黄金道路(大津~広尾~襟裳岬)  1998年8月20日

 十勝川河口の大津に近い長節湖畔で大雨の朝を迎え、トンネルと覆道が連続する「黄金道路」を通って、襟裳岬をめざします。

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     大雨の朝

 テントを打つ激しい雨と風と波の音に何度も目を覚ましながら心細い一夜を過ごし、ようやく朝が来た。明るくなったというだけでも不安は和らぐものである。
 NHKのラジオをつけると十勝南部に大雨洪水注意報が発令中と報じている。今日は一日中ずっとこんな天気なのだろうか。走るのが嫌になるが、こんな寂しい場所にも長居はしたくない。
 同じ境遇で一夜を過ごした網走の彼(夜中に強風でテントが倒れたらしい)は雨を衝いて6時過ぎに早くも出発していった。今日は釧路方面へ向かうそうだ。

 完全にひとりぼっちになって、一刻も早く僕もここから脱出したいと思う反面、この雨だとテントを撤収するのも億劫になる。グズグズするうちに時間だけが過ぎ、なんとか出発準備が完了し、完全防水態勢で走り出した時には7時50分になっていた。

 今日は広尾方面へ向かうが、この先、当面は無人地帯が続きそうなので、まずは水と食料を仕入れるべく大津まで戻る。
 静まり返った町なかで食料品店を見つけて入ると、幼い女の子が「こんにちは」と可愛い声で出迎えてくれた。お客にはきちんと挨拶するようにしつけられているらしく、あとから出てきた父親に「ちゃんとコンニチハっていったよ」と報告していた。
 飲料水と賞味期限が切れたパン(それしかなかった)を買って、大津をあとにする。昨日の夕方に比べれば、だいぶこの土地に愛着を覚えるようになったが、再びここへ来ることはたぶんないだろう。

     国道336号線

 大津から茂岩方面へ少し戻ると国道336号線にぶつかる。右へ行けば、十勝川を渡って釧路方面へ通じているが、十勝川に橋が完成したのは最近のことで、それまでは渡し舟が両岸を結んでいたそうだ。僕はここを左折。十勝南部の海岸沿いに広尾まで60キロほどである。

 雨と霧で霞む風景の中を水飛沫をあげて走る。早くも全身ずぶ濡れだが、いったん濡れてしまえば、あとはいくら濡れても一緒。もう開き直るしかない。

 十勝の太平洋岸には長節湖のほかにも湧洞沼、キモントウ沼、生花苗沼、ホロカヤントウ沼といった海跡湖が点在するが、国道は湖沼のある湿地帯を避けて、内陸寄りの丘陵地帯をアップダウンの連続で進む。交通量は少なく、旅のバイクや自転車には全く会わない。沿道には人家もほとんどない。

 夢中で走るうちにいつしか雨は小降りになり、出発から1時間ほど経ち、豊頃町忠類村の境界付近にさしかかる頃には止んでしまった。しかも、行く手の空には青い色がのぞいている。今日はずっと雨を覚悟していたのに、予想外に早く天気は回復しつつあるようだ。林の奥でエゾゼミも鳴き出した。

(この地点でレインウエアを脱ぐ)

 フードを払いのけると、風が心地よい。レインウェアの中が蒸れて気持ち悪いので、ウェアの上下も脱いでしまう。もう雨は降らないだろうという判断である。

     ナウマン象発掘地

 Tシャツ短パンという姿で軽快に走るうちにホロカヤントウ沼に近い晩成「ナウマン象発掘地」の案内板を見つけ、訪ねてみた。雨が止んだからこそ、そんなゆとりも生まれる。
 国道から少し脇道に逸れたところにその場所はあり、立派過ぎるほどの記念碑が鎮座していた。



 ナウマン象は約20万年前から2、3万年前までの更新世末期に東アジア一帯に生息していた象で、日本でも東京都内を含む各地で化石が発掘されている。この場所では1969年7月に道路工事中に偶然発見されたそうだ。化石は47個で、全骨格のおよそ80パーセントに当たるという。
 説明板によれば、このナウマン象の生息年代は約12万年前と推定され、当時、この付近は増水時には河川の流路になることもあった川沿いの沼であったと考えられているとのこと。象が悠々と歩き回っていた時代の日本列島にちょっとタイムスリップしてみたい気もする(すぐ戻ってこられるなら…)。

