根室~厚床~奥行臼~尾岱沼 1998年8月8日

 1998年8月。前年に続いて根室から別海町の尾岱沼をめざして自転車で走った。
 前回は大雨の中、ひどい目にあったが、今回は曇り空。少し余裕があって、途中、旧標津線の奥行臼駅跡を訪ねてみた。


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     根室~厚床

 
根室の市営キャンプ場で迎える2度目の朝。小雨がぱらついたが、まもなく止んだ。
 テントをたたんで、7時05分に出発。今日は別海町の尾岱沼(おだいとう)方面に向かう。


 
走り始めてすぐに温根沼のほとりでまたエゾシカを発見。2頭の雌ジカがそれぞれ子ジカを連れていて、計4頭。クルマやバイクだと気づかずに過ぎてしまうが、自転車のゆっくりしたスピードだと自然に目撃回数も増える。

 厚床までは国道44号線東梅の台地を越え、風蓮湖の南岸を西へ突っ走る。去年は激しい雨の中をズブ濡れになって走った区間である。あれは本当に悲惨なサイクリングだった。今日は雨は降っていないが、晴れてもいない。

(「根室十景・白鳥の風連湖」)

 風蓮湖にいったん別れを告げると、国道は広大な牧草地や鬱蒼とした森林地帯を貫いて、うねうねと続く。
 厚床まで25キロ弱。ほとんど一心不乱といった感じでペダルを踏み続け、廃止になった旧標津線の草むした線路跡を空しく跨線橋で越えると、まもなく厚床の集落である。

(標津線の線路跡)

     
厚床

 8時20分に根室本線の厚床駅前に着き、ここで少し休憩。
 かつては根室本線と標津線の分岐点で、原野を背にしたアメリカ西部の開拓地みたいな雰囲気のある駅だった。

 
(1985年3月1日の厚床駅)

 
それも、昔のことで、小さな木造駅舎は三角屋根の瀟洒な白い建物に変わり、これまた木造の機関庫は姿を消し、標津線の列車が発着していた2番線もレールが撤去され、ホームは夏草に埋もれ、アラゲハンゴン草やムラサキツメクサがたくさん咲いていた。

 
     (厚床駅下りホーム。右が旧2番線     厚床駅上りホーム。右が旧2番線)


     根釧台地

 厚床からは極めて人口密度の低い無人地帯を行くので、駅前の商店で飲料水などの買い物をして、8時40分に再スタート。ここからは国道243号線を北上する。
 しばらくは民家もあって、庭先の花壇に花菱草やポピーとコスモスが一緒に咲いているのが目に留まったりしたが、あとはひたすらうねるように広がる根釧台地の真ん中を行く。
 大きな空の下をアップダウンを繰り返しながら走る、いかにも北海道らしい道。行く手の雲行きが怪しい気配で、それだけが気にかかる。こんなところで雨に降られると、本当に雨宿りをする場所もないのだ。

(風蓮川を渡って別海町へ)

 やがて、風蓮湖に注ぐ風蓮川を渡って、根室市から別海町に入った。
 別海町は同じ北海道の足寄町に次ぐ日本第2位の広さを誇る町で、1320.2平方キロという面積は東京23区の約2倍に相当する。しかし、そこに住む人口はわずか1万8千人にも満たず、散在するいくつかの集落を除けば、人口密度は限りなくゼロに近いという、およそ日本離れした土地である。
 主要産業は酪農で、乳牛の数だけはやたらに多く、人間の6倍以上もいるという。だから見渡すかぎりの大草原もまったくの原野というわけではなく、大抵はホルスタインが放牧された牧場になっている。遥か彼方には近代的な牧舎やサイロも小さく見える。住民の姿だけはまったく見えない。

     旧標津線・奥行臼駅跡

 厚床から10キロほど走って、やっと奥行という土地に着く。国道243号線と244号線の分岐点で、休憩用の駐車場がある。
 標津線には厚床の次に奥行臼(おくゆきうす)という駅があった。きっとこの付近のはず。駅の跡でも残っているのではないか、と探してみたら、すぐに見つかった。しかも、驚いたことに駅の構内全体が別海町の文化財として完全に保存されているのである。

(旧奥行臼駅の駅舎)

