしか260円。現在は持ち込み無料です)も購入して、あとはひたすら待つだけ。

 売店も閉まり、テレビも消え、人の出入りもだんだん少なくなっていく。空気の肌合いもひんやりしてきた。地方駅の夜更けの待合室。その物寂しい風情は嫌いではない。

 それにしても、残暑厳しい九州を旅していたはずなのに、今はすっかり秋めいた新潟の夜の駅で列車を待っているというのは不思議な気分である。これまで僕にとって九州とは東京から名古屋や大阪や広島といった点を結んだ延長線上にある土地のはずであったのに、その九州から突然、まるで方向違いの新潟県の直江津などという場所に運ばれてきてしまったという事実がどうもしっくりこないのだ。

 大地の上で生活する者にとって、海とは地図の余白に過ぎない。その地図の余白には目に見えない海の道があった。この新たな発見のおかげで頭の中の地理感覚が奇妙に歪んでしまったようである。
 そういえば、対馬の民宿の娘さんと東京の話をした時、彼女は九州からの列車も上野駅に着くものと勘違いしていた。「九州からの列車は東京駅に着くんですよ」と教えてあげた僕だったが、今まさに上野行きの夜行列車で九州旅行を終えようとしているのだった。
 
                                    海の道 自転車紀行 1996年夏 完



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