 ここから内陸へ車で20分ほどの忠類村の中心部には「ナウマン象記念館」や「ナウマン温泉」まであるそうだ。寄ってみたい気持ちはあるが、今回はまっすぐ広尾をめざすことにする。

(どんどん晴れてきた)


     広尾

 天気はどんどんよくなり、すっかり青空が広がった。気温も上がり、暑く感じるようになってきた。
 大樹町を過ぎて広尾町に入り、帯広からの国道236号線と合流する豊似からは人家も増え、交通量もいくぶん多くなった。広尾まではあと13キロ。

 
(十勝の青空と大樹町の牧場)

 幸福駅で有名だった旧国鉄広尾線(帯広~広尾)の廃線跡を陸橋で越えて、正午過ぎに広尾に到着。太平洋に面した港町だが、市街地は港より一段高い台地上に位置している。
 道路に幅があり、両側に連なる建物も低いせいで、空がとても広く感じられ、街の印象も明るいけれど、閑散としている。夏らしさを取り戻したセルリアンブルーの空にはちぎれ雲がいくつも浮かんでいた。

(広尾の街)

 さて、この広尾の十勝港には、東京と釧路を結ぶ近海郵船フェリーの上り便だけが寄港する。僕もここから東京行きのフェリーに乗るわけだが、明日は出航がなく、予約したのは明後日の便なので、今日はこのまま広尾を素通りして、襟裳岬まで行く。あと50キロ近くもあるが、夕方には着くだろう。いずれにしても、旅の終わりがはっきり見えてきた。

     黄金道路

 市街地を抜けると、下り坂の先に海が見えてきた。ここから襟裳岬まではずっと海辺を行くはずである。ブルーというよりはグリーンに近い海の色がいかにも夏を思わせ、さぁ、これから走るぞ、という意欲を掻き立てる。

(この坂を勢いよく下っていくと・・・)

 ところが、勢いよく坂を下ったところで、工事現場のガードマン風の人に行く手を遮られ、自転車を止められてしまった。ここから1キロほどの区間は工事中で片側交互通行のため、歩行者と自転車はトラックで搬送するのだそうだ。
 というわけで、愛車は昇降台を使って荷台に積まれてロープでしっかり固定され、僕は助手席に乗せられて、1キロ先まで運ばれる。
 途中は断崖が海に迫る区間で、落石防護のシェルターを建設していた。この先は地形が急峻なため、道路の建設にはまるで黄金を敷き詰めるほどの莫大な費用が投じられたということから、通称「黄金道路」と呼ばれているそうだ。

 搬送役のおじさんに襟裳岬付近は非常に風がきついから注意するように忠告され、僕からは「明日広尾へ戻ってくるので、またお願いします」と言い残して、トラックを降りると、そこにあるのが「フンベの滝」(右写真)。岩盤から湧き出た地下水が幾筋もの滝となって流れ落ちている。冷たい水に手を差し出して、涼をとった。

 そこから道路はそそり立つ断崖絶壁の下を打ち寄せる太平洋に沿って続き、走り出してすぐに最初のトンネルに突入。トンネルを過ぎても落石を防ぐためのシェルター(覆道)が続くため、道路はコンクリートの天井に覆われたままで、左側の支柱の合間から防波堤越しにエメラルドグリーンの海が覗けるだけである。
 ようやく外に出ても、またすぐ次のトンネルやシェルターが待っており、その出口の向こうにはさらなる闇がぽっかりと口を開けている、といった具合。
 しかも、至るところで工事をやっている。シェルターの新設工事や危険な岩石の除去作業など。トラックによる搬送はもうなかったが、走りにくくて、せっかくの景色ものんびり楽しめる状況ではない。
 このルートが開通したのは昭和9年のことだそうだが、当初は今ほどはトンネルや覆道もなかっただろうから、高波や落石、崖崩れの多い相当に危険な道だったと思われる。