 木造の駅舎。草の生えたホーム。錆びたレール。腕木式信号機…。すべてが現役時代のまま。今にも森の陰からディーゼルカーが現われそうだが、線路は構内をはずれたところで切断され、その先は夏草に埋もれた路盤だけが続いている。
 この土地と外の世界とを繋ぐ結節点であった駅が、世界との繋がりを失ったまま、取り残されている。それはとても悲しい風景だが、役目を終えた辺境ローカル線の小駅が地元の人々によって大切に保存されていることを素直に喜ぶべきなのだろう。別海町教育委員会が駅前に立てた説明板には次のようなことが書いてある。

「根釧原野の開拓と産業の振興をはかるために敷設された標津線は、昭和8年12月1日に厚床~西別間が開通し、当奥行臼駅は別海駅と並び一番古い歴史を誇っていたのである。平成元年4月29日の廃止までの56年間、本町の南の玄関口として奥行、上風連地区の産業・生活・文化の発展に重要な役割を果たしていたのである。
 本駅舎は昭和初期の建築様式の原形を留め、本町に五ヶ所を数えた駅の中で現存する唯一のもので、本町開拓の足跡を残す歴史的建造物として、文化財の価値を十分有するので関連施設を含めて町指定文化財に指定するものである。
 駅構内の貨物引込線は昭和49年9月に廃止となり撤去されていたものを平成3年11月に復元、又共同風呂は春別駅で使用されていたのであるが、平成3年9月に移設し、平成4年8月に現在地に復元したものである」
(漢数字を一部算用数字に改めました)

 

 

 僕はこの路線が廃止される前に一度だけ列車で通ったことがある。雪の季節のことで、たった1両のディーゼルカーが真っ白な丘陵地帯を走っていたという印象しか残っていないが、あれも今となっては歴史的な体験になってしまったのだ、としみじみ思う。
 赤茶けた線路の砂利の間に紫色のスミレや淡い黄色のウンランがたくさん咲いているのが、もうここには列車がやってこないという事実を明白に物語っていた。


     旧別海村営軌道風連線

 旧奥行臼駅の近くにはほかにも開拓時代の史跡が保存されていた。
 そのひとつは旧村営軌道風連線の車両と転車台の跡。これについては全く知識がなかったので、これも別海町教育委員会が立てた説明板の文章をそのまま引用してみよう。

「道は明治43年から第一期拓殖計画を推進するうえで、開拓地との物資の輸送を円滑に行い、また、開拓者の輸送を無料で行うことを目的として根室地方に次々と殖民軌道が敷設された。
 別海村全域に展開された殖民軌道は、昭和9年中標津~厚床間の標津線の開通後次々と廃止の道をたどっていったが、広大な別海の重要な交通機関であることには変わりがなかった。
 この風連線は戦前の厚床~風連までの殖民軌道がはじまりで、昭和28年から道と村が管理協定を結び運行、昭和38年動力化事業も道開発局事業として実施され完成とともに村と管理委託を締結して運行された。この軌道の完成は、同地域唯一の交通機関であり地域住民の交通手段としてだけでなく、生活及び生産物資の輸送に大きく貢献した。道路網の整備等により昭和46年3月末をもって廃止となった」



 ここに展示されているのは白帯を巻いたオレンジ色のディーゼルカー、草色のディーゼル機関車、それに無蓋貨車で、どれも小さくて愛らしい車両である。
 小さな列車が原野の中をのんびり走っていく光景が目に浮かぶようだ。一度でもそんな列車に揺られてみたかったとつくづく思う。

     奥行臼駅逓跡

 もう一つの史跡は「奥行臼駅逓」。これは北海道指定有形文化財だから、ほかの二つよりも格が高い。これも説明板を見てみよう。

「駅逓とは、宿泊施設を備え、馬を飼育して人馬継立をし更に、郵便業務をも担った北海道独特の制度であり、辺地の道路交通補助機関であった。そして、それは北海道開拓の歴史を物語るものである。本駅逓は、第一期北海道拓殖計画に沿い、明治43年10月9日に、当地草分けの世話役である山崎藤次郎氏を取扱人として、馬三頭を配備して開設されたものである。
 以来、時を同じくして、当地入植が開始され、第二期北海道拓殖計画初期の昭和5年6月10日で廃止になるまで、当地入植の世話をし、また別海・西別・別当賀の三方面の分岐点にある駅逓として、旅人に利用され、大変な賑わいを見せたと伝えられている。当時を偲ぶ時、本駅逓の当地開拓の進展に果たした役割はまことに大きいものがある。
 本駅逓の右側部分は大正7年に建て替えられたが、当時の建築様式をそのままに留め、また本町に9ヶ所を数えた駅逓の中で、現存する唯一のものであり、本町開拓の足跡を残す歴史的建造物として昭和57年11月18日に別海町指定文化財として指定されたのち、北海道指定有形文化財に指定されたものである」


