風の音楽~キャンディーズの世界♪

               キャンディーズの音楽性

                 


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 キャンディーズの3人は本当の姉妹よりも仲が良い、と本人たちも周囲の人たちも認めていました。
 2人から慕われていた“長女”のラン、いつも明るく振舞って2人を励ましていた“次女”のミキ、2人から可愛がられた“末っ子”のスー。ケンカをしたことは一度もないといいます。
 そんな3人ですが、まったく異なる個性の持ち主でもありました。グループとして活動しながら、つねに3人それぞれの「個」としての輪郭がくっきりしていて、ひとりひとりが凛とした存在感を失うことはありませんでした。とても風通しのよい関係だったのだと思います。だから、「一番いい時に解散しようね」ということは初めから彼女たちが話し合っていたことでした。人生の目標はそれぞれに違っていたからです。もちろん、3人の仲の良さは現在でも変わりません。(さすがに外では会えないので、もっぱらランちゃんの家で集まっているそうです。ランちゃんのダンナ様である水谷豊さんは嬉しそうに3人の写真を撮って携帯電話の待ち受け画面にしているという話です。羨ましすぎる!!!)。

 そうした3人の個性はバラエティー番組などでも大いに発揮されましたが、音楽面においても重要な要素だったと思います。音楽的な個性も三人三様で、声質もまったく異なるのに、いざ歌い出せば、ピタリと息が合って、絶妙のハーモニーを聴かせ、しかも、その声はユニゾンでもハモリでもみごとに調和して、その声の色合いはとても魅力的に響きました。これこそがキャンディーズの音楽の特性であったと言えるでしょう。

 キャンディーズのデビュー曲「あなたに夢中」。この曲は冒頭でまずランが歌い出し、ミキが続き、スーが加わると、そのまま3声のコーラスに突入して、最後まで3人がユニゾンで歌うパートがまったくない、という曲です。作曲者の森田公一氏は何よりも3人の声の個性を活かすことを考えたそうです。

 また、「年下の男の子」「春一番」「微笑がえし」などキャンディーズの代表曲を多く手がけた作曲家・穂口雄右氏も「キャンディーズの素晴らしさは、ラン、スー、ミキの音楽的個性によって90%以上が確定します」と書いています。穂口氏はGSバンド・アウトキャストのキーボード奏者からスタジオミュージシャンを経て作曲家に転身した人物で、キャンディーズの音楽の確立に重要な役割を果たしました。その穂口氏が1998年に発売されたキャンディーズの6枚組CDボックス『CANDIES HISTORY』に寄せた『現実となったビジョン』という文章はキャンディーズの音楽性を知る上で大きな手がかりとなります(もちろん、彼女たちの作品をじっくり聴くのが一番です!)。

 「日本の音楽を変える」ことを志すロック世代の新鋭作曲家だった穂口氏はキャンディーズがデビューした頃からその可能性に注目し、偶然にも彼女たちの担当ディレクターがアウトキャスト時代の盟友・松崎澄夫氏だった縁で、ヴォーカル・トレーニングを任されます。コーラスグループとしてのキャンディーズにリズムやハーモニー、アーティキュレイション(音楽表現上の言葉の区切り方や繋ぎ方)などに関する理論を基礎から教え込み、トレーニングを繰り返したようです。難しい学習と厳しいレッスンに彼女たちも一生懸命についていったのでしょう。
 穂口氏はキャンディーズの3人の個性を次のように要約しています。

 「ランは、時代を先取りしたリズム感、さらにアルトからソプラノまでをカバーする広い音域を持っていました。」

 「スーは、サウンドを包み込む音色、安定した歌唱力、そして何よりも中音域での説得力が貴重でした。」

 「ミキは、しっかりとした音楽教育に裏打ちされた読譜力と絶対音感で、音楽的要になってくれました。」


 こうした各自の個性を理解した上で、穂口氏はキャンディーズのコーラスの役割分担を明確化します。

 「ミキはアルトにまわって正確な音程で支え、スーはメゾソプラノとしてサウンドを安定させ、ランはソプラノとしてコーラスを輝かせる。私たちはキャンディーズでなければならないサウンドを目指しました。」

 初期には高音部をミキ、低音部をランが担当する曲(3rdシングル「危い土曜日」など)もありましたが、中期以降は上からラン、スー、ミキというパート分担が定着します(ミキが高音部を歌う「哀愁のシンフォニー」など例外もあります。「春一番」もミキが上です…よね?)。
 穂口氏は「ランのファルセットを発見したことはキャンディーズの曲作りにおいて非常に大きかった」とも語っていますが(『昭和40年男』2013年8月号)、これはファンの方なら誰もが納得できることでしょう。