 フンベの滝から6キロほどで、音調津という集落に着く。これでオシラベツと読む。そこで見つけた「まるみ食堂」で昼食。時刻は13時15分。カツカレーを注文する。それにしても、本当に暑い。店のおばさんも黄色いノースリーブ姿である。北海道に来て以来、こんなに夏らしい服装をしている地元の人には初めて会った気がする。
 小堺一機の「ごきげんよう」を見ながら、汗を拭きつつカレーを食べ、13時40分に出発。

 

 音調津から先も相変わらずトンネルと覆道の連続。風が強くなり、時には堤防を越えた波飛沫を浴びながら走る。
 やがて、小さな砂浜が現われ、そこで広尾町からえりも町に入るが、砂浜はすぐに消え、再び険しい道を行く。
 正確に数えたわけではないが、黄金道路全体でトンネルと覆道の合計は30以上はあったのではないか。

(黄金道路の終点から振り返る)

 広尾から30キロ以上走って、ようやく黄金道路も終わり、漁港のある小さな家並みが見えてくると、そこは庶野(しょや)である。

     庶野

 家に1冊の古い時刻表がある。1974年4月号。この年の5月に祖父が北海道をひとりで旅行した時に使ったものである。利用した列車やバスの時刻に赤いペンで印がついているので、それを順に辿っていけば、祖父の旅程を知ることができる。一応、書き出してみる。

 第1日 羽田11:10-(JAL509)-12:35千歳13:15-(急行えりも2号)-15:23静内
      静内16:32-(839D)-17:54浦河
 第2日 浦河9:01-(833D)-9:26様似10:10-(バス)-11:42庶野13:28-(バス)-14:31広尾
      広尾15:16-(828D)-17:15帯広
 第3日 帯広8:40-(急行ぬさまい)-11:04釧路12:30-(急行しれとこ2号)-15:46網走
 第4日 網走9:01-(特急おおとり)-12:59旭川15:10-(急行なよろ1号)-17:04札幌
 第5日 札幌12:30-(特急おおぞら1号)-16:40函館17:00-(青函連絡船)-20:50青森
      青森21:35-(急行十和田4号)-8:51土浦(祖父は筑波に住んでいた)

 この時刻表を発見して、祖父の旅の道筋を紙上に書き出してみた時、心に一番引っかかったのが庶野である。空路で千歳に着いた祖父が日高の海岸を辿っていったので、襟裳岬をめざしたのかと思いきや、2日目に様似から広尾行きバスに乗り、襟裳岬は無視して、なぜか庶野などという場所で途中下車しているのだ。一体何があるのかと気になっていたのだが、のちにその答えが判明した。庶野は桜の名所であるらしい。祖父は何よりも桜の花を愛した人である。5月の北海道へ出かけたのは庶野の桜を観るのが主な目的であったようだ(前日に立ち寄った静内にも有名な桜並木がある)。

 あれから24年。その庶野へ図らずもやってきた。小さな漁村である。僕は「庶野さくら公園」の案内板に従って、集落の背後の小高い丘へと登っていった。
 花のない夏のさくら公園など訪れる人がほかにいるはずもない。公園は静かであった。夏の陽の下で若木から老樹までたくさんのエゾヤマザクラが葉を茂らせ、さわやかな木陰をつくっている。

(庶野さくら公園)

 公園の中を歩いて回り、あずまやのベンチに腰かけて休んでいると、煙るような淡いピンクの桜の園に立つ祖父の姿が瞼に浮かぶ。その年の秋に74歳で亡くなった祖父にとっては最後に観た桜だったかもしれない。そう思うと、立ち去りがたい気がしてきた。

     百人浜

 祖父は庶野で次のバスまでの2時間近くを過ごしたようだが、僕は30分ほどで切り上げ、襟裳岬へのラストコースを辿る。といっても、今日は岬の手前の百人浜にあるキャンプ場に泊まる予定である。
 国道336号線は庶野から岬を通らずに日高山脈の末端の峠を越えて、えりも市街へ抜けてしまうので、ここからは道道34号「襟裳公園線」に入り、なおも海辺を行く。

 
(襟裳岬が見えてきた)

 昆布の干してある海岸に沿って走るうちにあたりは明るい草原に変わり、姿のよいサラブレッドのいる牧場も現われた。日高地方へやってきたことを実感する風景である。風はいよいよ強まり、しかも向かい風でスピードが落ちるが、もう少しの辛抱だ。