 駅逓といえば、厚岸と霧多布の間の海沿いの草原にも「リルラン駅逓跡」というのがあった。そこには史跡を示す標柱があるほかは何も残っておらず、どのようなものだったのか見当がつかなかったが、ここに木造2階建ての寄棟造り(一部切妻造り)の主屋のほかに倉庫や馬小屋も保存されており、意外に立派な施設だったことが分かる。

(奥行臼駅逓跡)

 旅の手段といえば徒歩や馬が中心で駅逓が賑わった時代に比べれば、あまりにも交通が発達した現代の旅は楽になった反面、ずいぶん味気ないものになった。自分の体力だけが頼りの自転車旅行というのは、昔の旅に近い面もあるが、まぁ、こちらは道楽みたいなものだし、今は道路も立派に舗装されているし、やはり厳しさという点においては全然違う。
 それに当時ここを通り過ぎていったのは物見遊山の旅行者などではなく、北海道近代史に埋もれた数々の苦しみや悲しみを背負った人々が大半であったに違いない。

 とにかく、別海交通史の遺物に触れて、失われた時代、消えた風景への思いを馳せて、また自転車の人となり、ここからは国道244号線を行く。

     おばちゃんチャリダー

 奥行を10時に出発してひたすら北へ走り、風蓮湖へそそぐヤウシュベツ川河口の寂しげな湿原を過ぎ、30分余りで風蓮湖最北部へ達する。ここにちょっとした駐車スペースがあって、湿原の彼方に茫洋とした湖面を眺めることができる。

(ヤウシュベツ川)

 そこに自転車の先客が2名いた。しかも、女性らしい。「こんにちは」と挨拶するつもりで自転車を寄せていったら、女性は女性でも若い子ではなく、おばさんであった。乗っているのは2人ともいわゆるママチャリである。といっても、単なる地元のおばさんではない。おばさんだけどチャリダーなのである。その証拠に自転車の前カゴや荷台には大きな荷物を積んでいて、その中にはテントやロールマットまであるのだ。これはもう正真正銘のチャリダーに間違いない。でも、おばさんなのである。いや、ひとりはおばあさんと言ってもいいかもしれない。

(おばちゃんチャリダー)

 ともにゴルフ場のキャディーさんみたいな帽子を被り、白い雨合羽を着て、下はジャージのズボンにスニーカーといういでたち。どこにでもいるごく普通のおばちゃんである。
「あの、ずっと自転車で走っているんですか?」
 見れば分かることだが、聞かずにはいられない。
 2人とも埼玉県の人で、列車利用で名寄まで行って、自転車を購入し、そこから走ってきたそうである。スタートして今日で9日目。昨夜は尾岱沼のキャンプ場に泊まり、ここへ来る途中には本別海の漁港で水揚げされたばかりのカレイの刺身を食べさせてもらったと自転車での旅を満喫している様子。
 これから根室まで行くというから80キロは走ることになる。年齢を考えると並大抵の距離ではない。恐るべきおばちゃんたちと言うほかない。しかも、根室からは太平洋岸を函館まで走破する予定というから驚く。いや、ここで驚くのはまだ早かった。旅は函館で終わりではなくて、津軽海峡をフェリーで渡った後、青森から埼玉までずっと自転車で走って帰るというのである。
「私らには時間制限がないから…」
 若い方のおばちゃんはそう言って笑う。いやぁ、本当にスゴイとしか言い様がない。こんなスゴイ人たちには滅多に会えないから、写真を撮らせてもらえますかと頼むと、行く先々でみんなが写真を撮ってくれる、と嬉しそうにカメラに収まってくれた。昨日は地元の新聞の取材まで受けたそうだから、どこへ行っても注目の的のようである。
 方向が同じなら、しばらく一緒に走ってみたいところだが、そうも行かない。
「じゃあ、気をつけてね」
「がんばってください」
 2人とお別れして、僕はまた北へ向かって走り出した。