 さらに穂口氏によれば、キャンディーズの作品は当初から時代を超越したエバーグリーンなものになるような創作方針に基づいて作られていました。彼女たちの作品が現在でも新鮮さを失わず、多くの支持を得られるのは、「アーティストとスタッフの双方が一つのビジョンに基づいて活動した結果」だというわけです。目先のヒットを狙うと音楽が一過性のものになりがちですが、そうならないように、すべてのスタッフが細心の注意を払っていたといいます。
 穂口氏の参画によって、キャンディーズの音楽は初期の昭和40年代サウンドから、より洋楽的要素を強めた1970年代サウンドに転化し、なおかつ、それが時代を超えた普遍的なものへと昇華したと言えるでしょう。
 もちろん、アイドルとしてのキャンディーズは一方で売れなくてはならない、という宿命を背負っていました。なかなかヒットに恵まれなかった時期にはグループ存続の危機もあったと伝えられています。

 売れなくてはいけない、しかし、ただ売れるだけの音楽にはしたくない、というジレンマは彼女たちの初めてのヒット曲「年下の男の子」をめぐって表面化します。
 4thシングル「なみだの季節」を作曲していた穂口氏に対して次の作品に向けて伝えられた制作方針は「マイナーで青春時代の哀愁を表現する作品」だったということです。当時のアイドル歌謡曲では定番のテーマといえます。しかし、日本の歌謡ポップスの変革を志す穂口氏にしてみれば、おもしろいはずがありません。ただ、まだ25歳の若手作曲家としては正面から逆らうこともできません。そこで、穂口氏が考えたのは、A面には依頼通りの曲(「私だけの悲しみ」)を作る一方で、B面用に当時としては大胆な作曲をする、ということでした。こうしてシングルB面曲として「年下の男の子」は生まれたのです(作詞は売れっ子作詞家の千家和也氏)。
 この曲からスーに代わって年上のお姉さん的な魅力を持つランがセンター/メインヴォーカルに抜擢され、そのイメージに合わせて、結局はA・B面が入れ替えられ、「年下の男の子」が世に出るわけですが、まだ紆余曲折がありました。
 当初、レコーディングには若き日の村上“ポンタ”秀一(Ds)、岡沢章(B)といった強力メンバーが集められ、出来上がったサウンドは「全く日本とは思えない、カッコ良すぎる仕上がり」だったそうです。しかし、キャンディーズが所属していた渡辺プロダクション社長・渡辺晋氏の「これは歌謡曲じゃない」という一言で、ボツになってしまうのです。
 あやうく曲そのものがボツになりかけた「年下の男の子」でしたが、「これが日本じゃないというなら日本にすればいい」というプロデューサー松崎氏の意見で、泣く泣くスタジオミュージシャンを替えて再レコーディングが行なわれました(アレンジはそのまま)。それが現在、我々が知っているあの曲です。ボツになったテイクもすごーく興味があるのですが、音源はどこかに残っていないのでしょうか?

 さて、「年下の男の子」にはもうひとつエピソードがあります。
 深夜にまで及んだキャンディーズのヴォーカルレコーディングが完了し、3人は帰宅。そこから徹夜でのミックスダウン作業となりました。しかし、ヴォーカルミックスにさしかかった午前3時過ぎ、穂口氏らスタッフはランのヴォーカルにどうしても気に入らない小節があることに気づいたのです。締切りは翌日に迫っています。現代のデジタル録音ならこんな場合、わざわざ歌い直さなくても、コンピュータ上でいくらでも音程の修正はできます(J-ポップの世界ではCD1枚で300ヶ所修正なんていう話まであるほどです)。しかし、当時はアナログ時代。そんなわけにはいきません。その時、穂口氏がいう「キャンディーズが時代を超えたもうひとつの秘密兵器」だったエンジニアの吉野金次氏が言いました。
「ランに来てもらいましょう」

 ランの回想
「譜面をいただいた時、♭やら♯やら沢山ついていて、悲鳴をあげました。初めてソロをとった曲なのに、思うように歌えず逃げだしたくなってもう泣きそう。やっとの事でとり終え、家に帰りましたが、即電話がかかってきまして“あんな歌じゃダメダ!!”・・・夜の中さみしくもう一度家を出て、スタジオに向かいました。私たちに幸せを運んできてくれた思い出深い曲です。」
『キャンディーズ卒業アルバム』、シンコー・ミュージック、1978年2月1日発行)