 

 庶野から襟裳岬までは15キロほどだが、そのちょうど中間地点あたりに百人浜キャンプ場はあった。海側に防風林のある、きれいに整備された芝生のキャンプ場である。昨日の長節湖とは違って、親子連れやライダー、チャリダーなどがたくさんいる。設備も揃っている。時刻は16時半。

(百人浜キャンプ場)

 テントを設営し、テントと近くの木の間にロープを張ってレインウェアを干し、それからまた自転車に乗って出かける。キャンプ場周辺には商店もなさそうなので、食事のできる店を求めて襟裳岬まで行ってこよう。



 太陽は西に傾いたとはいえ、雲ひとつない快晴。雄大な日高山脈も青空にくっきりと聳えている。長節湖畔で気が滅入るような大雨の中、テントをたたんだのが今日の出来事であるとはとても思えない。
 牧歌的な緑野には母子連れ立った馬たちが草を食み、浜には明るいブルーの海が白波を寄せている。僕と自転車の影が草原に長くのびている。



     襟裳岬

 いよいよ襟裳岬が近づいてきた。日高山脈の峰は険しさも高さも失い、なだらかな丘陵となって、海と交わろうとしている。その稜線には風力発電の風車や自衛隊のレーダー施設などが見える。
 キャンプ場からおよそ8キロ。学校の校庭で子どもたちが野球をしている集落を過ぎ、道路がカーブしながら笹に覆われた台地の上へ這い上がると、そこが襟裳岬であった。



 白い灯台があるほか、レストハウスや「風の館」という観光施設も整備され、すでに夕方とはいえ、さすがに観光客が多い。スピーカーから森進一の『襟裳岬』が流れているのではないか、と予想していたのだが、それはどうやら聞こえない。

 襟裳岬は風が強いせいか樹木の全くない草原台地で、断崖となって海に落ちる突端の先にはさらに岩礁が沖合へと連なっている。北海道の真ん中を南北に走る日高山脈の終端はこうして海へ消えていくのだ。僕にとっても今回の旅の最後の目的地というべき場所なので、旅の終わりの感傷が胸に去来する。

(日高山脈の末端が海に消えていく)

 ところで、僕の場合、岬でまず何より関心が向くのは灯台である。周知板によれば、明治22年に建設された襟裳岬灯台は太平洋戦争中に爆撃を受けて破壊され、現在のものは昭和25年に再建された白色、円形、コンクリート造りのごくオーソドックスな姿。地上から頂部までの高さは13.7メートル、海面から灯火までは73.3メートルだから、岬の標高はおよそ60メートルということになる。灯質は単閃白光で毎15秒に1閃光。光度は90万カンデラで光達距離は22.5海里(約42キロ)とのこと。この灯台の光は去年の旅の終わりに船上から眺めた。

(襟裳岬灯台。翌朝撮影)

 また、この海域では寒流と暖流がぶつかり合うため濃霧が発生しやすく、霧信号所も設置され、ほかに電波の灯台である無線方位信号所も併設されている。もちろん、今日は快晴で、海もどこまでも青いから霧笛が鳴ることはない。

 襟裳岬の標柱の前でライダーに記念撮影を頼まれたので、僕もついでに一枚お願いし、本格的な岬の探勝は明日に回すことにして、レストハウスの食堂で夕食。焼きツブ貝やイカ刺しの付いた1,800円の「えりも定食」を奮発。美味かったが、量的には少々物足りないので、岬の集落の、小学生の女の子が店番をしているスーパーマーケットでおにぎりや明日の朝食用のパンなどを買って夕暮れの道をキャンプ場へ戻る。途中で久しぶりにエゾセンニュウの声を聞いた。

 キャンプ場の隣にはえりも町の高齢者センターがあり、そこで300円で入浴ができるのが嬉しい。やはり自転車旅行では一日の終わりに風呂に入れるのと入れないのとでは大違いである。受付のおばちゃんが「交通安全」と書いた白い貝殻をくれた。
 今日の走行距離は130.9キロ。夜になってなぜか雨がパラパラと降ったが、通り雨だったらしく、すぐに止んだ。

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