     本別海

 根室からずっと風蓮湖を迂回して内陸部を通ってきた国道が再び海辺に出るところが本別海。西別川の河口に位置し、別海開拓の拠点になった土地である。
 そこからはひたすら海沿いに北上する。去年、凄まじい風雨に見舞われた区間である。叩きつけるような土砂降りの雨とまともに進めないほどの向かい風。あれは本当にひどかった。
 今日も海からの横風が強くて、快適なサイクリングとは言えないが、それでも去年よりはだいぶマシ。道路際の草地に咲く花々にも目を配る余裕がある。新顔も発見した。橙色のタンポポみたいな花。あとで得た知識だが、コウリン(紅輪)タンポポといって、ヨーロッパ原産の植物だそうだ。走行中に視界の端をよぎる道端の花をちょっと注意してみると、さまざまな帰化植物が着実に勢力を拡大しているのがよく分かる。



     別海北方展望塔

 12時05分に春別川河口の別海北方展望塔に到着。
 晴れていれば、ここから国後島が望めるはずだが、今日は雲が多くて見えない。とりあえず、食堂でラーメンの昼食。このところ、やたらにラーメンばかり食べている気がする。

     尾岱沼

 12時45分に出発して、もうひとっ走り。15分ほどで尾岱沼に着いた。野付半島に抱かれた野付湾に面した港町で、べつにそういう沼があるわけではない。
 時間的にはまだ早いが、今日はここまでにして、尾岱沼市街から北へ3キロほどの海辺にある別海町営の尾岱沼青少年旅行村キャンプ場へ行く。ここは利用料金として400円を取られるが、設備は充実していて、コインランドリーも備わっているので、数日来の懸案だった洗濯ができる。

 さっそくテントの設営。天気が大きく崩れる心配はなさそうだが、海からの風はかなり強い。こんな強風の中でのキャンプは初めてである。テントを張るのにも苦労したが、それより張り綱でしっかり固定しておかないと飛ばされそうだ。まぁ、荷物を重しの代わりにしておけば、テント自体が吹き飛ぶことはないにせよ、支柱が折れる、なんてことはありうるかもしれない。アルミ製のポールの強度がどの程度なのか分からないが、暴風雨の中でテントが壊れて使い物にならなくなったという人の話は聞いたことがある(キャンプ場のトイレに避難したそうです)。まぁ、今日はそこまではひどくないし、ほかにもテントを張っている人はたくさんいるわけだから、大丈夫だろうとは思うが。

 というわけで、一抹の不安はあるものの、とにかく風が冷たくて寒いので(8月なのに…)、まずは温泉へ行ってこよう。尾岱沼市街に野付温泉「浜の湯」という共同浴場があるのだ。
 キャンプ場から国道へ出ようとしたら、前方をキタキツネが横切った。シカもキツネもだいぶ見慣れて、驚きや感激のレベルがかなり低下してきたようである。
 さて、去年も入った「浜の湯」はナトリウム塩化物泉とアルカリ性単純泉という2種類の浴槽のほかに露天風呂もあり、昼間で空いていることもあって、ゆったりのんびり至福の時間を楽しんだ。サイクリングのあとはやっぱりこれしかない。



 身体がポカポカに温まってから、漁港や海産物を売る店などを見て回り、セイコーマートで買い物をして、夕方にはキャンプ場に帰る。
 カラフルなテントの数がかなり増えて、家族連れやグループ客が楽しそうにアウトドアクッキングにいそしんでいるが、こちらは洗濯を済ませれば、あとはテントにもぐり込んで、侘しくコンビニ弁当を食べるだけ。ラジオをつけると、北海道のほぼ全域に低温注意報が発令されており、さらに根室地方には強風注意報も出ているということだった。明日も天気はすっきりしないようだ。



「あ、キツネ! ルルルルルルルル…」
 外で子どもの声がする。またもやキャンプ場内にキツネが出没したらしい。
 キツネを見ると「ルルルル…」と呼びかけるのはドラマ『北の国から』の影響か。あるいは、北海道ではキツネに対する呼び声といえば「ルルルル」に決まっているのだろうか。まぁ、なんでもいいや。周囲のテントはまだ賑わっているが、電池を節約するため、早めに電灯を消して、すっぽり寝袋に収まり、目を閉じる。
 今日の走行距離は86.6キロ。明日は知床半島の羅臼まで走る予定。 


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