 結局、ランは午前5時に再びスタジオ入り、6時にヴォーカルトラックが完成、午前中にはミックスダウンも終了し、その日のうちにプレス工場に届けられたということです。

 現代はミュージシャンが楽器を演奏しなくても、サンプリング音源をコンピュータに打ち込むことで本物の楽器で演奏したかのような音楽が出来てしまう時代ですが、キャンディーズが活動していた1970年代には生身の人間が実際に楽器を演奏し、歌い、ちょっとでもミスをすれば何度でもやり直すという実に手間のかかる作業を通じて音楽が作られていたわけです。そういう人間味あふれるところが70年代までの音楽の魅力だと思いますし、ヴォーカルだけでなく、バックのミュージシャンの職人芸を聴く楽しみもあるわけです(もちろん、今でもそういう音楽はありますが…)。実際、僕はキャンディーズの音楽を聴いていく中で、彼女たちの歌以上にバックの演奏に耳を奪われた瞬間というのが何度もあります。さまざまな楽器に注目しながら聴いたり、ラン、スー、ミキのコーラスをじっくり聴き分けたり、キャンディーズの音楽には発見する楽しみが尽きません。

 とにかく、5thシングル「年下の男の子」は1975年2月21日に発売され、キャンディーズ初のヒット曲となりました。
 そして、シングルに続いて同名のアルバムも発売されます。それまでの3枚のアルバムはいずれもオリジナル曲とカバー曲が半分ずつという構成でしたが、4thアルバム『年下の男の子』は初めて全曲オリジナルで固められました。
 そのA面1曲目を飾るのが「春一番」です。1年後にファンの熱い要望によってシングルカットされることになるこの曲は穂口氏が作・編曲だけでなく作詞も担当した初めての作品でした。しかも、当初はアルバムの中の1曲に過ぎなかったため、穂口氏としても比較的自由に制作できたのではないかと思われます。「春一番」アルバム・ヴァージョンはシングルになったリメイク・ヴァージョンに比べて、ドラムとベースが強調され、非常にロック色の強いパワフルなバンド・サウンドに仕上がっています。ドラムを叩いているのは村上“ポンタ”秀一氏ということですから(注)、「年下の男の子」のボツ・ヴァージョンもこんな雰囲気だったのだろうか、と想像してみたくもなります。いずれにせよ、このカッコイイ「春一番」はキャンディーズがもはや旧来のアイドル歌謡曲からは大きく踏み出しつつあったことを感じさせる作品です。

 (注)参加したアルバム1万枚以上というドラムの巨匠、村上“ポンタ”秀一氏は、その著書『自暴自伝』(2003年、文芸春秋社)の中で、1972年にフォークグループ赤い鳥でプロデビュー後、エントランスを経て、1974年からスタジオ・ミュージシャン生活を開始、その初日にいきなり5つのセッションに呼ばれ、その中にキャンディーズのレコーディングもあったと書いています。また、キャンディーズの「もうすぐ春ですね~」を叩いたという記述もあります。さらにキャンディーズのレコーディングに呼ばれたものの3人に会えないと知ってムッとして叩かずに帰った、なんていうエピソードまで披露しています。また、ポンタ氏は演奏に際して、譜面は見ず、歌を生かすために歌詞カードを見てドラムの種類を全部決めて、チューニングを決めて、アプローチを決める、というのも興味深い話です。それまでの歌謡曲ではミュージシャンは与えられた譜面どおりに演奏するのが常識だったとすれば、ポンタ氏一派の世代になると、まずスタジオに呼ばれて、その場で曲を解釈し、アレンジャーの要求以上の演奏をしてみせるのが当たり前という姿勢でやっていたということで、当時の歌謡曲の現場というのは「才能あるミュージシャンだけが入ることを許された特別な場所だった」と回想しています。それは歌謡曲の変革をめざす穂口氏の志向とも合致していたでしょうし、一方で、「年下の男の子」の例のように、しばしば渡辺晋氏の理解を超えてしまう結果にもなったのでしょう。キャンディーズの音楽はそのような革新的な雰囲気の中で生み出されていたわけですね。
 なお、「春一番」のドラマーに関して、穂口雄右氏のツイッターによれば、当時のキャンディーズのレコーディングにメインで参加していた田中清司氏だったということなので、ポンタ氏が「もうすぐ春ですね~」を叩いたというのは「年下の男の子」との混同の可能性もあります。当時はセッションに参加したミュージシャン名をレコードに記載する習慣がありませんでしたが、もしクレジットがあれば、ものすごいメンバーの名前が並んでいたのだろうと思います。



 「年下の男の子」以降も6thシングル「内気なあいつ」、7thシングル「その気にさせないで」と穂口氏が作曲を担当し、8thシングル「ハートのエースが出てこない」は久々に森田公一氏の作品でしたが、9th「春一番」、10th「夏が来た!」と再び穂口作品が続きます。
 しかし、穂口氏にはキャンディーズに対するレコード会社の制作方針がしだいに売上げ至上主義に傾斜していくように感じられ、「夏が来た!」を最後にキャンディーズのプロジェクトから離れてしまいます。
 そうした方針転換には、あるいは、ちょうどこの頃デビューしたピンクレディーの影響があったかもしれません。たとえば、「やさしい悪魔」が出た時、まだ小学校卒業前であった僕でさえキャンディーズがピンクレディーを意識したように感じられて少し寂しく思ったものです(でも、結局はあの曲、好きでしたが…)。穂口氏にとってキャンディーズはもっと「音楽的で、上品で、そしてよりミュージシャンに近いグループ」であったはずでした。

 1977年7月17日、キャンディーズ解散宣言。そこから彼女たちもスタッフもそしてファンも終局へ向けて全力で走り出します(キャンディーズ・ファンほど「サポーター」と呼ぶに相応しいファンは当時も今もいないでしょう)。その中で、穂口氏にもう一度キャンディーズに曲を書くように依頼がきました。穂口氏も快く受け入れます。
 最初の作品は16thシングル「わな」です。ランスーの強い要望で、初めてミキがセンター/メインヴォーカルになったこの曲のレコーディングで、穂口氏はキャンディーズの成長ぶりを目の当たりにしたといいます。もう何のアドバイスも必要ないほどでした。彼女たちは本当のプロのミュージシャンになっていました。それはいつも初心を忘れず練習を重ねていたという3人の努力の結果です。

 そして、ラストシングル「微笑がえし」。作詞を担当した阿木燿子さんの「キャンディーズはやっぱり穂口さんじゃないかしら」という一言で、この曲も穂口氏が作曲を担当しました。
 林立夫(Ds)、後藤次利(B)、佐藤準(P)、松原正樹(G)、水谷公生(G)、斎藤ノブ(Perc)という最強メンバーを揃えて行なわれたレコーディング。この時、穂口氏はひとつの提案をしていました。キャンディーズをプロのミュージシャンとして扱おうというのです。具体的にはコーラスのパート譜を当日のレコーディングの時点で初めて譜面台に用意する。つまりキャンディーズに初見で歌わせることを提案したのです。
 「微笑がえし」は初めての楽譜をリハーサルなしで歌うというアイドルとしては異例の方法でレコーディングされました。キャンディーズがデビューした当初から続けてきたレッスンの集大成、あるいは卒業試験ということだったのでしょう。当然ながら、この頃にはミキだけでなくランやスーも楽譜が読め、音楽の専門用語を使ったミュージシャン同士の会話も普通にできるレベルにあったとはいえ、穂口氏は緊張と期待でいっぱいになりながら、テープスタートのキューを送ったそうです。

 「ボーカルレコーディングはおどろくほどの早さで終了。まさに初見です。今やキャンディーズはプロのミュージシャンです。アイドルのラン、スー、ミキはもう私の中にはいませんでした」(穂口雄右「現実となったビジョン」)

 キャンディーズが歌い終えた時、穂口氏はもちろん、その場にいたスタッフ全員が泣いていたそうです。
 彼女たちが大変な努力を重ねて、驚くほどのレベルにまで到達していた事実。なのに、すべてはこれで終わりという現実。
 デビューの頃からキャンディーズの可能性に注目していた穂口氏には彼女たちを通じて、音楽的に何ができるのか、どこまでできるのか、を究めたいという願望があったのでしょう。そのため、穂口氏はラン、スー、ミキの3人に次々と新たな課題を与えて挑戦させてきました。恐らく、それは穂口氏にとっても挑戦だったはずです。そして、キャンディーズは常に練習を重ね、努力することで、課題を次々とクリアし、期待以上の答えを出してきたのです。ここで解散してしまうのはあまりにも惜しい。この先にもまだ何かがあるはず。穂口氏はその思いを捨てきることはできなかったのだと思います。
 しかし、穂口氏によれば、「一番いい時に解散しようね」と語り合っていたラン、スー、ミキには初めから「キャンディーズを永遠の存在にする」というビジョンがあったのだといいます。
 そして、まさにあらゆる面で最高の瞬間にキャンディーズは解散しました。彼女たちのビジョンは現実となったのです。
 ただ、解散直前の作品群の奇跡的な素晴らしさを思うにつけ、もし、彼女たちがそのまま音楽活動を続けていたなら、一体どこまで行けたのか、という思いはやはり消えることがありません。終わることのない夢だけが永遠に残されました。

(2007年3月)

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